第1章 月夜の時盗人
2.チェシャ猫の道標 011
今もこの世界には、魔法と呼ばれるものが残っている。
絶滅危惧種の動物並の希少性とはいえ、世界各地には本物の魔導師が存在していた。
中でも、世界の中心であるディアマンディ帝国帝都エメラルドは、あらゆる学問や技術が集う関係で、他の地域に比べれば魔導師の数も多い。
そして華やかなりし帝都の更に中心地に古来より聳え立つジグラード学院。帝国建国以前より存在するこの学院こそは、魔導の総本山である。
しかし学問の本拠地が学院に存在するからと言って、優秀な魔導師が必ずしも学院の近くに生まれるとは限らない。
帝都で魔導の才が見受けられればすぐにでもジグラード学院に送られるが、帝国外や他大陸の生まれともなるとそう簡単にはいかない。そして帝都の民だとしても、環境によっては学院への在籍を拒む場合がある。
魔導師の存在は、場合によってはその能力を狙う者たちの取り合いになる。
魔法というものは、まるでお伽噺に登場する神や魔王や竜の如く万能な存在だと誤解されているためだ。
実際には現代の魔導師たちは、数千年前にそう呼ばれた者たちに比べてかなり能力が落ちている。彼らができることの多くは、既存の道具や技術で代替できることばかりだ。
これは当然の結果と言える。人間の持つ多くの能力は、人間が生きていくために必要だから備わっているのだ。大きすぎる力など日常を送るには必要なく、科学技術が発達すると共に、魔導と言う技術の必要性は薄れていく。
特定の人間しか使えない魔導よりも、誰でも使える道具の方が便利。ただそれだけのことだ。
例えば世界中を一瞬で移動できる力があったとして、パスポートもなしに他国に不法入国すればただの犯罪でトラブルの元。文明が発展した世界においては魔導も出番はない。普通の人々と同じように生きて生活する方が、下手な魔導を用いるより余程快適に暮らしていける。
そもそも瞬間的な移動や空中浮遊を可能とするような、強い力を持つ魔導師自体がすでに夢物語の領域だ。大抵の魔導師はすでに人間が持つ技能の延長線上ぐらいしか行えない。
身体を強化して跳躍力を高めることはできる。だが空を飛ぶことはできない。遠くにいる者へ話しかけたり、その光景を見ることもできる。――それに多大な体力精神力を費やすぐらいなら、電話やビデオカメラで十分だ。
仰々しく長ったらしい呪文を十分も唱えて炎を出すくらいなら、素直にマッチやライターを使えばいいのである。
もはや神様のような魔法使いは存在せず、魔導師たちは魔導を使う必要すらない。
それでもいまだに魔法というお伽噺への幻想が消えないのは、人という生き物が分不相応な夢を見続ける愚かさ故だ。
◆◆◆◆◆
「……何の冗談?」
確かに赤騎士は言っていた。アリストを子どもの姿まで若返らせた禁呪。その開発者は白兎ではなく、別にいるのだと。
だがそれが……。
「まだ、子どもじゃないか」
チェシャ猫と名乗った少女は、今のアリストと同じくらいの背丈しかない小さな子どもだ。十にも届かない、幼児だ。
「お前と同じだと」
アリストより一足早く、彼女の正体について聞いていたヴァイスが補足する。
「彼女自身が作った禁呪をかけられて若返ったらしい。相手が殺すつもりで放った術を、お前と同じように魔導防壁で相殺した」
同じ術に同じ防御をして同じような結果になったということは、元の条件も同じようなものだった? 年齢が近いのか?
