薔薇の皇帝 07

第3章 無音の深淵 01

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 青年は求めていた。
「くそ……! これも駄目だ。理論の途中で矛盾が……ヴェルツェグの公式を使えば……いやそれでもy24の座標点が……」
 部屋の中に散らばった、何枚もの紙、紙、紙。その全てにびっしりと数式と文字が書きならべられ、怪しげな呪具と共に室内を埋め尽くしている。何の変哲もない一室はさながら怪しい魔術師の棲家のようだ。
 その連想の半分は正解であり、半分は間違いである。青年は魔術師ではなく学者だ。だが彼が今求めているのは、魔術の力だった。
 大切な人を蘇らせるための力――。
 青年――ゼイル=トールベリはその可能性を魔術に求めた。彼も所詮は魔術の民である黒の末裔ではなく、ただのカウナード人。学者として魔法学の理論を聞きかじり多少その原理を理解したとしても、懲りずに魔術の万能性に夢を見る。
 そう、魔術は万能なのだそうだ。
 魔術の民、帝国成立のその時より世界から虐げられし一族、《黒の末裔》はそう言う。しかし誰もその言葉を証明することはできない。
 人は全能ではないから。
 それは、地上において神の代行者を名乗り、全知万能と呼び讃えられる皇帝とて同じ事。皇帝は全知「万能」ではあるが、全知「全能」ではない。広義な意味なら同じ事を表す二つの言葉、しかしその厳密な差異を考えた時、それは絶対的な差となる。
「もう一度、今度はアルドートの外法書に沿って最初から……」
 淡い金髪を褐色の手でがりがりと掻きむしりながら、ゼイルは手元の紙にまだ何事かを書きつづる。
 彼の足元を埋める紙の山は、これまで理論の段階ですでに失敗した術式。千にはまだ届かないが、それでも百を軽く超える魔術の検証式の山。今、どんな真面目に勉強している学生より、数億の民の命を背負う宮仕えの魔術師よりも必死に、それを望み追い求め焦がれる。
「セィシズ様……」
 不安な夜にお守りを握りしめて縮こまる子どものように頼りなげな声で、彼はかつての主君を呼んだ。彼こそが、ゼイルの蘇らせたい絶対の人だ。
 セィシズ様、セィシズ様、セィシズ様――!
 心にあるのはただ一人、兄弟のように育った主君のこと。彼はゼイルの世界の全てだった。彼がいなければ生きている意味などなかった。
 彼が死んで何故自分がまだ生きているのか。
 はじめは、復讐のためだった。彼を殺した相手、彼を死なせた原因となったその相手に復讐するために。
 ゼイルの主君の仇――それは、皇帝だった。
 この世を支配する最高権力者、神の代行者、全知万能の御使い。けれどその姿は華奢なまるで少女とも見紛う美しい少年で、彼の主もかの皇帝に魅せられた。
 そう、主は皇帝を愛したからこそ、死んだ。
 ゼイルの中には迷いがあった。主君の愛した相手を斬り捨てる復讐に。
 けれどやはり主君が死ぬ原因となった皇帝をそのまま赦すこともできず、凶的な犯行に身を委ねた。それが数週間前のこと。
 皇帝は主君を忘れてはいなかった。ゼイルのことは覚えておらずとも、彼を忘れてはいなかったと。
 それどころか、主君が皇帝に淡い想いを抱いた出来事の元にまで彼がいた。
 もう、駄目だと思った。
 主君が殺された理由だと、皇帝を憎み続けることはもうできない。憎んではいる。確かに。かの人の存在が疎ましい。それは確かだ。だが憎悪は殺意とは結びつかず、彼に害をなして全てを終わりにする気にはなれなかった。
 私は何が欲しかったのだろう。
 ゼイルは考える。いつの間にか手元の数式から思考が離れ、答の出ない果てなき海を浮遊する。
 何が欲しかったのだろう、私は。
 何、ならば欲しかったのだろう。
 考えた時に思い浮かんだのは、かつての主君の笑顔。
 そうだ、取り戻したかったのだ、彼を。
 死んだ者は蘇らない。そんなことはわかっている。だが、それでも。自然の摂理を、この世の断りをねじ曲げても、それでも私は……!
