第3章 歯車の狂うお茶会
12.終わらない六時 072
教室の話題は、朝から二つに分かれていた。
「この前のマッドハッターの盗み、また凄かったんだってねー!」
日曜を挟んだせいであれから何日も過ぎたように思えるが、実際には一昨日の出来事なのだ。
マッドハッターが絵を盗み、アリスたちが彼と接触し、ティードルディーとティードルダムと戦い、その後彼らがハンプティ・ダンプティに殺害されたのは……。
小等部の教室は比較的賑やかに、先日の怪人マッドハッターの犯行で盛り上がっていた。
怪人と殺人犯の犯行現場こそ近くにあったが、今のところ両者を結び付ける動きはないらしい。マッドハッターの無実は、皮肉にもその頃窃盗犯としてのマッドハッターを追いかけていたモンストルム警部が証明しているからだ。
「テラス君? どうしたの?」
「お前いつもマッドハッターの話には楽しそうに混ざるのに」
「今日は、元気ないですね」
モンストルム警部の息子であるテラスは、また父が怪人に出し抜かれたことが不満なのか本日はほとんど喋らなかった。
子どもたちは彼を気遣い口ぐちに声をかける。
「気分が悪いなら保健室にでも行く?」
「違うよ、大丈夫。夜更かししちゃったからちょっと眠いだけ」
「そうか?」
偽りの平穏が過ぎていく。
◆◆◆◆◆
高等部では、さすがに怪人の話ばかりでなく、連続殺人事件も話題になっていた。
「あの犯人、まだ捕まってないのね」
「捕まるどころか、エスカレートしてるじゃん。今度は一気に二人だろ?」
「被害者たちの接点ってまだ見つからないみたいだね」
エラフィやレント、ヴェイツェの三人は今朝もニュースで流れていた情報を口にする。
一方先日からその話を知っている面々は表情が一様に暗い。
「ってことは、無差別殺人なの? うわ、やだ。ポピー美術館の近くとか、私たちあの日行ってたじゃん」
エラフィが飴を咥えたまま眉根を寄せる。
「あれ? ギネカ、どうしたの? なんか今日大人しいじゃん」
「ええ……って、ちょっと待ってよ。それって私がいつもは煩いみたいじゃない!」
エラフィに話を振られて頷きかけたギネカは、その酷い言い様に我に帰って抗議した。
しかしそれはエラフィなりに元気がないように見える友人たちへの気遣いだったらしい。彼女は続いてフートとムースの幼馴染コンビにも声をかける。
「フートもムースも、なんか不味いもの食べたみたいな顔してるよ」
「……ああ、今日のおやつはムースが塩と砂糖を間違えたクッキーだからな……今から胃の調子が心配で……」
「そうなのよ。見ないで砂糖壺とったら実は……じゃなくて! フート、何適当なこと言ってんの!?」
ようやく調子を取り戻したのか、ムースがフートを勢いよくどつく。それに一同が笑ったところで、なんとか空気がいつもと同程度には軽くなった。
「でもあの殺人事件は気になりますよね。殺害人数だけでなく、殺害方法まで今度はエスカレートしていたらしいですよ。滅多刺しから四肢切断でばらばらだったって」
「ルルティス……」
死体の状況を語りながらよく砂糖と塩を間違えたクッキーを平気でもくもく食べられるなと、のほほんとした転校生に一同の生温い視線が集中する。
「どうして今回だけそんな凄い有様だったんだろうね。何か今までの被害者と違うところがあったのかな?」
「単に変態さんの変態度がアップしただけじゃないの?」
エラフィが嫌そうに告げる。猟奇殺人犯の心理など彼女は考えたくもない。
しかし、周囲の状況はそうも言っていられないようだ。
「そう言えばエラフィの幼馴染は、エールーカ探偵よね。あの人のところに警察の要請とか来てないの?」
「……来てる」
友人一同が一斉にエラフィに注目する。
彼女自身はともかく、その幼馴染ヴェルムが探偵であることを考えれば、エラフィにも否応なく事件の情報が流れてくるのだと言う。
「けど、まだなんか全然だって。まぁ、捜査が進んだところで私みたいな部外者に詳しい事情を話してくれるわけないじゃん?」
「そうかもしれないけど……」
「ただ、ここのところヴェルム物凄く忙しいらしいよ。あいつに暇ができるまで、ハンプティ・ダンプティ連続殺人事件は解決しなさそうね」
「そっかぁ……」
「名探偵も大変ですね」
