薔薇の皇帝 03

第2章 十六夜薔薇と碧の騎士 01

013

 忘れられない記憶がある。
 それは今から四千年も前のこと。
 皇歴三〇〇四年、あの戦いの始まるその前……。
 忘れてしまいたい記憶がある。

 ◆◆◆◆◆

「シェリダン様が、死んだ?」
「はい」
 暗い顔でそれを告げるのは、この場に集まった者たちにも馴染みのある、しかし見た事もない姿の少年だった。彼の名はエチエンヌ。シェリダン=エヴェルシード付きの従者。
 だった。
「死んだって……どうして……」
「シェリダン様は――その死はこの時世に、この時代に、薔薇の皇帝という存在を生み出すために必要だったのだと。そう、運命づけられていたのだと、聞きました」
 それを聞いた瞬間、青年は声を荒げていた。ここが名目上の現在の主君である国王の御前であることも関係ないと言わんばかりに。
「ふざけるな!」
「ユージーン候……」
「クルス」
「運命? 皇帝のための死? そんなもののために、あの方を失ったのか!?」
 彼の激昂は尤もであり、エチエンヌにもそれを止められない。もとより、止める気はない。
「ふざけるな」
 怨嗟を含む低い声。いつも主君の前では穏やかに、時に生真面目な態度でいた彼とも思えない。
「薔薇皇帝の治世なんて、僕は知らない」
「ユージーン侯爵!」
 当時の国家元首であった女王カミラの叱責も聞かず、彼は――クルス=クラーク=ユージーンは皇帝へと反旗を翻すことを宣言した。
「あんな皇帝、僕はいらない!」
 いらない。そんな世界ならいらない!
 シェリダン=エヴェルシードのいない世界など!
「ロゼウス=ローゼンティアに伝えろ! あなたの首は僕が獲りに行くと!」
「クルス!?」
「一体何を!」
 周囲の当惑を気にも留めず、クルスは謁見の間を後にする。
「第三十三代皇帝ロゼウス! 僕はお前を認めない!」
 彼の姿が開け放された扉の向こうに消えると同時に、エチエンヌはカミラへとおざなりな挨拶をして自らもその後を追った。
 どうせ国と皇帝のやり取りに関しては、この後実際の事務に携わる者たちが細かい取り決めをしてくれるだろう。それよりも今彼がしなくてはならないことは他にある。
 足をエヴェルシード王城内の一角、様々な花が咲き乱れる中庭へと向けた。
 予想通りに、先程怒りを隠そうともせずに謁見の間を後にしたユージーン侯爵クルスの背がそこにはあった。
「ユージーン候」
 エチエンヌは彼の背に話しかける。クルスは振り向かない。決して振り返らない。
 エチエンヌの顔を見ようともしない。彼にとってはエチエンヌは敵で、更に言うならば唯一無二のはずの主君からあっさりと鞍替えした裏切り者だ。顔も見たくないということなのかもしれない。
 ――引き受けてくれる? エチエンヌ。たぶんお前にとっては、とても辛い役目になる……。
 この国に足を運ぶ前のことをエチエンヌは思い出した。たった数か月前までは第二の故郷と呼んでもおかしくはなかったこの国は、もうエチエンヌにとって帰る場所ではなくなってしまった。
 彼が今帰るべきなのは、皇帝領薔薇大陸。
 そこに住まう皇帝、ロゼウス=ローゼンティアのもと。
 そしてエチエンヌをエヴェルシードに送り出す際に、ロゼウスは言ったのだ。この事態を見越して。
 おそらく、クルス=ユージーン侯爵は今回の結末に納得を示さないだろう、と。
「何の用です、エチエンヌ=スピエルドルフ」
 ようやく振り返り、クルスはエチエンヌを見つめてきた。その瞳は明るい色に反して、酷く暗い光を浮かべている。
