Pinky Promise 012

第1章 月夜の時盗人

2.チェシャ猫の道標 012

 仕切り直し、とばかりにヴァイスが二人を寝室から居間へと移動させ、暖かい飲み物を振る舞った。
 平素の彼にしては格別の待遇だ。出されたココアは常のアリストにとっては甘すぎるはずだったが、味覚も子どもに戻ってしまったのか、今はこの甘さが心地よい。
「疲れた時はやはり甘いものに限る」
「なんでこの家にこんなものがあるのかと思ったら……ヴァイス、お前隠れ甘党だったのか?」
「普通になんでも飲み食いするだけだ」
 ヴァイスがちらりと横目でチェシャ猫の様子を窺う。彼女はココアを口にして、ほっと安堵の息を吐いたようだった。なるほど、このお茶の時間は彼女のためだったらしい。
 そもそもアリストが疲れ果てて眠っていた間、彼女とヴァイスはずっと話し込んでいたのだろうか。それならば疲れるのも当然だ。
 それでなくてもチェシャ猫は教団を裏切り、逃げてきたという。逃亡生活がどのくらいのものか知らないが、相当苦労しただろう。
 先程は反射的に怒りをぶつけてしまったが、ここに来てようやくアリストは、チェシャ猫の複雑な境遇にも意識を向けることができるようになってきた。
 いくら禁呪と呼ばれるものを開発しようと、もともとそれで人を傷つける気がなかったのなら、自分が生み出したもののせいで誰かに危害を加えられたと聞くのは辛いだろう。
 もしかして――だから、彼女はここに来たのだろうか。
 ヴァイスがなんだかんだで追求を躱す以上、教団に対する彼の立ち位置はわからない。だが教団を憎む探偵を知人に持ち、教団によってこの姿にさせられたアリストに協力してくれる以上、ヴァイスは教団と敵対関係にいるのではないか?
 その彼を頼ってきたチェシャ猫もまた――。
 アリストは今になってそう考えることができるようになった。
 ……一度冷静になったように見せて、実は心を乱していたのはチェシャ猫だけではなく、自分自身もだったというわけだ。
 自覚したアリストはヴァイスにもう大丈夫だと目で合図し、話を再開しようと持ちかける。
 まず、これだけははっきりしなければならないと、アリストはかけられた禁呪について、チェシャ猫に詳しく聞いてみることにした。
「この禁呪って、一体どういう仕組みなんだ? いや、それより――俺は、どうやったら元の姿に戻れるんだ?」
 学院でヴァイスの魔導学講義を多少聞きかじっているアリストには、今の自分の状況が到底信じられないものだった。
 魔導技術は、決して万能ではない。魔導はよく魔法という言い方をされるし、それは決して間違いではないのだが、それでも。
 決して、望みの全てを叶える「魔法」などではないのだ。
 それはあくまで人の力で、人の理解の及ぶ範囲でしか使えない。現象の規模によっては現実的ではなく超常的と呼ばれることもあるかもしれないが、基本は人が理論上実現可能なレベルの現象を引き起こす能力の一つだ。
 だから今のアリストの状態、「十七歳の少年が、約十年を若返り子どもの姿になる」というのは、いくら魔導と言ってもあまりにも無茶としか思えなかった。
「仕組み、と言われても……」
 魔導の術を解くには、術者に聞くのが一番早い。アリストに禁呪をかけたのは白兎だが、術を作ったのがチェシャ猫であるならば、彼女に聞く方が確実だ。
「……教団の目的が、背徳神の復活にあることは聞いている?」
「ヴァイスから。あと別の人からも少し」
「そう。なら察しはつくでしょう。この魔導もまた、神の復活の一助となるように作ったものよ」
 教団はいまや目的を果たすためというよりも、教団を維持するそれ自体が目的のような巨大な機構と成り果てている。ある程度大きな組織というのはそういうものだ。研究のために人材と財源を探し、それを維持するためにまた財源を確保する。
 教団自体が企業に出資して稼いでいることもあれば、手っ取り早く大金を得るため犯罪を行い、それを隠すためにまた罪を重ねるようなこともあるという。
 睡蓮教団がカルト集団として世間的に毛嫌いされているのも多くはこのためである。
 しかしチェシャ猫の禁呪開発はそのような組織の末端の構成員が行うような仕事ではなく、もっと教団という存在の根幹に関わるものだった。
 すなわち背徳神の復活。
 しかしアリストには、それだけでは禁呪がどう関わるのかよくわからない。
人々から「時間を盗む」のが、どうして神の復活になるのか?
