天上の巫女セルセラ 061

第3章 恋と復讐と王子様

061.恋と復讐

「私の話は終わりだ。さぁ、お前もこの五年間……いや、もっと前から。私に言いたかったことがあるならば言うといい」
 終わりを予感させる瞳で伯父は言う。
 ファラーシャ自身も今まで何も知らぬことで留まっていた、曖昧な不安の世界とそろそろ別れを告げねばならない。
 そうであってはほしくないという、願いは届かなかった。
 決断の時が来たのだ。
 呪毒の狂気に飲まれて一族を襲い、伯父に返り討ちにされた父。被検体として遺体を持ち去られた母。そして今も行方不明の、おそらく生きてはいないだろう姉。
 受け止めきれない様々な事実が情緒を翻弄する。混乱する頭で、それでも言いたいことを問われ、これだけが口を衝いて出た。
「どうして」
 あの時自分は、一番何が辛かっただろうか。
 この五年間封じ込め続けた幼い自分が、ようやく顔を出す。
「どうして……あの時、教えてくれなかったの?」
 ゼィズが目を瞠った。
「どうして……私を迎えに来てくれなかったの?」
「……ファラーシャ」
 燃える村。夥しい数の、見知った顔の死体。
 父は死に、母と姉の姿もなく、そして伯父も従兄弟もいない。
 誰かに会いたかった。いや……。
 置いて行かれたくなかった。
 だからファラーシャが言いたいのは、結局はただそれだけだった。
「お前の父親を殺したのは、私だ」
 苦し気な表情でゼィズが告げる。
 切っ掛けは確かに人間の持ち込んだ毒による変異だ。
 村人たちは変異し、お互いに殺し合った。誰が誰にトドメを刺したのか、わからないものも多かった。凄惨な現実だけを突き付けられて、自分たちはそれに対して何もできない。
 けれど、ルカニドに関しては、確実にゼィズが手に掛けた。
 それを娘であるファラーシャに知らせることはできなかった。
「そんなの……!」
 ファラーシャにとっては、それは自分を置いて行ったことの言い訳にはならない。身内と離れることより辛いことなどこの世にあるものかと。
 けれどゼィズの感覚からすれば、父を殺した相手と顔を合わせて生きていくのは辛いだろうという、その想いからだった。
「それだけではない」
 そしてゼィズには、もう一つファラーシャを置いて村を離れねばならない理由があった。
「私は、もはや終わった存在だ」
「……どういう意味?」
 五年ぶりに会う伯父が、村にいた頃と何か変わったというのはファラーシャも感じていた。けれどそれは彼が口にした三の魔王やフェング王などとの出会いによるものだと思っていた。
「我らの一族を変異させた毒は、その後もじわじわと私とアルライルの体を蝕み続けた。私があのような化け物と化すのにもはや時間は残されていない」
「……え?」
 こんなことは、予想していなかった。
 先程からずっと、考えてもみなかったことや、考えたくないことばかりだ。
「私がこの大陸までやってきたのは、解決法を求めての事だった。しかし、おそらくこの世で最も肉体改造に優れた魔導士が出した結果は『不可能』だった」
「その魔導士って誰!? だって……セルセラがいる! 天上の巫女姫が! 他の魔導士なんて――」
 ファラーシャにとって、この世で最も優れた魔導士は“天上の巫女”と呼ばれるセルセラだ。
 最強の魔導士ならばその師の方だが、治癒・回復においてはセルセラの右に出る者はいない。
 だからゼィズの言うことも俄には信じがたかった。
 例えどれほど絶望的な状況でも、まだ相手が生きているのであれば、セルセラならばきっと――!

「それが、“黒の魔王”でも?」

「黒の魔王って……」
「この大陸に存在する“射手の魔王”、彼は私のことを知ると、この地上で最も優れた魔導士として黒の魔王を紹介してくれた。治癒能力に関して言えば、お前が知る天上の巫女とおそらく互角だろう魔導士だ」
 紅の大陸に居城を持つという、五の魔王。その別名が“黒の魔王”。
 だが五の魔王が、それほど治癒術に長けた存在であるなどと、ファラーシャは知らない。知らないことばかりだ。
「しかし、その魔王の力を持ってしても、この毒の影響は回復できないと言われた。毒と言ってもただの毒ではない。呪詛に近い魔導との組み合わせになっていて、身体に入り込んだ瞬間から少しずつ細胞を変異させていく。私が“黒の魔王”と出会った頃にはもはや手の施しようがないと言われた」

 ――ごめんなさい。これは私にも、どうしようもできないわ。
 ――あなたの身体は最後の引き金を引いていないだけで、もう大部分が毒に蝕まれた組織に置き換わっている。けれど、まだ影響の少ない息子だけなら――

