Pinky Promise 018

第1章 月夜の時盗人

3.赤騎士との決戦 018

 閃光が収まり、夜の闇が次第に戻ってくる。
 ぷすぷすと煙を上げ続ける地面の上で、アリストたち三人はその場に呆然と佇んでいた。
 人の気配はすでに遠く、白兎と赤騎士はやはり姿を消してしまったらしい。
 辺りは閃光弾の光が消えたからだけではなく、真っ暗だ。分厚い雲が月明かりを隠したのだ。
 夜と風とお互いの気配だけが彼らを包む。
「……一体、何なんだよ、あいつら」
 アリストはぽつりと呟いた。
 もう何が何だかわからない。
 否、ここ数日の出来事は、思えば最初から訳のわからないことばかりだった。
 ふとヴァイスとチェシャ猫の方を振り返れば、二人もそれぞれ思い思いの表情を浮かべている。
「ヴァイス?」
「ん? ああ」
 何か考え込んでいたヴァイスにひとまず声をかける。アリストよりも彼やチェシャ猫の方が、この事態に関する情報を多く持っているだろう。
 幾つもの問いが頭の中をぐるぐると巡り、アリストは結局、一番気になったものを真っ先に口にした。
「――“アリス”ってなんだ?」
「物語の主人公だ」
 ヴァイスの答は端的過ぎる。それは一見、古典小説の基本設定を持ちだすことで話を逸らしているかのように思えた。
 けれど続く説明に、ヴァイスにそんな気はないのだと考え直す。
「“不思議の国”由来のコードネームは、全てあの物語からとられた。ルイス・キャロルの著作から。私が“白の騎士”であり、彼女が“チェシャ猫”であるように。奴らが“白兎”であり、“赤の騎士”であるように。だが、“アリス”の名を持つ者だけはいなかった。これまでは」
「……どうして」
 普通そういった物語からの借用なら、有名どころの名前から使うのが一般的ではないのか。
 焼け焦げた地面に目をやっていたヴァイスが、ようやくアリストに視線を向ける。
「“アリス”は、あの話の主人公なんだ。敵も味方もその存在が現れて初めて紙面に登場できる。“アリス”が登場してようやく物語は動き出す」
 友好的に接して来る者、無礼な態度で喧嘩を売る者、助言者、道連れ、無関係――“アリス”にどのような関わりを持つのかは別として、どんな存在も彼女が不思議の国に、鏡の国にやってこなければ物語は始まらない。
 ヴァイスの説明を、チェシャ猫が引き継ぐ。
「だから誰も、これまでコードネーム“アリス”を名乗ることはなかったわ。運命の歯車を動かして、夢を終わらせる人間になれなかったから」
「夢を終わらせる?」
「あの話の原作、読んだことある?」
 チェシャ猫の問いかけに、昔確か数度目を通しただけの物語をどうにか思い返す。
「理不尽な裁判に少女アリス……最後の証人として呼ばれたアリスが怒って場をぶち壊すんじゃなかったか?」
「その通りよ」
 そして少女は、夢から覚める。冒険は終わる。
 “不思議の国”は、少女アリスの見た夢の世界。
 お姉さんが挿絵のない難しい本を読む傍らで眠気を催したアリスがうとうとと、夢と現実の区別もつかなくなる頃に始まる物語だ。
 いつの間にか眠りに落ちた夢の中、アリスはチョッキを着て時計を確かめる兎を追って兎穴に落ちていく。
 不思議の国で様々な人物と出会い、様々な体験をしたアリスは、最後にハートの王夫妻が開いた裁判に証人として呼ばれるが――そこで夢が終わるのだ。
「アリスがいなければ、始まることも終わることもない物語」
 睡蓮教団の人間もそうでない人間も、ある一定の情報を知る者は、だから不思議の国の住人の名を名乗る。
 狂った夢の世界に生きる者の名を――。
「睡蓮教団に憎しみを抱く者たちは、限られた真実を自分たちが知るか否かを識別するため不思議の国由来のコードネームを名乗りながら、ずっとアリスを待っていた」
 チェシャ猫がちらりと視線をヴァイスに向ける。語り手が再び彼女から彼に交代する。
「……限られた真実って?」
 アリストの問いに、ヴァイスは答える。
「睡蓮教団が神の復活のために動いていること。そしてその具体的な方法を知っていること」
「具体的な方法って――」
 鸚鵡返しに呟きながら、アリストは咄嗟に思い出せなかったその言葉の続きを脳内で考えた。
 聞いたことがある。そうだ。それは――。
「神の、魂の欠片を集めること」
 ――背徳神も辰砂も、その欠片はまだこの地上に残っている。そして睡蓮教団が神の復活を願う以上、彼らは背徳神の魂の欠片を追う。
 ――創造の魔術師・辰砂の魂を集める者だよ。
 あの時、ジグラード学院の研究室で。ゲルトナーが言ったのだ。睡蓮教団の目的は背徳神の魂の欠片を集めること。
 その事情を知る者は、不思議の国の住人の名を名乗る。だとすれば――。
「俺が、その“アリス”だっていうのか?」
 アリストはヴァイスによって“アリス”と呼ばれた。白兎の問いかけを、ヴァイスは肯定した。
 しかしダイナに名乗った“アリス”と言う名は、あくまでも本名を誤魔化すための偽名ではなかったか。
「別に偽名がコードネームを兼ねてはならないという決まりはない。『アリス』はありふれた名だしな」
 教団に関わらず普通に生きていく分には、危険人物と疑われることすらないだろう。
「……コードネームは本人の適性を加味して周囲が決めるか、もしくは自分で名乗るか。特にこうしなさいという規則はないわ。それでもコードネームが被ったという話は聞いたことないわね。その中でも“アリス”だけは特別だった」
「何故」
 アリストは補足説明をこなしてくれたチェシャ猫を一瞥し、ヴァイスに視線を戻す。
「何故、俺に対し、お前は“アリス”の名をつけるんだ?」
「……」
 女名だということはこの際置いておこう。物語からとられたコードネームに性別を考えるのは無意味かもしれない。
 けれど。何故。
「全てを始め終わらせる、物語の主人公……そんな名を俺に?」
 “アリス”と言う名。その名に込められた意味を聞かされて、アリストは正直戸惑った。そんな重要なコードネームを、自分などに与えていいのかと。
 白兎と赤騎士でさえ、自分たちを殺すことなく退いてみせた要因はアリストが“アリス”だと聞かされたことが大きいように思う。
 しかしヴァイスの方は何かと迷う節もなく、アリストを“アリス”とすでに決めているようだった。
「コードネームは適性を加味して決めるとチェシャ猫が言っただろう。その人間の適性は本人より周囲の方が理解できることもある」
 それは天啓のように閃く。
「あなたが」
「おまえが」
 理屈より理解より速く、魂が答を訴えるのだ。これしかない、と。

