第1章 月夜の時盗人
2.チェシャ猫の道標 009
学院の廊下を四人の男女が歩いている。皆、ここの制服を着た高等部の学生だ。
「しかし、マギラスさ」
「あのちびっ子にやけに絡んでたよな~」
フートとレントの二人が、後ろを歩くギネカを振り返りながら尋ねる。その口元にはにやにやと、先程の光景を思い返して面白がる空気があった。
「……なによ。別に絡んでなんかいないわよ」
「まぁ、あの坊やはアリストにそっくりだったからなー。シスコンに振り向いてもらえないからって、十年後の美少年に期待をかけたわけ?」
「どういう意味よ!」
しししと笑うフートの額に、ギネカが半ば本気の掌底を撃ちこむ。避けこそねたフートは小さく悲鳴を上げた。
「あれ? でもあの子、女の子じゃないんですか?」
痛がるフートの額を撫でてやりながら、彼の幼馴染であるムースは首を傾げた。彼女の感覚では、いくら可愛くても男の子にうさ耳パーカーはありえないと思う。
「俺もそれは気になった。結局ヴァイス先生も答えてくれなかったな」
「男だろ? 格好は女の子っぽかったけど」
それでなくとも小さな子どもは男の子でも女の子のように愛らしい子がいるのだ。アリストに似ていると思わなければ、そのまま女の子だと思っていたかもしれない。
しばし謎の子どもの性別トークで盛り上がり、ついにあれは僕っ子だのいや男の娘だの言いだした男共を放置して、ギネカは先程ヴァイスたちと別れてきた廊下を振り返った。
「結局……アリストは今どこにいるのかしら?」
そして、先程のあの子ども。
アリスト=レーヌにあまりにも酷似したその外見はやはり気にかかる……。
「私、今日はもう帰るね」
「ギネカ? なんか用事か~?」
「ええ。幼馴染と約束していたのを忘れてた」
フートとムースが幼馴染関係であるように、ギネカにも幼馴染がいる。ただしギネカの幼馴染はジグラード学院の生徒ではなく、別の高校に通っている。
そういう事情があるので、何か別行動の必要がある時は幼馴染の話題を出せば大概はそれで済む。
適当な口実を口にして、ギネカは他三人から離れることにした。
◆◆◆◆◆
「で、この後はどうするんだ?」
「とりあえず街に出るか? いつ戻れるともわからんし、もう少し着替えやら必要物資を買い足しておこう」
「それと、さっきみたいに名前を聞かれたら困るから、偽名とか考えなきゃいけないだろうな」
「そうだな」
学院の門を出たアリストはうさ耳フードをかぶり直す。学院付近ではまたいつ知り合いに出くわさないとも限らないので、できるだけ顔を出さない方がいいだろう。
帝都にはいくらでも店があるが、できるだけ普段は使わない場所を選んで、ヴァイスはさくさく買い物を済ませた。
「済ませておかねばならない用事がある。少し待っていろ」
「わかった」
もともと本日のヴァイスのスケジュール帳に、若返って子どもになってしまったアリストに付き合うことは書いてないはずだ。手続きがどうこうと呟きながら大通りに向かうその背を見送って、アリストは一人、通りがかった公園のベンチに荷物と一緒に座った。
良い天気だった。空は抜けるように青く、どこからか桜の花びらが飛んでくる。
長閑な春の陽気の中、一人でぼぅっとしていると、まるで今のこの状況が夢のように思えてきた。
実際、今の状況は悪い夢としか思えないものだ。いくら現代では絶滅危惧種の魔術師だって、まさか大人を子どもに若返らせる力があるはずがない。
朝起きて目が覚めたら自分のベッドの中にいるのならどんなに良いか。けれど、人が消える現場を目撃したのも、妙な禁呪をかけられたのも、命を狙われたのも、全部全部現実のことだった。
どうすればこの状況を脱し、元の自分を、奪われた時間を取り戻すことができるのか――。
「……ッ!」
背筋に寒気が走った。
公園中の空気がざわりと蠢き、樹々の枝に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
