天上の巫女セルセラ 057

第3章 恋と復讐と王子様

057.復讐の王子

 ディフ監獄の冤罪事件に関し、セルセラは天界に資料を持ち込んで調査を続けていた。
 天界というこの場所自体が、強盗も間諜も入り込めない最強の防犯施設である。セルセラが最強の聖女として地上のあちこちで権力を握っていられるのは、実力もさることながらやはり地上生まれ天界育ちという身の上を存分に活用している面が大きい。
 ファリア鉱山と遺跡の件もある。
 今この時もなお、鉱山街の住民に広まった謎の症状の原因や治療法は見つかっていない。
 現場ではアムレートやエルフィスが呼び寄せた医師が必死に患者の苦痛を和らげ体力を保たせるよう治療を続けているが、あくまで対症療法でやって直接的に原因を取り除くことはできない。
 両方の件を解決するために、セルセラはとにかくダールマークに関するあらゆる文献を読み漁っていた。
 仕事が多すぎて、もはや片方の調査の息抜きにもう片方の問題の資料を読み、調査作業の息抜きに知り合いの医師や学者、法律家や刑事と話をするという名目で情報を集めている。
 レイルたち三人は、そんなセルセラがこもり切りの小屋を横目にラウルフィカやヤムリカたち天界の住人たちとお茶をしていた。
「いつものことではあるが、セルセラに何もかも任せっぱなしで本当にいいんだろうか……」
 旅先で事件にぶつかるたびにセルセラがその解決のために意外と地道な捜査や資料集め・読み込みに血道を上げているのを眺めるレイルは、自分たちだけこんなにのんびりしていていいのだろうかと罪悪感に駆られている。
 それに対し、タルテは無駄にクールに言い切った。
「放っておきなさい。あれはセルセラの役割であると同時に、セルセラの性格上、私たちが手を貸した方が解決が早いものは確実に手伝わせます」
「お前はなかなかセルセラのことがわかっているな」
 今日は星狩人協会の仕事をすでに切り上げたということで、同席していたラウルフィカが面白そうに言う。
「セルセラがわかりやすいのですよ、なんだかんだで合理的な思考を優先しますから」
「確かに。しかし、それを理解しているものは少ない。人はみな『聖女』の肩書に夢を見たがる」
「他人のことは知りませんよ。我々にできるのは、セルセラが調査作業続きの限界状態で戦闘に突入したとき、代わりに戦うことだけです」
「今回は私たちにできることってそれくらいしかないよね……」
 ファラーシャが頷く。
 冤罪捜査に医療。どちらの問題も専門知識のない一般人が口を挟めるような分野ではない。
「皆さんセルセラちゃんを心配してくれるんですね。茶請けが焼き上がりましたから、休憩するよう声をかけてきてくれますか? アリオスさんにも」
「私、行ってきます!」
 給仕を担当していたルゥの呼びかけに、ファラーシャはセルセラが師匠とアリオスの二人と住んでいる小屋へと向かう。レイルやタルテはルゥを手伝い、菓子を並べたりお茶を注ぐのを手伝った。
「はー、つっかれた」
「ダールマークに関する情報はだんだん集まったけど、まだ今のところ事態の解決に繋がりそうなものはないねえ」
 セルセラとアリオスは、言葉通り疲弊が覗く表情で用意された席に腰かけた。
「動物由来の伝染病に見えるんだけど、なんか変なんだよな」
「過去に類似の事例もないし、そろそろ魔導関係や他国の関与を疑う段階だね」
「あれ? アリオスさんは監獄島の冤罪事件の方を調べてたのでは?」
「そうだったんだけど、今回遺跡と監獄の両方に、共通した特徴を持つ魔獣が出現しただろう? ものはついでと魔導絡みの資料を一緒に探してたんだよ」
 いつまでも仕事の話を続けそうなアリオスたちに、ルゥがパンパンと手を打ち鳴らしながら釘を刺す。
「はいはい、お仕事熱心なのもいいですけど、一度お休みして頭を切り替えましょうね。俺の経験から言って、そこで根を詰めたところで急に妙案が閃くことはないです」
「ただの優しさじゃなく現実的な体験談を持ってくるところがルゥくんのルゥくんたる所以だよね……」
 ザッハールがしみじみと頷く。
 この天界にいる面子に「純粋にあなたを心配しているからゆっくり休んでね」などという一般的な優しさを持つ者は皆無。いるのは「休まないと逆に非効率だろうが、お前の頭の切り替えを手伝ってやるからさっさと結果を出せ」タイプの者だけである。
「あー、マドレーヌか。いいなー、僕もそろそろ料理したい」
「セルセラちゃんはお料理が気分転換になるみたいですもんね。事件が一段落したらお手伝いしますよ」
「ありがとルゥ。んじゃ、他の奴はなんか食べたいもん考えといて」
「自分が食べたいものを作らなくていいのか?」
「僕は何かを食べたくて料理をするんじゃない、料理をしたいから料理をするんだ」
「作るのが好きと言うやつですね。では遠慮なくリクエスト権を行使しますよ。ファラーシャはどうしますか? ……ファラーシャ?」
 いつもなら率先して食べたいものを挙げ連ねるファラーシャが沈黙しているので、タルテは怪訝な顔で声をかける。
「あ、ご、ごめん。ぼーっとしてた。何?」
「この件が解決したらセルセラがなんでも食べたいものを作ってくれるそうですよ」
「やったー」
「……ファラーシャ、大丈夫か? 元気がないように見えるんだが……」
 どう見ても空元気だ。レイルの言葉で、一斉にファラーシャへの注目が集まる。
「そんなことないよ! えーっと、その、ほらあれ、この前の観劇のこと考えてたの」
「……アムレート閣下のお礼ですね」
「そう!」
 あからさまな話題逸らしだったがここで追及する必要もないだろうと、皆はその流れに乗ることにした。
 ダールマークの元王子アムレートから観劇に招待された話をすると、ルゥが反応する。
「へえ、青の大陸で流行っている話か。俺も見てみたいなー」
「天界にいると、演劇とかってやっぱり見れないんですか?」
「観に行くこと自体に制限はないんですけど、やっぱり億劫なんですよねー」
 ラウルフィカやアリオスは天界に来る前からその気になれば劇場を貸し切ることもできる程度には権力を持っていたので興味が薄いようだが、国一番の巫覡だったとはいえ元々平民のルゥは観劇に憧れがあるようだ。