「私が死んだらこの身は魔王へ検体として提供するつもりだった。ちょうどいい。お前がトドメを刺せ、ファラーシャ」

 ゼィズ=ハシャラートは息子のアルライルを助けるために、死の間際まで己自身の命を使うことを決めた。

「そんな……」
 戸惑うファラーシャに、ゼィズは淡々と続ける。
 彼の罪の告白を。
 事実確認や、客観的な報告でもない。あの事態を引き起こした犯人への憎悪とも違う。
 それは確かに彼の本心だった。
「あの日、お前の父ルカニドを殺したのは私だ。否、もっと何年も前から、私はきっと弟の苦悩に気づかず追い詰めてしまった。……一族を滅ぼした罪の半分は私にある」
 ルカニドは兄のゼィズに負い目を感じていた。
 けれどゼィズ自身も、弟の本心に気づいてやれなかったことを悔いている。今でも。
「もう半分を追うかどうかは好きにしろ。そんなことしても誰も戻りはしない。唯一救える可能性があるとすれば、あの時、毒の直撃を避けたため変異が遅いアルライルだけ。だがあの子も、解毒薬を作れる者がいなければ遠からず死ぬことになるだろう……お前の仲間の天上の巫女ならば、どうにかできるかもしれんがな」
「っ、セルセラの力があれば! 伯父様だって!」
「無理だ。私は変異が進みすぎている。今この時お前がここにいなければ、私はもはや自分で自分を終わらせるつもりだった」
 ゼィズ自身は確かに天上の巫女セルセラを知らないが、彼女こそ魔王にとって最大の脅威となると早くから予見していた黒の魔王こと、リヒルディスはセルセラの業績や能力に関しても詳しく教えてくれた。
 そしてその上で、天上の巫女であっても、実質的に不可能だと言われた。
 ゼィズがただの人間であれば、セルセラの知識でもなんとかなる。
 しかし、彼は特殊民族ハシャラートであり、その身体に関する正確な知識はセルセラでさえも手に入れることはできない。
 身体のほとんどの細胞が変異してしまったゼィズを元に戻すことはほとんど不可能であり、天上の巫女の治癒能力で、現在のゼィズの状況を固定して維持することができるだけだろうと。
 ゼィズにはわかっていた。それがどれだけ自分にも周りにも負担になるかを。
 ハシャラートで最強を謡われたゼィズが正気を失って暴れる怪物と成り果て、彼を生かすために優れた魔導士たちの何十年もの年月を奪う。それはあまりにも非現実的な話だった。

 だから彼は――自分で自分を終わりにすることを決めた。

「伯父様は勝手すぎるよ! 私は今更こんな話聞かされてどうすればいいの!? 誰も救えない! 何も取り戻せない! それなのに」

 ファラーシャの心に怒りが沸いた。
 だけど自分が何に怒って、何が哀しいのか、自分でも上手く言葉にできない。

「甘えるな。自分から私たちを追ってきたのは、お前だ。真実と相対する覚悟があったのではなかったのか」
「……っ!」

 ゼィズは厳しかった。
 たとえ普段は優しい伯父でも、子どもたちに対して村を継ぐための教育に関しては手を抜かなかった昔の姿そのままに。

「ファラーシャ」

 伯父は姪に呼び掛ける。これが二人にとって最後の会話になるとわかっていた。

「どんな理由があろうとも、ルカニドを殺したのは私。――私、だ」

 自分でやったことの責任は、必ず自分でとるように。
 実子にも姪たちにもずっとそう教えてきたのは、ゼィズ自身だ。
 早くに親が亡くなって、若い頃から見守ってきた弟にもそう言い聞かせてきた。

 ――兄さん、ごめん。

 本当は間違っていたのかもしれない。
 ゼィズがゼィズでなければ、ルカニドももっと楽に生きられたのかもしれない。弟がどこかで道を間違え、村が滅びることもなかったのかもしれない。

 詮無いことを言ってももはや何も変えることはできない。過去も、彼の生き方も。

 「死者は蘇らない。お前にあるのは私に復讐する権利と、自分が幸せになる権利だけだ」

 生と死は一揃い。この世に生まれた以上、誰もがいずれは死す運命。
 終わりへと突き進むことだけが、彼にできることだった。
 それがどんなに茫漠とした寂寥を抱える虚無を、残される者たちに与えようとも。

「どうして全てを救えないの!? どうして……手を伸ばさせてさえくれないの!!」
「決まっている」

 歴史上どんな人間も特殊民族も、全ての命あるものが時に挫折を味わうその理由。

「お前に、その力がないからだ」

 強くなくては、長は務まらない。

「さぁ、決断を。ルカニドの娘、我らがハシャラート一族、最後の族長よ」
 
 目の前のまだ少女でしかない最後のハシャラートを、かつてその地位を継ぐはずだったゼィズは徹底的に鍛え上げる。
 
 しばらく逡巡し、歯を食いしばって葛藤する様子を見せていたファラーシャは――長い苦悩の末についに顔を上げる。

「……決着をつけよう、伯父様」
「ようやくその気になったようだな」
 微笑むゼィズが僅かに覗かせる安堵の感情。
 悲しいくらい彼は五年前のままで、愚かしいぐらい自分も、あの時から何一つ成長していない。
「私……気づいちゃったから。あなたをここで逃がして、他の誰かがあなたを手にかけるのが――許せない自分に」
 自分で選んだ道を進む以上、己の心に嘘をついてはならない。
 己の心に嘘をついた結論を、人は本当の意味で受け入れることはない。
 それをどうにかしようとして何かを誤魔化せば。別のどこかで生まれた歪みがまた何かを壊していく。
 自分たちにできる選択は、本当に納得して進むか、それができないなら最初からその座を降りることだけ。

 「……ああ、それでいい。お前は私を赦す必要はない」

 罪は私にある、とゼィズは繰り返した。