第3章 恋と復讐と王子様
070.誓いと約束
三の魔王ラヴァルを倒した。
それは予定通りのことで、悲しむことでもない。
けれど、今回は、悲しみを残す事件の続きだという現実がなんとなく心を重くする。
救えなかったものの顔ばかり、見ている。
「この魔王も、魂を勧誘するのでしょう?」
「ああ。だが……」
タルテの問いに、セルセラは難しい顔になる。
「ラヴァルは乗ってくれるかしら」
自分たちはセルセラについたドロミットとハインリヒが、今回はかなり悲観的だ。
「ラヴァルは望んで魔王の力を得たけれど、望んで魔王になったとは言い難いもの」
「……復讐を果たし、それ故に後悔する、か」
復讐者であるフェング王の友人の一人、魔王ラヴァルもまた、かつての復讐者。
魔王の力を以て一瞬で果たされた復讐のその後の永い時間を、彼はどのような気持ちで過ごし、どんな終わりを望んでいたのか。
「ドロミットの時みたいに、彼の大切な聖女様に説得してもらえば」
「それは無理だ。聖女ユディトの魂は、この世界にはもういないらしい」
ファラーシャの提案にも、虚しく首を横に振る。
縁の強い魂として、セルセラは当然死霊術を使いラヴァルがかつて守り切れなかった聖女ユディトを探した。しかし、この世界のどこからもそれらしき反応は返って来なかった。おそらく、すでに転生しているのだろう。
セルセラは己の言葉だけで、ラヴァルを説得しなければならない
「……まあ、ダメならダメでいいんじゃないですか。全てのものを救うなど到底無理な話です」
タルテの性格上別に先んじて慰めるような意図はないだろう。無理な時は無理なのだと、早々に結論する。
「そう、だな」
「……それに、この少年も魔王として、やはり自分の力で国を滅ぼし人々を殺したのだろう?」
レイルはドロミットに聞かされたラヴァルの素性に言及する。
「ああ、そうだ」
聖女を喪った者。レイルとしては自分と重なるその過去に思うところはあるものの、魔王になった彼と自分ではまったく別々の道を歩んでいて何かを言えることもない。
射手の魔王はもとが人間であり、見た目の年齢も魔王になったときと同じ十五歳だ。
外見や考え方がこれまでで最も自分たちと近い魔王なので、セルセラたちもなんとなくやりづらい。
「まあ、やるだけやってみるさ!」
神器を使うほどの戦闘の才を持ち、聖女と共に人々を救うために戦っていた王子様。
彼はセルセラたち自身にとっても鏡のような存在。
ほんの少し歯車が違えば、自分もこうなっていたかもしれないと。
セルセラはこれまでもドロミットやハインリヒにしたのと同じようにラヴァルの魂へと潜り込み、その精神へ呼びかける――。
◆◆◆◆◆
過去の光景を繰り返し見続けている。懐かしくも美しい終わりなき悪夢。
第二王子として生を受けたラヴァルは、しかし腹違いの兄である第一王子と存在から対立する弟として不遇の身であった。
とはいえその日を生きるのに精一杯な市井の民からすれば、王子様が少しぐらい出世と縁遠い立場であろうと、何を贅沢なと言われる身の上だろう。
ラヴァル自身もそのぐらいの問題だと考えていた。だから、決して王位に就くことのない自分が、それでも王子としてどんなことができるだろうかと日々考えながら過ごしていた。
彼の転機は十四歳の頃。
人々を率いて魔獣と戦う「聖女」、ユディトと出会ったこと。
世界各地で魔王に率いられた魔獣が人々を襲う時代。魔獣と戦う力を持つ者は貴重であった。
信仰の重い青の大陸では、魔導士を中核とする星狩人協会の威光も届きにくい。
必然的に他大陸より魔獣被害も大きい地域であり、代わりに王族や聖職者がその退治に駆り出される。
政務に遠い第二王子であったラヴァルにとって、聖女ユディトとの出会いこそ運命だと思われた。
取り柄らしい取り柄がない自分でも、神器と呼ばれる特別な武器への適性だけは有している。その力で、聖女と共に民を守る。
――まさかそれが、政治的に兄王子の継承正当性を揺るがす脅威として、聖女排斥の理由になるなどと、考えもしなかった。
