Pinky Promise 010

第1章 月夜の時盗人

2.チェシャ猫の道標 010

 ――遠くで誰かが呼んでいる。
『アリスト』
 ああ、これは姉さんの声だ。この世界で自分が誰より何より一番愛している人の声だ。
 白く濁る視界の中、自分は彼女を見上げている。
 懐かしい。これはまだ、自分が彼女より随分背が低かった頃の夢。
 喪服を着た姉の姿に、それがいつのことだかすぐに記憶が流れ出してくる。
 アリストの母とダイナの父が再婚したのは、今から五年前――アリストが十二歳の時だった。
 身長こそ今より低いものの、その頃にはアリストもすでに声変わりを終えていて、容姿的な差は十七歳現在とほとんどない。
 それでもあの頃はまだ、子どもだった。突然の出来事に、前も後ろも見えなくなった、どうしようもなく無力な子どもだった。
 それぞれ伴侶を早くに亡くした男女が再婚し、両親と新しい姉弟の四人暮らしにもようやく慣れ始めた一月後。
 警察から自宅にかかってきた電話に、普段から落ち着いて大人びていたはずの姉の顔色がみるみる青褪めていった。
『姉さん?』
『アリスト、父さんとお義母様が――』
 涙を浮かべたダイナがアリストを抱きしめる。そして知らされた母と義父の死に、アリストの頭はついていけなかった。
 事故だった。
 過失は相手側にあった。
 けれどそれも悪質なものではなく、慣れない道で周囲の安全確認を多少怠ったというものだ。事故現場の視界の悪さなども考慮に入れれば、相手にとっても不幸と言えるだけの。
 実際、両親を轢いてしまった相手は不幸な青年だった。
 自分も早くに両親を亡くし、親戚の間を転々としながら苦労して社会に出て、ようやく一人前と認められるようになった。それで少し仕事に打ち込み過ぎて、疲労が溜まっていたのだという。
 両親を喪ったダイナとアリスト本人よりも悲しむ体で何度も何度も頭を下げていた。アリストの記憶には彼の顔立ちそのものよりも、その時の光景ばかりが焼きついている。
 そして様々な処理がようやく一段落を迎えた頃。
 彼は自ら命を絶った。
 責任逃れでも周囲から非難を受けたからというわけでもない。賠償金を払う当てがないからという理由でもない。
 彼はただただ、アリストたち姉弟から両親を奪った自分自身を赦せなかったのだろう。
 それで苦労して生きてきた人だから、他者を自分と同じ目に遭わせてしまったことがどうしても赦せなかったのだ。
 両親の葬儀で身に纏った喪服に再び袖を通し、ダイナとアリストは青年の葬儀に赴いた。すでに事故のことを知られていたためか、彼自身身内と呼べるだけの人間が少ないためか、参列者も少ない寂しい式。
 ダイナの顔は、両親のそれを行った時よりもむしろ青褪めているように見えた。
 ――どうして……。
 どうして、死んでしまったの。
 彼が死ぬ必要はなかったのに。
 誰も彼を恨んでなどいなかったのに。
 両親もいなければ養い親と折り合いが悪く、恋人の一人もいなかった青年。仕事熱心で職場の評判は悪くはないが、付き合いが悪いと友人の数は少なかった。一体あの時何人の人間が、彼のために涙したのだろう。
 両親の死の時点で呆然としていたアリストは、その時もただ呆然と加害者たる青年の死を受け止めた。
 ダイナもアリストも、彼を責めるようなことは言わなかった。
 事故の詳しい状況は警察に聞いた。特に現場の見通しの悪さは地元民には有名で、自分も車を運転する二十歳のダイナにはそれがよくわかっていたらしい。
 仕方なかった。そう言える状況だったと。姉がそうして理性的に振る舞うのを見て、出会った時から彼女を敬愛していたアリストもそれを見習った。
 両親を殺してしまったとはいえ、青年に悪意がなかったのは良くわかっているから、と。
 でも本当はアリストは、もっと感情的になって彼を責めるべきだったのかもしれない。子どもらしい無邪気な無神経さで、青年を糾弾するべきだったのかもしれない。
 憎しみの矛先さえ向けられなかった青年は、生きる理由もうしなってしまったのかも知れなかった。
 被害者が償いを求めればそれに応じて償うためにも生きねばならないと奮起することができたのかも。けれどアリストもダイナも、そうはしなかった。
 贖うことのできない罪だけが残り、青年は自ら命を絶った。
 あとには、事の結末に呆然とする、血の繋がらない姉弟だけが残された。
『ねぇ、アリスト――』
 自分たちと因縁こそあっても決して憎むことはなかった青年の死を受け止め、二人は約束することにした。
『約束しましょう。私たちは例えどんなことがあっても、相手を置いていったりしないと』
自らの存在を不要なもの、罪だなどと思わないで、お互いだけは最後までお互いの味方でいようと。
『うん……姉さん』
 帰ってくる。例え、どんなことがあっても。
 ごちゃごちゃと細かい事情はどうでもいい、ただ無条件で、信じられる場所でいよう。
『約束しましょう』
 すっと差し出される細い指。相手の小指に自分の小指を絡める。
 古く東洋に伝わるおまじないだという。指切り、ピンキープロミスと呼ばれるそれ。
 小指を絡めるのは、必ず約束を守るという誓いだ。
 嘘を吐いたらと歌は恐ろしい制裁を科すことを述べるけれど、ダイナはそれも構わないと言った。
『嘘をついても、なんでもいいから、ちゃんと帰ってきて』
 約束よ、と繰り返した。