アリストは呆然と彼女を見つめる。
チェシャ猫は淡い茶色の髪に、薄い紫の瞳をしていた。一見して可愛らしい少女だが、その瞳は外見の年齢不相応に熟成して冷めている。
その点のアンバランスさは、見た目の少女めいた愛らしさとは裏腹に口が悪く頭が回るアリスト自身と同様だ。
本物の子どもとは違い、子どもの姿をしているだけのものという歪。
その瞳を見つめていると、彼女自身の言葉やヴァイスの説明がじわじわと実感を伴ってアリストの中に浸み込んでくる。
「君が……」
時を奪う。その禁呪によって、アリストは十七歳の自分としての人生を奪われ、無力な子どもの姿にさせられた。
それだけではない。
アリストは元の姿を奪われたが、こうして命は無事である。体力も腕力も魔法の技術でさえ子どもの頃に戻ってしまったが、生きているだけ希望はまだある。
けれど昨夜、白兎の手によって『時間』を奪われた被害者たちは。
路地裏に落ちた白い手の主と、アタッシュケースを抱えたスーツのサラリーマンは。
「お前が……」
アリストは“チェシャ猫”と呼ばれた少女の肩に強く掴みかかる。
「お前が――作ったのか?! あのおぞましい魔法を!」
一体どれだけの人間がその犠牲となって命を失い、アリストのように人生を狂わされたのか。
「そうよ。私が作ったの」
仮面のような無表情のままチェシャ猫は肯定する。
アリストの剣幕と激しい怒気を見かねてか、普段は仲裁役など滅多にしないヴァイスが二人の間に割って入った。アリストを背後から羽交い絞めにするようにして、チェシャ猫から引き離す。
「まぁまぁ、待て、アリスト。落ち着け」
「これが落ち着いていられるか! こいつのせいで――!!」
「確かに禁呪の開発者は彼女らしいが、お前に術をかけたのは白兎なのだろう?」
「だからって……!」
「お前は包丁を使った殺人が起こる度に凶器の製作者である包丁職人まで逮捕する気なのか? 自動車事故の度に車会社を訴えるのか?」
ヴァイスの台詞に感じるものがあり、アリストはぐっと、今にも唇から零れそうな罵倒を一度呑みこんだ。
「……その言い方だと、まるで禁呪の使用がこいつの本意ではなかったみたいだな」
「その通りだ」
ヴァイスがチェシャ猫に一瞬目を向ける。彼女は無反応だったが、それを拒絶でないと受け取り、再び話し出す。
「コードネーム“チェシャ猫”は、睡蓮教団の魔法開発部門の一人だ。天才児として小さな頃に教団にスカウトされて育ち、魔法――世間一般的には主に禁呪と呼ばれるものの開発をしてきたらしい。しかし彼女の開発した禁呪の目的は殺人ではなく、本来別の使い方をするはずだった」
「別の……目的……?」
アリストは胡乱気にチェシャ猫とヴァイスを見比べる。
「言っただろう? 睡蓮教団の目的は、背徳神の復活。それに関わるどんなことでも教団はやる」
人の『時間』を奪うことと神の復活がどう繋がるのか、然程魔導に関する知識がないアリストにはわからない。
「何故作ったんだ、あんな術を」
静かな問いに、静かな答が返る。
「――取り戻したかったのよ、過去を」
彼女は淡々と告げた。
教団と自分の利害は一致していた、ある一点においては、と。
「過去、だと?」
「あなたにはないの? どうしてもやり直したい、取り戻したい過去が。運命の歯車一つ転がすだけで変わるはずの、未来への可能性が」
アリストの脳裏に、先程夢で見たばかりの、五年前の葬儀の日の光景が過ぎる。
「――ない」
「本当に?」
「強いて言うなら、今のこの状況だ。どうしてせっかく十七歳まで育ったってのに、七歳からやり直さなきゃならないんだよ」
あの日あの時白兎などに会わねば。今こんな苦労はせずに済んだのかもしれない。
けれどそれも、ただの実現性の低い可能性の一つに過ぎない。
あの日あの時、他の道を選ばなかった。だからこそ今の自分があるのだから。
「過ぎてしまったことを後からうだうだ言っても始まらないだろう。そのぐらいなら、これからどうすればいいかを考えようぜ」
チェシャ猫が目を瞠る。菫の花のような色の瞳が印象的だ。
深く溜息を吐きだしたアリストに、ヴァイスが念を押してくる。
「ではひとまず、この事態を打開するまではチェシャ猫に協力者となってもらうということでいいのだな」
「俺よりもあんたがそうやって彼女を信用する素振りを見せているのが不思議だぜ、ヴァイス」
アリストの知るヴァイス=ルイツァーリは、本心から他人を信用することの少ない人間だ。いつでも言いたいことを言うし努めて隠し事をする人間でもないが、その分他人のご機嫌取りもしない。良くも悪くも彼は自分を偽らない。