「はじめは、単純に“時を巻き戻す”魔術を開発していたらしいの。でもそれはさすがに実現不可能だとわかって」
「実現してるじゃん」
「私たちが若返ったのは肉体だけよ。精神はもとのまま」
「……なるほど」
 雲の上を歩くような気持ちでチェシャ猫の論理を聞いている。彼女たちがまずはじめに考えていたのは、SF小説でお馴染みのタイムスリップ的な「魔法」だったらしい。
 確かにそれは無理というか、現実味がない。教団はそんな魔術を作ってどうするつもりだったのだろうか。背徳神が死ぬ(?)前に戻ってから歴史をやり直すつもりだったとでも?
 世界の歴史を改変するにしても、タイムマシンで誰かが過去に渡って行動を起こし結果的にそこから今までの歴史が変わるという事象を引き起こすにしても、どちらにしろ途方もない話だ。
 では今のアリストたちの状態が現実味があるのかと言えば、それも微妙なところだった。チェシャ猫の指摘で改めて気づいたが、どうしてアリストたちの精神はそのまま……これまでの記憶も経験も失われていないのだろう。それはつまり若返りの際に脳に手が加わっていないということである。
「俺たちの脳は十七歳当時のままなのか」
「さぁ」
「さぁ……って」
「“若返った”という結果だけを見れば、その試験結果は私たちだけよ。確かに術式の構成上、記憶や経験、精神に関わる分野を極力刺激しないよう魔導を組んではあるけれど」
「じゃ、じゃあまさか、自分ではいつも通りのつもりでも、実はぽろぽろ落っことしている記憶があったり――」
「するかもしれないわね」
 あっさりと言われて、アリストは青褪める。今まで考えたこともなかった話だけに動揺も激しい。
「けど――」
「なるほど、人間の脳の成長の話か」
 ヴァイスが口を挟んだ。さすがに魔導が本職だけあって、かじっただけのアリストより理解が早い。
「肉体の時間を巻き戻すことに特化して、精神分野は後回しにしているんだな。だからその作業が今回魔導防壁によって中断された時は、ほとんど影響のない脳とその中の記憶はほぼ無事なんだ」
「その通りよ」
「???」
 頼む。二人だけでわかりあわないでくれ。
 ヴァイスとチェシャ猫が顔を見合わせた結果、今回はヴァイスが疑問符を浮かべ続けるアリストに解説することとなった。
「子どもがなんで頭でっかちか知ってるか?」
「体型的に頭の方が大きくてころころしてるってこと? ……知らない」
「あれはな、脳の発達の問題なんだ。人間の脳は三歳くらいまでに成人の八〇パーセント程まで成長する。小等部低学年には、ほぼ成人と同じくらいまで成長する」
「知らなかった……」
「脳の神経細胞の数は、大人も子どもも同じくらいだ。だからお前たちがそのぐらいの歳まで若返っても、脳の中身や記憶自体を弄ろうとする働きが禁呪に組み込まれていなかった場合、容量が足りたんだろう」
「ってことは、もしもこれ以上若返っていたら」
 今のアリストは小等部一年生程の肉体だ。
「……脳の容量が足りずに記憶がぽろぽろ抜け落ちていた可能性はあるわね」
「ひー!」
 危ないところだった、と今更ながらにアリストは怖くなる。そんな彼の横で魔導の専門家たちの話は続く。
「肉体だけが若返る魔術なら、脳には手を出さないままの方が無難というわけか」
「ええ。あえて全身を通して人間と言う個の巻き戻しを図るのではなく、脳を除いた全ての細胞を個別に逆再生させたの」
「人間はもともと一つの受精卵が分化して生まれることの逆をやったわけか。しかしどうやって」
「人間が肉体を動かすのも物を記憶するのも要は全て電気刺激が司っているわけだから、その刺激で細胞の『記憶』に揺さぶりをかけて後は連鎖的に。生き物個別にとっての『時間』とはすなわちその存在の『経験』全てと置き換えることも可能だから、それをキーワードに組み込めば」
「一見無茶苦茶だが、実際にできてしまったというわけか。確かに魂の領域に手を出すよりはまぁ、不可能ではないな」
「魂の領域はそれこそ神の書き換えと同義だもの。さすがにそこまでは」
「四次元的要素の全てを三次元に置き換えて構成したわけか。なるほど」
 傍で聞いているアリストには、さっぱりわからない。
「時を巻き戻すのが不可能と考えた時点で、では現実的にそれを成すのはどうすればいいと考える以前にまずエネルギーの問題に突き当たったの。だからそれまでに考えていた『時間』というキーワードから生物の成長・進化という莫大なエネルギーの抽出を思いついて」
「形にした物が、対象から“時間を奪う”魔法というわけか。確かに神の組成が核融合のエネルギーと言われるよりはイメージしやすい気もするが」
「あくまで魔導技術の一種だから、三次元的なエネルギーと違って半永久的な保存を利かせる術を同時に別の研究者が開発済だったの」
「なるほど。神を蘇らせるに足るエネルギーを回収するとなれば一人の人間が一生でこなせるわけもなく――」
 この後もまだまだ、アリストに理解できない高度な魔導理論談義は続いた。
「これぞまさしく現代の魔法。科学知識と技術、そして魔導の融合か。実に素晴らしい」
「何褒めてんだよ!」
 マッドサイエンティストならぬマッドマジカリストな会話を交わしていた二人に、唯一の一般人としてアリストがツッコミを入れる。
「つまり、どういうことなんだ? 三行で頼む」
 長く複雑な魔導理論が聞きたいのではない。知りたいのはこの現状の意味と解決法とそのためにこれからどうするかだ。
「盗まれた時間は教団の方で保存中」
「それを取り戻さないと戻れないので」
「教団を潰して奪い返そう」
 律儀に三行で済ませてくれたのは助かるが、今お前ら本当にそんな話してたか?!