「“アリス”だ」

 だから、ヴァイスが白兎の質問を肯定する直前、アリスの存在を示唆したその時に四人の視線が一斉にアリストに集中したのだ。
 白兎が言っていた。

 ――お前でも、今や名探偵と持て囃されるヴェルム=エールーカでも駄目だった。“アリス”にはなれなかった。だがこの少年ならば、本物の“アリス”になれると言うの?

 候補者は一人ではなかったはず。まだ名前しか聞いたことのない名探偵も……そして白兎の口ぶりだと、恐らくヴァイス自身も“アリス”候補だったのだろう。
 けれど彼らでも“アリス”にはなれなかった? それとも何かの理由があってならなかったのか。
 今わかるのは、それが多分アリストの知る以上に、途方もないことだというだけだ。
 いまだ全貌の把握すら難しい程に巨大な組織を破滅に導く役割を――悪夢を終わらせる者の名を受け取ること。
「いいのか? 俺で」
「……お前こそいいのか? 逃げるならこれが最後のチャンスだぞ」
 臆して断るなら、元の姿を取り戻す機会が遅くなる代わりに偽名でどこか離れた街で暮らす手もあると。事情を知る者が限られている今しかその機会はない。
 ヴァイスは責める素振りも、引き留めたり憐れむ素振りすらなく、ただただ静かに確認する。答はもうわかっているというように。
 風に流れて晴れた雲間から月の光が降り注ぐ。
 金の髪で月光を散らしながら、アリストはゆっくりと首を横に振り微笑んだ。
「俺は自分の問題を誰かに丸投げして逃げ続けたりしねーよ。どんなに縮んだってこれは俺の体で、俺の人生で、俺の命だ。――俺が戦う」
 小さく柔らかな手。こんな無力な子どもの手で何ができるのかと。
 それでもやってみなければ始まらないだろう。
 その結果何を遺すこともできず、ただ無残に無様に亡骸を晒す羽目になるかもしれないけれど。
 否。
「俺は必ず元の姿に戻る。自分を、盗まれた時間を取り戻す。そして奴らを司法の手に引き渡して――きっちり決着つけてやるぜ!」
 命を危険に晒す覚悟はあるけれど、命を失うつもりは毛頭ない。
 自分は帰るのだ。大事で大好きな姉のもとへ。その時は“アリス”ではない、“アリスト”として。
 売られた喧嘩は買わなきゃな、と軽く言うと、ヴァイスがようやくいつものように皮肉気な笑みを浮かべた。
「どうせお前なら、そう言うと思っていた」
 この数日で、アリストはヴァイスのことなど、何一つ知らないのだと改めて思い知った。
 怪しげなコードネームにカルト宗教との関わり、知人に歳の離れた探偵がいるという謎の交友関係。
 突っ込みを入れたい部分は枚挙に暇がないが、それでもこれがアリストの知るヴァイス=ルイツァーリだ。他にどんな新しい情報が追加されても、アリストの知るその部分は変わらなかった。そこが変わらないからこそ、それだけは信じられる。
 そして。
「――チェシャ猫。いや、シャトン=フェーレース」
「!」
 彼女自身まだ耳馴染んでいないのだろう名を呼んで、アリストはこの状態を導いた張本人と改めて向き合った。
 二人の身長は今ほとんど変わらない。これだけ小さな子どもの体格の差などほとんどないということか。単に二人の成長ペースの問題か。
 常にどこか諦観と憂いを帯びている紫の瞳を見つめる。
「お前も、俺たちに協力してくれるか?」
「え……」
 チェシャ猫の瞳が揺れに揺れる。それはアリストに協力したくないという意味ではない。逆だ。
「私は……今のこの状況を作った人間なのよ。あなたを地獄に叩き落した人間よ」
「そうかもしれない。でもその地獄から救ってくれるのもお前だけだろ?」
 一口に睡蓮教団から時間を取り戻すとは言うものの、具体的にどうすればいいのかはアリストにはわからない。白兎は教団に送ったなどと言っていたが、アリストから盗まれた時間がいまどのような形状でどのように保管されているのか――それはチェシャ猫にしかわからない。
 魔導を解くには術をかけた本人の力が必要。ならば禁呪の開発者である彼女が傍にいることは、アリストたちにとって大きな強みになる。
「頼む」
 赤騎士と戦う彼女は真剣そのものだった。元は教団にいた人間と考えれば信用しすぎるのは危険かもしれないが、それでもアリストはチェシャ猫を信じようと思った。
 彼女が心を砕く相手だという「姉さん」も、もう教団にはいないらしい。
 “白騎士”であるヴァイスを頼れば、“アリス”に出会えると思ったというチェシャ猫。
 自分が彼女の目に敵う“アリス”かどうかはまだわからないが、そうなれるようにアリストも努力するつもりだ。
 だから彼女にも、己の魔導がただの暗殺術にされているこの現状を変えるために協力してほしい。
「……こちらこそ」
 返ってきたのは、いつも無表情に近い冷めた瞳の少女が、初めて見せる柔らかな笑顔だった。

