めっちゃ雑記

もとはTwitterに書いてたけど創作関係なのでこっちに移しました。SNSの使い方が下手過ぎる俺。

この頃、村上春樹作品に対する「キモい」という感想が噴出している話に関して。以下ログ。

 ・「春キモ問題」

オイラ村上春樹の良さとかさっぱりわからねえ誰か解説してくれよってずっと思い続けてた人間だけど、今回はTwitterという環境のおかげで本当にわかりやすく解説してくれる人たちが現れて、正直ありがたい。

村上春樹作品に惹かれ救われる人がいると同時に、やはり私には最初から必要ないものであり、それで良かったんだろうとも思えた。
ただそれを知るためにはわからないことはわからない、ここが良いものは良い、と価値観の違う他者と一つの作品に対する言葉を重ね合うことは大事だなとも思う。

「春キモ問題」とかいう略称が酷すぎて笑い転げてる。
しかし村上春樹(作品)がキモいと言われてる問題は文学に限らず美術芸術創作等々を愛する人々全般に関わる問題でしょうよ。
時代が変わると作品の評価が変わるのは昔からあったことで、そして将来、我々自身も確実に後世の人々に言われる。

「春キモ問題」とかいう略称が酷すぎて笑い転げてる。
しかし村上春樹(作品)がキモいと言われてる問題は文学に限らず美術芸術創作等々を愛する人々全般に関わる問題でしょうよ。
時代が変わると作品の評価が変わるのは昔からあったことで、そして将来、我々自身も確実に後世の人々に言われる。

以前、30歳過ぎたら10代20代には老害というツイートが注目を集めてたりしたけど、一方で30代ぐらいの女性が地域の俳句だかなんだかの文芸クラブで老人の作る句に見える、女性を家のものとするような価値観に耐えられないというようなツイートもバズってたなぁと。世代間のギャップはどこにでもある。

文学は関係ないけど、53歳の父親が自分は上の世代に怒鳴られて働いてきたのに下の世代には優しくしなければいけない社会の多様性についていけないと嘆いていたツイートの話も同じ問題の延長戦ではないか。

(※この辺は私じゃなくて他人様のツイートへの感想の話)

現に生きる人々は、数十年どころか10歳も違えば、もうお互いの社会背景が違って話が合わない。

逆に言えば、能や歌舞伎にしろ近現代以前の文学にしろ、現代とあまりにも価値観の違う作品がどうして今も伝えられてきたのかを考えればいいのではないだろうか。
世代も時代も超えて、多数の人に読ませる力・要素とは何か。作品の本質は何なのか。それを考えなければどんな作品もつまらないで終わる。

 ・考察の絶望

しかし考察はその作品を知るために行うんだけど、ある程度理解できたなと思った結果、この作品はひょっとして、私には必要ないのでは……? と思うこともあるんだなと。最近気づき始めました。
もともと大して興味ない作品ならともかく、好きで読んでる、見てるはずの作品だとあれー? ってなるよね

作品を論じるのに作家論を持ち出すのはまあ自然なことだけど、今の時代には読者論も並行したほうがいいのかもしれない。
作品のターゲットが自分じゃないなという結論だけでなく、自分の魂が追い求めていた作品もこれじゃないと気づいてしまう現象。しかも作品自体の善し悪しは関係ない。ただ必要ない

高校時代に美術の最初の授業で先生が「美術は『無駄』なもの」って言っていたのが20年以上経った最近ようやくわかるようになってきた気がする。
無価値なものではないんだ。凄まじく美しく、見るものの心を動かすものは素晴らしい。ただ無駄なんだ。それが自分と相性が悪ければ悪いほど。自分にとって

自分が作品に対して求めるものが明確であればあるほど、その作品にその要素が含まれていなければ、その作品にかける時間は無駄なだけだ。
それなのにやはり本当に美しい作品は、ただ美しいというだけでこちらの心を捉えて離さない。時間と金を浪費させ、頭と心を悩ませ、執着や狂気に突き落とす。

ある意味ではその「無駄」を実感する作品こそが他にない自分にとっての純粋美なのかもしれないけどね……。
作品を見ることで自己啓発だのライフハックだの副産物を得ることを期待してしまったら、それはもはや純粋な鑑賞ではないのかもしれない。美術を「無駄」と解説した先生が正しかったんだな……