 十五歳の少年本来の姿を取り戻したエチエンヌと対峙するクルスの容姿は、四歳年下の彼と大差ない。実年齢より幼く見えてしまうこの童顔の侯爵は、彼らの主であるシェリダンの良き部下であり、良き友人であった。
 だからこそ。今度のことに納得しないだろう、と。
 諦めを湛えた瞳のロゼウスから言い聞かされたことを思い返しながら、それでもエチエンヌはクルスに尋ねる。
「ユージーン候、あなたは本当に、ロゼウスに従わない気ですか?」
「……君こそ。いいんですか、仮にも皇帝の従者が主を呼び捨てにしたりして」
 罵られるかと思ったが、クルスの声は静かだった。エチエンヌは緊張を解かないまま、そっと言葉を返す。
 芳しい花々の香りもエヴェルシード特有の涼やかな風も、何一つ感覚として伝わってこなかった。主君が死んでから世界は灰色の牢獄で、何もかもが色褪せて見える。自分すらも。
ただ目の前の相手の反応にだけ集中する。
 いくら構えたところで、相手の結論を変えられるとも思わないまま。
「皇帝だろうと何だろうと、僕はロゼウスを尊敬する気は一切ありませんから」
 はっきりとした物言いに、くす、と小さくクルスが笑うのがわかった。しかし思わず零れたようなそれは、まったく場を救うようなものではなく、暗く澱んでいる。
「ならどうして、あの人の下につくことを選んだのです」
 冷気を漂わせたその問いこそが、彼の本当に聞きたいことなのだとわかった。
 だからエチエンヌも正直に告げる。
「……シェリダン様の、最期まで愛していた相手だから」
 穏やかに佇んでいたクルスの、体の脇に下ろされていた両手に力が籠もる。表情がきつくなり、眉間に皺が刻まれた。
「そのシェリダン様を殺したのは、あいつなのに!」
 見間違いようのない憎悪を湛えた瞳で、クルスはエチエンヌを睨んでくる。彼が憎んでいるのはエチエンヌではなく、その向こうのロゼウスだ。
 彼の言葉を否定するでもなく、エチエンヌは静かに頷いた。クルスの言うことは真実だ。彼から見ればエチエンヌやローラたちはまるで狂っているように見えるだろう。
 自分でも、そう思っている。エチエンヌはその言葉を否定しない。
 自分たちは狂っているのだ、目の前のこの青年よりも、余程。
「それでも、あいつだけが、シェリダン様の心から愛した存在です。ロゼウスに従うのが、シェリダン様の御遺志です」
「ふざけるな!」
 玉座の据えられた謁見の間と同じ台詞を、今またクルスは吐く。彼にとっては何もかもがふざけるなと言いたいところだろう。彼の手の届かない場所で、彼が知りもしない運命の采配とやらで主君が死んで。
 これがシェリダンの身から出た錆だというのであれば受け入れよう。悲しくとも納得しよう。彼らの主君は聖人君子などではなかった。そんなことはクルスにもエチエンヌにもわかっている。
 だが、だからといって、どうして彼がロゼウスに殺されねばならないのだ。
 何故、彼がロゼウス=ローゼンティアを皇帝にするためなどで、死ななければならないのだ。
 納得できない。理解したくない。受け入れがたい。聞き入れはしない。
 そんな理由もそんな運命も、クルスには到底享受できるものではない。
 だから彼はこの世界に、運命を記す神に、そして皇帝に反逆する。
 ――負けるのがわかっていて――。
「エチエンヌ」
 底冷えするようなクルスの声が尋ねかけてくる。
「どうして、シェリダン様をお救いしなかったんだ」
 これまでは主にシェリダンを殺した当人であるロゼウスに対する批難が強かった。けれど今、それはまっすぐにエチエンヌ自身に向けられている。
