第4章 いつか蝶になる夢
16.さなぎの見る夢 095
疲労困憊で家に帰ると、早朝にも限らず灯りがついていた。
「おかえりなさい、ヴェルム」
気配を消していたはずなのに、家の中で恐らく彼の帰りを待っていただろう女性はすぐに気づいて出迎える。
「……起きてたのか? ジェナー」
「少し前に起きたところよ」
そうは言うものの、彼女の身支度はこの時間にしてはしっかりしていた。眠ると言っても、仮眠程度しかとってないのだろう。
「事件は無事に終わったようね。朝の様子が様子だったから心配だったのだけれど、なんだかすっきりした顔してるわよ」
「そう……かも」
ヴェルムは今回自分を発端とした事件に、幼馴染始め多くの人間を巻き込んだ。けれど蓋を開けてみれば何のことはない。幼馴染は、最初からヴェルムの手を必要ともしない、頼もしい人間にいつの間にか成長していた。
この手から滑り落ちて行ったものとまだ残されたもの。手に入れてもその大切さに気付かなかったもの。いくつもの感情が彼の内側を去来する。
のろのろと地を這う芋虫にも、いつの間にか時間は流れていたのだろう。蛹の中で見る夢の果てに、いつかは本物の蝶になれる日も来るのだろうか。
「ジェナー」
旅をしなければ、人は自分の足元の銀の靴に気づかない。
物語を終わらせて自分の家に帰る為に、まずは一歩を踏み出さなければ。
「君に……会わせたい人がいるんだ」
◆◆◆◆◆
エラフィの行動は早かった。アリスたちに話をした翌日の夜には、もうレストランを貸切で手配したと言う。
「……と、言う訳で皆様、私を誘拐犯から助けてくれてありがとう! そして帝都を救ってくれた英雄たちよ! 今日はその御礼にこのヴェルム探偵の奢りだから、好きなだけ食べてってね!」
「「「わーい」」」
純真な子どもたちは歓声を上げるが、高等部生組は一様に戸惑っていた。
「いやその……本当にいいのか? エールーカ探偵?」
「世話になったし。エラフィを助けたのも、爆弾を止めたのも結局ここのみんなだったしね。ほんの御礼の気持ちだから気にしないでよ」
一行が先日の事件の礼としてヴェルムとエラフィに本日招かれたのは、目玉が飛び出る程高いと噂のレストランだった。もう店の空気から普段彼らが通っているファミレスとは全く違う。
「ここって凄く高いお店なんですよね!」
「この前テレビで見た! ママがパパに行きた~いってねだったらパパが青くなってたの!」
「どの料理もうまそうだぜ!」
はしゃぐ小等部生たちと、真剣な顔つきになる高等部生たち。
「……わー、本当に高そうな料理……と言うか、呪文にしか見えない……」
「って言うか、メニューに値段が書いてないぞここ!」
「こ、高級店ですね……!」
「えーと、せっかくだから注文しよっか?」
「レント~あんたなんで一人だけ慣れてるのよ~」
「……実は、親父の付き合いでよく来ます」
「お前実はお坊ちゃまだったの? もしかして、だから身を守るために狙撃クラス?」
「……えへ」
これまで宝石展のチケットを手に入れたりと、謎のツテを発揮していたレントの事情が地味に明らかになった。
高等部生たちが高級そうな店の雰囲気に遠慮をするのしないので苦悩するのを聞いていたアリスとシャトンは、こそこそと相談し合う。
「……なぁ、シャトン。エラフィの思惑、あいつらに伝えるべきだと思う?」
「いっそ教えちゃった方がみんなの気は楽になりそうね」
ヴェルムが借りを作ったと思わないよう、遠慮せず思い切り騒げという話だったのだ。しかしカナールたち小等部の子どもたちはともかく、高等部の面々はそう簡単に割り切ることもできまい。
「まぁ、とにかく」
今まさにアリスとシャトンがこっそり説明しようかと思っていたことを、ヴェイツェが口にする。
「僕たちは結果を出したんだから、その見返りを少しぐらい貰っても構わないんじゃない? その代わり、エールーカ探偵もこうしてしっかり礼を返してくれたんだから、事件のことはあんまり気に病まないようにね」
