Pinky Promise 086

第4章 いつか蝶になる夢

15.イモムシの決断 086

「白兎……!」
「やあ、アリス。どうやら襲撃は失敗したようだね」
 仇敵どころかまるで旧友のように、白兎はいっそ親しげな様子でアリスに話しかけてきた。
「いつの間に怪盗ジャックと手を組んだんだ?」
「お前に関係ない」
「そうか。ま、仲間集めが順調なようで何より。それでこそ“アリス”だ」
 彼らが本当のところ、自分に一体何を望んでいるのかがアリスにはわからない。
 白兎はアリスから視線を外すと、怪盗ジャックの薬によって気絶した黒服の男たちに近づく。
「やれやれ。こんなことにうちの部下をよく使ってくれたものだよ」
「!」
 白兎がひょいひょいと手を伸ばして触れると、地面に倒れ伏した男たちの姿が次々に消えていく。
「おつかれ~~おやすみ~~」
 ひらひらと気楽に手を振る様子からすれば、別にこの世から消してしまったわけではないらしい。そう言えば服も残されていない。服も武器も全てどこかに転移したのか。
 そもそも、この男たちは睡蓮教団の刺客なのだ。同じ睡蓮教団の人間である白兎が攻撃を加えるはずがない。
「アリス、大丈夫?」
「ああ」
 シャトンに声をかけられて、アリスは自分が背に冷たい汗をかいていることに気が付いた。「落ち着け」と、自らに対し小さく呟いて言い聞かせる。
 自分でも今この瞬間まで知らなかった。白兎の禁呪によって目の前で生きた人間がこの世から消えた光景が、思ったより衝撃として心に強く刻まれていたらしい。
「お前の今回の仕事は、そいつらの回収か? 白兎」
「そうだよ」
 ヴァイスが問いかけると、白兎は敵にも関わらずあっさりと頷く。
「何故私たちにそれを教えるの? 何を企んでいるのよ」
「折角教えてあげたのに、チェシャ猫は疑心暗鬼だなぁ。ま、一言で言うと、今回作戦を手伝ってやれと言われた男は、俺にとってどうでもいい相手だからかな」
 白兎にとっても、教団にとっても、どうでもいい相手。
「名探偵に逆恨みして、自分なら完璧な計画で世間や警察を出しぬけると信じている。愚かな男だ」
「お前たちが彼を唆したのか?」
 ヴェルムは一言問いかけた。その声は凍り付いていて、何の感情もないように聞こえた。
「違うな。あの男は自分から教団へ接触してきた。エールーカ探偵に恨みがあると言って。そしてハートの女王に進言し、お前を殺すための策を練り我々に協力させて実行した」
 ヴァイスが眉根を寄せて言う。
「お前が誰かの手下になるとは珍しい」
 先程の黒服たちも白兎の部下だったと言うし、ヴェルムに復讐を望む犯人のために、教団側は予想以上に多くの人手を割いているらしい。
「手下? 馬鹿を言わないでよ。俺たちはあの男への協力者と言う名の試験官さ」
「試験官?」
「そう、もしもあの男が女王の御眼鏡に適わなかった場合、始末をつける役」
『不思議の国のアリス』において、女王は命令する。
 “首をお斬り!”と。
 物語の中ではグリフォンが、誰も首を斬られたものなどいないと馬鹿にする。けれどこの、睡蓮教団に所属する不思議の国の住人たちは――。
「お前らは彼を殺すつもりなのか?!」
「さぁ、どうだろう? 彼が君を上手く殺せたら、生かしてやっても良いだろうさ」
 ヴェルムもアリスももちろん死ぬ気はない。だからと言って、犯人を死なせるつもりもないのだ。だが。
「それよりも急いで暗号を解かなくていいのかい、探偵さん?」
 白兎はそう言い置くと、さっさと姿を消してしまう。懐から手品のように黒い布を出して被ると、元が白いだけにその姿は呆気なく暗闇に紛れてしまった。
「……ッ!」
 ヴェルムは唇を噛みしめた。
 教団がバックについているということは、この事件は当初に想定していたものとは桁違いの規模だと考えた方がいいだろう。
 エラフィの命、帝都の住民の命、ヴェルム自身、そして犯人の命までも――。
 ヴェルムの肩に乗っているのだ。
 そこに、気負いない声が響いた。
「ま、私たちのやることは変わらないな」
「そうだな」
「――二人とも」
 ヴァイスとアリスの二人は、今の話を聞いても慄くでもない。あっさりとそう言ってのけた。
「ヴェルム、絶対に暗号を解いて、みんなを助けような! 犯人にしたって、教団に殺される前に警察に捕まったら手出しはできないだろ?」
「アリス……」
「白兎の侮った態度からすれば、相手は教団の事情をほとんど知らされていない可能性もある。そうなれば警察に捕まっても、場合によっては粛清を受けずに済むかもしれないわ」
「シャトン」
「いいから次の暗号を解くぞ。その箱をさっさと開け」
 噴水から取り出したはいいものの、ヴェルムがずっと持ちっぱなしだった箱を指してヴァイスが言う。