火刑に処させれた遺体を抱き上げながら呆然とする。
原型を留めぬ相貌に、生前の彼女の明るい笑顔の面影はもはや見いだせない。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。彼女はこの国の希望だったはずなのに。
自分と彼女が出会わなければ。
あの日、自分が、聖女たる彼女の手を取らなければ。
こんなことにはならなかったのではないか。
魔王となって八十年間、その問いはラヴァルの中でぐるぐると回り続けていた。
そして自らもまた業火に焼かれて死んだ後まで繰り返すのか。
「よう」
魂だけとなった己の精神世界、背後に降り立ったのは確かに「聖女」だが、彼の良く知るユディトではない。
「ドロミットたちの話からすりゃ、てっきり俺の知り合いを送り込んでくると思ったんだがな」
ラヴァルは背後を振り返らないまま言った。
「そうしたかったんだけどな。……あんたの聖女様は、もう転生して次の人生をしっかり生きてるみたいだぜ」
天上の巫女の答えは、彼にとって意外なものだった。
「……人間はそう簡単に転生するのか?」
「未練が少なければ少ないほど早いと聞いたことはあるんだけどな……それでも大体の人間は生まれ変わるのに百年くらいはかかるもんなんだが」
未練が少ない?
兄王子の讒言を受けた父王はユディトを処刑した。民を守るために尽くした王国で、その王族に裏切られたのだ。
ドロミットの友人であり、身内に殺された少女は百年この地上に留まっていた。
その彼女よりも、人々を救うために聖女として戦ったのに、人心を惑わす悪女として火刑に処された聖女の方が、未練が少ない?
八十年足らずの時間で転生し、次の人生を生きていると言うユディト。
彼女が何を考えていたのは、きっと誰にもわからない。
「……あんたの知る聖女は、自分の人生に後悔してなかったみたいだ」
「そうか……あいつらしいのかもしれないな。連行される直前もそんな感じだったから」
王の命を受けた兵士たちに引っ立てられていくユディトとの最期のやりとりは、この八十年間ずっと、ラヴァルの胸に刺さる刺だった。
彼女はその時すでに自分が助からないことを理解しており、その事実を受け止めきれない己はまだ何かできるはずだと足掻いた結果無駄に終わった。
ああ、まただ。また繰り返している。
叶いもしない過去の運命の分岐点を探る、詮無い作業に、逃げている。
「俺は、その時のことを今でも思い出しては苦しくなる。どうして背徳神ってやつは、一番大事な時に力をくれないんだろうな。どうして俺は、もう取り戻すことなんてできないってわかってるのに、総てが手遅れになってから魔王になったんだろうな」
――ほう、やはり復讐とは空しいものなのか。
――物語の決まり文句のように聞くが、実際にそんなはっきりと復讐を果たしたというものに出会う機会はないからな。
いずれ自分が姪に復讐されることを考えるゼィズや、兄への復讐で葛藤するフェングと言葉を交わしながら、幾度も己の胸の裡に問いかけ続けた。
「魔王になって後悔しているのか?」
「わからない。あの時は確かに力が欲しかった。だが少なくとも、復讐を終えた今、魔王でいることに意味を見いだせない」
そのゼィズももういない。
フェングは魔王との付き合いを続けるよりも、甥のアムレートと共に人生をやり直すことを考えた方がいいだろう。実年齢は九十を過ぎているラヴァルからすれば、四十過ぎの「若者」などまだまだ人生はこれからだ。
「この一炊の夢が終わったら、俺は死者としてこの地を去るんだろう?」
「……留まって、くれないか?」
静かな懇願の響きに、ラヴァルはようやく天上の巫女を振り返る。
直接会うのはこの戦いが初めてでも、最強の聖女と呼ばれる少女に関する情報の数々には目を通していた。