ある意味ではその「無駄」を実感する作品こそが他にない自分にとっての純粋美なのかもしれないけどね……。
作品を見ることで自己啓発だのライフハックだの副産物を得ることを期待してしまったら、それはもはや純粋な鑑賞ではないのかもしれない。美術を「無駄」と解説した先生が正しかったんだな……

誰かと絶対に共有できない隔絶があることに気づく孤独。つまり「作品の魅力がわからない(だから教えて)」と、「この小説のターゲットはこういう人(だからあなたはこの作品の読者には向いていない)」というやりとりは、コミュニケーションの失敗ではなくむしろ決別の成功である。

その決別を受け入れられない足掻きこそがまさに考察という努力であるが、自己の努力である考察の結果もしくは他者の親切である解説の享受の結果、作品との決別に至ることもある。時にはその結論を受け入れることも大事だろう。私にはこの作品は合わない、読むだけ無駄。そして――それでも「好き」。

 ・続・「春キモ問題」

続・春キモ問題。今の時代になって村上春樹作品がキモいと言われ出した(批判そのものは以前からあったとしても)ことに関しては
・時代の移り変わりによる価値観の変容
・性差
・読者と作者の意図の相違の問題
・読者の語彙と解像度の問題
・マーケティングの問題
わりかし色んな問題を含む気がする

あまりに売れすぎて本来のターゲットではない層に読まれてるから想定した効果とは違う反応が出たというのはまず大前提だとしても、それを起点にむしろ今だからこそ見直すべき価値観の大前提や、新しい視点で文学を考える切っ掛けとなる諸要素も噴出してなかなか面白いことになっていると思う。

性差と文学について考えるなら、例えば『ノルウェイの森』の性描写に関しては友人の死の影響下で生を確かめるためのものとしての性行為がある、というような解説を今回耳にしたんだけど、話の肝となるこの要素がまずかなり男性的な思考だと言える。それも陽キャの極的思考でしょこれ。

こういうSNSで村上春樹作品をキモいと堂々言う層ってのは、多分普段それほど文学作品を読まない人の方が多いと思うのよね。
純文学に限らず文学作品における男性的な表現として、生と性行為が結びついているという描写自体はおそらくそれほど珍しいものではない。しかし、

こういうSNSで村上春樹作品をキモいと堂々言う層ってのは、多分普段それほど文学作品を読まない人の方が多いと思うのよね。
純文学に限らず文学作品における男性的な表現として、生と性行為が結びついているという描写自体はおそらくそれほど珍しいものではない。しかし、

キモいという語彙だけだと解像度が低いという表現もなかなか言いえて妙だよね。 解像度の高さは、対象を映すカメラの性能に左右される。解像度の低い人はそれだけ語れる語彙を確かに持っていない性能かもしれないが、逆に高画素カメラである有能な人はそのキモいをどれだけ真剣に考えてくれるだろうね

昨今はたまに男性VS女性みたいな局地的な戦いが繰り広げられていて(被災地の生理用ナプキンの話題に端を発するあれとか)、その中でこの時代にある意味ようやく噴出した問題は、男性と女性って自分たちが考えてるより遥かに異性のこと理解していないってことで、これも結構大きい気がする

Wikipedia情報ですまないが、『ノルウェイの森』に関しては村上春樹自身はリアリズム小説だと述懐しているとのことだったので、友人の死に悩み揺れ動く20代の青年が性行為によって虚しい性の確かめ方をするのは、男にとってのリアリズムであり、おそらくそれは事実なんだろうけど、女には理解しがたい

いくら身近な人の死に精神的な疲弊や苦痛を覚えても、だからって性行為に逃げ込むのはかなり虚しいダメ男像であり、そのリアリズムこそが小説の生命として機能するからこその名作ではあるが、そのキャラの思想自体が「キモい」という指摘の方も、ストレートかつまっとうなものだと思われる。

ここまでなら割と話は簡単なんだけど、それを更にややこしくするのは、読者は作品のテーマと作者の思想を主人公を通して同一化しがちという読者側の問題によって、作品じゃなくて作者自体がキモいみたいな暴言に発展してしまう構造の方ではないだろうか。正直これ自体もまあよくある。本当よくある。