 そうだ、今回は彼らを信じると、ヴェルムも決めたのだ。エラフィ救出は学院の面々に任せる。そして犯人を捕まえて、帝都の爆破を止めるのだと。
「私の存在も忘れないでもらいたいものですね」
「怪盗ジャック……」
 これまで散々対決を重ねてきた怪盗を、ヴェルムは真正面から見つめる。
 ジャックは犯罪者ではあるが、人を人とも思わず傷つけるような根っからの悪人では決してない。それはヴェルムにもわかっていたが、今まで決して認めたくないものだった。
 ヴェルムは犯罪的宗教組織、睡蓮教団によって両親を殺された。
 だからこそ犯罪を憎み、罪人を見つけ出す探偵になろうと思った。
 しかし今回の出来事の発端でもある二年前の事件や、今目の前にいて人々を救うために手助けを申し出る怪盗などの存在が、ヴェルムがこれまで探偵として形作ってきた基盤を静かに揺るがして行った。
 罪を赦せと言うのか?
 自分のやり方は、これまでやってきたことは間違いだと。
 今回の犯人のことも、ヴェルムにとっては怒りこそ覚えるものの、本当の意味で憎むべき相手ではない。
 復讐と言う感情を誰よりよく知っているのは自分自身。
 罪を憎んで、憎んで、憎んで、赦せない気持ちはよくわかるから――……。
 だからこの事件に際して、ヴェルムは今でも自分のとるべき道がこれでいいのかよくわからない。
 ――差し出された手を取るべきなのだろうか。
「ヴェルム」
 ふいに服の裾を引かれて視線を落とす。
「直感だけど、俺は信じていいと思う」
 アリスは言った。
「ヴェルムは嫌かもしれないけど、俺は今は一人でも有能な協力者が欲しい。元々怪人マッドハッターにだってそういう意図で声をかけたんだ。ジャックの方から接触してきてくれるならありがたいじゃん」
「おや、私は帽子屋さんの次という扱いなのですか? 彼と直接対決したことはないとはいえ、比べるまでもなく下風に置かれるとは寂しいですね」
「えーと、それに関しましては我々にも日程の都合というものがあり……」
 ポピー美術館の時は、単に折よくマッドハッターが予告状を出していたから押しかけて行っただけである。
 それはさておき、アリスはヴェルムとの会話に戻る。
「ヴェルムがもしどうしても、“怪盗ジャックは本物の極悪人なので手を組むなんてありえない!”って言うならやめるけど」
「いや、それは……」
「違うならいいだろ? 世間の評価は当てにならないとか言うけど、少なくとも俺は怪盗ジャックも怪人マッドハッターも心の底から悪人だとは思わない。むしろ二人とも、何か睡蓮教団と因縁があって、それを解決したいから顔を隠して奴らと戦ってるんだろ」
「顔を出せない時点で胡散臭いよ」
「俺も同じだ」
 ヴェルムは目の前の怪盗から、隣の少年へと視線を移す。
 七歳の面立ちの中、確かに十七歳の少年の面影を宿して“アリス”は告げる。
「この姿も名前も本物じゃない。“アリス”はただのコードネーム。でもこの俺も、俺だ」
「だって、アリスは、それこそ教団のせいで元の姿を失ったんじゃないか」
「怪盗がそうじゃないって、どうして言えるんだ?」
 ヴェルムはハッと目を瞠る。目の前で風船を割られた気分だった。
「俺は、確かに怪盗ジャックのことを何一つ知らない。だから、俺が知らない彼の事を、ヴェルムが教えてくれ。俺が道を間違えそうになったら、正しい方向へ導いてくれ」
 尚も言葉を重ねるアリスに、シャトンが穏やかに加勢する。
「……『不思議の国のアリス』において“イモムシ”の役割は助言者ね」
 アリスをこの道に連れてきた“チェシャ猫”は告げる。
「今があなたの役目を果たすべき時なのかもよ、イモムシ。アリスがここにいる、今この時こそが」
 探偵だけでも駄目で、怪盗だけでも駄目で。
 けれど今は、その両者を不思議の国の名で繋ぐ主人公――“アリス”が存在する。
 素顔は知らない。本名もわからない。年齢も、性別も、職業も、何故睡蓮教団と敵対しているのかも。
 それでも彼を信用できるのか、否か。
 ヴェルムの脳裏に、これまでの怪盗との様々なやりとりが過ぎる。
「――信じられる」
 そしてついに、彼はその言葉を口にした。
「少なくともこんな場面で、こんなところで人を陥れる奴じゃない」
「なら、協定成立ですね」
「だな」
 滑り落ちた言葉はこれまで越えられなかった壁とは思えないくらい、するすると簡単にこの事態を越えて行く。
「私のことを直接知ってもらうのは、またの機会にいたしましょう。今は睡蓮教団の連中をとっちめて、帝都の民とエラフィ=セルフ嬢を救わなければ」
「よろしく頼むよ、怪盗ジャック」
 騎士装束の怪盗は、優雅に腰を折って告げた。
「こちらこそ。――我らが待望の“アリス”よ」