自分の知る聖女ユディトは能力以外は普通の少女だったので、一人称が僕で男言葉の荒い口調でしゃべる聖女は比べるまでもなくユディトとは別の人間なのだが、それでも功績から考えて性格はわかりやすかった。
だから、その願いに返す言葉は決まっていた。
「お前がかつて死んだ聖女と、かつて俺が殺した者たちを、全て生き返らせることができるなら、かまわない」
ラヴァルはゼィズと同じことを言う。
「ゼィズも同じだっただろう。俺とあいつと何が違う?」
「……お前は、ドロミットやハインリヒたちに生を望まれている」
「魔王だぞ。ここで消えたところで困ることはないだろう。戦力が欲しいなら、神器はお前らが持って行けよ。もう俺には必要ないものだから」
「それはありがたく頂くけどさ」
天上の巫女が苦い表情になる。
すでに前例が二体とはいえ、元魔王を「こんなところ」まで勧誘に来るのだから、この聖女もユディトとは違う形で酔狂なものだ。
「お前たちにとっては後味の悪い結末かも知れないが、俺はもうこれでいいんだ。ゼィズだってそうだっただろう? ……もう、疲れたんだよ。この身体で、この心で生き続けることそのものに。取り戻せない過去と、止まった時間と向き合って生きるような若さはもう失った。これでも中身は結構な爺だからな」
あの頃、まだ自分はどんなものにでも成れると信じていた頃の自分と似たような年齢の聖女を諭すように口にする。
「魔王は破滅そのものだ。生きて復讐を果たすなら、俺は最初から聖女を慕う一派を味方に付けて人として実父に立ち向かえば良かった。そうせずに邪神の手を取ったのは……きっとあの日から、この日を望んでいたからなんだろう」
どうしてこんなことになったのか嘆く自分に、もう一人の自分が囁く。
本当はわかっているのだろう? ――全部、お前が弱かったせいだと。
「この憎しみに、怒りに、虚しさに、終止符を打ってくれ。もう自分では、自分の心を制御できない。なあ――勇者。もう一人の聖女様よ」
己は弱かった。この心が、誰よりも。
だから、勇者に負けて、終わりにせねばならない。
愚かで無様な一人の魔王の物語を。
「それが、お前の答なのか」
天上の巫女は静かに問い返す。
「ああ」
相手の心を慮る普通の心優しい聖女は、魔王相手でも本音で話せば決して無視できないだろうとわかっていた。
問答無用で冷たくこちらを消し去ってくれる相手の方が楽だったが仕方ない。その程度の輩ではここで自分を倒せても結局六の魔王に勝てないだろう。
実際に戦った印象で、この聖女たち一行ならばと期待してしまったからこそ、ラヴァルはここで終わりを決める。
六の魔王は最後までいけ好かない奴だったが、一度同じ魔王となった誼だ。同じ勇者の手にかかった間抜けとして一緒に名を刻まれてやる。
言いたいことを言いきったラヴァルは、聖女の答を待つ。
「……僕は」
そして、セルセラは今初めて、心の裡に押し込めた本音を吐露する。
「僕は、いつだってみんな救いたかったよ」
「!」
「今だって、もしも自分に力があれば、みんなみんな生き返らせてやりたいよ。自然の摂理なんか知ったことか。ファラーシャの家族も、お前の聖女も、アムレートの父親も、本当はみんな救いたかったよ」
紫がかった紅い瞳から滑り落ちて滑らかな頬を伝う水晶のような涙。
そのひとしずくは、今までの人生で二番目にラヴァルを動揺させた。
「何故泣く。俺とお前は何も関係がない。いや、それどころか、俺はお前の敵なんだぞ」
「なんで泣かないと思った? 敵であろうとなんだろうと、目の前の人間が自分で自分の未来を捨てようとしてるのに!!」
ここにあるのは怒りだ。理不尽な怒りだ。
「――感情のままに殺したお前と! 感情のままに生かしたい僕は何が違う!?」
そして、魔王になったときの自分の感情と同じものだ。
聖女を殺した父王への復讐を果たした後の虚しく永い年月の間に忘れかけていた憎悪。
己の望みが叶わず誰かの命が尽きる、この残酷な世界そのものへの苛立ち。
目の前の聖女は、あの時の自分そのものだった。
今ようやく、自分があの時何故魔王になったのかを――思い出した。
