Pinky Promise 003

第1章 月夜の時盗人

1.白兎との邂逅 003

 ――午後十一時過ぎだ。
 そんな時間にも関わらずインターフォンが鳴ったことに、部屋の住人ヴァイス=ルイツァーリは驚いた。彼にはこんな時間に余程の事情もなしに不躾に訪ねて来るような友人はいない。
 いや、一人いると言えばいるのかもしれないが、あの少年は確か現在帝都を出ていた。帰ってくるのは二、三日後だと記憶している。
 ならばこの訪問者は前者の条件――余程の事情持ちなのか。
 例え相手が不審者だったとしても片手で撃退できるだろう男は、警戒心の欠片もなくドアを開ける。
 そこにいたのは、蒼白な顔も美しき隣人だった。
「ダダダダイナ?! こんな時間に一体どうして?!」
「遅くにごめんなさい、ルイツァーリ先生、あの――」
 想い人の思いがけぬ訪問に俄かに浮き足立ったヴァイスは、吃りながらもあからさまな喜色を浮かべた。
「こちらに、アリストがお邪魔していませんか?!」
「は?」
 しかし予想もしていなかった言葉に、瞬時に目が点になる。
 アリスト? アリストだと? 自分とダイナの仲を邪魔して邪魔して邪魔することに命をかけているあのクソガキが、よりによって犬猿の仲である自分のところに?
「いないんですね……」
 ヴァイスの驚き具合から答を察したダイナは、彼が口を開く前に肩を落とす。
「ああ、約束などがあったわけでもないし……何があったんだ?」
 どうかしたのか、などとは聞かない。何もなかったらダイナがこんな時間にこんな状態でヴァイスを訪ねて来るはずがない以上、アリストの身に何か起きたのは確実だ。
「帰って、来ないんです。今日の夕方サーカスを見に行った帰りに、あの子だけ知り合いを見かけたと言ってそこで別れたんです。でもその後、何も連絡がなくて」
 この時間になっても帰って来ないので、心配してマンションの隣室を訪ねたのだという。ヴァイスとダイナはただの隣人ではなく、アリストが通うジグラード学院の講師と教師という同僚でもあるのだ。
 今にも泣きだしそうに瞳を潤ませた弟想いの想い人に、ヴァイスはまぁまぁと強いて明るい声をかけた。
「あいつももう高等部二年の男子だ。そうそう面倒なことに巻き込まれたりはしないだろう」
「でも、あの子がこんな時間まで帰って来ないなんてこれまでなかったことなんです。それに、マルティウス君やターイル君たちに電話もしてみたんですけど」
「一緒じゃなかったんだな? マギラスあたりは? 女友達が一人で歩いているところに夜道で出くわしたなら、アリストの性格上送っていくはずだ?」
 いきなりヴァイスに相談するとも思えなかったが、やはりダイナは先にアリストの友人たちに電話で確認をしていたらしい。講師という職業柄、アリストの友人は彼女と自分の生徒でもある。アリストと特に仲が良い生徒の名を幾つか挙げてみる。
「マギラスさんやシュラーフェンさん、セルフさんやアヴァール君にも連絡してみたんですけれど、やっぱり知らないと……。私、もうどうしたらいいか」
「落ち着くんだ、ダイナ。あのアリストだ。案外マルティウスやターイル辺り、あるいは学院外の友人と一緒に馬鹿をやろうと誘われて怒り、説教をかましている最中かもしれん」
「でも……」
「女性の君には馴染みがないかもしれんが、あの年頃の男なんぞやんちゃ盛りでろくでもないことをしてばかりだ。大人に隠れて飲酒や喫煙をしたりな。そう言う場合一緒にいるとは間違っても口にしやしない」
「そう……そうですね」
 ヴァイスの言に頷きはするものの、ダイナは彼の言い分を信じている訳ではない様子だ。なまじ名を挙げたアリストの友人たちをよく知るからこそ、彼らもそんなタイプではないだろうと言いたげに眉根を寄せている。
「アリストはそういう悪ふざけに乗るタイプじゃないが、友人までそうとは限らない。連絡を忘れただけで、単にカラオケでオールのつもりかも」
「あのアリストに限って、そんなことをするかしら……」
「高等部生なんぞそんなもんだ」
 さもそれが正解のように、ヴァイスは強く言い切った。
「まぁ、どうしても心配と言うのなら、私が探しに出かけるか?」
「え?」
 驚くダイナに構わず畳みかける。
「こんな時間にか弱い女性を出歩かせるわけには行かないだろう」
「そんな……悪いです。私たち姉弟のことにそこまで巻き込んでしまうなんて……」
「何を言う! 私と君の仲だろう!」
 ここぞとばかりにヴァイスが彼女の手をぎゅっと手を握って訴えれば、ダイナは少し顔色を戻して微笑みかけてきた。
 これは! ついに自分の好意に彼女も気が付いてくれたのか! とヴァイスが盛り上がったところで――。
「ルイツァーリ先生がアリストのことをそこまで考えてくださって嬉しいわ。学校だけでなく、隣人としてもこんなに深くお付き合いできるなんて」
「あ、はい、ええ……」
 さらっと隣人の厚意として流された。せっかくいつもは邪魔者のアリストがいないというのに……。
「ま、まぁ。元々サーカスのチケットを渡したのは私だしな」
「あ、すみません。私そんなつもりじゃ」
「わかっている。だがそこまできちんとしてこその贈り物だ」
 あとは引き留めよう、あるいは自分も一緒について行こう、との気配を見せるダイナをなんとか宥め、ヴァイスは手早く支度を整えると夜の街に繰り出した。
 家で帰りを待っているようにと言い渡されたダイナは、彼の後姿を見送りながら小さく微笑む。
「ルイツァーリ先生はやはり誠実な方だわ。アリストとの関係も、『喧嘩するほど仲が良い』というのは本当だったのね」
 当人たちが聞いたら目を剥きそうな言葉を口にして、ダイナは再び弟と隣人の帰りを待つために部屋へと戻った。

