薔薇の皇帝 04

第2章 十六夜薔薇と碧の騎士 02

018

 一番古い記憶は、泣いている女の人の声だ。
 覗きこまれている体勢だが、顔は思い出せない。うろ覚えの記憶の中、響いてくる声がある。
 ――死んでおしまい! 忌々しい子!
 その腕は伸び、こちらの首を絞めてくるようだ。
 ――なんでなんで、私たちがこんな風に!……あなたがいるから! あなたさえいなければ!!
 憎悪を向けられているのに、その声に秘められた想いがあまりにも切なくて相手を恨めない。ただ、どうしてと頭の中で誰かが叫ぶのが聞こえた。
 “どうして、この人生までも――!!”
 後のことは全て闇の中だ。何一つわからない。自分自身のことさえも。

 ◆◆◆◆◆

「……――ティス、ルルティス!」
 靄の向こうから名を呼ばれている。ルルティスはそう思った。
「あれ……? マンフレート君……?」
「どうしたんだよ。今日はやけに眠りっぱなしじゃないか。俺が目の前にいるってのに、すこーんと眠りこけて」
 至近距離から顔を覗き込んで来たのは、先日までチェスアトールで家庭教師をしていた際の教え子だった。よくよく自らの状態を思い返してみれば、ここは座席と背もたれに赤い布を張られた馬車の中だ。
「ああ、そうだった……。マンフレート君が迎えにきて、チェスアトールに帰ろうって、それで……」
 先日突然皇帝領に押しかけ、強引にルルティスをチェスアトールに連れ帰ろうとしたマンフレート。ルルティスは抵抗する暇もなく、その勢いに引きずられてあれよあれよと言う間に馬車の中に押し込められた。
「やっぱり、強行軍過ぎたか? ルルティス、疲れている?」
 いつも強気なマンフレートがしゅんとして、ルルティスの顔色を窺ってくる。琥珀の瞳には、気遣わしげな色があった。
「体の方は大丈夫ですよ。でもマンフレート君……僕はやっぱり、皇帝陛下のところに」
「そんなのダメだ!」
 彼から無理に逃げるのではなくきちんと説得して皇帝領に戻りたいルルティスは何度かそれを試みているのだが、いつもこの調子でにべもなく断られる。
 バロック大陸東部のチェスアトールまではまだ遠く、今は先日の事件で赴いたフィルメリアの国境に差し掛かった辺りだ。説得に時間がかかればそれだけ皇帝領に戻るにも時間がかかるだろう。この辺りで決着をつけたいところだ。
がらがらと車輪の音だけが響いてくる馬車の中、元教え子と教師は向かい合った。
「マンフレート君……」
「皇帝のことはその目で見て、満足しただろう? もういいじゃないか。俺と一緒に家に戻ろうよ! 父は俺がお前を説得して連れ戻せるようなら、もう一度雇ってもいいって!」
(いえ、説得はしてないですよ、マンフレート君……)
 ルルティスは心の中でツッコミを入れた。説得より先にまず馬車に押し込まれた気がするのだが。
「お気持ちはとてもありがたいです。お父上にもそうお伝えください」
「ルルティス」
「けれど、マンフレート君。私はまだあの場所で、やることがあるのです」
「やること?」
「はい。皇帝陛下の伝記を作成すること。それが今の私の望みです」
 ロゼウス自身にも許可はすでにもらっている。薔薇皇帝に関する書物。
 世界の誰もが彼を遠巻きに眺め、恐れ、踏み込まなかったその世界。
「……マンフレート君には……いえ、これまで誰にも言ったことはありませんでしたが、私はその昔、あの方に命を救っていただいたことがあるのです。殺戮皇帝と呼ばれるあの方に」