 乱雑になった字、腕の動きがインク壺を引っかけて、床の上にぶちまける。
「あ……」
 無我夢中だったゼイルはそれで我に帰った。黒いインクがばしゃりと辺り一面に降りかかる。
 片付けのことを考えて呆然とした。
 そして、主が死んだのだからもう死んでもいいなどと考えていた自分が、こんな些細なことで頭を悩ませるのだということに――それがまるで彼がまだ生きている絶望的な証のような気がして、寒気がした。
「ああ……」
 ペンを握っていた手から力が抜け、机の上からそれまでが転がり落ちる。書きかけの薄い紙が引っ張られてまた床に落ち、ひらりと舞う。
 床は一面紙が重なり合って敷き詰められていたので、思ったよりもインクの被害は少ない。少ないが……。
 紙に埋もれた床の上に膝をつく。
 寄る辺ない幼子のように、顔を手で覆ってへたり込んでしまう。一気に脱力し、同時に生きようとする力まで抜けてしまいそうだ。
「――っ、……」
 喚きたい気持ちになるのに、何を喚いていいのかわからない。
 喚く資格は、彼にはない。この怒りとも苛立ちともつかぬ感情をぶつけていい相手などいない。
 わかっている。本当は最初からわかっていた。
 セィシズのしたこともゼイルのこの悲しみも、全ては自業自得だ。この事で誰かを、世界を恨む事の方が間違っている。彼らは罪を犯し、その果てでセィシズは命を、ゼイルは主君を失った。
 全ては彼ら自身の罪。
 それでもゼイルは悲しかった。彼のいないこの世界で生き続けることが。
 皇帝に復讐して死んでしまえば満足できるかと思ったが、今はもうそんな気にはなれない。それでも何かをせずにはいられなかった。
 ――忘れなさい。
ゼイルを知り、セィシズを知る者は言う。
 ――どんなに望んでも、死者は帰って来ないわ。ゼイル、もうあの子のことは忘れるのよ。
「イェシラ様……。ですが、イェシラ様……」
 セィシズの姉であり、彼に美しい皇帝のことを教え聞かせたイェシラ。主君を失ったゼイルを今でも姉が弟にするように心配してくれる優しい婦人。
 だがその彼女までも、セィシズを忘れろと言う。恨みも憎しみも、そして悲しみまでも忘れてしまえと。
 彼はもう戻って来ないのだから、と。
「そんなの、認められるはずが、ない……!」
 ゼイルはまだ二十代。この先五十年はあるだろう人生の全てを、セィシズがいないのに生きていくことなんて。
 彼がいなければ、自分は何のために生きていけばいいのか。このまま知識と能力を活かして他の誰かに仕える? セィシズ以外の人間を、主君と呼ぶ……?
 認められるはずがない。
 そんなことは、絶対に認められるはずがない。
 復讐の時には、これもセィシズのためだと思えばいくらでも貴族に取り入り主ともてはやすことができた。しかし、もはや彼は心から誰かに仕えるなどということはできない。
「だから私は……」
 だから、セィシズを取り戻す。
 禁断とされた死者蘇生の魔術を使ってでも。人としての倫理を、禁忌を破ってでも。
 自らを奮い立たせて、立ち上がろうとした。しかし座り仕事ですっかり萎えた足が、うまく体を支えてはくれなかった。
「っ」
 ゼイルはよろけ、机とその横の本棚に肩をぶつける。痛くはないが、情けなさに溜息が出た。
 揺れた本棚から本が数冊零れる。
「ああ……」
 また片付けるものが増えてしまった。二度目ともなると、さすがにもう動揺しなかった。
 大切な主君と一緒に死ねなかった以上、ゼイルは生きるしかない。無様で惨めで恥知らずでも、生きていくことしかできない。
 ようやく回復した足でまずはインクで汚れる前に本を拾おうと屈みこみ――開かれたそのページのある言葉に目が留まった。
「錬金術……」
 その単語から、あるものを連想する。錬金術における禁忌、人造人間。
「もしかしたら……」
 これまでゼイルは主に死者蘇生の魔術を研究していた。蘇らせる人物の肉体を必要とする方法、魂を降霊させて人形の中に閉じ込める方法、幾つもの方法があったが、どれもゼイルの求める形にはならなかった。
 だが錬金術ならば、人間を一から作ることができる。