 ◆◆◆◆◆

 何かあったな。
 それが、アリストの不在に関してヴァイスが考えたことだった。
 ダイナにはああ言ったが、ヴァイス自身その理由で自分を納得させることはできなかった。姉であるダイナが心配したように、アリストの性格を考えるとそんな行動をとるはずがない。
 学院内でも顔や成績のことよりシスコンとして有名なあのアリストが、誰よりも大事な姉であるダイナに連絡一つ入れず心配させるなど、天と地がひっくり返ってもありえないことだ。明日大陸が沈むかもしれない。
 何らかの事情で帰りが遅くなるとしても、普段自分が帰宅する頃には連絡を入れて姉を安心させるだろう。そもそも、夜遅くまで遊びまわるようなタイプでもない。
 アリストの友人ならアリスト本人よりは弾けているが、それでも皆、不良という言葉とは縁遠かった。友人たちも成績優秀者や真面目な者が多いので、青春の過ちなどという言葉で簡単に悪ぶったことをしたがる連中ではないのだ。
 しかし、そう考えるとますますこの事態が只事とは思えなくなってくる。
「さて、まずは現場百遍かな。人探しとは面倒なことだ。こういう時こそヴェルムがいればなぁ」
 “帝都の切り札”と呼ばれ名探偵と名高い友人の名を呟き、ヴァイスはコートの襟をかき合わせた。
 夜の空は暗い。けれど真っ暗というわけでもなく、雲間から月明かりが零れ落ちてきている。
 しばらく前に降った雨はもう止んでいた。帝都の四月の夜は少し肌寒い。こんな寒空の中を意味もなく歩き回るなんて、正気の人間にはオススメできない行為だ。
 ダイナによると、アリストは彼女と別れる前、誰もいない路地裏を凝視していたということである。恐らく彼はそこで何かを目撃してしまったのだろう。
 あのアリストが姉に心配をかけるほどの行方不明。これはもはや事件にでも巻き込まれているとしかヴァイスには思えない。
 とはいえ、そこまで深刻になるつもりもヴァイスにはなかった。
「どうせ、あのクソガキのことだ。殺されて素直に死ぬような可愛気などあるはずもないしな」
 ダイナに好意を抱き彼女のマンションの隣室にわざわざ引っ越したヴァイスのことを、アリストはストーカー呼ばわりして忌み嫌っている。
 彼女はアリストに何かあった場合頼るならヴァイスのところだと思っていたようだが、ヴァイス自身はそれはないと考えている。むしろ天敵同士、他の誰に頼ってもこの相手だけには頼ってたまるものか! と考えているだろう。
 それもそのはずで、そもそもアリストが自力で解決できない程の問題というのがあまり思い浮かばない。ジグラード学院高等部の上位成績に名を連ねるような輩は、もはやその辺の大人など目ではない。
 ヴァイスにとっては憎たらしいことこの上ない子どもだが、その分甘さの欠片もない目でその実力を判断しているつもりだ。
 端的に言えば、アリストならば例えナイフを持った殺人犯に後ろから斬りかかられても返り討ちにできる程度の力はある。間違ってもヘマをして死んだりはしていないだろう。
 だからこそ、その彼が抜け出せない窮地にいるのなら、余程の厄介事なのだろうとも推察できてしまうのだが。
「……ま、仕方がない。せいぜい助けて恩でも売るとするか」
 愛しのダイナのために、と。自分の生徒を救おうという教職らしい心の欠片も見せず、あくまで打算だけでヴァイスは歩き出す。まずは機動力を確保するため、駐車場に向かって。