読者が作者と作品の思想を同一化しがちな問題は突っ込み始めるとキリがないので割愛するけど、少なくとも『ノルウェイの森』周りの村上春樹の発言を見ると御本人はある意味自分が書く小説の特に鬱屈とした主人公像とはかけ離れたタイプに見える。陰キャオタク女性の対極にある陽キャ強者男性っぽいなと

村上春樹作品について解説を出した方の他の意見に、村上春樹は東日本大震災やオウム事件の被害者の気持ちはわからない、というのがあったけど、さもありなんというか、発想が基本的に強者のそれであって弱者ではないなと感じる。ただ、弱者へのまなざしはあり、あるからこそ余計自身の不理解に諦観する

話をある意味ややこしくするのはこの部分ではないだろうか。鬱屈としたテーマの作品でも作者が根暗の対極の根明(?)みたいな性格だから表面上の印象と乖離するせいでうまく言語化できない作者像&作品像。
しかし性行為で生を確かめるとか現代的に言えばバリバリ陽キャの発想だよね、と……。

うまくまとまらなくなってきたけど、まぁ割と複合的な問題で、作者が悪く言われる筋合いはもちろんないけれど、作品が「キモい」と言われ始めたのは当然と言えば当然かもしれず、全体的な動きをよく見て判断をくだしながら芸術との付き合いを個人の問題から俯瞰的な視点まで様々に考えた方が良さそうだ

ミソジニーを持ちながら女体に抗えない男性ってある意味これ以上ないほどリアルなダメ男の姿であり、村上春樹自身はきっちり意図的にやっているような気がするので、もしそうならばダメ男に対する主に若い女性の「キモい」という正直な感想こそ、そのリアリズムに対する最上級の賞賛なのかもしれない。

 ・そして我が身を振り返ると

他者の作品の分析から出てくる自分の言葉は、そのまま自分の作品の性質はどうなのかという問いに跳ね返ってくるものであって、特に自分とある要素で正反対な面を持つ作品に出会ったとき最大の効果を発揮する。
つまり春樹作品を陽キャ強者の文学だと感じる私の書く話は陰キャ弱者根暗オタクのぐえー!

しかしまさしくその通りであって、今まで言語化したことはないが改めて考えてみれば正直そこが最も重要な部分。
友人の死という切っ掛け、外側から入り込む要素としての死を、肉体を駆使してなんとか跳ね除けようとするのは根が明るく強い人の論理だろう。
陰キャはむしろ常に死にたいものだと思う。

死とは外在で切っ掛けがあって入り込むものだと考えている人の一時的な苦悩と、死とは内在であり常に死にたい気持ちからなんとか逃れなければ、しかしその生に安穏などないと考えている人の見る世界は全く違う。そしてこの構図は、男と女の溝によく似ている。

すごく卑近な例えをするとさ、
男性は自分が命に関わるような病気にでもならない限り死を意識せず、余命何年と言われて初めて自分の死について考える。
逆に女性は死ぬほど生理が辛くても大体の人があなたは健康体ですと言われ、その体で何十年も生きていかねばならない。
この心理の差によく似ている

しかし作者が陽キャだろうが陰キャだろうが書く作品そのものは両方の要素を内包して入り組むので、文学的表現の受け取りには理解力のみならぬ個人差が大きく、特に読者が想像する作者像と作者の意図した作品像って乖離どころか明確に反転するような気がするのよね。オタク界隈でもよく話題になるけど

読者はついつい作品から作者を想像して、作品が自分の波長と合えばその作者は自分と気が合う人だ! と思いこむ。
しかし作者の立場からすると、作品に苦悩を盛り込む時は作者である自分はその苦悩と無関係だったり乗り越えた後で無関心だったりで、今まさにその答を求めている人とは多分話が合わない

こういう作者と読者のすれ違いは、SNSみたいに作者と読者の距離が近づいた現代ではもはや無視できない勢いで騒動の火種になってる気もするのよね。
人間はどうやら自分が言語化できなかったことを言語化してくれる相手に好意を抱く精神構造だと感じるが、言語化できるかできないかの能力差は大きい。

この人は自分がうまく言葉にできなかった事を言葉にしてくれた! 気が合う人だ! って思う相手はむしろ自分にできない事ができた相手なんだから、能力的に自分より遥かに上で、もっと高度なことを考えているから自分と話合わない相手なのよね。本当に自分と同レベルなのは自分が最も気に食わない相手