 今でも思い出す、鮮やかな紅。血塗られたその記憶。
 だけど、「私」は救われた。
「ですから、あの方の真実をただしく記すまでは、私はあの方のお傍を離れるわけにはいきません」
「ルルティス……」
 強い決意を秘めた眼差しに、マンフレートがたじろぐ。彼自身も相当言い出したらきかない性格だと言われるが、ルルティスのそれとは質が違う。マンフレートは通るわがまましか言わないが、ルルティスは目的のためならこの世の全てを敵に回しても厭わないようなところがある。
「それは……ずっと皇帝領にいなければできないことなのか?」
「マンフレート君」
「もう、チェスアトールには……俺たちのところには戻ってこないのか? どうしてチェスアトールにいながら皇帝のことを書くんじゃ駄目なんだよ」
 とにかくどうしてもルルティスを薔薇皇帝から引き離したいという願いからは一歩引いて、マンフレートがそう尋ねてくる。
 彼は彼なりに譲歩するつもりなのだ。チェスアトールを発った時のようにルルティスが彼らとの絆の全てを断ち切ってしまうのでなければ、皇帝に関して興味を抱くことまでは止めきれないと思っている。
「俺は、薔薇皇帝は酷いことばっかりするって噂で、そんな奴にお前が関わってほしくないってずっと思ってた」
 マンフレートが皇帝ロゼウスを見たのは一度きり。言葉を交わしたわけではなく、ただただルルティスを部屋から引きずり出したあの一瞬。
 ――あー、確かルルティスが世話になっていた家の息子……だったか?
 こちらは彼のことをろくに知らないのに、皇帝はしがない一貴族の息子であるマンフレートのことを知っていた。それもあの言い方、皇帝が気難しいという噂から考えれば、ルルティスがよほど皇帝領で信頼され居場所を得ているということに他ならない。
 ルルティスがどうしてもあの皇帝の傍に行きたいと言うのであれば止めきれない。ようやくマンフレートもそう理解したのだ。けれどやはり薔薇皇帝にまつわる数々の陰惨な噂は尽きず、そんな相手の傍にいて、いつルルティスが被害に遭うとも限らない。
 それに皇帝領に着いても連絡の一つも寄こさなかったことを考えれば、皇帝領にいる限りルルティスはもうマンフレートたちと会うつもりはないということだろう。
 そんなことは嫌だった。マンフレートにとって、ルルティスは家庭教師であり、年の近い兄弟のようなものであり、やっとできた友達なのだ。
 あんな、悪い噂しか常に聞かないような、得体のしれない皇帝なんかにとられたくない。まだ幼い少年がそう思ってしまうのは罪だろうか。
「ルルティスが……そんなに皇帝の近くに行きたいなら仕方がない。でもだからって、俺たちのことを切り捨てないでくれ。それとも、お前にとって俺たちは、そんな風にどうでもいい存在なのか……?」
「そういうわけじゃないよ……僕は――」
 何とかマンフレートを宥めようと、ルルティスが口を開きかけた、その瞬間――。
 ガタン、と大きく馬車が揺れる。
「うわっ!」
「何だ!?」
 マンフレートが驚き、ルルティスは咄嗟に彼を庇った。会話に集中するあまりに周囲の警戒を怠った自分に舌打ちする。馬車の外には複数人の気配がある。
 御者の男の悲鳴は聞こえてこないが、馬が嘶き後ろ足立ちになったのだろう、そのために馬車の中も大きく揺れたのだ。血の匂いがしていないことが、唯一の救いか。
(狙いは何だ? 皇帝領から出てきたところを見られた? けれどあの地から尾行してきたには襲う時期がおかしい。ただの物盗りか?)
