Pinky Promise 002

第1章 月夜の時盗人

1.白兎との邂逅 002

 「ねぇ、出ておいでよ。迷子の迷子の仔猫ちゃん? それとも、白兎を追いかけてきたアリスちゃんと言うべきかな?」

 ――兎。その人物を真正面から見た時、アリストは咄嗟にそう連想した。
 遠い嶺に降り積もった雪のような白銀の髪に、血のような紅い瞳がそう思わせるのだろう。
 少年の顔は整っている。大きな瞳に艶っぽい唇。小作りだがすっと通った鼻筋に、柳のような眉。――これまでに見たこともないような美形だ。
 だが――何かが足りない。蝋のように白い肌。あまりに美しすぎた造作はおよそ人間らしさに欠けて、この世の生き物ではないようだ。
 服装も一風変わっていた。昔から一部の個性的な層に支持され続けるゴシックロリータ系のファッションだ。扁平な胸や体つきでかろうじて男とわかるが、身に纏う雰囲気も含めて全体的にどこか少女めいている。まるでコミックの中からそのまま抜け出してきたキャラクターのよう。
 存在がバレているのなら隠れる意味はない。アリストは過去最高の緊張を覚えながら、少年の前に姿を現した。
「……さっきの人は?」
 震えそうになる声を必死で絞り出し、目の前で消えてしまった男について尋ねる。
 兎のような少年は禍々しく笑った。
「なんのこと?」
「とぼけんな! さっき、そこにいただろう、スーツを着てアタッシュケースをあんたに渡したおっさんが!」
 中身を失って地面に落ちた衣服を見遣る。今はもう影も形もないが、確かにそこには人一人存在していたのだ。それをどうやって消したのか。あれは一体何だったのか。
 まさか深夜の公園で脱出マジックの練習もないだろう。だからあれは、あれは――。
「あらら、一部始終を見られていたわけか。――あの男はもういないよ。この世に、ね」
 あれは、殺人だ。
「ま、さか……本当、に……」
 流血もなければ窒息や病の苦しみもない。凶器もなければ隠滅するべき証拠もない。そして死体すら残らなかった。今ここで見たことを警察に通報しても、到底信じてはもらえないだろう。
 悪い夢だ。でも現実だ。
「忘れて。……って言っても無理かな。うーん。その年頃じゃ、寝ぼけて夢を見たってことにするのも無理かぁ」
 少年が一歩を踏み出した。咄嗟に後退しかかる足をアリストはなんとか抑え込む。
 今すぐ背を向けて逃げ出したい。得体の知れない存在に対する恐怖が背筋を駆け上がる。
 目の前の兎は、果たして悪魔か何かか。非常識の連続に麻痺しそうな精神を支えるのは皮肉にも、現実的な「口封じ」という言葉だった。
「可哀想だけど、これを見られて生かしておくわけにはいかないね」
 ベンチの上にアタッシュケースを置いて、兎がアリストへ近寄ってくる。悪党のお決まりの台詞は、いざ自分に向かうとなると酷く恐ろしい。
 見たところ手ぶらだが懐に刃物か何か隠しているのか。それで襲ってくるのだったら――アリストが咄嗟に巡らせた計算は、何の意味もなさなかった。
 兎はすっと手を上げる。ただそれだけ。それだけの動作で、路地裏で見たのと同じ白い手の上に円状の光が生まれた。

「君の“時間”をもらうよ」

 魔法。ハッと頭に浮かんだ言葉はそれだった。
 アリストは咄嗟に、いつか授業で習った魔導の防壁を張る。
 それでも術の全ては防げない。頭がぐらぐらとし、膝が崩れて立っていられない。
 遠ざかる意識が最後に見たものは、光でできた時計のようなものだった。
 円の中に十二の数字が描かれ、長針と短針を備えた時計。けれどその時計は不思議なことに、普通の時計とは違って逆回りに針を動かし時を刻むのだ。
 前へ未来へと進むはずの時を過去へと無理矢理戻すかのように――。
「さようなら、“アリス”」
 完全に闇に落ちた意識の中、自分の名ではない名で呼ばれた。

