第15章 魂の対価、祈りの行方
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聖人ラクリシオンと呼ばれる青年。彼の半生は現在の肩書とは裏腹に、血と憎悪に塗れていた。
彼の母親は花街の娼婦であった。とある貴族の妾をしていたが、子を身籠ったことを契機に正妻の憎悪を受け、居場所を追われることとなる。
父親と言っても、彼はその顔を知らない。妾であった母を捨てて貴族としての体裁をとった男だ。母は彼に父に対する憎しみのみを教えた。
疲れ切った顔で母が息を引き取ったのは彼がまだ十を迎えるかどうかという頃。
以来、貧民街で掏摸などをして小銭を稼ぎながら生きてきた。下町の知り合いにかつて軍人だったという隻腕の男がいて、彼について剣を習った。
十五を過ぎて体がいくらかできあがったところで、師たる男の口利きにより隊商の護衛などをする傭兵となる。
僅かばかりの恩返しにもならぬ間に今度は師が死に、そのうちに彼は国を出て諸国を巡るようになった。相変わらず傭兵として荒事で稼ぐのは変わらない。
いつしか戦と呼ばれるものに参加するようになった。
思い上がった若造にしては、彼の剣の腕前は確かだった。むしろそれこそが彼の一番の不幸だったのかもしれないが、傭兵として彼は無事に生き残った。
――そして彼は、戦場でこの世界の支配者を見ることになった。
仕事場が変われば事情も変わる。一口に戦と言っても、その背景にあるものは様々だ。自分が死んでも嘆いてくれるような知り合いを持たぬ彼は、それまで自分が参加した戦の背景など気に留めることもなく生きてきた。
何度目かの戦場では、彼の雇い主は王国に弓引く叛徒だった。
王国側はついに世界皇帝に仲裁を要請し、皇帝は王国の要求を一部無視した形でその嘆願を叶えた。
反乱軍との仲裁を望む王国に対し、皇帝は叛徒と彼の雇われ人のことごとくを殺すという形をとったのである。
◆◆◆◆◆
殲滅とも言われた戦場から辛くも生き延びた彼は、ラクリシオン教会の門戸を叩いた。
あの戦はそれまでの彼の価値観、人生観を全て覆してしまった。縋れるものを探して、彼は宗教の扉を開く。
教会での暮らしは、戦場の騒乱が嘘のように平和だった。それでも傭兵上がりで外見も厳めしい彼に人々が向ける眼差しは畏怖や嫌悪を含んだものだ。周囲に人のいない状態が、彼に静けさをもたらした。
誰も話しかけない分、彼も誰かに話しかけることはしなかった。気の置けない間柄の人間ならば傭兵時代にもいた。そんなことを求めてラクリシオン教にやってきたわけではない。
神と向き合う時間が増えた。
「いつも祈っているのね」
やがて彼は、その少女と出会った。
「外の人があなたは懺悔をしているのだと言っていたのだけれど、そうなの?」
身分の高い貴族の令嬢で、秀でた容姿と才能。シライナは彼と違い、生まれながらに聖女となる未来を約束された少女だった。
皇帝というあまりにも巨大な存在に対抗するため、本来異なる二つの宗派であるはずのラクリシオン教とシレーナ教の結束は強かった。聖女シレーナとして、二つの宗教の間を渡り歩き人々の心を一つにするためにシライナは幼い頃から各地を回らされていた。
彼と出会ったのも、田舎の教会の一つだ。周囲の人々に馴染もうとせず、一人で祈り続ける彼にシライナは興味をもったらしい。
「懺悔か。人からはそう見えるのかもしれない」
「懺悔ではないの? そもそもあなたが懺悔をしていると言えるほど、私はあなたのことを知らないのだけれど」
「外の連中は俺が懺悔をするべきだと思っているのだろう」
元傭兵であるということは、人殺しであるということだ。彼が元居た傭兵の世界では誰も彼もが当たり前にそうであったが、教会のあるような大きな街ではそうではない。今いる場所が平和であればあるほど、その中で彼という存在は異分子でしかなかった。
「あなたはそう思っているわけではないのね。では、何を祈っているの?」
「祈っているのではなく、問いかけている」
「何を?」
「……わからない」
何を問いかけるべきかもわからない。自分が知りたいことの答を神が握っているとも思えなければ、自分が他者に何かを問う資格があるのかもわからなかった。
彼にとって祈るように問いかける行為は、そのことによって自分の足下を確かめるようなことだった。あの強大なる薔薇の皇帝の前では死者も生者も等しく無力で無価値でしかなかった空虚な悪夢から逃れるために。
村を後にする際、シライナは彼に手を差し伸べた。
「一緒に生きましょう、《――》。あなたの求める答を探しに行きましょう」
そして彼はラクリシオン教の聖人となった。