Pinky Promise 073

第4章 いつか蝶になる夢

13.公爵夫人の教訓 073

 高層ホテルの窓からは、帝都の象徴たるタワーが見えた。
 エメラルドの名にちなみ、グリーンにライトアップされた塔を眺めることのできるこの部屋は、最近の彼らのお気に入りだ。
「それで、何か芳しい情報は得られたか?」
「全然だな」
 ホテルの部屋に帰ってきた二人――コードネーム“白兎”と“赤騎士”は早速情報交換をする。交わすも何も、伝える程の情報はないのだが。
 彼らはここしばらく、睡蓮教団からの命令でハンプティ・ダンプティなる通称の殺人鬼を追っている。
 教団がわざわざ一介の殺人者などを追うのには理由があった。まだ表の警察は辿り着いていないが、ハンプティ・ダンプティに殺害された人間は全て教団の関係者なのだ。
 教団側としては当然、このままでいるはずがない。彼らは彼らの神に刃向かう者を赦しはしない。
 それにハンプティ・ダンプティは世間の知らない教団の情報を知っているかもしれないのだ。教団としてはそれを流される前に、警察に先んじて殺人鬼を確保することが急務となっていた。
「ここまで探して見つからないなんて……本当に団内の裏切り者じゃないの?」
「その線は他の連中が当たっているだろう。我々はもっと別の切り口から捜索を進めるべきだろうな」
「うへぇ」
 警察が探しても教団が探しても、一向に姿の見えない殺人鬼。恐らく何か見落としがあるのだ。
「振出しに戻るしかないか。情報の洗い直しを……なんだ?」
「新しい任務……?」
 教団専用の回線から連絡が入ってくる。しかし現在ハンプティ・ダンプティを追う以上に、優先されることなどあるのだろうか。
 二人は顔を見合わせた。

