第5章 時の止まった物語 01
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皇帝の城で与えられた一室の露台から中庭を見下ろして、ゼファードは物思いに耽っていた。
ゼイルの埋葬の後、ルルティスがロゼウスから聞かされたようなことをゼファードも兄であるフェルザードから聞かされていた。
薔薇皇帝の過去の王への執着。その王とそっくりだという自分。
聞かされた話には半ば予想していたこともあれば、まったく考え付きもしなかったこともあった。ゼファードはロゼウスを避けていたから、精力的に聞き込みを続けていたルルティスよりも皇帝領の情報に疎いと言っていい。
けれど話を聞かされた後に感じる思いは、ゼファードもルルティスと似たようなものだった。
あくまでも「似たようなもの」であって、皇帝の愛人まで志願するほどロゼウス好きなルルティスとまったく「同じ」というわけではないが。
そう、似ているということは、完全に同じではないということだ。だからどんなにシェリダンにそっくりだ、瓜二つだと言われるフェルザードもルルティスも苦しんでいる。彼らはシェリダン=エヴェルシードに似ているのに、決して彼にはなれないから。
すでにシェリダンが死んでしまっているから彼らはただ彼に「似ている」ということだけが取りざたされているが、もしもここにシェリダンがいたら、その差異はますます際立ったことだろう。
そしてシェリダンとフェルザード、あるいはルルティスを並べたら、ロゼウスはどうやったってシェリダンを選ぶのだ。ゼファードはフェルザードからそう聞かされた。
露台で手摺に肘を置いて頬杖をつきながら、ゼファードは先程中庭でルルティスとした話を思い出す。途中でロゼウスがやってきたために途切れてしまったが、あの時ゼファードはルルティスに聞きたいことがあったのだ。
――後から生まれてくるのって不利ですよ。どうやったって、あの方たちと同じものを僕がこの目にできることはないんですから。
すでに過ぎ去りし日々の想いに囚われる皇帝と、その臣下たち。何を聞いても、何を思っても当事者にはなれない状況に疲れ、ルルティスはそう零していた。
だけどゼファードはこうも思うのだ。
「ルルティス、でもそれじゃあ……」
――もしもシェリダン=エヴェルシードと同じ時代に生まれたら、お前は彼に勝てると思うのか?
言っても詮無いことだ。わかっている。
遠い昔に死んでしまった人間と肩を並べる術がないことなど、魔術の万能性を知りなお人間としての不可能を悟ったゼファードにはわかっている。
学者でありゼファードより余程頭のいいルルティスも同じだろう。それでも彼は言わずにはいられないのだ。
シェリダン=エヴェルシードを越えることはできないのかと。
時の砂はいくら留めようとも、両の手の隙間から零れ落ちていく。
なのに人は、ロゼウスは、それを押しとどめようと必死になっている。
それはそれで彼個人の生き様だ。その生き方が帝国の支配になんら悪影響を与えないなら、それでも別にかまわないだろう。
理性ではそう言えるのに、ゼファードは感情としてはそう思えないのだ。
過去に縋り、過去しか見つめず、すでに過去の存在となったシェリダンしか求めないロゼウスの姿勢に、多くの人間が振り回されている。フェルザードもルルティスも、それ以外の人間も。エヴェルシードには古くから皇帝の愛人となった王族の話が伝わっている。合意の上とはいえ、彼らは皇帝によってその人生を歪められたと言っても過言ではない。
同じものを見つめても、同じ想いを抱くわけではないその人に。
ロゼウスを見ると、ゼファードは「傾国」という言葉を思い出さずにはいられない。ロゼウス自身は帝国を神より預かるほどの支配者であるが、彼の存在そのものは、人を破滅させるためにあるようなものだ。
それがわかっているのに、誰もが誘蛾灯に誘われる虫のように彼のもとに集い、その身を嫉妬の劫火に焼かせている。
この世で何を罪と言うのかと問えば、それはロゼウスの生き方そのものだ。
彼を愛する限り、決して、救われることはない。
少なくともゼファードには、そうとしか思えなかった。
物思いに耽っていたゼファードは、ふっと顔を上げた。露台から繋がる部屋の扉の方に顔を向ける。軽やかな足音が近づいていた。
「ゼファード」
「アルジャンティアか」
皇帝領に昔から出入りしていた関係で、ゼファードはロゼウスの娘である彼女とも縁深い。二人は大抵ロゼウスのことで喧嘩となるのだが、仮にも王族と皇帝の娘である彼らには正面から喧嘩してくれる相手すらいないので、これもよき関係と言えるのだろう。