そのことにラヴァルは動揺する。
ようやく終われると思った今この瞬間になって、自分の始まりを思い出すなど。
「生きたいって言えよ! あんたは十五でまともな未来を奪われて魔王になるしかなかったくせに! 復讐の一つや二つ果たしたくらいで、何満足してんだよ! もっと強欲になりやがれ!!」
生きたいと言わなかったユディトに――本当は腹を立てていた。
だから彼女の願いを無視して、彼女の敵性存在である、魔王となる道を選んだのだ。
「……おかしな話だ。あいつは死ぬとき、満足した顔だったっていうのに。なんで、あいつより遥かに強いあんたが泣いてるんだ」
「知るか!」
「俺があんたを憎んでその手を振り払うとは思わないのか?」
「だったら最初からそう言え! 言っておくけど僕に嘘は通用しないからな!」
ああそういえば、聖女の中には嘘を見抜ける能力者もいたなと。
そう考えれば最初から嘘は通用しない。けれどラヴァルの嘘は通じなくても、聖女側がラヴァルを嘘で言いくるめることはできるだろう。できたはずだけれど。
「物語の中の王子様みてーな、優等生の答なんていらねえんだよ! お前自身の本当の気持ちはどうなんだ!?」
とめどなく溢れる涙をこぼし続けながら、それでも威勢だけは失わない少女は叫ぶ。
その叫びが、怒りが。この八十年間、冷たい大地で凍えた心に、もう一度熱い火を灯す。
「失礼な奴だ。俺はそもそも物語じゃなくて本物の王子様だぞ。元、だけどな。――ああ、もう!」
面白い、と思ってしまった。
この感情を覚えている。
人生で初めて「聖女」と呼ばれる少女と出会った時と同じ。
彼女と彼女は全く違うのに、どうしてか、この胸を熱く燃え上がらせるのは同じだというのだろうか。
――私はきっと、やるべきことを終えたわ。でもラヴァル。あなたにはまだ、残っているでしょう?
――心のままに生きて。その先にあなたの運命があるから。
何者にもなれなかった自分の、それでも何かに――「自分」になりたかった心。
だからあの日、彼女の手を取ったことを思い返した。
例えその出会いがどれほど悲惨な結末に繋がろうとも、あの日の自分のこの欲を否定できない限り、きっとそれ以外の人生は自分には歩めない。
ずっと重荷だったはずの過去が、今、彼の背を押す。
「まったく、あんたのおかげでこのまま綺麗に消える気が失せちまった。……責任取れよ、聖女」
一瞬年相応のきょとんとした顔を見せたセルセラは、次の瞬間、ラヴァルの言葉の意味を理解して満面の笑みを見せる。
「ああ……!」
それは彼がこの人生で見た中で、最も美しいもの。
「この僕が、最高に命の懸け甲斐のある夢を見せてやる!」
けれど自分の美しさを自覚しているようで自覚していない聖女は、それよりももっと美しいものを見せてやると、あまりにも簡単に約束する。
差し伸べられたこの手を取ることが己の愚かさならば、どうせきっとまた己は繰り返す。
それでもいいと、ラヴァルはようやく思えた。
聖女の騎士であることは、自分の全てだった。
彼女を殺した世界を恨まずに慎ましく生きることなど到底自分にはできない。
所詮もともと魔王として望まれたものの代役でしかない自分は、魔王としての価値も矜持もない。
復讐を果たしたあとの虚ろを抱え、終わりだけを待っていた。それでよかった。そのはずだったのに。
――行きましょう、ラヴァル。
「行くぞ! 青髭の魔王!」
一度だけ、もう一度だけ。
ラヴァルは「聖女」と呼ばれるものの手を取る。
「気が済むまでは、付き合ってやるよ」
「頼んだぜ、元魔王。それとも元王子様か?」
「どっちだっていい。俺は俺だ。王子であり、魔王でもあり、そのどちらでもない俺がここにいる」
その手の甲に、再び誓いをもって口付ける日が来るとは思ってもいなかった。
復讐の魔王でも、悲劇の王子でもなくなってようやく、何かを手に入れる。
「よろしくな、ラヴァル。一緒に見ようじゃないか、この世界の未来ってやつを」