 その隣ではこれまでもくもくとマドレーヌを平らげていたヤムリカが、ファラーシャの口にした舞台の話へとようやく反応する。
「ファラーシャさん、その舞台のパンフレット、私ももらえますか?」
「はい、ヤムリカさん。演劇に興味あるの?」
「いいえ、まったく」
「じゃあ何故……」
「ふふふふふ」
 アムレートの厚意で渡されたパンフレットは余っているからいいが、興味がないなら何故、と怪訝な顔をするファラーシャにセルセラとラウルフィカが助言する。
「ヤムリカのことは気にしても無駄だぞ」
「そういえば、私たちがセルセラやヤムリカをこうした娯楽に連れて行かないのにはヤムリカの存在もあるかもな」
「予言者ともなれば、やはり先の展開が見えてしまうものですか?」
「ええ。あの主人公これからこうなるんですよ、と自分の能力に容赦なくネタバレされています」
「世界一つまらない未来視の使い方やめろ」
「いいじゃないですか。私にこのパンフレットは必要ありませんが、私が渡したい人にこれから必要となりますので」
「お前が特定の舞台のパンフレットを欲しがるとは珍しいと思ったんだが」
「そういうことです」
 一同は取出してきたパンフレットをお互いに回しながら、次第にストーリーの内容に突っ込み始める。
「それより復讐か」
「懐かしいなぁ」
「やったな」
「やりましたね」
 ラウルフィカとザッハールが頷くのに、本日何度目かのツッコミをタルテが入れた。
「復讐って言葉聞いてそんな地域の伝統芸能並みにフランクに『俺も昔やってたよ』みたいになります?」
 セルセラたちの一行は、実際に復讐を志すファラーシャがいるのでこの舞台を見る時も様子を気にした。
 しかし星狩人協会幹部ともなれば、復讐をすでに実行済の経験者がそこかしこにいるらしい。気遣いもへったくれもない。
「会長たちも復讐者なの?」
「ああ、そうだ。こいつ含めた色々な奴に復讐したよ」
「されましたねえ」
「した側とされた側が一緒にいるの!?」
「どういう御関係なのですか。……いえ、申し訳ありませんやはり聞きたくないです」
 あまりのことにタルテさえ目を逸らした。
「そうか……みんな復讐者なのかそう」
「落ち着いてください、ファラーシャさん。みんなではありません」
「そうですね、さすがにルゥ様は」
「俺は相手の目論見を打ち砕いたら二年後に逆恨みで復讐をされた側です」
「結局復讐する側かされた側かの二択……!?」
 あまりのことにレイルは呆然としっぱなしだ。
「あの頃は私も若かったから、今よりも色々と未熟だったな」
「そうですよね、さすがに一時の感情を大の大人が引きずるなど」
「今ならもっと効果的かつ徹底的に奴らを叩きのめすことができただろうに」
「もうダメだこの協会は……!!」
 顔を合わせる回数が増えて来たのでそろそろレイルたちにもわかってきたのだが、星狩人協会上層部は決して人格者の集まりではない。この組織に世界の命運を託して大丈夫なのだろうか。
「復讐は虚しいなどと言うが、全てを諦めるのはもっと虚しいからな。復讐をしないなんて選択肢があるのは、それでもまだ守る価値があるものを持っている恵まれた人間だけだ」
「ラウルフィカ王は王様だったのにそう思うんですか?」
 眉尻を下げたファラーシャの問いに、ラウルフィカは平然とした顔で頷く。
「傀儡と言う言葉を知っているか? 王が必ず強者になれるとは限らないぞ。それこそ舞台上の元王子がそうだろう。どれほど高みにいようが落ちる時は一瞬、地の上に立っていると思えば誰かが私の足元に暗い奈落を掘っているんだ」
「話に聞いたところ、ダールマークのアムレート元王子だってそうでしょう」
 ザッハールが指摘し、もう一人の元王子を思い出しながらファラーシャも頷く。
「エルフィス王も竜への復讐って言い方をしていた」
 世界各地の王子様たちも大変だ。
「なんだ、意外に復讐者ってその辺に転がっているんだね」
「そうだな。程度にもよるが、人間は生きる限り、誰かから何かを奪わずにはいられない生き物だからな。気づけばあいつもこいつも復讐者で、あいつやこいつは復讐をされた側なのかもしれない」
「広く言えば、辰砂も復讐者だしな」
 セルセラが突っ込む。当の辰砂の弟子、ザッハールとアリオスはあーそうだったなどと言っているが、彼らと同じく辰砂の弟子である師匠に育てられたセルセラとしては忘れてはならないポイントだ。
「神話の世界からそうなのだ。ここで止められはせぬよ」
「……いいのでしょうか、そんな世界で」
 レイルが口を挟む。しかし相手は千年以上生きている海千山千のラウルフィカたちなので、怒ることも呆れることもなく告げた。
「そんな世界にしたくなければ、何故復讐が生まれるのか理解するために、より深く復讐を見つめ、見定めねばなるまいよ。復讐から目を逸らしてその問いの答を得られるわけがない」
「それは……」
 反論の言葉をレイルは持たない。そしてそんなレイルに冷たく突っ込むのがいつも通りタルテである。
「まあレイルの偽善者っぷりはいつものことなんですけど」
「お前たちはいつも毒を吐く側と吐かれる側しかおらんのか」
 手厳しいことを言うのは簡単だが、さすがに手厳しすぎやしないかとこれまた横からラウルフィカが突っ込む。
「復讐者だらけよりマシでしょう。……復讐を否定するならば、ヒロインのお姫様にでもなるしかないんじゃないですか?」
「あの舞台の?」
「ええ。だって彼女は自分も婚約者に父を殺されたけれど、復讐を選ばなかった」
 何か色々話が横に逸れたが、もとが観劇の感想の話だったのでようやく本題に戻ってきたようである。今での流れがおかしかったのは気にしてはいけない。
「復讐を選ばぬものとして舞台に上がるなら、その役目しかありませんよ」
「真実の愛で、悲劇の闇の中にいる王子様を導く。……素敵だね、お姫様は」
 ファラーシャは寂しそうに笑った。
 お姫様の要件がそれならば、復讐者であるファラーシャはその条件から最も遠い。煌びやかなお姫様にどんなに憧れても。