肌の表面が透明な殺気を受けてぴりぴりと痛む。
「おや、今日はなんだか可愛い格好をしているではないか」
人気がなかったはずの公園に入り、友人のように気安く話しかけてきたのは、とても友好的な関係が築けるとは思えない相手だった。
「赤騎士……!」
今日も今日とてコスプレじみた赤い騎士服のルーベル=リッターが、アリストに微笑む。
彼の目的を考えればこそ、その穏やかな態度が恐ろしくて仕方ない。何を片手をあげて挨拶じみた振る舞いをしているのか。
アリストはベンチから立ち上がり飛び退る。
赤騎士の実力は前回の攻防で知りすぎるくらいに知った。ヴァイスはまだ戻ってくる気配はない。
「どうして、ここが……?」
この広い帝都で、まだ春休みの午前中だ。子どもなどいくらでも街を歩いている。
アリストはもともとフードで顔を隠していたのだし、簡単に見つけられるとも思えないのだが。
戦闘になれば勝ち目のないアリストは、せめてヴァイスが来るまで時を稼ごうと、そんなことを尋ねた。
「ああ、これだ。これ。前回は白騎士の術に見事にやられたからな」
赤騎士が手にしたカードのようなものを一振りすると、その場に透明な犬が現れた。
前回ヴァイスが魔術で生み出したものとはだいぶ大きさが違うが、犬には変わりない。見た目は子犬でも、嗅覚は本物なのだろう。
そう、ヴァイスがやったように、赤騎士もまた魔術の獣にアリストのにおいを辿らせたのだ。
「私自身は魔術を使えないからな。だが教団にはそれこそいくらでも禁術に手を染めた魔導師がいる。あの白騎士にしては迂闊だったな」
相変わらず赤騎士はアリストに対し、教団関係の情報を隠す気がまるでない。
彼にとってアリストはこれから死ぬ者なので、何を教えてもかまわないと思っているのだ。
先程は人がいなくて静かで良いと思った公園も、今となっては困った。せめて誰か通りかかりでもすれば、赤騎士も機を改めるかもしれないのに。
「あんたたちは一体何を考えているんだ。今の俺を殺したところで、どうなるとも思えないのに」
もしもアリストが、十七歳の少年のままだったら。
話がスムーズに通ることはないかもしれないが、警察も多少は相手にしてくれるだろう。
だが今のこの姿では、どんな大人もまともに相手をしてくれるはずがない。
子どもが空想じみたことを口にしたら、夢でも見たのだと考えるのが普通だ。非現実的な犯罪の目撃証言に関し、元の姿より更に説得力は薄れる。
学院で友人たちに会っても、彼らはこの姿をアリストによく似ているとは思っても、何らかの事情で若返ったアリスト本人だとは思わなかった。
きっと、姉でさえも、今のアリストを見てもわからないだろう。
当たり前だ。そんなことありえるはずがないのだから。この外見でアリストが何を言おうと、誰も信じてはくれない。
ただ――。
「それでも、お前の傍には白騎士がいる」
この子どもがアリスト=レーヌ本人などという夢物語を真実だと判断したのはヴァイスだけだ。
「危険な芽は摘んでおくに限るということだ。恨むなら白騎士を恨め。いや……」
そこまで口にした赤騎士が、ふと何か考え込むように視線を落とした。
「白騎士が傍にいるからお前が“アリス”となる可能性を秘めているのか、それともお前が“アリス”となるからこそ、白騎士と縁があったのか――」
「“アリス”?」
ここ一日で何度も繰り返し聞かされた名に思わずアリストは反応する。
アリストの名前はアリストだ。アリスではない。女性の人名である「Alice」から来ているのではなく、元は「最上の」という意味の単語「Aristo」から来ている。
だが、アリスと言う名を主に口にしていたのは白兎や赤騎士など敵側だ。彼らがアリストの名をはじめから知っていたはずもなければ、聞いたところで気に留めるようにも見えない。だとすれば彼らが口にする“アリス”とは?