 ◆◆◆◆◆

「よ、ヴェルム! 久しぶり」
 肩を叩かれて振り返る。
「……エラフィ? こんな時間に一体何やってるんだ?」
 意外な時間に意外な場所で、ヴェルムは幼馴染と顔を合わせた。意外な場所と言っても、ヴェルムにとっては自宅のマンションのすぐ下だが。
 時刻はもうすでに深夜近い。高校生が遊び歩いているような時間ではない。
「またいつもの夜遊びか? 最近は物騒なんだから、いい加減にしろよ」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのよ。私の勝手でしょ」
 親みたいな忠告に、エラフィは不満げに唇を尖らせる。
 エラフィは事情があって両親と離れて暮らしている。こうして真夜中に遊んでいても咎められないのはそのためだ。ヴェルムはそんな彼女を心配しているのだが、エラフィからしてみれば自分はもっと危険なことにいつも首を突っ込んでいるくせに、と言ったところだ。
「それより、最近忙しいの? 電話もメールもほとんどスルーだしさ」
「あー……すまん」
「もしかして、例の事件? テレビで話題になってるなんとかかんとか殺人――」
「エラフィ」
 近況を聞こうとしたエラフィの言を、ヴェルムは途中で遮った。
「悪いが、そこまでだ」
「……はいはい。探偵様も楽じゃないわね」
「迷惑をかけたくないんだよ」
 探偵が危険な商売だなんてこと、ヴェルムは両親が殺された時に身に染みている。
「人を足手まといみたいに言わないでくれる? そりゃ私はあんたみたいな知識も推理力もないけどさぁ……」
 エラフィはエラフィで、あえて不満を口にすることで雰囲気を軽くしようとした。
 探偵になってから、学生時代の友人や一般人との付き合いをやめて自ら疎遠になることを選んだヴェルム。エラフィだけはヴェルムとの絆を絶やすまいと、こうして定期的に連絡もとるし顔を合わせるようにしている。
「あんたの助手を務めるならアリストぐらいの実力が必要って訳?」
「アリスト?」
「今、あいつ何かあんたの仕事手伝ってるんでしょ?」
「あー……まぁ」
「アリストの奴も変な誤魔化しなんてしないで、普通に一度くらいダイナ先生に会いに戻ればいいのにね」
 ヴェルムが依頼によってアリストの姿に変装した時、エラフィは幼馴染の眼力で見抜いた。
「アリストなら、先日帝都に戻ってきたよ」
「マジ? 何も聞いてないんだけど」
「本当に短時間だけだったから。俺はたまたまあいつとレーヌさんが会った場面に行きあって」
 正確に言えばアリストのことでダイナに詰め寄られていたところをアリスト本人に助けられたのだが、もちろん言えるはずがない。
「へー。相変わらずのシスコンね」
 その一言で納得される男こそアリストである。
「そう言えばヴェルム、あんたの周囲も変わった?」
「周囲?」
 最近のヴァイスたちとのつながりが目を引いてしまったのかと焦るヴェルムに向けて、エラフィはにやにや笑う。
「彼女できたんでしょ! この前、女の人がこのマンションから出て来るの見かけたわよ!」
「……いや、違うから」
 ジェナーのことだと気づき、すぐにそれもあまり気づかれない方がいい話だと思い直す。
「あの人はそれこそ訳有りで一時的に転がり込んでるだけだ」
 このマンションは確かに一棟丸ごとヴェルムの持ち物で他の住人は住んでいないが、睡蓮教団の追手を警戒するジェナーは基本的に外へ出ない。どうしても必要なものがある時は、必ず日が落ちてから顔を隠すようにして出かけるのだ。
 正直に言って、ジェナーが今家にいることに、ヴェルムは少なからず救われている部分はある。
 けれどそれをこんなところでエラフィに対して口に出す訳には行かない。
 それに、邪推されたような関係では本当にない。
「えー、怪しい」
「本当に違うっての」
「今度会いに行こうかなー。転がり込んでるってことは、いつも家にいるんでしょ?」
「……やめてくれ。頼む、本当に訳有りなんだ」
 存外真剣なヴェルムの様子に、エラフィはきょとんと一瞬目を丸くした。
「ま、いいわ。……ヴェルムの彼女の話はまた今度聞くとして、私もそろそろ帰らなきゃ」
「俺も用事がある」
「引き留めて悪かったわね。でもどうせいつも通り警察でしょ。また事件?」
「まぁな」
 エラフィのように夜遊びもしないヴェルムには、こんな時間に外出する理由はそれしかない。
「気を付けてよ。最近の犯人は武闘派とも限らないんだから」
「エラフィこそ、こんな時間なんだから気を付けて帰れよ」
「もちろん。じゃあまた今度ね」
 手を振って別れる。
 後でヴェルムが、どうせなら彼女の家まで送れば良かったと考えても後の祭りだ。
「もし、そこのお嬢さん、ちょっとよろしいですか――」
「へ?」
 帰り道で声をかけられたエラフィが振り返ると、闇の中から腕が伸びてくる。
 その腕は白いハンカチを握っていて、彼女の口元を覆うようにそれを押し当てた。
 咄嗟のことに対応もできないまま、エラフィの意識は闇に呑まれていく――。

 ◆◆◆◆◆

「……へ?」
「いやいやちょっと待って。勘弁してくれよ」
 自らの巡り合わせの悪さを、ネイヴ=ヴァリエートは呪っていた。
「今の子は確か……エールーカ探偵の……」
 たまたまヴェルム=エールーカの生活範囲を通りがかった時だ。先程ヴェルムと話していたはずの少女が、見知らぬ男に声をかけられて振り返った瞬間に崩れ落ちる。その決定的な現場を目撃してしまい、ネイヴは頭を抱えた。
 少女が倒れたぐらいならばまだ病人を介抱していただけかも知れない――。
「な、わけねーな」
 男の手には白いハンカチ。それを口元に当てられた瞬間気を失った体。
 これはあれか。あれだな。よく事件物のコミックで見るような展開だな。
 フィクションよりフィクションらしい怪盗の顔を持つ高校生は、溜息を吐いた。
 今日は次の仕事の下準備のために出かけていただけだと言うのに、何故こんな場面を目撃してしまうのか。
 不運を嘆いては見るものの、こんな時間に活動しているのはネイヴも同じである。所詮後ろ暗い人間の動く時間帯など古今東西で共通なのだ。
 けれど、この事態を見てしまった以上放っておくわけには行かない。
「明日の授業はサボりかー」
 少女を乗せた怪しい車を追跡するために、ネイヴはバイクのヘルメットをかぶり直した。