 手が届かないほど、遠い。

「まぁ、人間は変わるからな。オマージュ元では死ぬはずの王子がお姫様の愛によって生き残るように、明日を選び取るのは僕たち自身だ」
 休憩時間の終わりも迫り、セルセラがまとめに入ったところでファラーシャがぽつりと呟く。
「……あの人は」
「ファラーシャ?」
「あの脚本家は、どういう気持ちでそういう話を書いたんだろう」

◆◆◆◆◆

 夜の闇を光の矢が貫き、迫りくる魔獣の群れを駆逐する。
 青の大陸の中でも北西に位置する小国、否、かつて小国であった場所。
 半ば廃墟と化した古城にいくつか存在する塔の屋上で、少年らしき人影が大きな弓をつがえている。
 その弓の一矢は蒼い稲妻のような光をまとい、古城へ飛来しようとする魔獣を次々撃ち落としていた。
「ちっ! 鬱陶しい!」
『私が鬱陶しいなら、お前は本当に陰気だ』
「お前だけには言われたくねえよ」
 青の大陸に棲む三の魔王こと、“青髭”ラヴァルは宙に向かって毒づいた。
 そこには黄の大陸からわざわざ魔導により己の姿を投影している六の魔王の幻が在った。
 城を襲おうとしている魔獣たちを差し向けたのは、六の魔王だ。
『愚かな抵抗だ。さっさと私に食われてしまえば楽になるものを』
「誰がてめーなんかに」
 この世界に現在存在する六人の魔王。
 しかし最も強い魔王である六の魔王は、彼以外全ての魔王から嫌われている。
 特に三の魔王ラヴァルは、魔王になった八十年前より六の魔王と一欠けらも相容れず反抗を示していた。
 表向きは六の魔王に従う素振りを見せる他の魔王たちも気持ちは同じなのだが、ラヴァルほど激しく六の魔王に反発したものもいない。
 もはや二人の仲は拗れるどころではなく、敵対関係と何ら変わらない。
 もとより己より弱い魔王、かつ己に反抗的なものを食らって己の力を強化し続けてきた六の魔王は、ラヴァルを殺しその力を食らおうとする魂胆を隠す素振りも見せなくなっていた。
『ならば天上の巫女に食われるか。奴らはもうすぐそこまで来ているぞ』
「へえ。そりゃいいことを聞いたぜ」
 現在存在する魔王は、背徳神グラスヴェリアの魂の欠片である“黒い星”を有するものたちである。
 己の力として取り込んだ“星”はそれがグラスヴェリアの“黒”であれ、創造の魔術師・辰砂の“白”であれ魂と同化して一体となる。
 “星”を集めれば集めるほど強くなることのできる魔王。その中でも六の魔王は己と同じ魔王を食らうことさえ厭わない。
『まったく、どいつもこいつもどうしてこうわからず屋なのか。天上の巫女こそお前の過去を否定する究極の破壊者だろう。あの悪鬼に立ち向かうために一丸となって戦おうという我が真心が通じないとはな』
 わざとらしい六の魔王の台詞に、ラヴァルは芯から忌々しいと吐き捨てた。
「そろそろ辞書の編纂者が真心の定義に困るから黙ってくれるか? 自分の力を増すために他人を食らう奴の真心なんざ知ったことか」
 魔王が他の魔王に勇者や聖女を倒すために手を組もうと持ちかける。字面だけ見れば、一見おかしなことを言っているようには見えない。
 しかしその実態が「黙って自分の餌となれ」であることを理解している他の魔王たちにしてみれば、六の魔王のその台詞ほどうすら寒いものはない。
 どうせ死ぬのであれば、六の魔王に食われるよりまだ天上の巫女たる聖女一行に討伐される方がマシというものである。
『……まぁいい、あの小娘が貴様を殺し、その小娘を私が殺せば、結果は同じこと』
「けっ!」
 六の魔王がこれだけ全ての魔王に嫌われながらも彼ら魔王を含むあらゆる魔獣の頂点に君臨しているのは、彼が圧倒的な強者だからだ。
 同じ大陸にいれば逃れる術はなかったかもしれないが、幸いにもこの青の大陸は黄の大陸から遠い。
 六の魔王はいつものように嫌がらせ目的で魔獣の群れを送ってきた後、いつものように途中で飽きて幻影を消す。
 しっかりとこちらへの嫌味を残しながら。
『せいぜいその無駄な意地を貫いて一人で死んでいけ。守るべきものを失ったものよ』