 そして自らの手で作ることができるということは、変えることもできるということだ。例え皇帝に出会っても、惹かれることのない人間に。
 魔術の方法に行き詰ったゼイルにとって、それはまるで天啓のように思えた。魔術の才も錬金術の才もないゼイルにとっては、両者の細かい違いなど考えたこともなかった。
 そして魔術と錬金術のどちらが簡単かと言えば、それは断然錬金術の方だ。
 魔術で「可能」とされる死者蘇生に辿り着く頃には人間としての寿命が尽きていそうだが、錬金術ならば生きている間に叶えられる可能性がある。
「ホムンクルスの製造書は、確かどこかの学院に……」
 黒いインクが無数の紙の上にぶちまけられた惨憺たる室内、ゼイルは狂気に爛々と目を輝かせ、錬金術の本を読み耽る。
 部屋の中の棚の奥、小さな鍵をかけられた箱が静かに眠っていた。

 ◆◆◆◆◆

 その日、皇帝領に爆笑が響いた。
「あははははははは! あーははははははは!」
 天下の皇帝に指を向けて、腹を抱えて大笑している不届きな少年がいる。黒髪に黒い瞳を見れば、誰もが彼を《黒の末裔》だとわかるだろう。
「お、お前、よりにもよってそこ斬られるとか……っ、あはははははははうはははははは!」
 見た目十五、六歳の少年の名はハデス=レーテ。実年齢は四千百弱。現皇帝より年上という数少ない人物の一人である。
 彼はまた、世間では《冥府の王ハデス》として知られる。古代神話の神と同じ名を持ち、事実、世界最高の魔術師とされる彼は全ての魔術師の憧れとして存在する。
 が、そんなカリスマ魔術師の実態を知る者は少ない。
 世間様でもてはやされる大魔術師は、現皇帝ロゼウス=ローゼンティアの「下僕」である。
「うひゃひゃひゃひゃ、あーもう、僕本当褒めてやりたいくらいだよ! お前のチ」
「それ以上言ったら殺す」
 皇帝領の中、とはいってもハデスは世間に出ない魔術師なので城の奥まった皇帝の私室の一室に招かれ、今回自分が呼び出された説明を受けていた。
 ちなみにどれほど奥まった場所だろうが先程の爆笑で馴染みの人間には訪問がばればれであることは、あえて突っ込まずに話は進む。
 世界最高権力者たる皇帝は、今現在文字通り「あられもない格好」をしていた。薄い夜着の前を自らはだけ裾を持ち上げ、下着もつけずに股間を他人の前で晒しているのだからあられもない格好の他言いようがないだろう。
 他人から見たらどんなプレイだと言いたくなる格好の皇帝とそれを見つめる伝説的魔術師だったが、この二人の間に俗に言う良い空気などが流れたことは過去四千年に渡り、一切存在しない。一度も、絶対に、微々も存在しない。
「いっそ直さずにそのまま女になってしまえ柳腰。お前ならそれで十分にやっていけるって」
 幼い顔立ちをけらけらと笑いに歪めながら、ハデスは杖を抱えてようよう体を支える。よほどツボに入ったらしい。
「絶対にお断りだ!」
 一方のロゼウスは股間をさらけ出したまま、怒りで顔を真っ赤に染めている。
「いいから早く治せ!」
「はいはい」
 横柄なロゼウスの命令に、横柄にハデスが頷く。この二人、主人と部下ではあるが世間一般で言う主従とは違う、特殊な関係である。お互いに相手の弱みを責め、譲らず、顔を合わせれば嫌味をぶつけ合うような仲だ。普通に険悪だ。
 治療に向いた術師が他にいないので仕方がなくロゼウスはハデスを呼び寄せた。殺戮皇帝として恐れられる薔薇皇帝は、こんなところでも弱みを見せることができない。
 とはいえそもそもロゼウスは吸血鬼なので滅多に残るような怪我、治療が必要な怪我などすることはなく、また、怪我をしても何をせずともすぐに治るのが普通だった。そして普通の人に見せられる怪我であれば、ハデスの姉であり同じく今はロゼウスの部下の一人である前皇帝デメテル、現在はプロセルピナと名乗る女性を呼んでも良かったのだが。
「男性器切断とはまた思いきった重傷だ」
 場所が場所、モノがモノだけに女性に診てもらうのは憚られた。
「俺が自分で思いきって、こんな愉快な怪我をしたと思うのか……?!」
 滅多にないロゼウスの本気の醜態に、ハデスはにやにやと性格の悪い笑みを浮かべるばかり。ロゼウスの血管がそろそろ切れそうだ。
