Pinky Promise 067

第3章 歯車の狂うお茶会

12.終わらない六時 067

「なぁ、シャトン、借りってなんだ?」
「ああ、それは……」
 シャトンが最後にマッドハッターに言っていたことが気になり、アリスはヴァイスのマンションに戻ってから詳しく尋ねた。
 そこで判明したのは、シャトンが教団から逃げ出す際に手を貸してくれたのがマッドハッターだったという驚くべき事実だ。
 自らが開発した禁呪とはいえ、子どもの姿になってしまえばできることは限られている。
 そんなシャトンの目の前に現れたのが、あの怪人だったらしい。
『手を貸しましょうか、お嬢さん』
『……あなた、誰?』
『私はコードネーム“帽子屋”。それとも怪人マッドハッターと名乗った方が通りが良いでしょうか』
 降りしきる雨の中、冷えていく体を黒いマントが包んだ。
『あなたはこれからどうするのです?』
『……どうにかして、教団に禁呪の使用を止めさせるわ。術式の構成資料は全て燃やしたから誰も手出しはできない。でも、もう白兎たちが覚えてしまった分はどうにもできない』
 彼に対抗できる戦力が必要だ。
 そう考えたシャトンが思い至ったのが、かつて教団を壊滅寸前にまで追い込んだと言うコードネーム“白の騎士”――ヴァイス=ルイツァーリの存在だった。
『あなたは悔いているのですね。あの術を作ったことを』
『ええ……』
『なら、良かった』
『え?』
 怪人の落とした意味深な呟きに、シャトンは思わず仮面の向こうの瞳を覗き込もうとする。
 だが、顔隠し用の白い仮面はその下の素顔を彼女に明かしてはくれなかった。
『十年待ちましたよ、“チェシャ猫”。本当の私を取り戻すのに。それでもまだ足りない。盗まれた時間は戻らない』
『待って! マッドハッター、あなたまさか……!!』
 禁呪が本格的に使用されるようになったのはここ数か月。
 だがそれまでにもチェシャ猫は術の開発と改良を進めていた。それこそ十年近く前の、ほぼ実験段階の時から。
 十年前に現れ、いつの間にか消え、また最近復活したという怪人マッドハッター。
 彼はまさか――。
 確信が持てないまま彼女は彼に助けられ、無事に白騎士とアリスと合流することができた。
 チェシャ猫の過去を聞いたアリスが呆然としている。
「そんなことがあったのか……って、それなら早く教えてくれればいいじゃん」
「言ったでしょう、確信が持てなかったって」
 今まで怪人のことなど何一つ知っている素振りを見せなかったシャトンの態度に口を尖らせて不平を訴えていたアリスは、不意にあることに気づいた。
「って、あれ? でもそうしたらマッドハッターはお前のことを知っていた……ようには見えなかったんだけど……」
 今日アリスが顔を合わせたマッドハッターは確かにアリス=アンファントリーの保護者がヴァイスであることを知っているなど情報通のようだったが、シャトンことチェシャ猫と面識があるようには見えなかった。
 あったらアリスたちが、結界の影響から解放されて縮んだ際にあれほど驚くまい。
「ええ。私もそう思ったわ」
「へ? じゃ、どういうこと?」
「仮面の下の素顔なんて、誰にもわからないと思わない?」
「……お前を助けたマッドハッターと、今日のマッドハッターは別人だってことか?」
 困ったように笑うシャトンに、アリスは眉根を寄せながら慎重に尋ねる。
「さぁね。ぱっと見の雰囲気は一部の隙もなく同じ人間に見えたけれど」
 だが、見た目なんて当てにならない。今は彼女たちが誰よりも知っていることだ。
 外見などいくらでも取り繕える。
 変装でも、整形でも、魔導でも。
「どうなってるんだよ……」
「私が聞きたいくらいだわ。でも、完全に無関係ってわけでもなさそうじゃない?」
 今のマッドハッターが十年前と別人だなんて話は、帝都で五年暮らしていたアリスも聞いたことがない。マッドハッターの偽者自体はよく出現して話題になるのだが、今日の彼は間違いなく「本物」ではあるのだろう。
「なんにせよ、接触して彼の立場を探るという目的は果たせたわね」
「こっそり探るどころかこっちの秘密もばれたしな」
 まぁ、向こうも後ろ暗い身。アリスたちを教団の危険に晒す意味もないだろうし、そこから情報が漏れる危険は薄い。
「それより問題はティードルディーとティードルダムの方だろう」
 ヴァイスも加わり、三人で額を突き合わせてこれからどうするかを話し合う。
 その作業は、翌日のニュースによって無意味なものへと変わるのだが。