作品像と作者像は結構逆転し、読者が作品から想像する作者像は作品そのものから乖離する。
そうなると一周回って、一見その作品を批判する人の言葉にある意味真実があったりする。
とはいえ「批判される批判者」の多くは単に喧嘩を売ってくるだけの人の場合も多く、余計に話が複雑化する。

で、結局文学の批評や分析は最終的に自分に跳ね返ってくるものになるよね、と。ならば批判者の批判しかしないタイプはいくら口調を取り繕ったところで、結局批判者と同レベルという話ではないか。
やはり批判を受け止め分析しないと理解は前には進まない。とはいえただの暴言はやっぱノイズなんだけど

 ・うちの子反省会

 前半はTwitterに一度書いた内容ですが、せっかくサイトに持ってきたので、後半はうちの子のキャラ名を出しての自作語りです。

自作の話を改めて考えてみると、「常に死にたい陰キャの話」に関してはちょっと(10年)くらい前から要素的には結構自覚済で、私自身はここ最近の作品には割と意識的にこの要素入れてたりするんだよね、と自己反省会。そしてそういう要素を自覚したほうが話の設定や筋は具体的に、環境は明るくなる。

「死にたくない(根明の陽キャ)」話はその結論を導き出すために一見薄暗い話に見えるが根は明るいために実はさっぱりした話だと思われる。本質的力強さがある。春樹作品はこっち。
「死にたい(根暗陰キャ)」話はそれを描くために作品は一見明るく美しい世界。しかし本質は絶望に満ちている

 最期には愛人と心中する太宰治の代表作が、屈指の明るさを持ち教科書にも載ってて知らない人のいない「走れメロス」だというのが象徴的ではないだろうか。愛や友情が暴君の心を変えるなんて、所詮実現することのないファンタジーで、それを描ける人の内面は苦悩に苛まれている。

やっぱ作品と作者、そして作品から逆算して読者の想像する作者と、実際の作者の逆転や乖離という現象の分析はもうちょい踏まえたほうがいいような気がするよね。小説でも漫画でもどんなシナリオでも、結論を用意するための試練の性質は当然、結論そのものとは反転するって根本原理の理解と自覚が重要。

 うちの子の話で言うなら、その「死にたい」路線のキャラは「楽園夢想」の天空であり、「Pinky Promise」のヴェイツェであり、今書いてる「天上の巫女セルセラ」のレイルが代表的なキャラだったりするんですが。

 逆にそれ以前の作品だとロゼウスとかラウルフィカが作中で死にたくなるのは元からの気質じゃなく切っ掛けがあってのことだから、この頃はまだ話自体は薄暗くてもなんか死にたくなるような絶望に関しては無意識下の漂いで意図してコントロールしていたわけじゃないので話のパンチとしては弱いと言えば弱いのよね。まあ「荊の墓標」や「劫火の螺旋」に関しては肝心のパンチは別の部分が担っていたからそれはそれでいいんだけど。

 その部分が弱すぎたのは天空で、彼女がなんとなく世界も自分も他人も何もかも嫌いで世界を滅ぼしたい理由を小説的に上手く作れなくて、だから「楽園夢想」は話的には文庫本2冊くらいの短い話で完成度自体はそれほど高くない作品ではあります。
 ただ作者的には自分の作品でどれが一番好きですか、と問われたら迷わず「楽園夢想」の名を挙げるところです。自作ではあれが一番好き。ただ完成度的に一番オススメとは言えない。

 その反省点を踏まえてキャラクターそれぞれの背景をちょっと練り込んだのが「Pinky Promise」の方ですが、どのキャラも主役級のエピソードを持っている話にしたらむしろ詰め込みすぎになってしまった。

 そしてアリスが7歳に若返るのは『不思議の国のアリス』で少女アリスが卵の擬人化ハンプティ・ダンプティから「7歳でやめとけばよかったのに!」と言われたことのパロディなのですが、男子高校生を7歳に若返らせて日常を遅らせるストーリーなのでどう見てもお前さては『名探偵コナン』好きだろ? ってのが隠せないところが弱点です(笑) ああ、大好きだとも!(隠す気はない)

 「Pinky Promise」は登場人物のほぼ全員が人には話せないような事情を持ちながら表向きまるで普通の人々のように生活を送り交流しているという話で、怪盗だの探偵だの謎の組織だのはまぁ別にいいんですが、その中で復讐者であるヴェイツェこそを一番特異なキャラとして気合い入れて描いています。

