薔薇の皇帝 08

第3章 無音の深淵 02

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 何故か彼らは演劇を見ることになった。
「何故?」
「そりゃ皇帝陛下がお命じになったからだろ」
 何故かと言ったが、その部分は明白だった。皇帝の希望。希望というより命令で、しかし命令と言っても居丈高に言いつけられたのではなく、ロゼウス帝はさっさと自分で劇団の手配をしてしまった。
 どこかから呼び寄せた黒ずくめの少年魔術師に、現在シュルト大陸にいる劇団を全員道具ごと連れてこいなどという無茶な命令をしている姿を皆が目撃した。
 そんなわけで劇だ。演劇だ。
「久しいな、ディアドラ」
「皇帝陛下。本日はお声をかけていただきありがとうございます。荷物ごと団員全員を運んでいただいたので運賃がうきましたわ。ちょうど今度はバロック大陸に渡ろうかと話していましたの」
 皇帝にディアドラと呼ばれた女性の美貌に、集まった全員が息を呑んだ。
 アストラスト人らしく、燃えるような紅い髪に濃い紫の瞳をしている。色が派手なだけに生半な目鼻立ちでは埋もれてしまうと言われる民族的特徴が最大限に彼女の美貌を引きたてている。
 彼女は美しい。それもただ美しいのではない。恐ろしいほどに美しい。
 彼女を見ているだけで、気の弱い者ならば心臓が止まりそうなほどにそれは毒のある美貌だ。表情がくるくるとよく変わり、人間らしいのに迫力がある。
 彼女を呼び寄せたロゼウスが、普段から無表情と困り顔と憂い顔しか見せないと言われるほどに表情少なく人形じみた美貌であるために、余計ディアドラの生き生きとした美しさが際立つ。
それはすでに人の言葉の表現を越えた美貌だった。
「それで、本日は何の御用ですの?」
「御用も何も、演劇をしてもらいたいだけだが」
「あら、それはおかしいですわ。私の知る皇帝陛下は、演劇などにまったく興味がないお方でしたもの。芸術を理解する心というものにとんと欠けた権力者殿に、今度は何の思惑があるのかとお聞きしましたのよ」
 え? ちょ、おい。
 二人の会話を聞くともなしに聞いていた周囲の者たちは思わず心の中で突っ込んだ。
 劇団の花形だというこの美女は、さりげなく失礼なことを言っている。皇帝を目の前にしてここまで豪胆な口を利ける者もそうはいない。
「相変わらず気が強いな、お前は」
「陛下が世界最高の美女だとお認めになりましたこの私ですもの。気の一つや二つ強く持たねば、すぐに他の権力者たちの食い物ですわ」
世界最高の美女。
 その言葉に、王族以外の人々はようやく彼女の正体に納得がいった。二十年ほど前、皇帝が褒めそやすほどの美女……その頃は美少女がいた。美しさのあまりに権力者が彼女を手に入れようと村を焼き、その復讐に彼女に殺されたと言うほどのまさしく傾国の美女。
 災いのディアドラ。
 彼女を知るものは、そう呼ぶ。
「やれやれ。相変わらずの口のききようだ。だが猫を被るのは上手くなったな」
「そりゃああれから二十年経ちましたもの。私も処世術の一つや二つ覚えます。取るに足りない馬鹿どもをいちいちまともに相手して踏みつけて歩くのも疲れますし」
 何かまた凄いことを言っている美女である。生き生きとした美女であるディアドラには、そんな毒のある発言まで何故か似合ってしまう。
「それで、どんな思惑ですの?」
「私は二十年前にこのホールでお前たちの劇団の悲劇を見た。今日もまた同じ演目を頼む」
「二十年前の? ええ、あれは伝統的な人気演目ですからかまいませんが……何のために?」
「そこまでは言えない」
 ロゼウスの返答に、ディアドラは肩をすくめた。喜劇や普通の舞台ならまだしも、皇帝が所望したのは悲劇。気晴らしに見るようなものではないので、何か思惑があるのだろうがそれをここで言う気はないらしい。
 まぁそんなこと、彼女にとってはどうでもいいことだ。
「ですが陛下、私たちの劇はお嫌いでしょう」
「……ああ、そうだ」
 皇帝の言葉に周囲の者たちが耳を傾ける。ロゼウスはそれを十分に意識して言う。
「お前たちの演じる劇は見事過ぎて、私の胸に響く。思わず涙を零しそうになるから、お前たちの美しすぎる悲劇は本当は嫌いなんだ」
 周囲の王族や貴族がホールの中でちらちらと視線を交わし合った。
 皇帝がそこまで言うのであれば、この楽団の実力は本物であろうと。
「良い箔付けをありがとうございます。そこまで言うのでしたら皇帝陛下も存分にお泣きになってくださればよろしいでしょう」
「いや」
 だがロゼウスはディアドラの言葉に拒否の言葉を返した。
「どんな悲劇を目の前にしても、私は、私だけは決して泣くわけにはいかないんだ」

