第6章 真理の剣
22.怪物の正体 128
「今日は帰った方がいいよって言ったのに。そんなに青い顔をして。自分の魂を砕いて呪詛の媒体に使うなんて無理をして、身体がもつはずがないのに」
「……君は、まさか」
廃ビルの中に倒れ伏す睡蓮教団の男たち。やったのは一人の小さな子ども。
もはや全てがあまりにも非現実的な光景。
彼がここにいることも。
自分がここにいることも。
「ヴェイツェお兄さん。いや……」
テラスはヴェイツェの姿を認めて言う。
「“ハンプティ・ダンプティ”」
――全てを知られている。
本来なら警戒すべきことだが、ヴェイツェは先程のテラスの物言い――彼の体調を気遣ったその口調に覚えがあった。
「“姿なき情報屋ジャバウォック”……! テラス=モンストルム、君が……?」
「そうだよ」
気紛れに一方的な連絡をとってくる情報屋。その正体が、まさか顔見知りの上、こんな小さな子どもだなんて思うはずがない。
だがそれをありえないと一笑に付してしまうには、ヴェイツェはテラスのことを知っていた。そして彼自身がありえないような変貌を事故という切欠で遂げた人間でもある。
「君は……辰砂の魂の欠片の持ち主だったな。その力を、使いこなせているのか?」
「そうだよ。生まれる前からね」
あまりにも頭の良過ぎる小等部生として度々噂になっていたテラスのことだ。今はアリスやシャトンと言った同類に囲まれて少し誤魔化されていたが、彼は子どもとしては突出しすぎている。
ふと、ならばそのテラスに匹敵するアリスやシャトンは何なのだろうという疑問が脳裏を過ぎったが、それはすぐに目の前のテラスの言によって振り払われた。
「ヴェイツェお兄さんが背徳神の核に近いように、僕もまた、辰砂の核に近い人間だから」
「核……」
「そうだ。魂の欠片はそれだけでは、あくまでも欠片でしかない。けれど稀に、彼らの存在の中核を成す部分を持って生まれてくる者がいる。辰砂の場合はそれが僕で、背徳神の場合は君だ」
「……!」
――あなたは、先天的に魂の欠片を持っている……我らの神に最も近いお方ですから。
「……君は、僕の事情も知っているのか? ジャバウォック」
「僕がこの世に生まれてからの情報は手に入れることができるんだ。あまり個人的なことだと“記憶”に引っかからないこともあるみたいだけどね」
テラスは七歳。だから彼が生まれる前、七年以上前のことは余程注意して調べようと思わない限り知ることはできない。
アリスの正体でさえ知っていたのに、彼のかつての友人の話を知らなかったのはそのためだ。
「知っているなら、どうしてそんなに平然と僕と話していられるんだい? 僕は――」
「ハンプティ・ダンプティ」
「……そう。呪わしい、血塗られた殺人鬼だ」
今日だって睡蓮教団の人間を殺すために準備を万全に整えて、この街までやって来たのだ。
しかしテラスは恐れも何もなく、いつも通りにふわりと笑う。
総てを見透かしたような――否、「ような」ではない。彼は本当に総てを見透かしている。そんな笑みで。
「今更悪ぶるのはやめてよね、ヴェイツェお兄さん。例え世間や被害者が君をどう言おうと、僕が知るヴェイツェ=アヴァールの真実が変わるわけないでしょ?」
「……」
廃ビルの窓枠から差し込む光の中、子どもはそっと彼に向けて手を差し伸べた。
「帰ろう」
「帰ろうよ、お兄さん」
「自らの存在自体を罪に感じる、あなたの悲しみはわかっている」
「……僕は君とは違う」
同じ魂の欠片の持ち主と言うだけで、同類には見れない。辰砂の核を継ぐテラスと、背徳神の核を継ぐヴェイツェではあまりにも違い過ぎる。
かつての「事故」によって犠牲となった、両親を含む四百人以上の死者。それが全て、ヴェイツェの中に眠る背徳神の核を目覚めさせるためのもの。
自分の存在自体が周囲を巻き込んで、多くの犠牲者を出してしまった。
けれどテラスは言う。
「同じだよ。僕はね……母親を殺して生まれてきた」
「……!」
テラスの母親は元々体が弱かったらしい。出産は命と引き換えになる。そう言われていたと言う。
「僕は、母さんのお腹の中で、それらを全て聞いていた。だから」
本当は、生まれる前に死のうとした。
テラスの魂は辰砂の欠片を多く含む。何千何百年もの輪廻転生の記憶も有している。ここで一度転生に失敗したくらいで惜しいとも思わない。それなのに。
腹の中で死に行こうとする我が子に呼びかける現世での父と母の声を言葉を聞いて、死ぬことができなくなってしまった。
「だから僕は、“テラス=モンストルム”なんだよ。辰砂じゃない。辰砂の魂の欠片を持っているだけの、ただのテラスなんだよ」
辰砂の能力を存分に使っておいて、それでも。
テラスとして生きていたかった。
あの両親の子どもでいたかったのだ。
「君だって、ただのヴェイツェ=アヴァールだろう?」
ヴェイツェだって、背徳神の力を手に入れることよりも、アヴァール家の息子であることを選んだはずだ。
同じなのだとテラスは言う。
けれど。
「……僕は、殺人犯だ」
何人も殺した。
そしてここで止める気もない。
「僕を止めないでくれ。止められたら、僕は今度は……君を……」
背徳神の魂の欠片を持っている。
でもヴェイツェは、背徳神ではない。
あくまでもヴェイツェ=アヴァールだ。優しい両親の下に生まれたただの子どもで、ただの人間だ。
だから、彼らを奪った奴らに復讐する。
ここで復讐を止めたら、それこそヴェイツェは本物の邪神になってしまう。
父と母を、多くの人間を自分のせいで死なせるためだけに生まれてきたことになってしまう。
その過ちを正すためには、その罪を犯した教団の人間を殺すしかないのだ。
「わかってるよ。僕は止めない」
死には死の報いを。
きっと誰もが間違っていると彼を責めても。
「君を救う人間は、必ずいるから」
きっと救ってくれる存在はいるから。
「僕らには“アリス”がいるから。だから……」
迷いながらもヴェイツェがふらりと、差しのべられた手に向かって一歩を踏み出そうとした時だった。
「おっとこれはこれは」
割り込む声にヴェイツェは目を瞠り、テラスは表情を険しくする。
「いつの間に、かくれんぼの鬼が交替したんだい?」
赤毛の男は倒れ伏す仲間を前にして、にやりと笑った。
「しかもなんか、増えてるし」
「“グリフォン”……!」