第2章 歪む鏡の向こう側
8.鏡の向こう側 047
「そう、そんなことがあったの」
アリスはギネカに、改めて四月一日からこれまでに彼の身に起こった出来事を話した。ギネカの方は接触感応能力で簡単に情報を得たとはいえ、やはり当事者から情報の取捨選択をした形で経緯を説明されるのとは違う。
「大変ね。現在進行形で」
「ははは……」
赤騎士相手の命の危機は脱したが、いまだ子どもの姿から元の十七歳のアリストに戻る具体的な手段は目の前にない。
教団に盗まれた時間を取り戻すと言っても、その方法がわからないのだ。 まぁ、そちらに関しては禁呪の開発ごとシャトンに任せ、アリスは教団の情報を日々地道に探していくしかない。
「さっきも言ったけど、『アリス』の登場人物のコードネームを持つのは、教団とその関係者みたいな事情を知る奴らだけなんだ」
「その中にはアリスト……アリスみたいに、彼らに対抗しようという勢力も含まれるのよね?」
「そう、名前を聞いただけじゃ、相手が敵か味方かもわからない。でも用心することに越したことはないだろ?」
無事に誤解が解けたところで、ギネカは今後の話をする。
「ねぇ、アリスト……あなた、これからどうするの?」
「え? そりゃ、今まで通り元の姿に戻る方法を――」
「そうじゃなくて」
アリスの台詞を遮り、ギネカは改めて問いかけた。
「みんなに言わないの? このこと」
「……」
「フートたちだって事情を聞けばきっと協力してくれると思うの。だって、あなた一人でなんて――」
「ギネカ」
彼の身を案じる彼女の言葉を遮り、アリスは告げる。
「悪いけどそれはできない」
「事情を知る人間が増えれば、教団に目をつけられるって? みんなそんなヘマするような奴らじゃないでしょ?」
「でも、巻き込みたくないんだ。不安にさせたくない。余計な事情を知ることによって、俺自身が失敗した時にどうなるかわからない」
「アリスト」
「これはイモムシ……ヴェルムの経験に基づく証言だ。世間的に有名だった探偵の父親が教団について知りすぎたために、あいつの両親は殺された。ヴェルムはまだ教団の核心に近づいてない。だからまだ殺されてないんだって」
「あの探偵さん……そうだったの……」
“帝都の切り札”こと、探偵ヴェルムを巡るやりとりはギネカも多少知っている。あの頃、探偵夫妻の殺害事件について連日世間はニュースで騒ぎ立てていた。
「そう。アリストの意志はわかったわ。でも私はやめないわよ」
「え?」
「こんな話を聞いて、今まで通りのほほんとなんてしてられないわよ。私に協力できることがあれば言ってちょうだい」
「そんなこと――」
「あるでしょ。少なくとも、戦力に関しては今七歳児の姿になってしまった誰かさんより役に立てると思うわよ」
「うぐっ」
本日も強盗を捕まえるのにほとんど役に立たなかった自覚のあるアリスは、それを持ちだされると何も言えない。
「それとも……私が傍にいるのはいや? やっぱり、人の記憶を勝手に覗き見る能力者なんて気味が悪い?」
「そんなことない!」
これまで接触感応について隠していたギネカは、その力に余程のコンプレックスを感じているようだった。
アリスはジグラード学院の高等部に入学するまでの彼女の人生を知らない。
だが彼女が、学院内でもごく限られた人間としか付き合いがないことは知っている。その限られた人間に当たる彼ら友人内でさえ、その身に触れることがないよう気を遣っていたことも。
以前は意味がわからなかった。彼女の能力を知った今では、ギネカが何を考えていたのかもわかるつもりだ。
「ギネカがその力を隠していたわけはわかるよ。でも俺は、そんなこと思ってない」
アリスの方から、ギネカの両手を包み込むように――とは、今現在の手のサイズから行かなかったが、とにかく両手を包んだ。
「読めるならわかるだろ。今俺が何考えているのかも」
「アリスト……」
ギネカが薄らとは言え涙を浮かべている場面を、アリスは初めて見た。
「ありがとう」
微笑んだ彼女は、しかし次の瞬間にはこれまで以上に真摯な表情で訴えかける。
「あなたが私たちを案じてくれるように、私たちもいつだってあなたを心配している。だからせめて、こうして真実に辿り着く力のあった人間くらい、力を必要として。私たちも取り戻したいのよ。十七歳のアリストを」
「ギネカ」
彼女が簡単にそんな台詞を言う人間でないことは“アリスト”はこの一年の付き合いでよくわかっている。
「……わかった。どうせ俺がここで頷かなかったら、それこそギネカは勝手に無茶するんだろ?」