 ◆◆◆◆◆

 マッドハッター側でも、共犯者の眠り鼠ことムースと共に、その話をしていた。いつものアジト。いつも通りの仕事の成功。けれどその後奇妙な子どもと顔を合わせて睡蓮教団と対峙したことは、いつも通りではない。
 アリス――あの小さな子どもが、自分の友人のアリストだって?
 とても信じられないと訴える理性と一部始終を目撃した瞳が今にも喧嘩を繰り広げそうだ。
 通信で聞いていたムースなど、いまだに半信半疑である。何か幻覚でも見せられていたのではないかとすら疑われた。そんな手の込んだ意味不明な幻覚を教団が用意する必要もないのに。
 けれどこの二人がそれ以上に気になったのは、アリストよりももう一人の少女が口にしたあの言葉だった。
「借り? 借りってどういうこと?」
「知らん」
「知らんって」
「言葉のままだ。俺が知らなくて、マッドハッター関連ってことは……」
「……まさか」
 ムースは震える唇で、その言葉を口にした。
「ザーイが……生きてるの?」
「俺はそう考えている」
 ティードルディーとティードルダムの言動からは、十年前にマッドハッターと対峙し、ザーイエッツを殺そうとした意志が窺えた。けれど同時に、ザーイエッツの死を確認したわけではないらしいこともわかっていた。
 だからフートもムースも、諦めずにこれまでザーイエッツの生存を信じてこれたのだ。
 そして今、ようやくもう一つの手がかりを見つけた。
「でもその相手って、ヴァイス先生のところにいるあの子なんでしょう」
「ああ。んでもう一人が」
「アリスト君……私たちが思っていたよりずっと大変な目に遭っていたのね」
 期せずして姿を眩ませた友人の情報まで手に入れてしまった。向こうはこちらがフート=マルティウスだとは気づいてはいまい。
「近くで動向を見張れると言う意味では便利なんだけどなー」
「気を抜くとこっちの正体もバレそうね」
 聞きたいことのある人物がすぐ近くにいる。それがわかっているのに簡単に話しかけられないというのは、なんだか酷くもどかしい。
 だが、金銭的価値として自分の懐に入れるわけではないとはいえ、フートやムースはすでに怪人マッドハッターとして盗みに手を染めてしまった身。自分たちの正体に気づかれてはならない。
 特にムースに関してはフートが巻き込んだようなものだ。彼女だけは自分の罪に巻き込んではいけないとフートは考えている。
 そしてもう一人の面影が脳裏を過ぎる。
 この十年兄の影を追いかけ続けていたフートが、唯一恋した小さな少年。
 この感情が正確にはどんなものなのか、フート自身にももうわからない。ほんの少し言葉を交わすだけで胸が高鳴る。でも周囲からはもちろん歓迎されない思いだ。
 その感情は何かの間違いだと諭されて揺れる思いもある。
 自分は十年前、彼のようなしっかりした子どもでありたかったのだろうか。だから夢を見ているだけなのだろうか。
 天才だなんて嘘。兄に、世界に対し、劣等感だらけの代役マッドハッター。
 フートはテラスにだけは秘密を知られたくないと、心からそう思う。
「フート、どうしたの?」
「ああいや。なんでも」
 考え込んでいた様子を気にかけられ、フートは幼馴染になんとか笑顔を返した。
 大丈夫。頭が沸騰しそうな程にややこしいが、自分たちはちゃんと前に進んでいる。
 現在行方不明中の本物の帽子屋、ザーイエッツに少しずつ近づいていっている。
「とりあえずしばらくは学院内でもボロを出さないよう気をつけなきゃな」
「ええ。それにティードルディーとティードルダムがあの二人に近づくことも警戒しなきゃいけない」
「おっと忘れてた。そういやあいつらがいたんだっけ?」
「場合によっては、私たちの事情を明かしてヴァイス先生と正式に協力関係を築いた方がいいかもしれないけど……」
「魔導を犯罪に使ってました! なんて言ったら俺の方が殺されるわ」
「だよね……」
 マッドハッターの正体はまだバレていない。動くのは明日のアリスたちの様子を見てからだと、ひとまず二人も真夜中の会議を終える。
 彼らも無関係ではない衝撃的な事件が、この時間に起きていることも知らずに。