 ◆◆◆◆◆

 演劇が始まる。
 舞台の幕が上がるとともに、ゆっくりと照明が暗くなる。舞台の手前には楽団が座っていて、この悲劇の主役の一つとなる音楽の生演奏を奏でていた。
 微かな細い音から徐々に荘厳な響きへと変化する、これからの内容を予感させる切ない序曲。ホールは静まり返り観客たちは息を潜めて舞台に見入った。
 悲劇の主役であるディアドラの歌が始まる。彼女は二人の男に愛された娘役で、神に自らの罪の赦しを請う歌を歌い始めた。
 

 どうか、どうか、私をお赦しください
 あの人を愛した私をお赦しください
 そしてあの人をお赦しください
 私を愛したあの人をお赦しください

チェスアトールの者たちが国の力まで使って建てた劇場は素晴らしかった。歌声がホールの隅々まで響き渡る。
 ロゼウスたちは普段王族の使う特等席にいた。すでに国へと戻ったユラクナー王夫妻を除けばフィルメリアの王とその妾妃、ビリジオラートの国王夫妻、それにルミエスタの王子レンフィールドとローゼンティア貴族ノスフェル家のロスヴィータがいるが、彼らはロゼウスたちより一段下の席にいる。
 この特等席に今いるのは、いつもの皇帝領の面々だけだ。ロゼウス、エチエンヌ、ローラ、リチャード、フェルザード、ルルティス。それに今回はアルジャンティアも加わっている。
 ちなみにジュスティーヌは観劇に参加したがったが、体調を崩して部屋で寝ている。彼女の世話をする以外の者たちは、今は皆ここに集められている。
 目の前では演劇が進んでいた。
 美しい貴族の娘を愛した二人の男。一人は隣国の王子、もう一人は義理の兄。 
 娘は義理の兄と、禁断の恋に溺れていた。
 実際にあった事件をモチーフにしたもので、娘と兄の名前や王子の名前も伝わっているが、どうでもいいことだろう。
 ロゼウスは劇がそもそもそれほど好きではない。四千年も生きていれば、歌劇よりも現実の方がよほどいろいろな事が起こるものである。悲劇も喜劇も、幸せな結末も不幸な最期も数え切れないほどに見て、見送ってきた。誰かの運命を変えるために手を貸したことも、何もできず本当にただ見送るに終わったこともある。
 だから演劇は、歌劇は嫌いだ。
 人生はこの歌劇ほど美しくはない。だがこの劇団の音楽も演出も役者も、何もかもが素晴らしすぎて哀切なメロディーに引きずられそうになる。

 もしも私が今ここで死んだら
 この想いはどこへ行くの
 空に溶けるの? 海に消えるの?
 できるなら永遠にこの地上にありて
 あの人の心を救ってほしい

 悲劇を好む人間は、結局幸せなのだろう。
 自分が今誰よりも苦しい人間は、他者の悲劇まで見たくはない。
 人の痛みを自分とはまるで関係のないものだと思えないのなら尚更。
 ディアドラの美しい声が、美しい歌を歌う。愛してはいけない人を、義理の兄を愛してしまった娘の悲しい恋唄。

 ああ胸が引き裂かれそう
 ごめんなさい
 あなたを愛して

 愛してしまったことが何よりの罪なのだと。
「……!」
 ガクリと体が傾く。ロゼウスは思わず口元を押さえた。
 身を震わせたロゼウスの手を、隣にいたローラが握りしめる。
 舞台上のディアドラは特等席のロゼウスたちの様子に気づいたようだった。歌いながらも一瞬だけ雰囲気をいつもの鋭い彼女に戻して訝しがる。もうロゼウスにとっての用は果たしたのだが、他の観客のためには劇を止めてはいけないと、ロゼウスは弱弱しく手を振った。
「陛下、大丈夫ですか?」
 初めて見ると言う歌劇に見惚れていたルルティスがロゼウスの斜め背後から声をかける。
「お茶持って来ました。これでも飲んで落ち着いてください」
「……ありがとう」
 濃い薔薇の香りのするお茶を渡された。あらかじめそういうものを出すよう手配をしていたのはリチャードだ。
 四千年生きた皇帝にも、まだ塞がらない傷がある。
 胸の奥深くに息づいたその傷に、この劇の歌は触れるのだ。
 舞台は佳境となり、最後に娘の兄が戦死した場面が演じられる。悲嘆にくれる娘、それを慰めようとする王子。
 義理の兄は娘と王子の幸せを引き裂かないため、自ら身を引いたのだ。激戦区へと赴いて戦死。
 だがその後は彼の思い描いた通りにはならなかった、愛する兄の死を知った娘は、どうせ罪重き恋ならば死の国たる大地の奥底で迎えましょうと、深い湖に身を投げる――。
 そして舞台は幕を下ろした。

