Pinky Promise 104

第5章 パイ泥棒の言い分

18.料理女の選択 104

 帝国立博物館の宝石展示室。マッドハッターとジャックの獲物である『女神に捧ぐ首飾り』だけが今は堂々とその中央の特別ケースに展示されている。
 どちらの怪盗も下見は昨日のうちに済ませている。
 怪人マッドハッターにわからないのは、怪盗ジャックの出方ぐらいのものだ。
 広々とした展示室も今は閉館。客もいなければ警察も、首飾りの持ち主もいない。
 どう考えても罠だ。だが飛び込まなければ宝石は手に入らない。
 マッドハッターもジャックも身体能力の高さに任せて屋上のモンストルム警部たちを振り切り、ここまでやってきた。
 東の入り口からマッドハッターが、西からジャックがそれぞれ展示場の中に入る。
 二人の怪盗が展示ケースに駆け寄ろうとした時。
「そこまでだ!」
「これはマレク警部。お姿が見えないと思っていたら、こんなところにいらっしゃったのですか」
 怪盗ジャック専任、アブヤド=マレク警部が怪盗たちの退路を塞ぐようにやってきた。
 両方の扉を部下に守らせ、自らは怪盗たちのいる展示ケースに駆け寄ってくる。
「さすがにお前もこの特殊な展示ケースの中には手が出せまい」
「強化硝子のケースに、頭上には鉄の檻。それも高圧電流が流されているとなれば、確かに生半な怪盗には手が出せないでしょうね」
 白い騎士服の怪盗ジャックが、芝居がかった演技で頷く。マレク警部は早速警備システムの全てを読まれていることに眉を潜めた。
 そして怪盗はすぐに顔を上げるとこう言った。
「だがあなたは一つ、重要なことをお忘れだ」
 仮面に隠されていない唇が鮮やかな笑みを刷く。
「私は怪盗なのですよ? 不可能を可能にして見せる」
「ふざけたことを……!」
「ふざけてなどおりません。――ほら」
 ジャックは彼らの前で握った手をくるりと回し、再び開く。
 その白い手袋の上には、豪奢な宝石の首飾りが乗せられていた。
「何?!」
 慌てて警部がケースの方を見ると、展示ケースの中は跡形もなくなっている。
 咄嗟に展示ケースに飛びつこうとする部下を、マレク警部は引き留めた。
「迂闊に触るな!」
「ですが警部!」
「仕掛けを忘れたのか? これは奴の罠だ」
 警備システムが解除されていなければ、上から振ってくる鉄の檻に閉じ込められてしまう。
「さすがにここで引っかかってくれるような方ではありませんでしたね」
「警察を馬鹿にするのも大概にしろよ、この盗人が」
 微笑む怪盗を、警部は強く睨み付ける。
「ベルメリオン=ツィノーバーロートの最高傑作『女神に捧ぐ首飾り』は、確かにこの怪盗ジャックが――」