「「してたしてた」」
 ヴァイスもチェシャ猫も無表情に頷く。
「~~ちなみにこのままだとどうなる?」
 最悪元の姿に戻れないとしたら、この子どもの体のままで生きていくことになるのか?
「――わからないわ」
「わからない?」
 チェシャ猫は本当に困った顔で繰り返した。わからない。
「恐らくこのまま生きていけるとは思うけれど」
「あるいは、その体のまま成長できない可能性が出てくるのではないか」
「ありえるわね。……あの術を作る時、過去のことしか考えていなかったから」
 ――過去を取り戻したかったと、彼女は言った。
 時を奪われた者の未来。それは誰にもわからない。
 ……どちらにせよ。この分では、ある日突然元に戻れるなどという楽観はしない方が良さそうだ。
「最悪の場合あれだ」
 ヴァイスが重々しく提案する。
「?」
「十年ほど行方不明になっておき、肉体が大人にまで成長したところで十歳分老けたように整形する」
「……そんな人生は嫌だ~~」
「……というかいくら今の私たちの姿が子どものものとはいえ、十年もあったらさすがに教団から奪われた時間を取り戻すくらいのことはできるんじゃない?」
 チェシャ猫が指摘する。
「組織そのものを潰さないと、ずっと命を狙われ続けるかもしれないけど……」
「そう言えばそんな問題もあったな。元に戻るのも大切だが、今お前たちは裏切り者と秘密を知ってしまった者という理由で、教団から命を狙われている」
 あまりのことに忘れそうになっていたが、そういえばそうだった。
「私の場合はもともと家族もいないし、この姿でもその気になればどうとでもなるわ。でも」
「俺は嫌だ」
 アリストは納得できない。
「必ず元の……アリスト=レーヌの姿を取り戻して、姉さんのところに帰らなくちゃ」
 ただ一人の家族。他に誰がアリストという人間を待っていなくとも、彼女のためにアリストは戻る。奪われた十年という時を超えて。
「……そう」
「ま、全ては教団との戦い次第だな」
「……この十年で、教団は世界中に根を張り力を蓄えた。あなたが以前やったようにはいかないわよ。白の騎士、ヴァイス=ルイツァーリ」
「わかっているとも、チェシャ猫」
 またもアリストを置いてけぼりに、ヴァイスとチェシャ猫の間で鋭い視線が交差した。
「ヴァイス……? チェシャ猫……?」
 険のあるやりとりに、アリストは眉を曇らせる。先程は自分が険悪な空気を起こしたとはいえ、共闘を考えるならここで揉めていては仕方ないのは確かだ。
 ピンポーン。
 その時タイミングを選んだかのように呼び鈴が鳴った。この音には二種類あって、今のは部屋の玄関扉ではなく、マンション全体のエントランス部分からのものだ。
「はい、ルイツァーリですが」
 玄関脇のタッチパネルを操作したヴァイスが訪問者の姿を確認する。相手は一見何の変哲もない配達人に見える。
「ルイツァーリさん、特急郵便でーす」
「特急?」
 ヴァイスはとりあえずそれを受け取るために、訪問者をマンションの中に入れることにした。
「何かの罠じゃないの? 私がここに来たことがバレて――」
「かも知れないが、あの配達人はとりあえず教団員には見えなかった。問題は、その郵便自体だな」
 至極平穏に配達人から受け取った手紙を乱暴に破いたヴァイスは、嘆息と共にその文面を今は子どもサイズの二人に見せる。
「見ろ、果し状だぞ」
 教団が殺し損ねたアリストよりも、過去に何か関わりがあるヴァイスよりも、つい最近教団を裏切って逃げ出してきた、彼らについて多くの情報を握っているチェシャ猫の方が、教団において抹殺すべき優先度は高い。
 だが、三人まとめて始末できるのであれば、それはそれで教団にとって有益だと。
 差出人“赤騎士”の名を見て、三人はとにかく、目の前の戦いへの決意を固めた。