 ◆◆◆◆◆

「……っ、……」
「――! ……、……」
 話し声が聞こえる。
 夢の名残を反芻するぼやけた脳が、周囲の音を聞き取ろうと意識を覚醒に促した。途端、明瞭な声が起き抜けの耳に飛び込んでくる。
「彼が、あなたの“アリス”なの?」
 声音は明瞭でも、意味はわからない。
 アリストはただ、知らない声だとだけ思った。否、知らなくはない。つい最近どこかで聞いた声だ。
「あ……」
 思い出した。
「おう、起きたか」
「おはよう」
 ヴァイスともう一人、あの公園で顔を合わせた少女が寝台に横たわるアリストを覗き込んでくる。
「あー、そっか。ヴァイスの部屋に帰って来たんだっけ……?」
 子どもの体は体力がない。助けてくれた少女と共に地下水道を歩き回って赤騎士の襲撃から逃れ、ようようマンションへと帰りついたのだ。ヴァイスは後から荷物を抱えて合流した。
 顔を合わせた途端、とりあえずと風呂場へ押し込まれる。
 一般的にマンホールの中は害虫の棲家となっている場合、硫化水素などの有毒ガスが溜まっている場合があり危険とされているが、アリストと少女が潜った場所はそうでもなかった。
「ああ、公園の手前のマンホール? あれは下水道ではなく、地下神殿への通路の一つらしいからな」
「地下神殿?」
 如何にもファンタジックな響きだが、どこかで聞いたような気もする言葉だ。
「大雨や台風などによる洪水を防ぐため、地下に巨大なトンネル――放水路を作ったわけだ。その中に調圧水槽と呼ばれる貯水池がある。巨大な空間に柱が並び立つ姿が古代の荘厳な神殿のように見えるからという理由で、地下神殿と呼ばれている」
 少女がアリストを連れ込んだのは、その地下神殿への通路だという。だから綺麗なものだったのだ。そんな場所にそんな簡単に足を踏み入れて良かったのかはともかくとして。
 それでも地下を通ってきたのだから、とシャワーを浴びさせられる。ついでに言えばアリストの場合、公園の地面に身を伏せて泥だらけにもなっていた。
 その後、少女と話をするはずだったと言うのに、アリストの体力はそこまで保たなかったらしい。いつの間にか眠りについて、夢を見ていた。
 その間にヴァイスと少女の方では、どうやらある程度の情報交換を済ませていたらしい。
「二人って……顔見知り?」
 いくらアリストを赤騎士から助けてくれたとはいえ、ヴァイスが初対面の人間をこんな複雑な状況に関わらせるとは思えない。
 しかし彼の様子だと十にも満たぬ小さなこの少女に対し、自分と対等で同格な人間として扱っているように見える。アリスト以上に複雑な話のできる相手と考えているようだ。
「ま、存在だけは知っていたという感じだな」
「私も。“白騎士”ヴァイス=ルイツァーリの名は教団内では有名だから」
 起き上がって顔を洗い、着替えを済ませたアリストはようやく少女と向き合った。
 すでに日が暮れていて、慌ただしい一日が終わろうとしている。けれど、夜はこれからだ。人目を避けて行動する怪しい輩の活動時間はここからが本番だった。
 赤騎士が疑念を持ちながらも呼んだ名前――コードネームを思い出す。今まで人心地つくまではとあえて自己紹介を避け、聞き出すのを控えていた名だ。
 すでにヴァイスには伝えてあるだろうが、少女は改めてアリストへ向けて名乗った。
「私は“チェシャ猫”」
 それは睡蓮教団の一員。そして。
「あなたをその姿にした、時を盗む禁呪の開発者よ」
 この事態の元凶である人物でもあったのだ。