 ピシッ

 長い口上をジャックが言い終える前に、黒い鞭の軌跡と共に、黒いマントが月光を遮るように翻った。
 マッドハッターは一瞬の隙に、怪盗ジャックの手元から、その首飾りを奪い取る。
「油断大敵。気を抜きましたね、怪盗ジャック」
「マッドハッター!」
 マレク警部がもう一人の怪盗へと視線を向ける。その頃にはもうマッドハッターは身軽に飛び上がり、吹き抜け二階部分の通路へと着地している。
 彼が選んだ舞台は大きな窓の前。
「この首飾りはもともと私の獲物。確かに頂いて行きます」
 窓の外の月を背に、黒い怪人が挨拶を告げる。
「それでは皆様、今宵はこれにて閉幕」
「待て! 首飾りを返せ!」
 もちろんその制止を怪盗が聞くはずもない。
 マッドハッターは扉ではなく窓をぶち破って博物館の外に脱出し、怪盗ジャックもその混乱に乗じて姿を消す。
「警部!」
「三手に分かれろ! A班は私と怪人マッドハッターを、B班は怪盗ジャックを追え! C班は念のためここに残って怪盗が戻ってこないか見張れ!」
「了解!」
 制服警官たちが警部の指示に頷き、A班B班はそれぞれ怪盗を追って飛び出していく。
 残されたC班は、手分けしていくつかの進入路を見張った。
「気を抜くなよ! もしかしたら一度逃げた怪盗がまた戻ってくるかもしれない!」
「ああ」
「……? 待て、そう言えば怪人マッドハッターはあの窓から逃げたが、怪盗ジャックはどこからこの部屋を脱出したんだ?」
「どこって……」
 二つの入り口は警官たちが守っていたのだ。だからマッドハッターも窓を破った。
 しかし割られた窓は一つだけ。ではジャックはどこからこの展示場を脱出したのか?
「さすがマレク警部、ぬかりがないな」
「!」
 ジャックの感嘆するような声が聞こえた。そう思った瞬間に、展示場に残ったC班はばたばたとその場に昏倒する。
 室内から逃げて姿を消したように見せかけて、実は天井に張りつくような形で姿を隠していたジャックが身軽く降りてくる。
 警察を昏倒させたのは、前回エラフィ誘拐事件でアリスたちを救うために睡蓮教団の戦闘員を眠らせたのと同じ薬だ。
 そして彼は下準備の段階で調べた通りの方法で、正式に展示ケースを開く。
 中には、きちんと「本物」の『女神に捧ぐ首飾り』が収められていた。
 展示ケースの中から宝石が消えたように見せかけたのは目晦ましだ。最初から宝石は消えてなどいなかった。
 怪盗ジャックが警部たちに見せたのは、模造品。
 そしてここまで計画が上手く行ったのは、同じ怪盗であるマッドハッターがその模造品をジャックから奪って逃げてくれたからだった。怪盗二人が奪い合う宝石が偽物であるはずがないと、警察に先入観を与えてケースのチェックを甘くさせる。
 こうして、怪盗ジャックは狙い通り本物の首飾りを手に入れた。
 展示室にモンストルム警部の声が近づいて来る。屋上で撒かれた彼らもようやくここまで追いついてきたのだ。
 もうここに用はない。自分の専任ではないとはいえ、警部に捕まる前に逃げるとしよう。
「それに、ここからが本番だ」

 ◆◆◆◆◆

 犯行現場の博物館から離れた、うら寂しい倉庫街。
 古びた箱があちこちに詰まれた倉庫の中で、怪人マッドハッターは怪盗ジャックを待ち構えていた。
「本物の首飾りを渡してもらおうか」
「やはり気づいていたのか」
「当然」
 舐めてもらっては困る。マッドハッターとて、この一年帝都を騒がせつづけた怪盗だ。
 怪盗ジャックが手にした首飾りが模造品であることも、その思惑にもすぐに気づいた。
 ジャックがマッドハッターを利用したように、マッドハッターもまた、ジャックを利用して宝石を手に入れようとしている。
「よくも人を使ってくれやがって」
「だが、お互いの仕事は上手くいっただろう?」
 二人の怪盗に、二人の警部は翻弄された。彼らとしてはジャックがマッドハッターに挑戦状を叩き付けた形となるこの事件で、マッドハッターがジャックの誘いに乗るとは考えていなかったのだ。
 偽物を掴まされたマッドハッターは同時にジャックの体に小さな発信機を取り付けていた。それさえあれば逃走中のジャックの居場所を追うこともできる。
 警察を撒いてからジャックの動きを確認し、この倉庫を目指しているのを知って待ち構えることにした。
 ジャックの方もマッドハッターの動きには気づいていたらしく、その姿を見ても動揺の一つも見せない。
 一体何を目的としているのか? わからないことだらけのマッドハッターは、ただただ不審を覚えるばかりだ。
「何のためにこんな真似を」
「先程の話を覚えていますか?」
 帝国立博物館の屋上で、花火の騒音に紛れながらしていた話のことだ。あの時は駆けつけた警察に中断させられてしまったが――……。
『マッドハッター!』
 通信から眠り鼠の声が届く。この場所に人が近づいているという報告に、マッドハッターは一瞬で臨戦態勢を整えた。
 倉庫の入り口が音を立てて軋む。
 けれど開かれたその隙間から見えた小さな影に、すぐに警戒を解いた。
「んしょ」
 あどけない声が聞こえ、細く開いた扉の隙間から見知った姿が滑り込んでくる。
「アリス」
「よ。来てやったぞ。怪盗ジャック」
 二人の怪盗の前に、コードネーム“アリス”が現れた。

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