「僕は……」
「お前はその時、すぐそばにいたはずだろう! なのに何もしなかったって言うのか! あの方がロゼウスに殺されるのを、何もせずに見ていたというのか!?」
 クルスは詳しいことを知らない。ロゼウスが何を理由に、どんな風にシェリダンを殺したのか知りもしない。それが到底、余人がその場にいたところで止められるようなものではなかったことも。
 だからこそこんなことが言えるのだ。
「この、役立たず!」
 涙を浮かべた瞳で睨みつけられると同時に怒鳴られ、エチエンヌの心が芯から冷えた。
かつてロザリーが同じようにジャスパーから罵られた場面を見たことがある。けれど彼女はその時、こんな風に動じてはいなかったはずだ。いつも傍で見ていたはずのその強さを、今頃こんな風に思い起こす。
 けれど。
「あなただって」
 クルスは知らない。あの場にいなかった彼は、すぐ近くで起きたその惨劇を防ぐことができなかったエチエンヌたちの絶望を。
 生々しく血に染まったロゼウスの唇からたった一言、シェリダンが死んだと聞かされたあの瞬間の恐怖と痛みを。
「あなただって、あの場にいなかったくせに……!」
 侯爵として信頼され、国を補佐するようにエヴェルシードに残されたクルスは、だからこそ近くにいながら止められなかったという無力感を味あわずに済んだ。それはエチエンヌたちには得られないものだ。何度夜が明けようとまた同じ悪夢に苛まれる。プロセルピナが抱えて現われた、肉片となってしまった愛しい主君の屍を見ずに済んでいるのだから。
「あなただって、あの一番大事な時にお傍にいなかった、ただの役立たずのくせに!!」
 だから同じ強さでエチエンヌはその糾弾をクルスへと返す。涙がぽろぽろとあふれて止まらず、ひっきりなしに頬を滑り落ちていく。
 役立たずなのはお互い様だ。クルスもエチエンヌも、彼らだけではなくローラやリチャードも結局は同じ、誰よりも大切な主を救えなかったのだから。
 そしてエチエンヌはこの道を選び、クルスは選ばない。
 主君が誰よりも愛した相手だから、だからエチエンヌはロゼウスに従う。
 主君を殺した相手だから、だからクルスはロゼウスに従わない。
 相手は同じなのに、対応は真っ二つに別れた。シェリダンが愛したロゼウス。シェリダンを殺したロゼウス。エチエンヌにとって重要なのは前者でありクルスにとって重要なのは後者――というわけでもない。
 ロゼウスはシェリダンの仇。それはエチエンヌにもわかっている。そして彼だとて、それを赦したわけではない。どうあっても赦せるわけがない。
 けれどエチエンヌは知っている。シェリダンはロゼウスを愛していた。そしてロゼウスも、――心の底からシェリダンを愛していた。
 だから、あのロゼウスが、何の理由もなく、何の痛みもなく、そんな簡単にシェリダンを殺すことなんてできるはずがないのだ。そこには何か、自分たちには考えもつかないような事情があったに違いない。だからエチエンヌはロゼウスを赦さずとも、ロゼウスが後悔していることは知っている。
 赦したわけではないけれど、傍にいて彼を守る道を選んだ。
 それがシェリダンの遺志を守ることになると思ったから。
 しかしクルスは違う。
 彼は聞かない。どんな理由あってロゼウスがシェリダンを殺したのか。
 聞かないということは、決して赦しはしないということ。
 それがどんな理由であっても、シェリダン=エヴェルシードを殺したロゼウス=ローゼンティアを永遠に赦しはしない。

