薔薇の闇は深く(3)
009
「なんだか、こうして一緒に歩くのも久しぶりだな」
王城の漆黒の床に赤い絨毯を敷かれた廊下を歩きながら、ヘンリーは隣に並ぶアウグストにそう話しかけた。その様は楽しげで、表情は嬉しげだが、そんな彼ら二人の腕は、仕事の山である書類で埋まっている。
時刻はもちろん吸血鬼たちの活動時間帯である真夜中で、廊下の壁には燭台の火が灯されていた。漆黒の壁には、様々な絵画がかけられている。中には数枚、ヘンリーやルースにとっての姉でありドラクルにとっては妹に当たる第一王女、アンの描いた絵が交じっていた。
「全くお前ときたら、近頃ずっとドラクル兄上と一緒にいるばかりで。私やアンリ兄上のもとには顔も出さないときてる」
「そうかな。それは申し訳ございませんね、第三王子殿下」
言葉を交わしながらも歩みは止めない。ヘンリーの言葉におどけてそうアウグストが言うと、彼は頬を膨らませた。腕を書類に塞がれているからなのかも知れないが、実に子どもっぽい仕草だ。ヘンリーは子どもの頃から大人っぽいと言われていたが、その分大人になっても子どものような面が抜けきれないのも、付き合いの長くて親しいアウグストは知っている。
「アウグスト」
「わかってるよ。ヘンリー。だからごめんってば。ドラクル様も今お忙しい時期だから、こっちも大変だったんだよ。あの方がどれだけ多忙を極めていらっしゃるか、君も知ってるだろう?」
アウグストの友人である第三王子ヘンリーは、ドラクルを大変尊敬している。彼の兄上自慢をよく知っているアウグストは、自らの唯一無二の主君の名前を、印籠のように振りかざした。しかもこれが効果覿面だ。
「そうだけど……でも、ここまで全く顔を出さないとなると」
「なんだ、ヘンリー、君寂しかったの?」
「違う! いきなり何を言い出すんだよ! アウグスト!」
「あー、はいはい。わかったから耳元でわめかないでくれ。充分聞こえるから」
「アウグスト~」
ヘンリーの指摘どおり、アウグストが最近、友人である彼のもとにも顔を出さなかったのは事実だ。たまたま城内で擦れ違うことはあっても、そういったときは大抵アウグストはドラクルの使いの仕事をしている。それ以外の時間は公爵として領地の方も統治しなければならないので、個人的にも大分忙しい。
それでもやはり兄王子を尊敬するヘンリーにドラクルの名前は有効で、彼は軽く息をつくと、腕の中の書類の山を見下ろした。束ではない。山だ。二人なら運べない量でもないから、と人手を断ったが、頼むべきだったかと今更になって彼らは後悔する。それでもそうなるとすぐ側にひとの目耳があるということになり、やはり二人きりでいるほど寛いだ話はできない。
ヘンリーの方は、多分大丈夫だろう。護衛や使用人がぞろぞろ自分についていたところで問題ないに違いない。一般的に王族というのは、他者に裸を見られてもなんとも思わないくらいでないとやっていけない。
だが、アウグストにはそれができなかった。彼自身の複雑な生い立ちは勿論、十年近く前から父王に虐待されるようになったため、よほど信頼した相手でなければ側にすら寄せ付けなくなったドラクルの姿を見ているアウグストには、余計な存在の目があるということに耐えられない。重すぎる秘密を抱える者は、他者の中で暮らすのに向いていないのだ。
まだ事情を知らされていなかった頃、いつも通り彼の小姓として着替えを手伝おうとして、ドラクルに乱暴に手を振り払われたのをアウグストは覚えている。すぐに我に帰ったドラクルは公爵子息とはいえ一介の小姓にしか過ぎなかった自分に謝ってくれたが、そんな第一王子の様子を初めて見たアウグストは、呆然としてしまって言葉が出なかった。
今となっては、あの時のドラクルは父王に散々いたぶられてきた後だろうから、辛い身体に他者が触れるのが嫌だったのだろう。それに気づきもせず近づいた自分が悪いのだと、アウグストはすまなく思う。
冷静沈着、品行方正、文武両道、才色兼備、あらゆる言葉を尽くして褒めちぎられるドラクルが、意外に短気でいざ精神的な防波堤が崩れると瞬間的な癇癪を起こしやすいことも、今ではアウグストも知っている。――ロゼウスに対するドラクルの態度で知った。
だけれど、だからこそアウグストにとってドラクルは大切な主君なのだ。決して聖人君子などではない、誰よりも優れているくせに、誰よりも公正であることに努め、民と同じ目線でものを見ることのできるドラクルだからこそ。
彼に理不尽な扱いをされているロゼウスに関しては、アウグストは特に感想はない。むしろ生まれながらに恵まれた立場であり、いつひとの権利を脅かすかもしれないのに平然と生きているロゼウスの態度は、アウグストの癇に障る。勿論ドラクルから真実のほとんどを打ち明けられているアウグストは、ロゼウスがそう言った事情をまるで知らないことも、彼がドラクルに素直にわがままを言えたのは、ドラクル自身もまだそれを知らず、彼らが普通の兄弟であった十年前までだとわかっているが。