知人にその名を持つ人間でもいない限り、単純にアリスと言えば古典文学作品『不思議の国のアリス』の主人公の少女を指す。
睡蓮教団もそうでない人間も、一定の事情を知る人間は自らを『不思議の国のアリス』の登場人物になぞらえたコードネームを名乗るのだという。
だが、ヴァイスやゲルトナーに聞いたこれまでの話の中で、アリスという名を持つ人間は出て来なかった。
否、恐らく今はその名を持つ人間自体がいないのだろう。
「お前は“アリス”になるのか?」
「……なんだよ、アリスって」
白兎と赤騎士の行動は、まるで“アリス”という存在を探しているかのようだった。彼らは“アリス”という名にどんな意味を込めているのか?
「……まぁいい。ここでお前を殺せば全て終わる話だ。死は永遠の断絶。我が刃は、“白の王国”が夢見るアリスの夢さえ見れない程、全てを断ち切るのみ」
赤騎士の言葉は同じ単語が何度も繰り返されてややこしい。大体この男の喋り方は、見た目の少年らしさに比べてどことなく古臭いのだ。
また、聞いたことのない言葉が出てきた。
“白の王国”。白というキーワードが気になる。白騎士、白兎と、昨日から白のつくワードを聞きっぱなしだ。
「おしゃべりはここまでだ。神に祈る時間は必要か?」
狂信的宗教団体の一員らしい言葉に、アリストは苦虫を噛み潰した。赤騎士はぶっとんだ性格だが、カルト信者のような狂気や妄信じみた言動は見られないと思っていた。妄信で行動するには不自然な程に、彼の瞳は理性的だ。
けれどやはり彼も、アリストをこんな姿にした教団の人間なのだ。彼らの神のためなら、誰を犠牲にしても良いと思っている……?
赤騎士が取り出した剣の切っ先が、アリストへと向けられる。
公園の外の気配は遠い。ヴァイスが来る様子もない。
「無駄な抵抗はよすんだな。静かにいていれば、すぐに終わる。死など案外呆気ないものだぞ?」
「死んだことがあるわけでもないのに、簡単にいうなよ」
赤騎士が一瞬、何故か呆気にとられたような顔になる。そして微笑んだ。
不思議な笑みだった。まるで彼はすでに「死」を経験したことがあるような。
だが彼にどんな思惑があろうと、こんなところで死ぬわけには行かない――。
「伏せて!」
少女の声が叫ぶ。指示通りにアリストはその場に這いつくばった。
飛来してきた物体を赤騎士が剣で斬ると、途端に周囲に白い煙が溢れだす。
「煙幕?!」
「行くわよ!」
赤騎士の驚愕の気配を探ろうとする間に腕を掴まれた。今のアリストの見た目と同じくらいの年齢の少女が、掴んだ腕に力を込めてアリストを引っ張り上げようとしている。
「貴様……“チェシャ猫”か?! ――くしゅっ!」
赤騎士の誰何の声が、何故か途中でくしゃみに変化した。
ぽん、ぽん、と軽やかな音がいくつか弾けると同時に、煙幕に黒いものが混じりはじめる。赤騎士が立て続けにくしゃみをしだすのに、隣の少女も訝しげな視線を投げながらとにかく走り出す。
「胡椒……?」
彼女に手を繋がれたアリストは、他に方法もないので大人しくついていった。けれど公園を出てすぐ次の行動には驚きと動揺を隠せない。
「こっちよ!」
「え?」
少女は真剣な顔のまま、歩道の真ん中を塞ぐ黒い蓋を持ち上げる。
マジか、とアリストは思った。
マンホールの中って、こんな普通に入れるものなんだ?