 ◆◆◆◆◆

 街灯の明かりだけが寂しく灯る公園を抜け出し、アリストは夜の街を歩きだした。
 雨は止んでいたが、濡れた服が冷たく重い。風邪を引きそうだな、と現実逃避気味に考えた。
 袖も裾もぐるぐると随分まくりあげて、それでもサイズが合っていないことを隠しきることは不可能だ。
 この不恰好では人目につかない方が良いのだろうが、それでも暖を求めて人通りの多い道へとやってきてしまう。
 アリストは虚しい思いで、携帯電話を握りしめていた。
 姉に連絡を入れたくとも入れられない。こんな姿ではどうしたらいいのかもわからない。
 閉店後のショーウィンドウが鏡のように、残酷な現実を映し出す。どう見ても小等部低学年にしか見えない子どもへと変わってしまったこの体。
 電話をかけることは不可能だ。声変わり前の子どもの声では、まず自分を自分だと理解してもらえない。
 メールだけ送ることも考えたが、色々考えた結果、やめてしまった。
「……もしも、このまま二度と、元の姿に戻れないとしたら」
 そんな状態で姉のもとへ帰ることはできない。ダイナに心配をかけるなど論外だ。
 何を差し置いても、それだけははっきりしていた。
 今この瞬間も恐らく心配をかけているのだろうけれど、それでもこの状況をダイナに知られるよりはマシだろうとアリストは考える。
 今の自分の状況はまるで悪い夢、お伽噺の中の出来事、非現実的なファンタジーにしか思えないが、この無力な子どもの肉体が感じる辛さは本物だ。
 そして思い返せば戦慄が走る、あの路地裏や公園での出来事も現実なのだ。全てを夢オチ認定するには、あのやりとりは妙なところで投げ捨てられないリアリティがあった。
 証拠を隠滅するように洋服を回収した兎。アタッシュケース。目撃者の口封じ。
 今のアリストはとてもマズイ状況に陥っている。
 あの兎は“ハートの女王”などと意味ありげに口にしていたし、用済みと言う言葉も聞こえた。アタッシュケースなどまだ高等部生のアリストとは縁遠いが、ドラマではよく見る。……あの中に入っていたのは、金だ。一般人が日常で目にすることはないような金額。
 つまり、あの兎とスーツの男は、何らかの非合法な取引をしていた。それは恐らく、組織的なもの。
 そして何より、あの兎は、スーツの男を殺した。
「確か……時間がどうとか」
 スーツの男が若返りこの世から消えてしまった光景と、アリストが推定十歳程若返り子どもになってしまったこの状況は、同じ魔導による結果?
 ――君の“時間”をもらうよ。
 兎はそう言った。逆回りに時を刻む時計の幻影が目の前を過ぎる。
 ――眩暈がする。
 今のアリストの状態はどう考えても普通ではない。人間が若返り子どもになってしまうなんて、ありえない。
 なまじ現実主義のアリストは、自分が見たものを正直に警察に訴えて信じてもらえる自信がなかった。
 見てはならないものを見て口封じされるところだった自分が傍にいれば、ダイナのことも巻き込んでしまう。警察に被害を訴えられない状況でそれは致命的だ。
 では、どうするか。
「……駄目元でヴァイスのところに行くしかねえ」