「る、ルルティス」
「大丈夫ですよ、マンフレート君。じっとしてください。もし金で片をつけるような場面になったら、頼ってもいいですか」
「あ、ああ」
 震えるマンフレートを強く抱きしめてから、ルルティスは懐を探り短刀を取り出した。
 外はしん、と静まり返っている。しかし人の気配は消えていない。
「ぼ、坊ちゃま!」
 御者がルルティスを呼ぶ声が聞える。彼も無事だったようだ。
 コン、コン、と追いはぎにしては律儀に馬車の扉がノックされる。
「誰だ」
「そこにいるのは、チェスアトール人の少年学者か? 亜麻色の髪に榛の瞳を持つ」
 かけられた男の声に、ルルティスは驚いて顔をあげる。榛と言うよりは金と橙を混ぜ合わせたような色に近いが、その特徴が示すのはマンフレートではない。ルルティス自身だ。
 どういうことだ? とルルティスは考える。てっきり狙われるのであれば、富裕な貴族の息子であるマンフレートの方だと思っていた。あるいは彼らは、学者としてのルルティスに恨みを持つ人間からの差し金だろうか。琥珀の瞳を持つマンフレートと違って、チェスアトール人らしくないルルティスの身体的特徴は一度会った人間なら忘れないはずだ。直接会ったことがなくても、先日のグウィンのように学会関係者であればルルティスの名前だけは知っているだろう。
 どちらにしろ、すぐに襲いかからずここまで相手を限定した問いかけをするなら、相手方はただ殺すのではなくルルティス自身に用があると思っていいのだろう。
 マンフレートを抱く腕を離し、短刀を構えながらルルティスは答える。
「そうだ」
「さるお方が、貴殿に用がある。我らと一緒に来てほしい」
「断ると言ったら?」
「主人は穏便な話し合いをお望みだ。貴殿とはな。だがそれ以外の相手に関しては我らの預かり知るところではない」
「!」
 ルルティスが逆らえば遠回しにマンフレートたちを殺すという男の言葉に、彼は舌打ちする。この状態で飛び出しても、勝ち目はないと言っていいだろう。何人いるのか知らないが、マンフレートたちを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「私が従えば、中の人間にも御者にも危害は加えないと約束しろ」
「承知した」
 ルルティスは扉を開けた。彼の背後からマンフレートもおずおずと降りてくる。
「誰が私に用だって?」
「それは主人から聞くと良い。おい」
 代表らしき男の合図に従い、残りの男たちがマンフレートを拘束した。
「うわぁ!」
「やめろ! 何をするんだ!」
「彼は人質です。あなたが従わなければ、彼を殺す」
「くっ……」
 ルルティスは唇を噛む。ちらりと見えた景色の様子で、まだここがフィルメリア国内だとうことだけ確認する。
「我らとともに来ていただきましょう」
 そして少年学者とその元教え子は連れ去られた。

 ◆◆◆◆◆

 見はるかす限りの黄金の砂原。乾いた風が駆け抜け、彼は思わず目を瞑った。
 砂漠の昼間は焼けつく日差しが、夜は氷点下の冷え込みが敵となる。
 バロック大陸北西部カウナード王国。
 そこは砂の国だった。人々は褐色の肌に金色の髪と青い瞳を持ち、砂漠の中にあるオアシスの町で暮らしている。
 バロック大陸の西には皇帝領が存在する。カウナードは地理的には皇帝領にも近く、本来なら豊かに栄える国のはずだ。
 しかしどういうわけかこの国は昔から、砂漠に四方を囲まれ隣国から隔てられている。特に水の国と呼ばれる隣国セレナディウスとの間には《死の砂漠》と呼ばれる長大な砂漠が広がっており、水を求めて旅に出て、帰らない者が幾人もいた。
 オアシスのある都に住む住人はまだいい。しかし古井戸を頼りに生きる小さな村の住人たちなどは、井戸が枯れれば生きていくことができない。
