薔薇の皇帝 01

第1章 黎明の殺戮者 01

001

 丘の上の景色は、全てが朱に染まっていた。空は夕暮れの光に赤く、太陽は今まさに死に絶えようとしている。そして沈む陽光と先を争うようにして、今まさに死に絶えようとしている人間がいる。
 そこはまるで戦場だった。いや、戦場と言うには悲惨に過ぎる現場だった。これはただの屠殺場だ。無残な屍たちは累々と折り重なり、足元には地面が見えない。見えたところでどうせ、萌ゆる緑の下生えだった大地は紅に染められ、醜い傷痕のようにその泣き面を晒すばかりだろう。
 男は、辺りを見渡した。これまで共に戦ってきた、反逆者の汚名を被った自分に最後までつき従ってくれた者たちの顔ぶれが、積み上げられた死体の山の中に確認できる。
 ああ、みんな死んだのだ。殺されたのだ。一欠けらの慈悲すらなく、魂を失った体は無造作に放り出されて。
 しかし黙祷を捧げてやる間はない。ほんの少しだけ待っていてくれれば、自分もすぐに彼らの元へと逝くことになるだろう。
 彼は数瞬、痛みを振り払うかのようにきつく瞳を瞑った。悪いのは全て自分だ。わかっている。これを招いたのは、自分の愚かさのせいなのだ。それを、誰かに責任転嫁する気も、ましてや言い逃れて自分を正当化する気もない。
 どんな美辞麗句で飾りつけようと、薄暗い欲望が光を放ち始めるはずもない。宝玉の原石は磨けば美しく輝くだろうが、墨を磨き続けたって、どこまでも闇色が覗くだけ。磨かれるたびにその最奥まで真っ黒であるのを思い知るだけ。
 だから彼は、自分を洗うための言葉など何一つ用いる気はなかった。口から出るのは、貴族として教育を受けた者とも思えない品のない罵声ばかりで、呪いたいのは、今目の前にいる男だ。
 今、彼は両手に頑丈でその装丁だけでも相手を威圧する禍々しい枷を嵌められていた。足は重石つきの鎖で嵌められ、首元に両側から交差するように幅広の剣が突きつけられている。
 彼は、支配者の前に突き出された罪人だった。
「何か言い残すことはないか? クルス=クラーク=ユージーン侯爵」
 いっそ慈愛深いとすら錯覚しそうに優しい声音で、その男は口を開いた。男、と言ってもまだ少年だ。長い白髪と簡素だが故に着こなし次第で相手の迫力を煽るコート、そして紅の険しい目つきのせいで年齢不詳の様子だが、男とそれなりの付き合いがあるクルスには、彼の容姿が二十歳になる今でも十七歳の頃から全く変わっていないのがわかる。
 男はこの世界の皇帝だった。アケロンティス帝国において、皇帝は神を意味する。全知全能の力を持つ、万物の支配者たる存在。世界はそれ自体が一つの帝国なのだ。幾つかの王国を統合してそれらを支配下に置いた帝国。その全ての統治者たる世界皇帝は、この地上で最大の権力と、それを持つに足る能力を必要とされる。
 しかし、彼には目の前のこの男に、それらが備わっているとは思えなかった。彼はとても、支配者などという器量ではない。確かに能力はある。それは認める。しかし、その能力を生かすのは本人の信念と人格だ。男にはそれが欠けている。
 それを、誰よりもよく知っているのはクルス自身だった。
「呪われるがいい、愚かなる王子よ。憐れな薔薇の下の虜囚、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア殿下」
 彼を皇帝などと呼ぶ事はしない。
 クルスにとって、『陛下』という敬称を使う相手はただ一人。そして身命を捧げて守ると誓ったその相手は、もうこの世にいない。
 ロゼウスと呼んだ男、目の前の皇帝には世界をよくしようという信念も、それを支える人格もない。だが彼がそれを失い、心の一部が欠けたまま永らえている理由もクルスは知っていた。だからこそ彼を説得することなど不可能だとわかっていたし、何より同じ理由が、クルス自身の理性もすり減らしていっていることを自分で理解していた。
