Pinky Promise 049

第3章 歯車の狂うお茶会

9.帽子屋の仮面 049

 夜の闇は彼を映し出す舞台に過ぎない。人々はそっくり返りそうな程に首を上げて、ビルの屋上を凝視した。
 ざわざわとした曖昧な喧噪が、一つの声によって爆発的な歓声へと変わる。
「いたぞ! “マッドハッター”だ!」
 黒いマントに花を飾ったシルクハット。白い仮面で顔を隠した怪しげな男。しかし身のこなしの優雅さから、犯罪者にも関わらず数多の熱狂的なファンがついている。
 怪人“帽子屋”
 それは十年程前からこの帝都に現れ、美術品や宝石を中心に盗んでいく怪盗の名だ。
 十年前に一年弱活動し、その後何年も鳴りを潜めていたがこの数年で復活した。
 逮捕されていないのだから当然仮面の奥の素顔は誰にも知られず、あらゆる罠と警備をかいくぐる神出鬼没の存在として知られている。
 彼――男か女かも本来定かではないが、その外見から便宜上彼と呼ばれている――の盗みは、まるでサーカスかマジシャンの派手なパフォーマンスのようで、その姿を一目見ようと見物人まで訪れる始末だった。
 マッドハッター自身も予告状などと謳って、己の盗みに関する挑戦状じみたものを警察に一々送りつけている。
 帝都を騒がせる怪盗は現在二人だが、彼らの予告状が出された際にはテレビニュースも新聞の一面も賑々しくその活躍を騒ぎ立てる。
 今宵のマッドハッターの獲物は、エリスロ=ツィノーバーロートの描いた絵画の一枚。
 ツィノーバーロートは四百年程前の画家だ。
 彼は己の夢に出てくる景色だと言っては、海辺の絵を生涯に亘って描き続けた。 後世の研究ではそれはどうやら四時の大陸の一部地域の海岸線であることが判明している。
 絵画の内容も、写実主義の美しい海辺から悪夢のような血塗れた白い砂浜まで様々だ。
 海以外の絵も描いたが、彼の評価が高いのはやはり海の絵だった。
 そして怪人マッドハッターは、エリスロ=ツィノーバーロートの絵画を盗む時は、ほぼ海の絵しか盗まない。
 尤も、マッドハッターの盗みは普通の窃盗犯とは異なっている。
 彼は一度盗んだ品を、ご丁寧にも後日警察に送りつけるのだ。
 そのため完全な窃盗犯と言うよりも、どちらかと言えば己の能力を世間にひけらかしたいだけの愉快犯と思われている。
 しかし世間では品を完全には盗まずに返す彼を好意的な目で見る者も多いという。マッドハッターの人気は下手な芸能人など及びもつかず、それがより一層警察諸氏を苦々しくさせるのだ。
 今日も鉄の扉を勢いよく開け放ち、マッドハッターのいる屋上へ警察がついに昇ってきた。
「マッドハッター! 貴様!」
「おや、モンストルム警部」
 帝都エメラルド警察捜査三課、窃盗犯“マッドハッター”専任警部のコルウス=モンストルムは、今日も彼を追いかける。
 モンストルムは三十代。いつも同じ一張羅を着て、マッドハッターの予告状が出される度に帝都のどこにでも駆けつけるのが役目だ。
 なまじ怪盗としてのマッドハッターに人気があるために、時には彼を追いかける警察として憎まれ役もこなさねばならないという不憫な立場である。
 宝石や絵画、美術品などを狙われる被害者の方も警察などに警備を任せてはおけないという癖のある大富豪、マッドハッター人気にかこつけて商売を始める者、裏であくどいことをしていたが為にマッドハッターの餌食となった同じ穴の貉など様々だ。
 モンストルムはマッドハッターを追いかけ、無事に標的を守り抜くこともあれば、まんまと盗まれてしまうこともある。そしてどれほど標的を守ろうとも、結局怪人をその手で捕まえることは叶わない。
 それでも彼は、帝都警察の威信にかけて今日も怪人を追いかける。
「そこを動くな! 今日こそ貴様を逮捕する!」
「残念ながら、動くなと言われて動かないバカはいませんよ」
 背後に何人もの部下を引き連れたモンストルムの突撃を、怪人は闘牛士のようにひらりとマントを靡かせながら躱した。
 ちなみに、モンストルム警部は後にこの光景をテレビで見ていた七歳の息子から「父さん、さすがにあれはないよ」とダメ出しされたという。
 怪人マッドハッターの盗みは世間の注目度も高く、毎度の如くテレビでも取り上げられるので場合によっては一部始終が帝都中に流れてしまうのである。
 マッドハッターファンの中には彼を捕まえようとする警察諸氏を仇のように憎む者もいる。確かにいるが、それよりもマッドハッターに翻弄され続け、時にコミカルな姿を晒す彼らを、怪盗のショーの出演者の一人のようにみなして喜ぶ者も多いと言う……。
 そして怪人マッドハッターは、今日も獲物を手にして夜の闇を従え、眼下の客たちに仮面の奥から笑みを投げる。
「それでは警部、エリスロ=ツィノーバーロートの絵画『暁の嘆き』は頂いていきますよ」
「あ、待て!」
 怪人がマントをはためかせるように腕を動かすと、次の瞬間その姿はまるで闇に溶け込むかのようにその場から消えるのだった。