 雨は降ったら降ったで、砂漠においては渇きより恐ろしい水害となることもある。カウナードは帝国一過酷な環境の国だった。焼けるような暑さの国とは対照的に、北のシュルト大陸の北方はセルヴォルファスやローゼンティアといった魔族たちが豪雪にも負けずに住まうため、なおさら人々にとっての脅威は雪と寒さよりも砂と暑さだと言われた。
 皇帝領に近く在りながら、そこは神に見捨てられた土地だとも言われる。
 そんなカウナードで二十年ほど前、一人の少女が水を求めて《死の砂漠》に旅に出た。

 ◆◆◆◆◆

 本日はリチャードに厳命され、ロゼウスは書類仕事に励んでいた。
 マンフレートなる少年がルルティスを引きずって帰ったのだから、もう城中を逃げ回る必要はないだろうとのことだ。護衛権お目付け役として、騎士志願のゼイルがロゼウスを見張……見守っている。
 執務室一つとっても、皇帝の部屋は豪奢だ。狭い部屋で仕事をする皇帝などいなくて当然なのかも知れないが、肉体的に疲労のたまりにくいロゼウスにとっては無駄とも思えるような気遣いがあちこちに見受けられる。普段はロゼウスよりリチャードの方がこの部屋を遣うことが多いくらいなので、それでいいのだろうが。
「陛下、そろそろ休憩にいたしませんか?」
 同じ室内にいながら観葉植物も真っ青の気配を消す実力を発揮していたゼイルが、仕事の途中でロゼウスに声をかけた。
「ん? どうして?」
「いえ、朝からずっとお食事もとらずに作業を続けていらっしゃるので、お疲れではないかと……」
 ゼイルは歯切れ悪く言った。彼としては常識に照らし合わせての当然の発言だったのだが、ロゼウスは意味がわからないとでも言いたげにけろりとしている。その平然とした顔を見ていると、自分がまるで余計な発言をしてしまったように感じるようだ。
「ああ。もうそんな時間?」
「え、ええ……」
 ゼイルはロゼウスが朝食をとったところを見ていない。とったという話も聞いていない。夜明けを少し過ぎた起床直後に寝室に特攻をかけたリチャードがロゼウスをさっさと執務室に放りこんで、ゼイルをお目付け役として残すとさっさと自分は別の仕事を片しに行ったのだ。
 ちなみにリチャードはどうにもゼイルのことが気に入らないらしく、必要最低限の会話しかしない。仕事に関しては遠慮なく押しつけるが、私的な会話をすることは一切ない。
 とにかくそれ以来、ロゼウスはずっとここで書類仕事を続けているのだ。それほど仕事を溜めるロゼウスもロゼウスだが、すでに昼食の時間もとっくに過ぎて日が高くなっているのに、いっこうに休む様子がない。
 普通の人間である以前の主君の行動と照らし合わせると、ゼイルにとって随分とロゼウスの行動は奇怪だった。何しろ水の一滴も飲まないのだ。
「ごめんごめん。忘れていた。俺はヴァンピルだからいいけど、お前にも休息が必要だな。気を使ってくれてありがとう。とりあえず食事にしようか」
「はぁ……」
 返事に困り、ゼイルは曖昧な顔で頷くしかできない。
 食事を終えて午後のお茶を楽しんでいるロゼウスに、彼は話しかけてきた。
「陛下は……いつもこのようにお仕事をなされているのですか?」
「いや? いつもは……というか昨日まではルルティスから逃げ回っていたけど」
「そ、そうですか」
 ロゼウスの言動はいちいち慣れていない人にとって困るものばかりだ。ロゼウスばかりのせいでもないが。
「どうした? 何か不都合でも?」
「いえ……その」
「ああ。前の御主人様とはずいぶん違うって?」
 その言葉に、ゼイルがぴくりと反応した。
「お前が別の相手に仕えていて、そこを解雇された後にシャーウッド伯に繋ぎをつけてもらってここに来たことは知っている」
「ああ……そう言えばランシェット殿には、その辺りの事情もお話ししました。そのことを仰っているのですね?」
「そう」
 ルルティスはゼイルが前の主人のことをとても好きだったようだと言っていたのだが、そこまでは指摘せずにロゼウスはただ頷いた。
「お聞きの通り、拙は以前別の主人に仕えておりました」