 アリストが兎の魔導を僅かでも防げたのは、学院で魔導に関する講義を受けていたからだ。その担当講師が隣人でもあるヴァイス=ルイツァーリ。
 ヴァイスはこの時代に珍しい魔導師だ。今はほとんどお伽噺かフィクションの中にしか存在しない“魔法”という技術を使いこなしている。
 アリストが自分の身に起きたことを正確に理解するためには、魔導の第一人者と呼ばれるヴァイスの協力がどうしても必要だった。
 それに例え危険に巻き込んだところで、あの男ならどうなろうと知ったことではないし。
 疲れて重い冷え切った足をずるずると半ば引きずるようにして進める。
「あんまりはしゃがないのよ、カナ」
「もうすぐおうちに着くよ」
「ねぇ、あの子、どうしたのかな?」
「あら……」
 通りを歩いていると、どこかに出かけた帰りらしき親子連れが大人用の服を無理に着込みずぶ濡れで歩いているアリストへと目を留めた。
「ねぇ、君、大丈夫?」
「あ、あの! これは、その、ふざけてたら川に落ちちゃって、今家族が、着替え持って迎えに来てくれるところなんです!」
 ここで警察などに保護されるのはまずい。アリストは親切な親子連れに、必死で言い繕った。
「でも、親御さんに連絡とか」
「ケータイがあるから、大丈夫です!」
「そう?」
 人の好さそうな夫婦と、今のアリストと同じぐらいの外見の少女。
 こんな時間にこんな格好で歩いている子どもは確かに不審この上ない。それでもアリストはなんとか言い訳し、親子連れの親切を振り払った。
 迎えが来るならそれまで一緒にいようと誘われるのを断って、再び人気のない路地裏へ入り込む。
「……迎えなんか、来るわけねーじゃん」
 自分でついた嘘に胸を抉られる。両親からあと五分で行くとメールがあったなんて、真っ赤な嘘。
 例え元の姿だったとしても、アリストに両親はいない。五年も前に亡くなった。アリストの家族は姉であるダイナだけだ。
 だからこそ、こんな姿では彼女のもとに帰れない。自分がいなければ彼女が独りになってしまう。けれど自分の存在がダイナの負担になるくらいなら――このまま消えてしまう方がいい。
「クソッ!」
 公園で気絶していた間に終電は終わってしまった。ここから自宅――の隣のヴァイスの家までは、歩けない距離でこそないが、子どもの足では辛い。この冷え切った体で、無事に辿り着けるかどうかはわからなかった。
「こんなの全部……悪い夢だ」
「そうだな」
「!!」
 独り言のつもりで呟いた言葉に返事をされて、アリストは驚愕した。
 先程の親子連れからも離れてこの場所はまったく人気がないはずなのに、いつの間にか一人の男が現れている。
 男――否、それほど齢はいっていない。あれはまだ少年だ。
 元の自分と同じくらい、そして数時間前に見たあの兎と同じくらいの年齢だろう。
 格好もどこかコスプレじみた赤い軍服だというところが、先に出会った奇抜な格好の兎少年に印象が重なって嫌になる。
「……今日は厄日か?」
「何せお前の命日だから」
 引きつる喉を動かして尋ねれば、殺気もないのに明確な殺意を示す言葉が返された。
「お前に恨みはないんだが、死んでもらうぞ」

 今日は間違いなく、人生最大の厄日だ。