 クルス=ユージーン。
 それは薔薇皇帝への反逆者。
 そしてシェリダン=エヴェルシードの忠臣。

 彼にとっての正義は、シェリダンが生きていることだけだ。誰を犠牲にしても、何を引き換えにしても、ただ彼が幸せでいてくれればそれで良かったのに。
 それが、叶わないというのであれば。
「僕は、ロゼウスを守ります。シェリダン様の愛した相手だから」
 大粒の涙をぼろぼろと零しながらも宣言するエチエンヌに対し、クルスは苦味走った笑みで応える。
「それでいい。そして僕はその道を選ばない。ロゼウス=ローゼンティアはシェリダン様を殺した相手だ」
 同じ人を主君として仰いでいたのに、今、二人の道は交わらずに衝突する。
「ロゼウスを守ります。シェリダン様のために。あいつ自身のためだとか、世界のために皇帝を守るとかじゃない。ただ、あいつがシェリダン様の大切な相手だったから、だから、僕はシェリダン様の遺志を守る」
 それだけが、エチエンヌの答だった。皇帝だとか世界だとか、そんな大きなものはどうでもいい。
 ただ、愛した人の愛した相手を守るだけ。
 目の前にいる相手と自分の、どちらがより主君を裏切っているのか、本当のところは誰にもわからない。だけど。それでも。
「さようなら、エチエンヌ=スピエルドルフ。次に会う時は敵同士だ」
「ええ」
 頷きながらも思い返すは、優しい過去の記憶たち。彼は素晴らしい貴族だった。異国の奴隷に対しも優しくしてくれた。身分を鼻にかけるようなことの決してない青年。
 こんなことがなかったら、ずっと親しくしていたはずだ。間に彼らの主をはさんで。けれどあの人はもういない。
 死者は二度と取り戻せないから。だから僕たちは。
「さようなら」
 箱庭の幸せに、終わりを告げる。

 そしてクルス=ユージーンは反逆の剣聖として、歴史にその悪名を永く轟かせることとなった。

 ◆◆◆◆◆

 明け方に目が覚め、瞳を開く。闇の中で瞬いた翡翠から、ぽろりと透明な雫がこぼれた。
 繰り返し記憶の深海から浮かび上がり、出口の無い問いで自らを苦しめる過去の夢。もう四千年も前のことなのに、まるで昨日の出来事のように、その痛みは酷く鮮やかだ。
「……エチエンヌ? どうした?」
 隣で眠っていたリチャードが身を起こし、暗がりの中でエチエンヌの顔を覗きもうとする。そう言えば今日は彼の寝台に一緒に潜り込ませてもらったのだったとエチエンヌは思い出した。
時々どうしようもなく寂しいのに耐えられず、リチャードにこうして夜を付き合ってもらうことがある。代わりにリチャードさんが寂しい時は遠慮なく言ってくださいね、と申し出たら苦笑と共にそうするよ、と返された。それでようやく自分があまりにも子どもっぽいことを言ってしまったのだと気づく。
気づいたからと言っても心が抱える虚ろな穴はどうにもならず、やはり一人で過ごすことが躊躇われるような日には彼のもとに来てしまうのだが。
カーテンの僅かな隙間から差し込んだ、白む前の空の僅かな明かりにも濡れた頬が一筋煌めいた。
「夢、見ました……昔の、ユージーン候の……」
 彼らが昔と言うとき、それは百年や二百年程度の話ではない。それは四千年以上前、彼らがこの地位を得る以前の話となる。エチエンヌの口から零れた名前に、リチャードも一瞬、痛みを堪えるような顔をした。
「そうか……」
 エチエンヌの金髪を優しく撫でて、リチャードは眠気を誘うように、自ら瞼を閉じる。
「まだ朝まで少し時間がある。今日はロゼウス様も遅いと聞いていたから、もう少しだけ眠っていなさい」
「はい……」
 まるっきり子どもをあやす口調でそう言われ、エチエンヌは大人しく返事をかえした。夢に見た人に対する言葉はなかった。それは言っても詮無いことだからとわかっている。
 自分たちと彼は道を違え、そうして争いあった。彼らお互いの立場は違い、だから決して同じ結論になど辿り着かない。
 わかり合うことはできなかった。その必要も、たぶんない。
 瞼の裏の闇には、もう誰も思い浮かばなかった。