薔薇の皇帝 16

第9章 動乱のエヴェルード

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 どこか遠くで、教会の鐘が鳴った。
 白い鳥が灰色の空を切り裂くように羽ばたいていく。
 
「でしたら、その十年を私にください」
 少年は言った。
 真摯な瞳の色は少し違えど、その顔は記憶の中の面影にとてもよく似ている。ロゼウスはここ数か月、彼を見つめていて湧き上がる愛しさと悲しみを、抑えるのに苦労した。
「本当に十年かはわからないぞ。もっと早いかもしれない。遅いかもしれない。何せ、お前は今とまったく姿が変わっていなかったから」
「九年だろうと十一年だろうと変わりませんよ。ただ、私が少しでも多くあなたと過ごす時間を得られること、それが望みです」
 フェルザード=エヴェルシードはその時十七歳だった。
 十七歳。かつてロゼウスが、その愛した人物と出会い、過ごしたのと同じ年齢。
 まるで記憶の底から甦ってきたかのような容姿を持つこの少年は、けれどすぐに愛しい人とは別なのだとロゼウスたち、「彼」を知る者に実感させた。なまじ同じ顔を持つが故に、「彼」との性格の落差が大きく、ロゼウスたちはすぐにこのフェルザードという少年の存在に慣れてしまった。――「彼」とは別の人間として。
 そして、ロゼウスは夢を見た。
 遠い日の幻が語りかける。
 ロゼウスは自分が何故、この四千年間滅びることなく皇帝の座に在りつづけなければならなかったのか、ようやくわかった。
 だからフェルザードを受け入れた。
「わかったよ、フェルザード。……お前を俺の愛人として正式にエヴェルシードに要請しよう。これからは好きな時に皇帝領を訪れるがいい」
「本当ですか?! 皇帝陛下!!」
 この少年は本当にとんでもない。わずか数か月でロゼウスはそれを実感していた。ロゼウスだけでなくリチャードやローラ、エチエンヌたちも、他の人間たちもそうだろう。
 「彼」を知る知らないは別として、フェルザードはこれまで皇帝領を訪れ皇帝の歓心を買おうとしたどんな人間とも比べ物にならない問題児だった。ロゼウスに愛を告白するだけでなく薬を盛ろうとしたり剣で重傷を負わせたりと、本当に愛人志願なのか、実は皇帝を弑逆して帝国転覆を目論んでいるのではないかという乱暴な手段まで使った。
 その熱意に折れた形で、ロゼウスがフェルザードを受け入れようかと考え始めた頃。
 夢を見た。
 それは予知夢。それは起こるべき出来事を知らせる未来の夢。それは――運命。
 ロゼウスの見た夢の中に、フェルザードの姿があった。その時に、ロゼウスは本当の意味で自分がこの世に生まれてきた意味を知ったのだ。
 皇帝領の時計塔の頂上に呼び出して、ロゼウスはフェルザードに自分が見たものを語った。頭上では大きな歯車が蠢く。ここは世界の真理に一番近い場所だった。
 十年。
 その時間が長いのか短いのか、四千年近くを生きたロゼウスにはもうわからない。
 自分が一番愛しかった人間と過ごしたのはたったの一年きり。家族や兄妹と共にローゼンティアの王子として過ごしたのはそれまでの十六年。けれどそれだけの短い時間が、何千年も時を経た今も鮮やかに自分の中に棲みつづけている。記憶は薄れはしても忘れ去られることなく、この胸に傷を残す。幸せな想い出にも甘い痛みはひそみ、分かたれた半身を思うと罪悪感で胸が疼く。
 女王となった妹。この手で殺した兄。喪われ、再生した故郷の王国。神の託宣。
 そして――誰よりも憎み、愛したかの王。
 目の前にいる少年は彼と同じ顔をしている。けれどまったくの別人だ。それはわかっている。人の魂は転生する。世の中には今この瞬間も誰かの生まれ変わりが新しい人生をはじめている。けれどフェルザードは彼の生まれ変わりですらない。単に顔が良く似ているだけ。
 フェルザードはフェルザードだ。それはこれから十年を経てもきっと変わらない。だからロゼウスは一度はフェルザードの申し出を断るべきだと考えた。しかし彼は言った。
「皇帝陛下、これからのあなたの十年を、私にください」
「私の十年ではなく、お前の十年だろう。私はもう十分に生きた」
「だからこそ、ですよ。でしたら、その十年を私にください」
 ひたむきな眼差しだった。
 結末のわかっている物語に対して、どうして彼はここまで真剣になれるのだろうとロゼウスは不思議に思った。それとも四千年前、あの最悪の預言を覆そうとしていた自分もこんな顔をしていたのだろうか。
 時計塔の歯車が廻り、針を動かす。時を刻み続ける。止まらない運命。終わりへと向かう、自分という名の物語。
 ここでフェルザードという人間を選んでも、十年後、必ず別れることになる。
 ロゼウスにはそれがわかっていた。フェルザードにもそう伝えた。
 そしてそれでも、フェルザードはロゼウスを求めたのだ。

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 恋をした。
 最初で、最後の恋だった。
 親愛なる私の皇帝陛下。
 お前だけが、最初で最後の恋人だ。