ヴェイツェの言葉に、事の発端であるエラフィも頷く。
「そうそ。ここでふんだくってやらないと、こいつはいつまでもみんなに迷惑かけた~って気にするのよ。それに比べたらここの料理の値段なんかはまったく気にしないから、滅多に食べれないもの全部頼んでいいわよ」
それでようやく、ギネカやフートたちも事情を理解して緊張がほぐれたようだった。
「ま、まぁ。そう言うことなら……折角だしみんなで頂きましょうか」
「「「さんせ~い!」」」
元よりそんな遠慮を知らない子どもたちがいつものノリで声を揃える。
「私も好きに頼んでいいのかしら?」
「もちろんです。レーヌ教諭。この度は誠にご迷惑をお掛けしまして……」
「こちらが首を突っ込んだのですから、もうあまり気になさらないで。でも、折角御招きに預かったのだから、お料理は頂くわね」
ダイナとヴァイスの二人ももちろん、この食事会に招かれている。
今日の帰りはタクシーを呼ぶだとかで、ダイナは嬉々として高い酒を注文していた。美人は高級店で人の金で高い酒を頼むことにも慣れているのだ。
ちなみに彼女はザルとか枠とか言われる人種である。
「なーなーヴァイス先生、先生の給料でこの店の酒って買えるのか?」
「……ネスル=アークイラ。いい子だからそんな残酷な質問を周囲の大人たちに決してしないように!」
ヴァイスが手元のメニューを見て青褪めている。この場で唯一成人男性である彼が主催だと思われたらしく、実は彼のメニューには料理も酒も全て金額が記載されているのだ。
高級レストランでは接待された女性やゲストが料理の金額に気を遣わないよう、金を支払う側にしか料金表示のあるメニューは渡されないと言う。
ヴェルムは両親が生きていた頃に何度も通った店なので料理の値段は大体わかるが、エラフィの言うとおり気にしていない。
レントも富豪の両親に連れられてよく来る店なので値段を知っているが、お坊ちゃまなので怯まない。
エラフィはヴェルムの稼ぎを何故か知っているので、このぐらい平気だろうと、むしろ少し金額的に無理をさせるぐらいでいいのだと余裕の表情である。
この場で一番遠慮しているのは、フートとムース、そしてギネカの三人だった。怪盗とその相棒と別の怪盗の相棒として何十億円もする美術品や芸術品に触れることもあるくせに、何故か高級料理は駄目なようだ。
「ねぇねぇテラス君、この料理なに?」
「ああ、これはね……」
テラスは周囲に尋ねられて一々メニューに関する質問に答えてやっていた。彼は料理にも詳しいようだ。恐らく値段についても知っているだろうと思われるが、やはり動じた顔は見せない。
「……気にせず私たちも御馳走になりましょう?」
「そうだな」
シャトンとアリスも腹をくくって――と言うのもおかしいが、メニューを見比べ始めた。
「今日は私たちの貸切だから遠慮しなくていいわよ。わからないことは聞いてみれば? どうせこのホテルは犯人が爆破しようとしていたうちの一つなんだから、あのままだったらここの人たちもみんな今頃職なしだったかも知れないしね」
「わー! セルフ! お前の発言で罪のないウェイターのお兄さんが倒れたぞ!」
衝撃の発言に、品の良い給仕の青年が足を滑らせる。フートとギネカが思わず彼女の代わりに謝りに行った。
「なによ、本当のことじゃない」
「エラフィ……」
「あのねぇ、攫われたのが私だったからこそ、これだけの有能な人材が動いてくれたのよ? そしてあの時助けられたのが私だったからこそ、一キロ先の植物園をルビーツリーの展望台から狙撃できたのよ? このぐらい当然のことでしょ?」
ふふん、と笑うエラフィの顔を見ながら、アリスはあの展望台や植物園、ここのビルやもう一カ所の建物の割れた窓ガラス代は、結局誰が払うのだろうかと考えていた。
所詮魔法は万能ではない。何かを救うために犠牲は付き物だ、とでも思っておこう。