高等部生たちは、この殺人事件は自分たちに縁遠い、関わりのないことだと話をする。
誰かが昨日のテレビ番組の話題でも振れば、すぐに流れていくような話だ。
だが本当は無関係ではいられない人間も交じっている。
薄い仮面の一枚で、怪盗も顔を隠せるのだ。真実の姿など誰にもわかりやしない。
ましてや心の中で抱えている思いなど。
「早く帝都が平和になるといいですね」
転校生――赤騎士のコードネームを持つルーベル=リッターこと、ルルティス=ランシェットがしらじらしくそう言った。
◆◆◆◆◆
ビルの屋上に黒い人影が佇んでいる。
それだけなら普通だ。
だが普通でない事に、何故かその人影は黒いマントを羽織っているのだ。
溢れんばかりに花を飾った光沢のあるシルクハット。その姿はこの帝都では、怪人マッドハッターと呼ばれる。
だが彼の姿に気づいた者がいたら不思議に思ったことだろう。今日はマッドハッターの予告日ではないのに、と。
「犀は投げられた、か」
『そうだね』
独り言のつもりだったのに、突然この空間に飛び込んできた声にマッドハッターはその出どころを探した。
通信機が転がっていた。
「ジャバウォック……なんでこんなところに通信機を?」
『僕を侮らないでもらおうか。怪人マッドハッターさん? 僕はね、この世界の総てを知っているんだよ』
「総てだなんて烏滸がましい。君が知っているのは、辰砂の魂の欠片を通じてアクセスできる世界の記憶の一部だろ?」
『……』
「そして過去が見えすぎて、自らの手で現在を動かしながら、未来を見失う」
通信機の向こうで一瞬黙り込んだジャバウォックが、感嘆と共に声を吐きだした。
『さすがだね、初代イカレ帽子屋。いや、今は“三月兎”とでも呼ぼうか』
「マッドハッターの称号はもうフートのものだからな。三月兎と言うのは言い得て妙だ」
くっくとマッドハッター改め、コードネーム“三月兎”は一人楽しげに笑う。三月兎も情報収集に関して自信はあるが、さすがにジャバウォックには負ける。
彼に全てを知られていることはもう諦めた。すでに自分の存在が誰にも忘れ去られているのなら、一人くらいこの三月兎のことを気にかけてくれる人間がいるのも悪くないだろう。
『お家に帰らないのかい? 君の弟が悲しんでいるよ』
三月兎の想いまで感じ取ったか否か、通信機の向こうから語りかけてくるジャバウォックの機械音声はどこか優しくも悲しい。
憐れまれる覚えはないのだけどな、と三月兎は微笑んだ。
「今俺が戻ったら余計混乱するだろう。ただでさえ最近あいつの周囲はきな臭い」
『こんな時間にお外にいるのはみんな悪い子だよ』
「そうだな。俺も、お前も。ハンプティ・ダンプティもな」
悪い子だから悪夢を見続けて、いまだ覚めることがないのだ。
「警察にハンプティ・ダンプティの正体を教えてやらなくていいのか? 情報屋。あの憐れな復讐鬼を」
『今彼の復讐を止めたところで何になるの? 彼にはこのまま、頑張って睡蓮教団の力を削いでもらおう』
「すでにあれだけ殺せば、恐らく死刑は免れない。それなら好きなだけ復讐を果たさせてやってから捕まえようと?」
『いや、彼は捕まらないよ。もうこの世界の誰にも』
「……まさか」
無線の向こうの穏やかな語り口に、三月兎は不穏なものを感じ取った。
『全てを知る頃には、もう全ては終わっている』
言葉にされないその意味を理解して尋ねる。
「被害を減らすことはできないのか?」
『やりたいならば君が自分でやればいい。僕を頼りにするのは筋違いだ』
しかしジャバウォックはぴしゃりと、懇願を跳ね除けた。
全知全能を掲げる情報屋にも、不可能なことはあるのだ。否、不可能なことばかりだからこそ、彼は直接的な介入を避けて関係者に情報を流すにとどめているとも言える。
己の無力を誰より知る情報屋は、居場所を失った三月兎にこう告げた。
『……悪夢から覚めたいのであれば、早く夢から覚めてと物語の主人公にお願いでもするんだね』
「コードネーム“アリス”か」
彼は全てを救うのか。
それとも全てを壊すのか?
我らの待ち望んだ主人公よ。
マッドハッターは下界を見下ろす。あらゆる生と死を呑み込んで、夜の街は宝石のような光を灯し、今日も不穏にぎらぎらと輝いていた。
第3章 了.