 ◆◆◆◆◆

「いかがでしたか? 皇帝陛下。死にそうなお顔をしてらっしゃいますわね」
「ああ、ディアドラ……目的は果たしたよ。ありがとう」
「劇への感想は言って下さいませんの?」
「見事だった」
「それはどうも」
 八の字眉で言われた感想に気のない素振りで頷き、ディアドラは髪をかきあげる。
「それでは私たちは、これで退散させていただきますわ」
「もう? 来たばかりだろう。疲れているのではないか?」
「ええ。疲れていますけど移動は魔術で一瞬、劇も一芝居だけですし、それほどでの疲労ではありません。むしろ皇帝陛下が意味ありげに劇団を呼んだりする、明らかに何かあったような雰囲気の場所に長くとどまるのは危険だと満場一致でこの場を離れることを決定しました」
「俺は疫病神か……」
 別に今回に限ってはロゼウスが厄を運んできたわけではないと思うのだが、歌劇団はすでに撤収の準備を始めている。
「ところでディアドラ、二十年前には聞き忘れたから今聞いておこう。あの劇の題は?」
「《愛の罪》と言います」
「……」
 それであんな歌なのか、とロゼウスは納得した。
「……歌が上手くなったな」
「当時はまだ劇団に入ったばかりでしたからね。あれから二十年、私も随分役者として成長いたしました」
 三十半ばの女優は、鮮やかな紅を刷いた唇に妖艶な笑みを浮かべる。
 娘役をするなら二十年前の方が年頃は近い。しかし彼女の歌は、間違いなく今の方が上手だ。
「でも私、正直言ってあの劇嫌いですわ。うちの脚本家の脚本ではなく伝統的な筋立てですからこうして大っぴらに文句を言えますけど。いちいち罪がどうだの神がどうだの鬱陶しい」
「ああそれは確かに」
 横で話を聞いていたフェルザードも頷いた。
「誰が誰を愛してるだのでも嫌われてるんじゃないかだの、そんなにうじうじ悩むくらいなら直球で行け、恋人を盗られそうなら決闘でもしろ、て感じです」
「だいたい娘の方も一度王子に心惹かれたんならさっさとどっちの男にするか割り切れよって感じですわよね」
 世界一芸術を介さない武力国家の王子と、世界で一番有名な歌劇団の女優であるはずの女は視線を交わし合った。
 夕方の河原で殴り合ったかのような笑みを浮かべて固く握手を交わす。
「ですよね!」
「もちろんですわ!」
 この二人に余韻という言葉はないようだ。主役を務めた女優のサインをもらおうと近くに寄って来ていたファンたちの夢を幻想だとがらがら崩していく。
「そういうわけですので陛下、今度呼ぶのなら次はぜひもっと明るい劇をご注文下さいませ。とっておきの喜劇をお見せしますわよ」
「……喜劇もやるのか、お前が?」
「ええ。悲劇よりはよほど上手に。大抵毒婦とか女首領とか悪役なんですけどね」
 そう言うとディアドラは皇帝の頬に軽くキスを贈り、準備が終わったと呼びに来た劇団の者たちと共に劇場を去っていった。
「まぁキスマーク」
「陛下、ほっぺに口紅がついてます」
 やってきたローラとルルティスが指摘するので、ロゼウスは頬をこすった。肌が白いでの酷く目立っているのだが、もちろんこすっただけで落ちるわけもなく真っ赤な線を伸ばしたにすぎなかった。
「ディアドラ様は随分女っぽくおなりでしたね」
 皇帝のキスマークには言及せず、リチャードは去っていったディアドラの乗る馬車を見送りながら呟く。
「そうだな。二十年前は美しいが山猿のような子どもだったのに」
「山猿?」
 ルルティスが小首を傾げた。
「随分柄悪かったですよね」
「私をエヴェルシードのフェルザードと知ったら『ちっ、なんだあのホモ王子かよ』って吐き捨てられました」
「何をするにしてもいちいち『ああっ?!』みたいなこう、ガラの悪いおっさんみたいな反応するんですよね」
 ディアドラに対する男たちの幻想がますますがらがらと崩れていく。
「でもあの不良娘が今は歌劇団の名女優か。月日が経つのは早いな」
「昔も可愛らしい少女でしたが、今は本当に美しい女性に……」
「お前の好みじゃなくなって残念だなリチャード」
「ええ本当に」
 幼女と少年をこよなく愛し成人女性に興味皆無のリチャードが深く頷いた。会話からその嗜好を悟ってしまった勘のよい幾人かが「えっ?」という顔をする。
「何はともあれ、これで皆の心も落ち着いただろう」
 ロゼウスが強制的に会話をまとめに入る。
 皇帝の性急な結論に幾人かは何か口を挟みたそうにしたが、結局誰も異論は唱えられなかった。
「明日明後日の会議を楽しみに待つことにしよう」