 年月が過ぎるほどに薄まることもなく、砂時計の砂のように滑り落ちる理性と共に強くなっていく狂気。
 狂っているのは、果たして自分か、それとも目の前の男か。いいや、本当は知っている。両方だ。
 自分も男も、とっくのとうに狂ってしまっている。
 死よりも辛い狂気に堕ちて、永遠に満たされない空洞を胸の中心に空けたままこの三年間を過ごした。
 もとはエヴェルシードの少年王がその実父を幽閉したことに端を発し、不孝者のその少年王に頭を垂れたことからつけられた〈裏切りの侯爵〉と言う名。〈反逆の剣聖〉というその呼称。それを、今のクルスは元通りの意味合いで使われている。
 第三十三代皇帝の即位が決まった時、クルスは自らの領地、エヴェルシード王国ユージーン地方にて挙兵した。この世の神でもある世界皇帝に兵を挙げて反逆する。それは、かつてない異例の事態だった。
 そのため、第三十二代、ロゼウスの前の皇帝デメテルが崩御して実に三年の間、皇位は空白のままだった。三十三代皇帝候補、吸血鬼の王国ローゼンティアの王子ロゼウスは、世界皇帝の座を担う前の最後の仕事として、反逆者の名乗りを挙げたクルスとの戦を始めた。
 そして三年の月日が流れた、その決着が今まさにつけられようとしている。
 もとより世界の全てを支配下とする皇帝に、たかが一国の一地方を領地とする侯爵程度が敵うわけはなかったのだ。それは誰もがわかっていたし、またそれ以外の事情からも、ロゼウスはエヴェルシードの二、三の貴族しかこの戦に参加させなかった。
 クルスの属するエヴェルシード王国の女王カミラが、世界で最も早く皇帝の支配にひれ伏したのも大きい。次代皇帝の即位を真っ先に認めた者と最後まで反対した者が同じ国内の人間。これもまた他に類を見ないできごとだ。
 けれどそれももう終わる。
 ユージーン侯爵クルスを捕らえた功労者である同じくエヴェルシード貴族のイスカリオット伯ジュダは、突き出した罪人の背後で感情のない瞳を、この世の全ての出来事に決断を加える権利のある男に向けていた。
 ロゼウスは地に跪き、枷と喉元の刃によって強制的に跪かされたクルスと視線を合わせる。彼の背後に控える侍従たちの姿も、どれもクルスには馴染み深い面々だった。金髪に緑の瞳を持つシルヴァーニ人の双子や、エヴェルシード人の下級貴族など、皇帝よりも遥かに付き合いが長く見知った顔ぶれが並ぶ。
 そのどれをも、クルスは荒んだ瞳で睨み付けた。もとは格好良いというよりもむしろ愛らしいという形容が似合っていた十九歳の青年は、この三年間ですっかり様変わりしている。年月が与えるたくましさは精神と身体両面の疲労から、彼の形相を病んだようにやつれさせていた。
「今からでも遅くない。私につく気はないか? ユージーン侯爵」
「断る。誰が貴様なぞに」
 世界で一番偉い人間を見下すようにねめつけて、クルスは自らを死へと導く言葉を口にした。そこで皇帝が口調を変える。三年前、まだこんな事態が起こる前、こんなことになるとは予想もつかなかったあの懐かしい頃、親しく言葉を交わしていた日々の、あどけなささえ残る少年の口調へと。
「どうしても俺と一緒に生きるのは嫌? クルス」
「くどい、と言っている」
 クルスの蒼い髪は乱れ、橙色の瞳には紛れもない憎悪と、頑なな狂気が宿っている。
「そうか」
 そこでようやく納得したのか、ロゼウスの声音はまた冷えたものへと変わる。
「ならば……仕方ないな」
 これが最期だと、その場にいた全ての者に伝わった。クルスには見えない背後で、イスカリオット伯が痛ましい様子で、刃を振り上げた。