 ◆◆◆◆◆

 “白兎”はくるりと踵を返す。ベンチからアタッシュケースを拾い上げると、後ろを振り返らずに公園を出ていった。
 手の中には何着もの男物の衣服。回収しなかったのは最後の不運な「目撃者」の少年のものくらいだ。
 思いがけない邪魔が入ったが、今日の仕事も無事に終わり、結果的には足りない分の「時間」も回収できて、首尾は上々だ。
 仲間たちと共に暮らすホテルの部屋へと戻る。次の仕事が入ったため、そろそろここも引き払わねばならない。
 今回の仕事完了にはまだ数日の余裕がある。しかしここで果たすべき役目は全て果たし、時間泥棒のノルマも達成したため後はゆっくりできるだろう。
「おかえり、アルブス」
「おかえりなさいませ」
 金髪の小姓とメイドが出迎える向こう、応接用の空間で藍色の髪の少年の姿を見つけて白兎は微笑んだ。
「ただいま」
「おかえり」
 ソファの背から彼の首を抱くように腕を回す。
 相手の体からは柔らかなソープの香りが漂ってきた。いつも通り染みついた血の臭いを洗い流すために風呂に入ったのだろう。
 藍色の髪の少年――“赤騎士”は教団の粛清部門に所属する。
「遅かったな。何かあったのか?」
「ん。ちょっとね」
 教団が開発した禁呪の試行を兼ねた、用済みの取引相手の始末。今日の白兎の仕事はそれだけだ。手こずるような相手でもないだろうと訝りながら、赤騎士は自分の背後から首を抱く白兎を見上げる。
「最後の最後で邪魔が入ってね。関係のない子どもを一人まきこんじゃった」
「口封じか」
「説得できる相手でもなさそうだったし、残り時間も丁度良かったからね」
 白兎の手からするりと小さな懐中時計が滑り、赤騎士の手の中に落ちる。
「おかげで、随分貯まっただろう? あと一、二年だったらその辺の小動物からでも――」
「足りないぞ」
「へ?」
 流れるような会話に赤騎士は水を差した。
 白兎だけではない。その言葉にパットもビルもメアリアンも、室内の者たちが一斉に彼らに注目する。
「足りないぞ。一、二年どころではない。五年以上だ。お前、最後に誰を狙ったんだ?」
「誰って……」
 赤騎士の手から時計を奪い返し、白兎は自分でも改めてそのメモリを確認した。
 ――確かに、足りない。
「まさかあの子十歳……いや、そんな馬鹿な」
「失敗したんじゃないか?」
 ずれた計算の意味をなんとか納得の行く理由で弾きだそうとした白兎に、赤騎士は無情に告げる。
「いやそんなまさか。大体防げるわけ」
「でも失敗したんじゃないか?」
「あんな子どもが禁呪に対抗できるなんて」
「だが失敗したんじゃないか?」
 赤騎士は意見を変える気はないようだ。
「冷静に考えてみろ。お前の言からすると、口封じ対象の目撃者とやらは、十五、六かそこらだったのだろう? 普通十歳と十五歳を間違えるか? お前はそいつから何年かの“時間”を奪い損ねたんだ、ロゼウス」
「今はアルブスだってば、シェリダン」
「だったら私は赤騎士ルーベル=リッターだ。アルブス=ハーゼ」
 だんだんとずれていきそうな話を修正するため、白兎ことアルブス=ハーゼはよくよく先程の光景を思い返す。
 取引相手を教団が新開発したという禁呪で始末するところを金髪の少年に目撃され、口封じのため少年にも同じ術をかけた。だが。
「えーと……確かに術をかけたところまではいいんだけど……かけただけで安心して、最後まで確認はしなかった……ような」
 アルブスが使った禁呪は、対象の「時間」を奪うというもの。かけられた者の肉体は過去へと逆行し、そのエネルギーが「時間」として抽出され搾取される。
 原理に関しては、もっと魔導学に詳しい者でないとわからない。アルブスはあくまでもこの術のやり方だけを教えられ、人々の「時間」を奪うよう指示された。
 禁呪をかけられた者は己の生きてきた時間の全てを奪い尽くされて生まれる前まで若返り、存在そのものがこの世から消える――はずだった。
「迂闊だな」
 赤騎士ことルーベルの眼差しがうろんげなものになる。
「やはり、失敗したのだろう」
「あちゃー……」
 生まれる前に戻る。とはいえ歴史が改変されるわけではない。禁呪をかけられて若返りすぎた存在はただ跡形も残さず消えるのみだ。
 一度発動した禁呪は対象の持つ時間を奪い尽くすはず。それが途中で防がれた場合にどうなるかはアルブスにもわからない。
 知っているとしたら、禁呪の開発者くらいのものだろう。
「“チェシャ猫”は逃げたそうだ」
「え?」
「教団を裏切ったんだと」
 ルーベルが告げたのは、アルブスにとっても意外な言葉だった。
 人々からその時間を奪う禁呪。開発者は教団内で“チェシャ猫”と呼ばれる人物だ。
 そのチェシャ猫が、教団を裏切って逃げた……?
「奴は自分の開発した禁呪が殺害手段となることに不満そうだった。怖気づいたのか何なのか、とにかく逃げ出した」
「どうしてお前がそれを」
「始末を私が任された。馬鹿が失敗したらしいからな。だがそのおかげで面白いことがわかったぞ」
 ルーベルはにやりと口の端を吊り上げる。
「なんでも教団はチェシャ猫を始末するついでに時間を奪おうとして禁呪を使ったらしい。 だが開発者にはその魂胆が見えていたようだな。チェシャ猫は魔導防壁によっていくらか相殺した」
「今回の俺と同じような状況ってわけか!」
 一度発動した禁呪は相手の持つ時を奪い尽くす。――奪い尽くせなかった場合は、どうなる?
「今の奴は何やら愉快なことになっているらしいな。ついでだ、お前が殺しそこねたその子ども、チェシャ猫共々、私が始末しておいてやろう」