 ◆◆◆◆◆

 ヴァイス=ルイツァーリ宅の居間のテレビで、アリスたちは怪人マッドハッターの犯行中継を見ていた。
「相変わらず見事な手際だなー。マッドハッター」
「そうか? こんなこと、魔導を使えば簡単にできる」
「いや、普通の人間は魔導なんて学ばないから。そして学んだとしても、こんなに手際よく術を仕掛けらんないから」
 魔導学の講師として勤める立場で意見するヴァイスに、アリスは突っ込みを入れる。
「でも本当に、彼の場合はどっちなのかしらね? 魔導にしか見えない不可思議な技も、ただの優れた身体能力だったり手品だったりするのかしら」
「うーん」
 シャトンが他愛ない疑問を口にした。口調はともかく、そうしてテレビを見ながら不思議がる様子は無邪気なただの子どものようだ。
 アリスは先月姉と共に見に行ったサーカスを思い出しながら口を開く。
「なんとも言えないな。本当に優れた曲芸師ならあのくらいの動きはできるだろうし、魔導を学ぶ手間と手品の種を考える手間だったら、どっちの方がかかるんだろうな」
「魔導は才能に左右されるから手品かもね。ただ、種が残ってしまうけれど」
「魔導だって調べようと思えば痕跡は残るぞ?」
「調べようと思えばね。その気にならなかったら完全犯罪成立ね」
 完全犯罪、という言葉に、今度は現役探偵であるヴェルムが反応した。彼はこれまで帝都の難事件を幾つも解決に導いてきた実績がある。
 ヴェルムは“怪人マッドハッター”との面識はないと言う。だがその一方で、帝都を騒がすもう一人の怪盗とは何度も対決したことがあるらしい。
「怪盗ジャックもそうだけど、こういう人気のある窃盗犯のトリック解決にまで魔導調査を求める声って少ないんだよな」
「そうなの?」
「殺人事件ならそれこそ犯人を逮捕するまでにはなんだってやる必要があるから、あまりに不可解な事件には密かに魔導士の協力を要請するんだけどな。ジャックもマッドハッターも盗んだ獲物を返してくるからな」
「盗まれた品が戻れば犯人のことなんてどうでもよくなるでしょうね」
 ヴェルムが主に対決する窃盗犯は、“怪盗ジャック”の方だった。マッドハッターと同じように予告状を警察に送りつけて犯行を行う怪盗で、こちらは白い騎士装束のような衣装を身に着けている。
 探偵としてのヴェルムはお宝の持ち主や警察から、狙われた品の警備を任されることが多いらしい。盗品を返却することで有名な怪盗と言えど、所詮は犯罪者、何があるかはわからない。
 そんなヴェルムに、午後九時を回って比較的遅いと言われるこの時間に電話がかかってきた。
「え? ……はい。そうですが……」
 アリスたち三人は息を潜めて会話の邪魔にならないようにしながら、音を絞ったテレビに再び目を向ける。
 黒いのに派手なマントを翻すマッドハッターが闇に溶け込む姿を見ながら、好き勝手なトリックを口ぐちに言い合った。
「わかりました。明日の正午ですね。伺います」
 通話を終えたヴェルムにアリスは話しかける。
「どうしたんだ? ヴェルム」
「警察に呼ばれた。力を貸してほしいって。すまん、数日は忙しいかも知れない」
「わかった」
 探偵って大変だなぁなどと他人事のように感じながら、この時のアリスはまだ、自分が平穏な生活の中にいると信じて疑わぬままテレビを見ていた。