 それが「楽園夢想」とは違って今度はきっちり死に向かう事情を用意したところです。自分の存在が大多数の死者を出した、そのことに罪悪感を覚え、強い復讐心を持つと同時に、心のどこかで死んで何もかもから解放されたがっている。だから無茶苦茶な戦いをする。

 ヴェイツェは死に向かう理由自体ははっきりしているので割とよく書けたと自分的には好きなキャラですが、結末的にあまり救いのないキャラとなってしまったことが心残りで。
 救おうとしてくれたテラスや友人として説得しようとしたアリストがいるから完全に不幸とも言い切れないんですが、それでも生きて幸せになるという結末を与えられないキャラであることは動かせなかった……。

 一つの話を完成させると、その反省点を踏まえて次の話を作りたくなる。

 だから今書いてる「天上の巫女セルセラ」はそれまでの話の要素を含んでいて、特にその「死にたいキャラ」要素をかなり煮詰めたのがレイルです。

 主君を守れなかった無能な騎士、だから死にたい。けれど魔王の呪いのせいで死ねない。そういう状況を用意しました。
 その「死にたい」の本質がどういうもので、何が彼を捕らえ、何が彼を解放するのか、を描くために。

 天上の巫女に関しては友人に庇われて生き残ったセルセラも、一族が滅びたのに自分だけ生き残ってしまったファラーシャも、結局のところ「生き残ってしまった」という諦観を抱えながらそれを打開したくて色々能動的に動くキャラの物語となっています。

 「天上の巫女セルセラ」はそういう意味で、心のどこかで常に「何故自分だけが生きているのか」「本当はあの時自分も死ぬべきではなかったか」「その方が楽だったのに」の話で、敵も味方も大多数が割とそんな感じです。

 作者なのにネタバレをガン無視して結末にほぼ近いネタをバラしてしまうと、そういう者たちの物語である以上、最後の敵は「死ぬことはできないし、死のうと思ったこともない」という存在であるタルテです(ダイナミックネタバレ)。

 なおこの理屈ではセルセラ陣営よりも、一見ラスボスと思われる陣営の方がタルテの冷酷さにがっつり絶望させられます。自分がラスボスだとでも思ったか! ラスボスはこっち(主人公サイド)だぜ!
 書いてるやつが言うのもアレだけどなんだこの話。

 主人公であるセルセラが心を尽くしてきっちりラスボスの心を折って大団円の勝利をする話ではなく、ラスボスっぽい人の心はタルテの通常運営な言動に木っ端微塵にされるのでセルセラはその後始末です。

 この娘いつも他人の後始末ばっかしてるな……主人公だけどアタッカー(攻撃役)じゃなくヒーラー(回復役)属性のために他人の尻ぬぐいばっかだよ。
 セルセラ「キレそう」

 うちの基本根暗で陰キャな弱者オタク女子らしい物語事情はそんな感じですね。強者は綺麗に諦観するが、弱者はもはや後がないからこそ、最後まで希望を捨てずにみっともなく足掻き続ける。一見明るい話程本質は薄暗く、だから「Pinky Promise」や「天上の巫女セルセラ」は表面上は明るい話となることも意識して書いていたりします。

 流行語の変遷に関して、「ダサい」という言葉は30年前にはすでにあったと思うんですが、「ウザい」とか「キモい」はもうちょっと新しかったと思います。私の記憶だと30年前にはなかったような記憶がするが25年前にはあった感じ?
 「陽キャ」「陰キャ」なんてここ数年で登場した言葉ですよね。ただの明るい人、暗い人では言い表せないニュアンスを含むある意味新しい概念。それも個人の印象と解釈によってぶれるでしょうが。

 昔はうまく言語化できなかった村上春樹作品の世界が、そういう新しい語彙によってようやく自分で言語化できるようになった。

 と、同時に、自分が今まで言語化してこなかった自分の作品の内容もその言葉で言語化できるようになった。

 この事実は正直かなり興味深いと思います。

 まるで本人がキモいかのように言われてしまう村上春樹大先生には悪いんですが、正直この「春キモ問題」は文学・創作を考える上でかなり重要な転機ではなかったかなと。

 この辺りで失礼します。