 ◆◆◆◆◆

 頬を打つ雨粒の感触で、アリストは目を覚ました。
「う……」
 全身に走る痛みに思わず呻きながら、その自分の声がより一層意識を覚醒に促していく。
「俺……どうして……」
 気のせいだろうか。自分の声が変だ。
 いつから倒れていたのかもわからない。雨に打たれて風邪でも引いたのか、耳に届く音が違う。
 身体が重い。濡れた服が貼りついて。
 ――でも、それだけではない。
 立ち上がろうとしてバランスを崩し、再び地面に倒れ込んだ。
 四肢に余る服の布地。
 おかしい。何もかもがおかしい。
 どうしてジャケットの袖が、スラックスの裾がこんなに余るんだ。
 どうして耳に届く自分の声が不自然に甲高いんだ。
 深夜の公園には誰もいない。春先の雨はまだ冷たく、針のように肌を穿つ。
 街灯の明かりだけが、鬼火のようにぼうっと灯る。
 光に惹かれる羽虫のように街灯を見上げ、その下に雨によって水溜りができているのに気付いた。
 重い体と衣服の裾を引きずって必死でそこまで這っていく。そこに辿り着けばまるで何かが終わるかのように。
 けれどアリストは薄々感じていたのだ。これ以上ない嫌な予感と言うものを。
 そこは終わりではなく、悪い夢の始まりでしかないということを。
「嘘……だろ……?」
 水溜りを覗き込む。古来より水鏡と呼ばれた水面は、夜闇の中で頼りない明かりを受けながらも、真実を映し出した。

 ――そして、アリストは悪夢に捕まる。
 水に映った自分の姿は、どう見ても十歳にも満たない、幼い子どもにしか見えなかった。

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