Pinky Promise 132

第6章 真理の剣

22.怪物の正体 132

「銃声……?!」
 魂を削る呪詛を使ってグリフォンを倒し終えたヴェイツェは、突如として響いたその音に顔色を変えた。
 自分以外にここにいる人間は限られている。そして、いくらジャバウォックの正体とはいえ、一般人であるテラスが銃を持っている訳はない。
『撤退だよ、グリフォン。寝てたら置いて行くからね』
 目の前の男の耳元の通信機に連絡が入る。先程テラスを追って行ったのとは別の女の声だった。
 ヴェイツェは、すぐに駆けだしてテラスを探し出す。そして見つけた。
 血の海に沈んだ少年を。
「テラス君……?」
「……ツェ、お兄さ……」
「!」
「……ぐに、アリスが、来る……」
 まだ微かに息があったテラスが目を開きヴェイツェを見つめる。
「彼が……君を救って、くれ……る……」
「どうして……どうして君はそんなに僕を……」
 ジャバウォックとだけ名乗っていた頃からそうだった。どうしてテラスはこんなにも、ハンプティ・ダンプティを――ヴェイツェを救おうとするのか。
「僕も……同じ……僕が僕として……生まれてきた、意味、を……」
 証明したかった。
 創造の魔術師や邪神の生まれ変わりとして、周囲の人間をただ不幸に陥れるためだけに生まれてきたのではないことを。
 テラスとして、ヴェイツェとして、生まれて生きたことは幸福であったと。
 ヴェイツェにとってその方法は、自分の両親や多くの人々の命を奪った睡蓮教団への復讐だった。
 全ての不幸をまき散らした元凶が自分と教団であるなら、いっそ自分ごと教団を消してしまうしかない。
 しかしテラスにとっては。
「……僕にとって、君は大事な人だ……」
 関係を一言で言うならば、ただの友人。それも同い年でずっと親しく付き合っていた訳ではなく、ほんの数か月前にテラスが入学してきてアリスを通じてヴェイツェと知り合っただけの、他者が聞けば少し遠いと感じるかもしれない繋がり。
 しかしその数か月がテラスの七年の人生の中で意味を持ち、ヴェイツェの十七年の人生の中で意味を持つ。
 家族ではない。親友ではない。恩人でもない。七歳の子どもは恋なども知らない。友情にしても淡い。
 生きていればそれこそこの先、テラスは色々な感情を知れただろう。大人に言わせればテラスがヴェイツェに感じているものはとてもちっぽけな感情なのかもしれない。けれど。
「僕は……辰砂じゃなくて……テラスだから……今、自分にとって、大事な人を……」
 守りたかった。
どうやら無駄だったみたいだけれど。
ヴェイツェが血の海に手をついて、崩れ落ちそうな自らの体を支える。
「でも僕は……僕は……!」
 テラスがこれだけ命を張ってくれても、ヴェイツェはもう、自分が助からないことを知っている。
 復讐のために魂の欠片を砕いて砕いて、遠からず死ぬことが自分でもわかっていた。
 ――そこでようやく復讐が完了される。
「テラスく――」
 廃ビルの階段を駆け上がる足音がした。
 ハッと警戒したヴェイツェの前に現れたのは、二つの人影。
 そのうちの一つを目にしてテラスが目を和らげたのを誰も知らない。
 やっと来てくれた、アリス。

 ◆◆◆◆◆

 アリスは廃ビルの入り口で、戸惑った様子のフートと出くわした。
「フート! ……お兄さん! なんで?!」
「は?! いやいやアリス君こそなんでこんなところにいるんだよ!」
「俺はちょっと人からテラスがピンチって連絡受けて――」
「……テラス君が?」
 フートが目を瞬く。
「じゃあさっきのはそれだったのか? あれは幽霊? でもそれにしては――」
「……フートお兄さん?」
 正直に言って、アリスの目から見てフートの様子はどこかおかしかった。
 この時フートが冷静になるまでその場で落ち着かせていれば良かったのだろうか。
 けれど突如として響き渡った銃声が、二人からその選択を奪ったのだ。いくら人気のない地域とはいえ、銃声が聞こえてくるなど尋常ではない。
「何が――」「テラス!」
 二人は廃ビルの中に駆け込んだ。
 ハートの女王はニセウミガメとその部下を起こして出て行ったが、別の出入り口を使ったために彼らと鉢合わせすることはなかった。
 そして、運命は彼らの敵に回る。
「……ヴェイツェ?」
「え? なん、で……」
 呆然とするフートの声に現場を覗き込んだアリスは、まずヴェイツェがそこにいたこと自体に驚き。
 彼の体の向こうに見えた血だまりに声を失う。
「テラス……?」
 横たわり死に向かう少年の傍らで、ヴェイツェの両手は紅く紅く血に染まっている。
 それはまるでヴェイツェがテラスを手にかけたと誤解されても仕方ない状況で。
「ヴェイツェ、てめぇ――!」
 あとは、悲劇の坂を転がり落ちるしかなかった。