 言いたいだけ言って六の魔王の幻影が消えたところで、ラヴァルは苦虫を百匹千匹噛み潰したような顔で呟く。
「……ふんっ。どうせてめーはハインリヒみたいに守りたいものがあるやつだって関係ないくせに、言いたい放題ぬかしやがって……!!」
 しかし、憎たらしい相手であってもその実力は確かだ。
 魔獣自体が発生したとされているのは千年前。六の魔王の発生は六百年前。
 対してラヴァルは、まだ八十年前に魔王となったばかり。現在存在する魔王の中では若い方だ。
「いや……今は俺が一番若いのか。ハインリヒがやられたからな」
 魔王の強さにも差はある。存在する年数が長い魔王は、やはりそれだけの強さを持っている。
 最強にして最悪の六の魔王が六百年、彼に次ぐ五の魔王は五百年。
 四の魔王は確かその次なので四百年以上だったか。
 そしてこの三体の魔王以外、数字の若い魔王は勇者に倒されて入れ替わりが発生するため、それほど長命を迎えたものはいない。
 一の魔王であったドロミットがちょうど百年くらい生きた魔族。二の魔王はちょうど交代したばかりだったので現在最も若かった犬のハインリヒ。
「……おじゃましま~す」
「ラヴァルぅ……」
 すでに天上の巫女一行に倒されたと聞くかつての仲間のことを考えていたところに、他でもないその彼らの声がしたのはその時だった。
「ドロミット! ハインリヒ!」
 有翼族と呼ばれる魔族のドロミットは小さな白鳩姿で、もともとの正体が子犬のハインリヒはその本性のままで唐突にラヴァルの住む城へ現れた。
「お前たちがいるということは、天上の巫女が近づいているってのは本当みたいだな」
 ラヴァルは表情を険しくする。
 彼らのことは確かに六の魔王とは違い、六の魔王に反発する自分とごく近しい仲間だと思っていたが、それも今となっては過去の話。
「ええ、そうよ。そこで相談があるんだけど」
「……ラヴァルくん、ご主人様に投降しませんか?」
「断る」
 ドロミットとハインリヒは――死んだのだ。
 ここにいる二人……いや二匹は、天上の巫女に“星”を吸収され、その魂を確保され彼女の使い魔となった状態の死者に過ぎない。
 彼ら自身の選択を否定はしないが、二人は魔族と犬であって、もともとただの人間として生まれたラヴァルとは価値観が大きく異なる。
 普通に生きて普通に死ぬ、普通の人間でありたかった。ラヴァルにとって、そんな紛い物の“生”に、一体どんな価値があるというのか。
「やっぱりそうよねえ」
「きゅうん」
 ドロミットたちも受け入れられないことはほとんど確信していたようだが、それでも声をかけることを選んでくれたのだろう。
 ドロミットと四と五の魔王にはそれなりに気に掛けてもらった覚えがある。ハインリヒは正体が正体なので、ただ普通に懐かれた。
「お前たちがそう言うってことは、その聖女はそんないいやつなのか」
「そういうわけでもないんだけど」
「僕は好きですよ、ご主人様」
 聖女に殺されたはずの存在がそう言うのであれば、それほど悪いやつではないのだろう。けれど。
「すまない」
 ラヴァルは、ドロミットとハインリヒの誘いに応じるわけにはいかなかった。
「それでも俺は、ここを離れたくない」
 二匹もその返答を予想していたのだろう。白い犬の頭の上で、白い鳩が共に視線を落とす。
「……そう、よね。邪魔したわ」
「きゃんっ、きゃんっ」
「行きましょう、ハインリヒ」
 白鳩のドロミットが自前の翼で、ハインリヒは宙を飛ぶ馬の玩具に乗って帰っていく。ラヴァルはそれを見送ることしかできなかった。
 終わりの時が着々と近づいていることを感じる。
「どうせ人は奪う側になるか、奪われる側になるかしかない。そして一度奪われたら、奪われ続けたままで終わるか、奪ったものを殺し返す復讐者になるかしかない……」
 ドロミットにもハインリヒにも大切な存在がいた。だから彼らも、ラヴァルがここを動かない理由をとうの昔に察している。