エラフィとヴェルムの会話は続く。
「あんたが、あんな逆恨み男のことを気にする必要はないの。あんたは何も悪くないし、私はただの被害者じゃない。被害者ではあるかもしれないけれど、同時に帝都を救った救世主なんだからね!」
ジグラード学院の魔導狙撃の成績は、エラフィ=セルフが一位でレント=ターイルが二位。
他のことならばフートやアリスト、ギネカが圧勝するも、これだけはエラフィやレントに敵わないのだ。
それは、他の誰かが簡単に代わることはできない彼女たちだけの力だ。
ちなみにヴェイツェは白兵戦も狙撃も両方でそこそこ好成績を残すがそれ故にトップではない、という器用貧乏タイプだ。それでも狙撃に関してはフートたちより余程上である。
「それに」
エラフィは一度席を立つと、小等部のテーブルに近寄った。
「ピンチの時に助けてくれるような私の王子様は、今はこの子なの!」
「ん?」
突然エラフィに背後から抱きつかれて、アリスは目を丸くする。
何かこう、背中に柔らかい感触が当たっているようだ。
「銃を向けられてもう駄目かってところで庇ってくれたのよ! ヴェルムよりよっぽど頼りになるわ~」
「て、テラスー、助けてー」
予想外の展開にあわあわとしながら、アリスはたまたま目が遭った小等部の友人に助けを求めてみる。
「何言ってんのさ、モデル体型の美女子高生のFカップに無条件で埋もれることができるのなんて今だけじゃん。じっくり堪能しときなよ」
「なぁお前本当に七歳?! 実は年齢詐称してねぇ?!」
会話をこっそり聞いていたギネカは危うく飲み物を噴き出すところだった。
年齢詐称してるのはお前だ、アリスト。
「……」
ヴェルムは何とも言えない顔で、アリスを抱き上げるエラフィを眺めやる。
「なんて言うか……強くなったな、エラフィ」
「か弱い乙女に向かってなんてこと言うのよ、あんたは。……私は昔から変わらないわ。あんたが見えてなかっただけじゃないの?」
「……その通りかもな」
自嘲混じりにヴェルムは笑い、どこか陰を残しながらも幾分かはすっきりした顔で告げる。
「でも多分、色々な人たちのおかげで、今は目を開かされた気分だ」
「そりゃ良かったわね」
エラフィは、いきなり目を輝かせて幼馴染の浮いた話について尋ねる。
「で、この間の彼女のことはどうなの?」
「だ~か~ら、あの人はそういうんじゃないって言ってるだろ!」
結局良いところのお坊ちゃんで名探偵とは言え、ヴェルムもただの十七歳の少年なのだ。エラフィと気の置けないやりとりをする姿に、ジグラード学院の高等部生たちとの違いは何一つない。
「大丈夫そうね」
「ああ、そうだな」
幼馴染同士の会話にこっそり耳をそばだてていたシャトンは、ようやく彼らのもとを抜けてきたアリスと顔を見合わせて頷き合う。
賑やかな食事会は、全員が満足して笑顔になるまで続いた。
◆◆◆◆◆
レストランで食事を終えて解散した後、アリスとシャトン、ヴェルムの三人は、ヴェルムが予約したというホテルの部屋に移動することになった。
ちなみにヴァイスはダイナと今度はバーで酒を飲むらしい。アリスとしては大いに邪魔したかったのだが、ヴェルムに引き留められた。どうせあの二人がここで色気のある会話になどなるはずないと。
姉の隠れ酒豪っぷりを知っているアリスは、それもそうかと思い直す。
それよりもヴェルムは、シャトンにこれからある人と会ってほしいと言いだしたのだ。
「会ってほしい人って?」
警戒するシャトンにヴェルムはいたっていつも通り話しかける。
「別に何も企んじゃいないよ。いつ話そうか迷ってたんだけど」
キーを使って扉を開ける。連絡はあらかじめ入れていたようで、中の人物は驚いた様子もなく、支度を整えて待っていたようだ。
その人物を見たシャトンの目から、涙が溢れだす。
「姉さん……!」
“公爵夫人”と呼ばれる女、教団時代のシャトンの姉代わりだった人物、ジェナー=ヘルツォークがそこにいた。