「当然。学院の成績と言う点では、私の能力値はアリストに引けを取らないのよ。足手まとい扱いなんてしたら怒るわよ?」
これまで踏み込み過ぎないようにしていた距離をあえてギネカが詰めてくるのなら、それに乗ろうと“アリスト”は考える。それに。
「……ありがとな、ギネカ。最初に申し出を断っておいて難だけど、本当は凄く心強いよ。俺を、本当の『アリスト』を知っている人間が協力してくれるのは」
「うん」
――本当はアリストだって、自分をよく知る味方が、助け手が欲しかったのだ。
「これからよろしく」
「ええ。絶対にあなたを戻してみせるわ」
◆◆◆◆◆
アリスはギネカとのやりとりを、帰宅後自らシャトンとヴァイスに話した。
「そう、そんなことがあったの」
事情を明かしたことを責められるかと危惧したが、二人とも意外な程に冷静だった。ヴァイスは元より、シャトンも今日の事件のおかげでギネカの実力は理解している。
一般人を巻き込むことに不安がないわけではないが、あれだけやれるなら及第点だろうという評価だった。戦力と言うよりも、彼女自身の身を守るという意味で。
「大変ね。現在進行形で」
「なんかこのやりとりデジャヴ!」
ギネカにも言われた台詞をシャトンに告げられ、アリスは思わず叫ぶ。そこに、鋭い追撃が入った。
「友人の一人に事情を話したのはいいけれど、あなた、明日からその人にどんな顔して会う気? 『ギネカお姉さん』の前で可愛い『アリス』の演技をわざとらしく続けなきゃいけないのよ?」
「うわ……そういえばそうだった……どうしよう顔から火が出そう」
「どうしようもないわね」
トドメの一撃を受けて、アリスは食卓に突っ伏した。傍観していたヴァイスがまぁまぁと割って入る。
「それはいつでも一緒だろ。正直私やヴェルムもアリスの見事な変わり身を目にするたびに笑いを堪えるのに必死なんだ」
「おい、ヴァイスてめーどういう意味だそれは。っていうかヴェルムまで?! 俺の味方はー?!」
「「ま、冗談は置いといて」」
「冗談かよ!」
「「いや、八割方本気だけど」」
「なんでそこで声を揃えるんだよ?!」
いいから話が進まない黙れと口を塞がれて、アリスは拗ねた顔で黙り込む。
「結果的には良かったんじゃないか? マギラスならお前と同じくらいの実力はあるし、接触感応能力を持つなら協力者としてこの上ない。友人としての付き合いも深いだろう?」
「彼女自身も秘密……弱味をばらしたってことは、あなたを安心させる意味もあったんでしょうね。そこまで明かしたからには裏切らないって」
「……」
シャトンの言葉に、アリスは今度は自分の意志で口を噤む。
これまで黙っていたとギネカは言っていた。シャトンの指摘した通り、あれはギネカにとって誰にも知られたくない弱点なのだ。その信頼を裏切る訳にはいかない。
「いいじゃない、あなたにとって信用できる相手なら」
「いいのか? お前だって巻き込むのに」
「とっくに一蓮托生でしょ。いいわよ。あなたが信用した相手なら私も信用してあげる」
「なんかシャトン強くなったな……」
今日一日の子どもたちとのやりとりで安定したシャトンは、以前の不安な顔を微塵も見せない。
「実際問題、私たちのような子どもの姿じゃできないことも多いわ。白騎士やイモムシの他に協力者が増えたのは頼もしい。それに彼女は、銃を持った強盗に魔導で立ち向かえる程の腕前でしょ? 頼りになるじゃない」
「俺としてはダチをそんなことに巻き込みたくないんだけどなぁ……」
「諦めなさい」
「しゃーとーんー」
「……全てを知って除け者にされたら、その方が余計辛いわよ」
揶揄まじりのこれまでとは違い、彼女は静かに諭すようにそう言った。
シャトン自身にも何かそういった経験があるのだろうか。それはまた、アリスの知らない表情だ。
「どちらにしろもう決まっているのだろう? 一度話してしまったことをやっぱり忘れてくれと言うわけにもいくまい。――ふむ、これからは私やヴェルムの手が空かない時はマギラスを頼れるわけか。まぁ、確かに心強くはあるな」
ギネカにはヴェルムのような探偵能力も、ヴァイスのような人脈や特殊技能もない。刑事でもなければ格闘家でもない。
だが、彼女を元々知るアリスやヴァイスにとっては、人格的に信用に足る人物なのだ。
頼る理由はそれだけで十分だと。
「お友達を危険な目に遭わせたくないなら、あなたがまず危険なことをしなければいいのよ」
「簡単に言ってくれるな」
「でも諦めないんでしょ? あなたは」
「……当たり前だ!」
「その意気その意気」
そしてチェシャ猫は、いつもの台詞を繰り返す。
「全てはあなた次第よ、アリス」