 ◆◆◆◆◆

 ヴェイツェは一言の弁解もしなかった。
 彼が直接テラスを手にかけた訳ではないが、彼のせいでテラスがこの状況になったのは事実だ。
 それにテラス以外の人間をもう何人も、ヴェイツェはこの手にかけている。
 けれど、そのことが事態を更に悪化させたのは事実だろう。
 見事に誤解したフートはヴェイツェを取り押さえようと追いかけ、ヴェイツェは窓から飛び降りて逃げる。
 魔導で身体強化した二人の、本気の鬼ごっこが始まった。
「……ちょ、待っ……」
「テラス?!」
 ただでさえ弱っているテラスの制止の言葉は間に合わなかった。しかしフートとヴェイツェの行動を呆然と見送ってしまったアリスには届いた。
「お前、息があ――」
 駆け寄ったアリスは改めてテラスの惨状を見て凍りつく。
「どうして」
 フートがテラスの状況を確認しなかったのも無理はない。致命傷だ。こんな傷で生きているはずもない程、綺麗に心臓を撃ち抜かれている。
 アリスより優秀なフートには瞬間的にそれがわかってしまったため、まだテラスに息があるということに思い至らなかったのだろう。
「そりゃ……魔導でね……話……しないと……」
「テラス!」
 テラスが魔導に優れていることは知っていたが、まさか自分が死ぬ間際にもこんなに冷静だとは。それともこれこそが、彼がジャバウォックたる所以だとでも言うのだろうか。
 ――ああ、こんな時本当はもっと考えることがあるはずだろうに、アリスはどうでもいいようなことばかりを気にしている。
 冷静になれない。目の前の事態が受け入れがたい。それでも。
「アリス……お願いだ……」
 アリスは今にも消えそうなテラスの声に耳を澄ます。
「お前が救ってほしいのは、ヴェイツェのことか?」
「うん……彼は、ハンプティ・ダンプティだ……だから……」
「……! わかった!」
 ここでヴェイツェの姿を見て、ようやく繋がった。
 ヴェイツェだったのだ。ヴェイツェがハンプティ・ダンプティであるからこそ、テラスはハンプティ・ダンプティを救ってほしいと、アリスに対し願ったのだ。
 テラスとヴェイツェ、二人の友人であるアリスに。
 ヴェイツェを知らない他の誰かにとっては、ハンプティ・ダンプティは非道な殺人鬼かもしれない。けれどヴェイツェ=アヴァールを友人として知るアリス……アリスト=レーヌは考える。
 きっと何か理由があるはず。自らの命を削ってまで復讐を果たす理由が。
「もう一つ……」
 だがテラスがもたらした爆弾は、これだけではない。情報屋ジャバウォックは最期まで、情報を伝えていく。
「フート=マルティウスは……“帽子屋”だ……」
「怪人マッドハッター?! フートが?!」
 それもまた平然としてはいられない情報だ。今ヴェイツェを追っているのはそのフートなのである。
 フートは自分が怪盗として罪を隠しているからこそ、ヴェイツェもまたそうであると、信じるより先に疑ってしまったのだろう。
「ヴェイツェは素手だったのに、テラスは銃で撃たれてる。ああもう、フートの奴……!」
 それだけ彼も冷静ではなかったと言うことだ。だがどうしても。
 この痛ましい誤解を、自分は止められるだろうか。
「できるよ」
 アリスの心を見計らったように、テラスが言った。
「君ならできる……君にしかできない……」
 不思議の国の住人としての頼み。
 けれどそうする理由は、あくまでもテラスがアリスを信じているから。
「後のことは全部、バンダースナッチ、に……」
「ああ、フォリーから聞く! だから……」
 アリスはテラスの手を強く握りしめる。
「アリス……ありがとう」
 これまでで一番、子どもらしい無邪気な顔でテラスが笑う。
「君と会えて、よかっ……――」
 最後の一音をその唇に乗せられないまま、魔法の終わりと共に命が滑り落ちていった。
「テラス!」
「テラス君!」
 ようやく追い付いてきたシャトンが入り口で叫ぶ。
「ま……間に合わなかっ……」
 一目で惨状を察し、目に涙を浮かべたシャトンにアリスは告げる。
「まだだ。まだ終わってない」
「え……?」
「手伝ってくれシャトン。ハンプティ・ダンプティを――ヴェイツェを止めないと」

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