◆◆◆◆◆

 夢を見た。
「……ッ!」
 懐かしい悪夢の生々しい気配に、ヴェルムは飛び起きる。
「ヴェルム?!」
「……ジェナー?」
「大丈夫? 魘されていたわよ」
「すまない。起こしたか?」
「私ももう起きようと思っていたところだから」
 日付が変わる頃に呼び出された事件を一つ解決して、ヴェルムが家に帰りついたのは丑三つ時を軽く過ぎていた。体は疲れているはずなのに、眠りは彼を優しく受け止めてはくれない。
 悪夢を見たのは、酷く後味の悪い今日の事件のせいだろうか。
 三時間程度の軽い睡眠しかとれなかったがこのまままた眠る気にもなれず、ヴェルムは自分も起き出すことにした。
「珈琲淹れるわよ。飲むでしょう?」
「……ああ」
 この女性は、ヴェルム自身が拾い上げた同居者だ。
 ヴェルムの追う組織、睡蓮教団から逃げて来た人物。“公爵夫人”のコードネームを持つ、ジェナー=ヘルツォーク。
 ジェナーは追手を警戒してほとんど外出をすることはないが、その分今はこのマンションでヴェルムの仕事に関するものから日常生活まで、様々な雑事を手伝ってくれている。
 ……こんな時、ジェナーが深く尋ねて来ないのが助かる。彼女も色々と脛に傷を持つ身。悪夢に魘されることなど慣れっこなのだろう。
 “さよなら、探偵さん”
 もう一度眠っても、きっとあの切ない声が追いかけてきて哀しい夢しか見られない。それならば、現実で生きているジェナーの声を聴いている方がいい。
「ジェナー、それは?」
 珈琲のカップの傍らに置いてある、一冊の文庫本に目を留める。ヴェルムに心当たりがないということは、ジェナーの持ち物だろうか。
「あなたの本棚から昨日拝借したわ。自分のものは失くしてしまったから」
「俺の?」
「きっと昔に目を通して忘れてしまったんじゃない? ……『オズの魔法使い』。この帝都エメラルドの名前のモデルになった、エメラルドの都が出てくる物語よ」
「童話か……」
 確かに読んだことはあるかもしれないが、ヴェルムはもうほとんど内容を覚えていない。ずっと本棚の隅にしまいっぱなしだったのだろう。
「よければ、あらすじだけでも教えてくれないか?」
 それほど興味があったわけではないが、穏やかなジェナーの声を聴いていたくてヴェルムはそう頼んだ。
「いいわよ。でも私は話が上手くないから、あんまり期待しないでね」
 静かな一室にやがて穏やかな語り声が響きだす。もう眠るつもりはなかったはずなのに、ヴェルムは半分微睡みながらそれを聴いていた。
 帰る方法を探す旅をする少女とその仲間たちの話。小さな体で四苦八苦しながら方法を探す少女はまるでアリスのようだなと思った。
 微睡みの中でヴェルムは思う。
「……“アリス”はようやく現れた。俺も“イモムシ”としての役目を果たすよ」
 過去は乗り越えなければならない。蛹が蝶へと孵化するように。
 そしてこの日、まだ陽も昇らぬ昏い明け方、エールーカ探偵事務所の郵便受けには、手紙が一通届けられる――。

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