 ◆◆◆◆◆

「で、いいのか? 本当に」
「お前こそ」
 白兎と赤騎士の二人は今回の仕事の本拠地であるホテルに戻り、愉しげに笑み交わす。
「あれが本物の“アリス”ならば、いずれ必ず再び私たちの前に姿を現す。しかしそうでなければ、どうせ私たちが殺さずとも他の教団員に殺されることだろう」
 ここで自分たちが手を引いたからと言って、教団そのものは相変わらず彼らの敵だ。
 他の奴に殺されるならそれまでだ、と。
「教団の存在は私たちの隠れ蓑としては便利だが、そこまで義理立てしてやるつもりもないしな」
「ひっでー。俺たちのような怪しげな存在を受け入れて仕事くれてる相手なのに」
「そんなものなくとも別に平気だろう。私たちなら」
 整えられたベッドの上、赤騎士が白兎の頬にするりと指を滑らせてなぞる。白兎がその手に自らの手を重ねる。
 触れる互いの肌は滑らかだ。外見年齢の少年の姿相応に。
 けれど彼らの外見はあくまでも外見で、中身はそれに釣り合うものではない。白兎や赤騎士を目にした者は誰しも彼らが本当はその外見以上の齢を重ねていることを自然と感じ取る。
 悠久の時を超えて共に生きる二人にとって、今この瞬間世界を悩ませるあらゆる問題も一つの通過点にしかならない。
 睡蓮教団も今の名前――偽名もコードネームも、所詮はこのひとときの退屈を紛らわせるための仮宿だ。
「ところでルーベル、お前に教団の方から新しい仕事が入った」
「ん?」
「言っただろう? 今はチェシャ猫のことより、妹分の脱走に乗じて背信行為を行ったジェナー=ヘルツォークの始末が先だと」
 白兎はアリストたちから手を引くと宣言した。そう、アリス、白騎士、チェシャ猫の三人からは。
 だがチェシャ猫にとって大事な姉貴分である公爵夫人の処遇までは言及していない。
「……お前も性格が悪いな」
「お前に言われたくないよ」
 単に逃げ出したチェシャ猫と違い、公爵夫人は明らかに誰かに流す目的でデータを持ちだしたのだ。さすがにそこまでされては教団にさほどの忠誠心がない二人も放っておくわけには行かない。
 どうせ教団の息の根を止めるのであれば、完璧にやってもらわねば困る。中途半端にその存在を明るみに出され、闇の存在が動きにくくなるようでは面倒だ。
 だから公爵夫人では力不足だというのだ。これ以上余計なことをする前に、彼女には消えてもらわねばならない。
「それで? 今度は私に何をしろって?」
 赤騎士の嘆息に、白兎はにやにやとまた、これ見よがしに悪巧みをしていますという笑顔を返した。
 絢爛豪華なる帝都エメラルドの中心で、闇に動く者たちの新たな計画がゆっくりと進行していく――。

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