「その主人というのも、シャーウッド伯と同じユラクナー人か」
「いいえ」
「じゃあカウナード人か」
「ええ。私は……あ、いえ。拙は……」
「細かいことにこだわるな。もっと砕けた口調でいいよ。エチエンヌなんか堂々と俺をバカ皇帝呼ばわりしてるぞ」
 いや、あれを例に出すのはどうかと思われる。
「……恐れ入ります。不調法をお許しください。確かに仰る通り、私は以前、別の主人に仕えておりました。主人は――」
 そこで一瞬ゼイルは声を詰まらせた。
「我が主は、私と同じカウナード人でした」
「そうか……」
 その口調が少し重かったので、ロゼウスは彼と前の主人の間には何か事情があったのだろうと察した。誰にも言いたくはない事情はあるものだ。だからそれは、ロゼウスは聞かない。
 それにロゼウスも、カウナード人という人種には少しだけ思い入れがある。
 長い四千年の記憶の中、いくつもの国の人間と出会い、別れを繰り返してきた。どんな人種の人間とも時には親しく心通わせ合うこともあれば、時には酷く醜い争いを繰り広げたこともあった。
 それにカウナード人とローゼンティア人は……。
(そういえば)
「なぁ、ゼイル」
「何でしょう?」
「お前は俺が気持ち悪くないのか?」
 直球を剛速球で放り投げたロゼウスの質問に、さすがのゼイルも絶句する。お前は気持ち悪いと言われるよりはるかにマシだが、さすがにこの質問はどうかと思う。
「いいえ」
「どうしてって聞いてもいい?」
「我が主の姉君がその……ローゼンティア人と親しかったらしく我が主にも家にお仕えしていた私にもその時のことをよく語ってくれましたので、そういった偏見は取り払われております……それを言うのであれば、陛下こそよくカウナード人である私を仮と言う形でも取り立ててくださいましたね」
「俺は皇帝としてもう四千年もいろいろな人種や民族の相手と顔を合わせているから……お前の方が珍しいよ」
「そうでしょうね」
 あっさりとゼイルは頷いた。
 実はシュルト大陸最東端の国ローゼンティアのヴァンピルとバロック大陸のカウナード人とは、美意識がかなり違う。
 ローゼンティアの隣国であるエヴェルシードも美への価値観はローゼンティアと似たようなものだ。最近のリチャードがゼイルをやけに毛嫌いしているような様子は、案外エチエンヌのことだけでなく、こういった事情もあるかもしれない。
 つまり、ローゼンティアやエヴェルシードの人間からすれば、カウナード人はどうにもそりの合わない相手なのだ。特にエヴェルシード人から見ればカウナード人は、カウナード人からしてみればエヴェルシード人は美しくない。褐色の肌に金の髪に青い瞳のカウナード人と、白い肌に蒼い髪と橙色の瞳のエヴェルシード人は何もかもが正反対だ。
 そしてこの世で最も肌の白い一族であるローゼンティアのヴァンピルと褐色肌のカウナード人も対照的だった。お互い自らの一族の容姿に慣れているそれぞれの民族は、相手方の民族の容姿に違和感を覚えざるを得ない。
 そしてそう言った容姿に対する違和感は、簡単に偏見へと繋がるものだ。肌の色黄色く黒い髪に黒い瞳の《黒の末裔》が虐げられているのがいい例だろう。
 それ以外の国の美意識に関してはここでは割愛するが、そう言った差別感情はこの多民族国家が統合されて成立する帝国世界では珍しいものではない。大多数の国では現在はそれほど強い差別感情があるわけではないが、人々の移動が活発になった今でも別民族の人間と結婚する人々の少なさを考えればわかるだろう。
 その中でも、いまだ特段強い差別感情を残すのがローゼンティア・エヴェルシードとカウナード人の対照的な民族だった。ロゼウスやゼイルの例は確かに珍しい。
 とはいえ、ロゼウスは皇帝になる前はヴァンピル王族の誇りとして他者に思い切り「脆弱な人間風情が!」などと言っていたので根本的には何も変わらないのかもしれない。