 ――私はきっと、やるべきことを終えたわ。でもラヴァル。あなたにはまだ、残っているでしょう? 
 ――心のままに生きて。その先にあなたの運命があるから。
 
 自分にとって、聖女はただ一人。たった一人だけ。
 彼女以外の誰であっても、認めるわけにはいかない。

「心のままに生きたところで、俺には何も残っていない」
 かつて“聖女を守れなかった”無能な王子には、魔王となる道しか選べなかった。
 そして今、なお聖女を守れない愚かな魔王には、その愚かさに相応しい、勇者に討たれるという結末こそお似合いだ。
「ゼィズは故郷にいられず、フェングは故郷に縛られる。そして俺は……」
 故郷を滅ぼし、けれどその故郷から離れることもできない。一番中途半端な存在だ。
 本来信じて仕えるべきはずの身内が裏切ったなら、謀反と言う名の完遂した復讐の先はどこにある?
 希望なんて最初からなかった。生まれてきたことが多分間違っていた。
 出会わなければ、彼女が死ぬこともなかったのか。
 それでも過去をやり直すことができないなら、どこに行けば。
「俺にはもう、この場所を離れる以外の選択肢はない。ここで滅びるしかないんだ」
 それでも魔王は夢を見る。
 聖女を救えなかった自分が、聖女に殺されるのも悪くないという、夢を。