薔薇の皇帝 22

第14章 罪重ねの箱庭

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 大きな石造りの屋敷の、薄暗い地下室。
 様々な薬品の匂いが立ち込める不気味な実験室で、一人の老人が文机に向かい一心に書き物をしていた。
 インクを飛び散らせながら走るペンの先が綴るのは、手紙でも絵画でもない。最近発明された薄地の紙に、無数の計算式と略図が書き手にしかわからない乱雑さで並べられていた。
 老人の頭髪は見事に白く、その髪だけを見ればどこの国の人間かもわからない。ただ、分厚いレンズの嵌まった眼鏡の奥は茶に近い琥珀色で、それだけが彼を現在地であるネクロシアではなく、同じバロック大陸でも東方の学術大国チェスアトールの人間だと示している。
 書き物をするには不向きな地下室であるが、明かりは最低限彼の周囲にしか用意されていなかった。沈み込むように重たい暗がりに、実験器具が幾つも無造作に浮かび上がっている。
 薬品を入れた瓶の中身は臓物や生物の一部。部屋の隅には人体模型。さまざまな動物の頭部の白骨。素人目には何に使うのかわからない道具の数々。大きな魔法陣の描かれた、褪色した綴れ織り。
 計算に集中する老人の集中を打ち破るように、扉が叩かれた。
「なんじゃ! わしは今忙しい!!」
 気難しさを隠そうともせず、顔を出した弟子を怒鳴りつける。しかし弟子の方も珍しく重大な案件を抱えてきたようで、譲ろうとはしない。
「それが、大変なんです。今しがた郵便を受け取ったのですが、カースフール教授宛てに、カウナード王国から依頼の手紙が」
「カウナード?」
 近隣の砂漠の国の名を出した弟子に、教授と呼ばれた老人――錬金術師カースフールは眼鏡の奥の目を細めた。
「どういう用件だ」
「なんでも、かの国での犯罪者に関する質問がどうとか。詳しくは中の手紙を見てほしいと言うばかりで」
 弟子は手紙と簡単に言ったが、いざカースフールが受け取ったそれはちょっとした小包程度もある分厚い書類の束だった。何かの研究をまとめた草案のようなもので、ところどころに気を引く単語が飛び交っている。
 しかしこんなものを送りつけられる肝心の心当たりはないと、カースフールはようやくその「手紙」とやらに目を通す。
「ふむ……」
「どういうご用件だったのですか?」
「数か月前に人造人間制作の罪に問われた犯罪者の研究の検証らしい」
「え? は? 教授がですか? 何故そんな……」
「事件自体はすでに終了している。犯人は死亡。後始末には、皇帝領の手が入ったらしい。間接的とはいえ皇帝領にカウナードにユラクナーにセレナディウス、それからチェスアトールもか。随分多くの土地を巻き込んだ事件だったそうだ」
「それほど大掛かりな事件が、これまで公式発表されなかったのですか?」
「ふむ、詳細は省かれていたが、どれも一つ一つの事件は小さなものだったらしいな。あるいは、すでに各国で事後処理が終了しているか。それを引き起こした犯人が最後に辿り着いたのが人造人間の制作であり、その技術にわしのこれまでの研究を取り入れたそうじゃ」
 言って、教授はまた改めて小包の中身に目を通す。題材がわかってからそれを読めば、乱雑な数式と記号の走り書きも彼の目には意味を持った知識として映る。
「罪人の名は、ゼイル=トールベリ。死んだ主君を人造人間として一から造りだそうと試み、魔力によって形成した疑似霊魂に人格情報を書きこむという……ほう、これか」
 死者を追い求め、夢叶わずに死んだという罪人の青年の遺した知識は、専門家であるカースフールに言わせれば付け焼刃ながらも要点を押さえたものだった。ゼイル本人の望みから考えれば最初の三行で後の欠陥に繋がるだろうと思える失敗も、なまじ自論と業界の常識のみに囚われた人間には出てこない発想であり面白い。
「なるほど……これはこれで……」
 熱心に覚書を読んでいたカースフールの口元が、不意に歪む。
「ああ、そうか。これに……この理論を適用し、……すれば……」
「教授?」
 数十年前、チェスアトールで天才的な学者として名を馳せたカースフール。時折研究に没頭するあまり周囲が見えなくなる師の機嫌と手綱を同時にとるその弟子は、様子のおかしい師に声をかける。
「どうしましたか? もし書けるようでしたら、カウナードに返答の手紙を」
「いや、検証作業はまだ終わっていない。返事はできるかぎり引き延ばせ」
「え?」
 師の言葉に、弟子は不吉な予感を覚えて眉根を寄せた。
 かつてとある研究で学会を追われ、異端の錬金術師として落ちぶれた学者は、すでに死した罪人の若さ故の稚拙さに溢れる覚書を片手に陰鬱に笑う。
 ゼイルの間違いも、その目的自体が違うカースフールにとっては好都合。彼の研究にカースフールがいくつかの要素を足せば、これまでより優れた効果が得られることを期待できる。
 老いた錬金術師は自らの研究を進めながら、ずっとこのような機会を待ち続けていたのだ。
 すなわち、彼を表舞台から引きずり下ろした愚かな学会の連中と、その主張を認めた皇帝に対する壮大な復讐の機会を――。
「トールベリとやら、お主のその研究成果、錬金術の大家であるわしが後世に残る記録として有効活用してやろう」