 ロゼウスがその考えを捨てたのは、皇帝になってからだ。
 吸血鬼よりも恐ろしい人間の生き様を知ってしまっては、もはや脆弱などとは呼べないと。
「お前の前の主……シャーウッド伯じゃない、もともとの主ってどんな相手だったんだ?」
「……気になりますか? 陛下にお仕えするには、以前の主のことも妙な人間ではないとしっかりお伝えせねばなりませんか?」
 ロゼウスは何気なく聞いたつもりだったのだが、ゼイルには何か思うところがあったようだ。そう聞き返されて、言葉を選び間違ったかとロゼウスは内心で冷や汗をかく。
「いや、単に聞いてみたかっただけだ。話すのが不都合だったら、別にいいぞ」
「いいえ。シャーウッド伯のことはお世話になっておきながらよく知りもせず恩知らずなこの身かも知れませんが、その前の、我が主に関してお伝えすることには、どんなはばかりもありません」
 その家に、ゼイルが具体的にどんな理由で解雇されたかはロゼウスは知らない。けれどゼイルが元の主を思い出して語る様子は穏やかだ。
「あの方は……とても穏やかな気性の方でした。あの方がお生まれになる前にカウナードは一時壊滅的な旱魃に陥ったのですが、あの方がお生まれになった後は安定した水量を確保できて、自然と周りの環境も穏やかでした。大人たちは旱魃当時の苦労を語りたがるものですが、中でも当時最も苦労されたのは、あの方のお姉君です。何でもその苦労の最中にローゼンティア人と出会われたということで、実の弟であるあの方とその従者である私に、よくその方の話を聞かせてくださいました。それであの方は、ローゼンティア人に偏見を持たずに育ちました。それに関しては、お姉君のおかげですね」
「ふうん……」
 聞きながらロゼウスは、何かを思い出しかけていた。何だろう、これは確か、ゼイルがここへやって来た時にも思ったことのような……。
 ――陛下、わたくしは、あなたのことを……。
「大人たちの労苦を子守歌代わりに聞いて育ったためか、あの方は家期待の後継ぎとして御立派に育ちました」
 掴みかけた何かは、しかし続くゼイルの言葉に耳を傾けるうちに、霧のように手をすり抜けてしまう。
「カウナードは気候的に厳しい土地です。あんなにも皇帝領に近くありながら、皇帝の恩恵とは程遠い」
「……」
 ゼイルの言葉に何も言えず、ロゼウスは押し黙る。
「別に陛下のことを責めているわけではございません。この世界が“そういうもの”であるということは、私でも理解できること」
「そうか」
 この世は《箱庭》だ。
「ですが、気候環境に恵まれないカウナードだからこそ、人々は結束を強くしていくという面もあります。我が主は人々の心を捕らえるに相応しいお方でした。武の国エヴェルシードの民とは別の意味で、カウナードの民は頑強です」
「そうだな。だからこそお前もこうやって要人護衛の仕事についているのだろう」
「ええ」
 ふと窓の外の影の位置が動いているのに気づき、ゼイルは話題を変えた。
「少し喋りすぎました。私の話はこのぐらいです。陛下、お茶のお代わりはいりませんか?」
 ロゼウスが今飲み干したカップに入っていたお茶は、昼食と共にローラが持ってきてくれたものだった。お湯も茶葉も用意されているので、お代わりをこの場で淹れることは可能だ。ゼイルはそれを申し出た。
「あー……いや、今はいいや。そろそろ仕事を再開しよう。今日中にノルマが終わらないとリチャードに怒られるし」
「……そうですね。ですが陛下、もしもお疲れの時などは仰ってください。私はこれでも薬学を修めておりますので、疲れのとれる薬湯などを淹れることもできますので」
「へぇ。それならまた今度にでも頼もうかな」
 確かにゼイルの触れ込みは学者としての知識も持つ凄腕の武人というものだった。それだけでなく様々な場面で器用さを披露し、なんでも積極的に仕事をこなす様は確かに好感が持てる。
「じゃあ、その時は期待しておく」
「お任せください」