第4章 いつか蝶になる夢
15.イモムシの決断 085
街がどこか騒がしい。
いや、騒がしいのは自分の胸だろうか。
何か嫌な予感がする。
「どうかしたの、ダイナ? さっきからなんだかそわそわしているようじゃないか」
「ええ、ちょっと……」
喫茶店の外を眺めるダイナに、レジーナが声をかけた。
「今お隣の同僚が預かってる子どもたちのことが、ちょっと気になってしまって」
「お隣?」
「ええ。色々と大変らしいから。私も手伝おうと思っているのだけど……」
残ったお茶を飲み干すと、ダイナは慌ただしく帰り支度をする。
「ごめんなさい。そういう訳だから、今日はこの辺りで帰らせてもらうわね」
「仕方ないなぁ。一度こうと決めた君を止めるなんて、僕には無理だからね」
レジーナはひらひらと手を振って、長年の友人と別れる。
「気をつけて帰りなよ、ダイナ」
◆◆◆◆◆
「怪盗ジャックって……」
夜目にも鮮やかに白い騎士装束。顔の半分を隠す仮面。帝都の夜を翔けるもう一人の怪盗。
アリスはその有名人を、初めてこの目で見た。
有名人と言っても、彼もまたマッドハッターと同じく仮面で素顔を隠した犯罪者な訳だが。
「私はしがないパイ泥棒のジャック、クローバーのジャックです」
「クローバー?」
怪盗の名乗りをアリスは怪訝に思い尋ね返す。
「『不思議の国のアリス』に出てくるパイ泥棒は、ハートのジャックじゃなかったか?」
「気になるのであれば、テニエルの挿絵をよく見てみることですね。服の模様がハートではないことに気づくでしょう」
怪盗は続けて、元居た木の上からふわりと降り立つとアリスの真正面で優雅に腰を折りお辞儀する。
「初めまして。――我らが待ち望んだ主人公、コードネーム“アリス”よ」
「! なんで、知って……」
驚くアリスとシャトンに、警戒を強めるヴァイス。そんな中で、探偵のヴェルムだけが酷く冷静だった。冷たい程に。
「……それもジャバウォックの情報か?」
「いいえ。私にも彼とは別の伝手くらいあるのですよ」
探偵と怪盗、二人の間にぴりりと触れれば切れるような空気が流れる。いや、ヴェルムの方が一方的に怪盗ジャックを敵視しているのか?
「えーと、とりあえずは助けてくれてありがとう」
険悪な雰囲気の二人に割り込むように、アリスはひとまずジャックに礼を言った。
「いいえ。困った時はお互い様ですから。――それに、私も彼らとは一方ならぬ因縁がありますので」
ジャックは口元ににんまりとした笑みを浮かべる。どうもこの人物はとても気さくな性格のようである。仮面をしていてさえこれ程表情豊かなのだから、きっと仮面の下の瞳は、一言発するごとにくるくると色を変えているに違いない。
「……“パイ泥棒のジャック”」
「なんです? “チェシャ猫”のお嬢さん」
「そんなことまで……って、あ!」
「シャトン?」
「いきなりどうした?」
急に大声を上げた彼女に、男たちはびくりと肩を震わせる。
「バカ! みんなして忘れてるんじゃないわよ! 犯人の盗聴器!」
「げ!」
そう言えばヴェルムが犯人から持たされた電話には、こちらの動向を伺う盗聴器がつけられていたのだった。今の騒ぎでそのことがするっと頭から抜け落ちた四人は、ごく普通にコードネームの話をしてしまっていた。
「ご心配なく。向こうにはもともとバレていますから」
「え?」
「あなた方が御推察の通り、彼らは今回のエラフィ=セルフ嬢誘拐事件の共犯者、睡蓮教団の人間です」
睡蓮教団には赤騎士と白兎がいて、今回の事件にも関わっている。彼らがアリスたちの情報を流すなら、ここでこんな小細工をしても無駄だと。
そして、彼らがもしも何らかの思惑あってアリスたちを庇う気なら、襲撃者を寄越した時点で盗聴器のチェックなど外してしまっている。
すでにこの事件は、ヴェルムと犯人だけの問題ではない。睡蓮教団が動き出している。
しかしやはり中核をなすのは、犯人のヴェルムへの恨みだと言う。あの男は――。
「エールーカ探偵、あなたが追っている男は、あなたへの恨みを理由に、あなたと対峙するために睡蓮教団へ入団したのですよ」
ヴェルムがぎりっと唇を噛みしめる。
探偵と怪盗という敵対関係にありながら、二人はそれ故にお互いの性格をよく知っていた。
怪盗ジャックはこんな場面でこんな嘘は決してつかない。それはわかっている。
妙な話だ。よく知っているも何も、ヴェルムはジャックの顔すら知らないと言うのに。
「何故お前がそんなことを知っている」
「偶然ですよ。たまたま次の仕事の下準備の最中に、奴らが妙な荷を運んでいるのに気付きましてね。様子を窺っていたら、探偵殿の幼馴染の少女が攫われる場面も目撃してしまったという訳です」
「エラフィの居場所を知ってるのか?!」
アリスの問いに、ジャックは本当に申し訳なさそうに首を横に振った。
「いいえ。彼らは途中で四手に別れたため、私もその全てを追うのは不可能でした」
「そうか……いや、教えてくれてありがとう」
「一つ、提案があるのですが」
勢い込んだ分がっかりした顔を見せないように気を遣って礼を言うアリスに、ジャックはこう言った。
「あなた方の作戦に、私を混ぜていただきたい」
「へ?」
思わず間抜けな声が零れる。
「同じように睡蓮教団と敵対する者同士、どうせなら手を組んでみませんか?」
いくら誘拐事件の解決を目指す非日常の最中とはいえ、これはあまりにも意外過ぎる展開だ。
「親愛なるアリス――我ら教団への敵対者たちの旗印となるべきお方よ。あなたがもしも望むなら、私はあなたのために夜を翔けましょう」
「……!」
アリスは酷く困惑する。
怪人マッドハッターの時は、こちらから協力を申込みに行った。
怪盗ジャックとはこれが初対面になるというのに、相手は早速協力体制を申し込んできた。
今なら、自分たちを前にして複雑な態度だった怪人マッドハッターの気持ちも分かろうと言うものだ。正直言って、この場でどういう反応をすればいいのかアリスにもわからない。
「……冗談じゃない」
絞り出すような低い声が響き、アリスは咄嗟に背後を振り返る。
ヴェルムは今まで見たことがないような顔をしていた。
「お前のような犯罪者と手を組む気はない」
「……だからあなたは、“アリス”にはなれなかったのですよ、地を這う“イモムシ”殿」
「ちょっと、こんなところで変な喧嘩始めないでよ!」
さすがにシャトンも二人の様子を見兼ねて割って入った。
「今はそれどころじゃ――」
傍観姿勢のヴァイスに変わって場を納めようとした子ども二人が、またしても場に割って入った新たな声に邪魔された。
そしてそれは、こんな時にこんなところで会うとは思わなかった相手、この世で最も会いたくない者だった。
「おやおや。連絡が途絶えたから来てみれば」
白に近い銀髪と血のように紅い瞳を持つ、凍える程に美しい少年。
ほっそりとした肢体はまるで重さを感じさせないかのようにいつの間にか星座の道の上に出現していた。
全ての因縁の始まりに存在する犯罪者、アリスにとって最大の敵である存在が月明かりの下に姿を現す。
「珍しい顔ぶれじゃないか」
「白兎……!」