「先に逝って地獄でお待ちしております」
 最期にそんな皮肉を残し、ザシュッと肉が断たれ鮮血の飛び散る音がして、クルスの首が胴から離れる。
 死の瞬間、彼はその周りの者にだけ聞こえるようなか細い声で、ただ一つの名前を呼んでいた。
「――――シェリダン様――――……」
 その余韻すらも暮れる日の空に紛れ、鮮血の太陽へと堕ちていく。地に落ちた首を、ロゼウスはその白い手が汚れるのも構わずに拾い上げた。
 死に際に苦しんだ死体は、カッと目を見開いているのだと言う。ならばユージーン侯爵クルスは、間違いなく苦しんでいただろう。癒えない憎悪に最期まで開かれた瞳をそっと閉じて、ロゼウスは彼の首を抱きしめる。
「イスカリオット伯ジュダ卿」
「……なんでしょう、陛下」
 いささか憔悴した声で答えるジュダに、ロゼウスは尋ねた。
「我が即位の鍵となる、反逆者ユージーン侯爵の排除を見事成し遂げたお前に褒美を取らそう。欲しいものは何だ?」
 ロゼウスは問いかけるが、答をすでに知っていた。そしてやはり返って来たジュダの言葉は、彼の予想に違うものではなかった。
「死を」
 長い戦に疲れきり、乱れて艶をなくした蒼い髪をかきあげながら、ジュダは懇願する。
「どうか死をください。ヴァンピルの命を止める。その口づけで」
「わかった」
 かつて吸血鬼に血を分け与えられることによって自らヴァンピルになることを選んだジュダは不老不死だ。ロゼウスだけでなく、彼もこの三年間全く歳をとっていなかった。
 そして、ローラやエチエンヌにリチャード、ここにいる全員も。彼らについては、皇帝となる事を決めたその日に、ロゼウスが自ら血を分け与えて不老不死にした。
 ヴァンピルの血を与えられて不老不死となったヴァンピルの死には、やはりヴァンピルの力が必要となる。それは死の接吻となり、相手の肉体に滅びをもたらす。
 ロゼウスはクルスの首を置いて、自分より背の高いジュダにゆっくりと歩み寄りその頬を両手に優しく挟んだ。まるで親が子どもにするような優しい口づけで、滅びの力をジュダの体に送り込む。
 自らの細胞がゆっくりと死んでいく滅びの気配を感じながら、痛みはないはずのそれに、ジュダは一筋二筋と涙を零す。
「これで……ようやく逝ける」
 あの方の元へ。言葉にならない部分を、その場にいた者たちは聞いた。その満足そうな笑みを見届けた。
 クルスだけではなくジュダも、そしてロゼウスを含めたこの場の全員が、あの日から明けない悪夢を見続けている。荊のように絡みついた絶望の棘を抜くことも出来ず、魂から血を流しながらその血で赤い花を咲かせているのだ。
 そして彼らの傷口から咲いたその花は、全てただ一つの墓標へと捧げられている。
最期は砂となって崩れ去る死人返り〈ノスフェラトゥ〉の死を見届けて、ロゼウスは再びクルスの首を拾った。
 そして高々と、その首を抱え上げて声を張り上げる。その顔は薄氷のような冷たい酷薄に笑んでいた。
「ここに、第三十三代世界皇帝、ロゼウス=ノスフェル=アケロンティス=ローゼンティアの即位を宣言する!」
 皇暦三〇〇七年、血と殺戮の皇帝の御世が始まらん――――。

 第三十三代皇帝ロゼウス。
 帝国史上、最も長い治世を敷きながら、最も悪名高い皇帝。
 生きている内からその彼に送られた呼び名は、薔薇皇帝。
 その美しさ、その能力の高さ、そしてその残酷さまでもが、世界史上類を見ない最強にして最悪の支配者。
 白銀の長い髪と、血のように深い紅の瞳を持つ吸血鬼の皇帝は、まるで薔薇の花のようだと言われていた。
 あまりにも美しい。だからこそ恐ろしい。そして触れる者の手を傷つける棘と、その棘に潜ませた毒を持っていると知りながら。
 それでも触れたくなるような、魔性の薔薇の花なのだと。