 ようやく真面目に治療する気になったハデスが何かさっさと手を動かしただけで、ロゼウスの体は元に戻った。いろいろな意味で見るに耐えなくてロゼウスが目を瞑っていた数分の間に治療は終わった。
「はぁ……」
「使い心地は誰かで試せよー。そこまで付き合ってはやらないからな」
「わかってるよ」
 絶世の美少年のくせに股間を押さえて蹲るというなんともいえない間抜けな絵面も気にせず、ロゼウスはようやく戻ってきた自分のモノの感触に泣いた。本気で。
「ああ。忘れるところだった。おい、そこの蛆虫」
「何だよ山蛭」
 用はもう終わったと思っていたのだが、ハデスが何かを思い出したように言う。ついでに悪口の一つ二つも忘れない。二人の嫌味は言葉選びこそ子どもにはないえげつなさだが、その応酬自体はとても幼稚だ。
「切り落とされた部分の方も僕が処分しておいてやるよ。さっさと出せ」
「え?」
 ということは、前回の誘拐事件で斬り落とされたアレを渡せということだろうか。
「な、ないけど?」
「ない? 回収しなかったのか? それとも僕が来るまでに腐った?」
 前者はともかく後者は想像もしたくないのでやめてほしい。
「繋げる時に必要だと思って探したんだけど、現場になかったんだ」
 ローゼンティア人は手足の一本二本切り落とされたところで死なない。切り落とされた断面をきちんと繋げれば、しっかり繋がって生き返ると言う非常識な一族だ。
 なのでロゼウスも切り落とされてしまった部位を必死で探したのだが、現場にはなかった。皇帝の力を(無駄なところで)フル利用して崩れた城の瓦礫の下まで探したのだが、見つからなかった。
「……どういう意味だ。それって」
 考えられる可能性は一つだけ。
「……凄く嫌な考え方をすると、誰かが持っていったのかも……」
 何のためにとかどう処理されるのかとか、考えるたびにロゼウスは悶え死にそうになる。何故あんなものを持ち去ったのかわからない。
 ロゼウスは羞恥としての問題からそう考えていたのだが、それを聞いたハデスが滅多にない難しい顔をした。
「ハデス?」
「お前の身体の一部を誰かが持ち去った……? 身体の大半が魔力で構成された一族の皇帝の身体を……?」
 顎に手を当てて、本気で考え込む姿勢になる。頭の中で何かを計算している。
「ハデス?」
 これまで何とも思っていなかった、否、思うには思うことがあったが、自分一人の問題でたいしてまずいことになるとも考えていなかったロゼウスはハデスのその態度に不安を覚えた。
「何かマズいのか?」
「別に相手がお前の熱狂的なストーカーで防腐処置をして飾っておきたいだけとかなら問題はないんだけど……」
 いや、ロゼウス的には大問題だそれ。
「そうでないなら、少しまずいかもしれない……もしもお前の身体の一部から魔力を取り込もうなんてこと考えたら……」
 魔族は魔術が苦手だ。中には魔術が得意な魔族もいるが、そういった魔族は身体能力で劣っている場合が多い。魔力を操りあらゆる現象を引き起こす魔術だが、それは生物の魔力の含有量に関係する。
 魔族の身体の一部は魔力で作られている。そして身体機能の維持に魔力を多く使う、魔力で身体が作られている部分が多い魔族ほど魔術が苦手だ。
 ロゼウスは身体のほとんどが魔力でできていると言っても過言ではない体質だ。彼はそうであるからこそ、自分ではほとんど魔術を使うことができない。擦り傷を治す程度ならできるが、それ以上魔力を使えば、身体機能に影響が出るからだ。
 そう言った魔族の身体には、使えない膨大な魔力が眠っている。
 それはロゼウス自身には使えない魔力だが、切り落とされた身体の一部から、「人間」がその魔力を取り出す事は可能だ、とハデスは言う。
「……黒の末裔でもない一介の魔術師風情にそれがどうこうできるとも……いや、僕や姉さん級の魔術師でなければ上手く扱うことはできないと思うけど」
「……マズいのか?」
「うーん。一国を滅ぼすような力はないけど、何に使うかが問題だ」
 そしてハデスは言った。
「もし何かまずいようだったら、早めに知らせろよ。――嫌な予感がする」
 冥府の王ハデス、彼はかつて、《予言者》の名で知られてもいた。