「それにしても」
アウグストの思考を、ヘンリーの声が遮る。
「こういうときは、やはり兄上の有能さを思い知るな」
腕の中の書類の山を見つめて銀の眉を下げ、ヘンリーは困ったように笑う。
ドラクルが盗賊討伐の際に負った傷で伏せっている間、その仕事を肩代わりしているのはルースと彼だった。もともとの仕事もあるから、と王族二人で分担したのだが、それだけでもヘンリーはいっぱいいっぱいだ。しかも彼らが肩代わりしたのは、ドラクルの平常業務の一部でしかない。彼にしかこなせない仕事は、そのまま溜め込まれている。
ローゼンティアにおいて、ドラクルという王子は間違いなく誰よりも有能だ。少なくとも、そう信じられている。疑うことなど考えられないほどに、ヘンリーなどはドラクルに心酔している。
「あーあ。私に兄上の能力の半分でもあれば、せめてもっと兄上を補佐することもできたのに」
けれどその口から出る自己認識と願望についてもヘンリーの言葉は誠実で、だからこそアウグストは胸が痛む。
このまま何もせずに日々を過ごしていれば、破滅の日は必ず訪れる。ドラクルの廃嫡も、それによってヘンリーが衝撃を受ける場面も、アウグストは見たくない。
どうしてこのままでいられないのだろうか。あの幸せだった、十年前の冬の日のままで。
「……ねぇ、ヘンリー、私たちが初めて会った日を覚えてるかい?」
「なんだ? アウグスト。いきなりだな」
アウグストがヘンリーに語りかけると、彼は驚いたように眉をあげながらも、きちんと答えてくれた。
「ああ。よく覚えてるよ、アウグスト=カルデール。今じゃこぉんな立派な公爵閣下が、あの時は泣きべそだったな」
「……つられて泣き出したひとに言われたくないな」
彼らの出会いは十一年前のことだ。ヘンリーとアウグストの二人は九歳だった。ドラクルが十六で、今の二人よりよっぽど若いのに随分大人に見えた。やはり昔から彼はしっかりしていたということだろう。そして自分は成長しても彼に追いつけない。あの時から、彼は遠かった。その遠さが心地良かった。
アウグストの身の上もかなり複雑にして単純明快だ。つまり彼は正妻の子である兄より優れた能力を持つ、愛人の子どもなのである。僅差ならまだしも堂々と目に見える成果の違いに、周囲は兄ではなくアウグストを時期公爵にと推す。だからこそ兄に疎まれ、アウグストは幼い頃、殺されかけた。
刺客から逃げる最中、たまたま出会って成り行きで一緒に逃げてくれたのがヘンリーで、その弟を探しに来て事情を知り、助けてくれたのがドラクルだ。
忘れない。
逃げ込んだ森の中、一緒にいたヘンリーと硬く手を握り合い洞窟の中で身を寄せ合った。いつ追っ手に見つかるかと息を殺して潜む中でひとの気配がして、青褪める二人の前に姿を現したのは、弟を心配して第一王子自ら捜索に来ていたドラクル王太子。優しい手が差し伸べられた時、張り詰めた緊張の糸が切れた。その後は後でドラクルはアウグストがまた兄に狙われないよう、アウグスト自身が充分に兄と渡り合う力を身につけるまで、自分の側に小姓として置いてくれた。
だからアウグストにとって、ヘンリーと、そしてドラクルは特別なのだ。
「あの時のドラクル様は素敵だったよ。私はまるで、童話の中の白馬の王子様に助けられるお姫様の気分だったね」
「おいおい」
アウグストの言い様に、流石のヘンリーも苦笑する。
そうだ。本当の王子様……では実際はなかったわけだが、それでもアウグストにとってのドラクルはいつまで経ってもあの時の「王子様」なのだ。
けれど自分は童話のお姫様ではない。だからこそ、彼の役に立ちたい。守られるばかりなどありえない。あの時受けた恩を返したい。生涯の忠誠を誓った主君のために。
そのためなら、この国を捧げることだってできる。弟に爵位を奪われた自分の兄のような目には、ドラクルを遭わせるわけにはだかない。だって自分と兄の時には実力差がはっきりしていたし、兄はドラクルと違って人格者ではなかった。けれどドラクルがロゼウス王子に劣るなどと言う事は、アウグストは絶対に認めない。
「……ああ、でもそうだなぁ」
腕の中の書類の山に再び目を落としながら、ヘンリーが呟く。
「今回のことも、もとはと言えばいくら剣の上手だからと言って、本来王太子であるはずのドラクル兄上に父上が盗賊の討伐なんていう危険な仕事を命じたのがいけなかったわけだし。腕っ節にだけ自信があるそういう輩がそういった荒事の解決を本来担当すればいいのに」
その未来を信じて疑うこともない声音で、ヘンリーは夢見るように呟いた。
「早く、兄上が国王になってくださればいいのにな」
隣でそれを聞いたアウグストは、けれど相槌の一つも返す事ができなかった。