「お父様のこと、聞いたのだって?」
「ああ、うん。兄貴からだから……お前たちみたいに、当時を知る人間から直接聞いたわけじゃないけど」
「フェルザード王子は人に説明をするのが得意だから、差し引きではかなり真実に近いことを言っているでしょうね」
「なぁ……アルジャンティア」
ゼファードは幼馴染の少女に尋ねた。
「なんでお前はそんな平然としてられるんだ? なんで絶望しないんだよ? お前の父親が一番愛しているのは、お前の母親じゃないってのに」
それは残酷な問いであるのかも知れない。けれどアルジャンティアはまっすぐに彼の目を見て、はっきりと答えてくれた。
「だって仕方がないじゃない。お父様はああいう生き方しかできないんだもの。本人がそれで一番苦しんでいるのに、シェリダン王を知らない私が横から言うのも野暮ってものよ」
「あるいはシェリダン王を知らない人間の中で、ロゼウスの娘であるお前だからこそ言えるものもあるんじゃないか?」
「お父様が本当に子どもが欲しくて私ができたんならね。でも私、そうじゃないし」
ローラがロゼウスの子どもを身ごもりアルジャンティアを生んだのは成り行きだ。だからアルジャンティアは、自分は「いらない子」なのだと知っている。思っているのではなく、「知っている」。
それはロゼウスにとっての真実。
「別にお父様とお母様が絵に描いたような幸せな夫婦の形、なんてしなくても、私は今のままで幸せだから別にいいのよ。まぁ、熱烈に愛し合ってるエヴェルシードの御夫婦から生まれたあんたが、それに夢を見るのは勝手だけど」
「俺を単純バカみたいに言うなよ」
「みたいじゃなくてそのものでしょ」
さすがにローラの娘だけあって、アルジャンティアは身内の男相手に容赦ない。ゼファードが何を言おうとも、どうせ最後には言い負かされてしまうのだ。
だが、それも形を変えれば心地よいものだ。相手を言い負かそう、言いくるめようというやり方は、相手を自分の意見に同意させたいから出てくるものであって、何の感情もなければそんなやりとりさえもできない。
そしてゼファードにとっては、皇帝ロゼウスと兄のフェルザードがそれにあたった。二人とも自分の生き方を他者に理解させる気がさらさらないので、どんなにわかりやすく真実を説明されても、それらの言葉はいつもゼファードの中に落ち着かず滑り落ちていく。ゼファードと彼らの間には、交わらない道しかない。
フェルザードはまだマシだ。兄は自分に何かを隠している。それが棘となって刺さるから、これまでゼファードとフェルザードのやりとりはいつも平行線だった。
けれどロゼウスは違う。彼は黙して語らないことはあっても、ゼファードに嘘をつくようなことはない。いつも全てを語っている。その上で、ゼファードとロゼウスの道は交わらない。
――いつか自分はロゼウスに置いて行かれるだろう。
ゼファードはそれがわかっているから、自分に優しくするロゼウスが不満なのだ。捨ててしまうくらいなら最初から求めなければいいのに……ロゼウスにとって大事なのは、自分ではない。
認めてしまえば癪でしかなく、言葉には決してしない。けれどその日がいつか来ることを知っているから、その日までゼファードはロゼウスを嫌い続けるしかない。
そう思ってこれまで、自分が成長して誰かに連れられるのではなく自分の足で旅ができるようになってからは皇帝領に近寄らないようにしていたのに、今回こうしてまたロゼウスに関わってしまった。
「関わりたくなんかないけど、そう思ってたけど、もう、駄目なんだな。だったら最後まで付き合ってやるさ」
逃れ続けることのできないものが、あの皇帝には確かに存在する。地下室の王の亡骸を前に、ゼファードもそれを改めて感じ取った。
「手始めに次に皇帝領を出るような仕事の時には、俺も連れていけって言わないとな。中途半端に事情を知らされていつも途中までしか関われないってのは腹が立つぜ」
ゼイルの事件に関して実はアドニスことハデスを呼ぶついでに皇帝領に招かれた王子はそう高らかに宣言する。
しかしそれを聞き、何故かアルジャンティアは悲しそうな顔をした。
「……ゼファード」
「なんだよ」
「お父様たち、もう次の仕事に出かけてるわよ。ウィスタリアでなんか事件があったって……」
出遅れた。言葉にすればそういうことになる。ゼファードはぽかんと口を開けた。
「あ、あのヤロー!」
露台からの虚しい叫びが、薔薇の咲き乱れる中庭にこだましたのであった。