「まぁ……私はかつて教団関連で色々あった頃から彼女の噂を聞いていたからな」
「噂? それより、お前教団と色々あったって」
アリストの興味が微妙に移り変わったのを察したのか、ヴァイスは肩を竦めて追及を拒絶する。
「それも面倒な話になるからおいおいな。“イモムシ”が帝都に帰ってきてからにしてくれ」
「“イモムシ”?」
また知らない言葉が出てきた。それも誰かのコードネームだろうかと疑問符を浮かべたアリストの横で、チェシャ猫が反応する。
「コードネーム“イモムシ”。本名はヴェルム=エールーカね。“帝都の切り札”“エメラルドのジョーカー”と名高い名探偵」
「あ……ヴェルムっていう探偵の知り合いがいるって、まさか」
「言っただろう、奴はジョーカーだと」
ジョーカーはトランプの「切り札」。謎めいた事象を追いかけて、帝都警察が迷宮入りを覚悟した難事件を次々と解決しいつしかそう呼ばれることになった若き探偵がいるという。それがヴェルム。ヴェルム=エールーカ。
「そんな有名人まで関わってんのかよ……!」
よく新聞の一面に名前が出てくる人物だ。帝都どころかこの帝国で知らぬ者はいないと言ってもいい。
「奴の立場はお前に似ている。教団絡みの事件の被害者という立場で、教団を酷く憎んでいる」
だからヴァイスは探偵に関する説明を常に後回しにさせたのか。探偵の見方は一方向に偏っているというのは、そういうことだろう。
確かに教団憎しで最初から意気投合してしまったら、チェシャ猫のように教団の関係者を受け入れることはできなかっただろう。
それに関してはチェシャ猫ももちろんだが、いまだ明かされないヴァイス自身の立場も気になっているのだが……。
「そう言えば、あんたはなんでヴァイスを訪ねて来たんだ?」
どうせまともに尋ねては今の段階では答は返っては来ないだろうと、アリストは切り口をチェシャ猫の方へと変えてみた。
そもそも何故あの公園で、チェシャ猫が赤騎士からアリストを助けてくれたのか? その質問に対する答は、ヴァイスに会いに行く途中だった彼女が、たまたま通りがかった先で知っている殺気――赤騎士の気配を感じたからということだった。
本来人間の時間を奪い尽くして消滅させるはずの禁呪。彼女自身が開発したというはずのそれをかけられたということは、彼女は教団を裏切ったのだろう。
そして何故か、ヴァイスのもとへと逃げ込んだ。
「私は教団を裏切ったから、それで――」
「……そうなんだろうけど、それで、なんでこいつのところだったんだ?」
役所近くの公園を通りかかったと言うのなら、あの時彼女は徒歩でヴァイスの家に向かう気だったということになる。逆に考えれば、彼女が逃げてきた教団の支部はそう遠くではない。この帝都内だ。
何故、ヴァイスの助けを求めたのか?
警察に駆け込むでも、帝都の外に逃亡するでも、他の機関を利用するでもなく。 彼女は、ヴァイス=ルイツァーリという一個人を頼ってきたことになる。
しかし白兎の裏取引といい、赤騎士のような暗殺者を抱えていることといい、睡蓮教団と言う組織の裏の顔が、そんな小さな犯罪集団とは思えない。
「彼は“白騎士”だから」
チェシャ猫の返した答は、今まで出会った教団の人間たちと同じような言葉選びだった。
その意味を解する者にしか理解できない符丁。
「“白騎士”である彼と共にいれば、“アリス”に出会えると思ったから」
アリス。また、“アリス”だ。だから一体。
「“アリス”ってのは何なんだ?」
不思議の国を冒険する少女の名は、何を意味するのか?
しかしチェシャ猫は幼い見た目に不似合いに大人びた笑みを向けるだけ。
「知らないの? ルイス・キャロルの著作の主人公よ」
「それはわかってるよ。だから――」
「二人とも、今はそれより大事なことがあるんじゃないか?」
問題は山積みだ。
ヴァイスの言うとおり、今はそれよりやらなければいけないことが死ぬ程ある。禁呪について製作者のチェシャ猫について聞くこともそうだし、こちらの命を狙ってくる赤騎士対策もしなければならない。
考えたくはないことだが、このまましばらく元に戻れないようなら家族や友人への様々な言い訳も用意せねばならない。
問題は山積みだ。
自分を取り戻すために、自分ではない自分を演出する。しかしそんなことをすればするほど、何が嘘で何が本当か、わからなくなりそうだ。
その歪みを正すにはやはり、元の姿へ戻ることが必要だった。