楽園夢想アデュラリア 01

004:暗殺者

「何者だ!」
 フェナカイトが素早く誰何の声を上げる。
 黒いローブを頭からかぶった人物が、壊れかけた噴水の彫像の上に座っていた。
 ローブの影から覗く口元だけが鮮やかに笑っている。淡く色づいたその唇の色っぽさから、相手が女であることだけがわかった。
 全身は見えていないが、体格は人間と同じだ。フェナカイトやユークよりも恐らく小柄な――女である。
「フェナカイトさん!」
 ユークの声にフェナカイトが振り返ると、先程までサンが刃を突きつけていた人狼の頭目が消失していた。
「いきなり目の前に黒い穴が空いたと思ったら、そこに引きずり込まれていったんだ」
 止める間もなく虚空に消えた魔族のことを思い、サンは僅かに動揺した声で言った。
 あの人狼は一体どうなったのか?
 三人の疑問を見透かしたように、黒いローブの女が答える。
「お前たちが撤退を促してくれたからねぇ。折角だから、回収させてもらったよ」
 と、言うことは先程のあれは魔族側の何らかの行動……魔導、だったのだろうか。
 殺したのではなく、どこか別の場所に送り届けただけだと。
 サンやユークより先に答を得ていたらしいフェナカイトが飄々と感心してみせる。
「随分高度な魔導だね。こんな大きな街のど真ん中にいきなり襲撃を仕掛けてきた大雑把な奴らが使える術とも思えないくらいに」
「そりゃあ、あいつらは餌だからな」
「餌?」
 不愉快気なその響きに、ユークが片眉を上げる。
 言動からこの女がすでに魔族側の救援であることはわかっている。この発言もきっとろくな意味ではないだろう。
「そう、お前たち勇者と呼ばれる者を、誘き出すためのね」
 女はそう言って黒いローブを取り払った。
 年齢はまだ若い。恐らくユークよりいくつか年上――十七、八と言ったところか。
 造作はハッとする程に整っているが、その美しさは氷のような冷気を見る者に与えた。
 一つにまとめられた純白の長い髪が残像のようにサンの目に焼き付く。
「お前は……!!」
 そして、同じように脳裏に焼き付けられた、古く忘れがたい記憶を思い起こさせた。

 ◆◆◆◆◆

 五年前、まだ父が生きていて共に王城に住んでいた頃。その最後の日。
 眠れずに起きてきたサンは父親の下へ行こうとした。
 ただの冒険者から魔獣の王を倒した英雄へと変わったクオの身辺は、このところ酷く慌ただしかった。
 まだ若くハンサムな英雄の後見を誰が務めることになるかで、その偉業を称賛する宮廷の権力者たちは水面下で牽制し合っていた。
 サンという息子はいたが、クオは独り身。身近に女の影もなかったため、あわよくば娘と結婚させて英雄の威光を家に取り込みたいと考える輩が大勢いたのだ。
 永く魔獣の脅威に晒されていた世界で、それを退けた勇者に民衆の心が惹かれるのは当然のことだった。
 それらの事情を、当時八歳だったサンが最初から全て理解していたわけではない。理解したのは王宮を出て、一市民としての目線でものを見るようになってからの話だ。
 けれど周囲の空気がいつもと違うことぐらいは子どもでも気づく。その頃は今よりも繊細だったサンは、たった一人の家族である父親の姿を求めて部屋を出た。
 クオは普段から魔獣討伐の旅に出ていることが多く、サンの傍にいない生活の方が長かった。その分、王宮に帰ってきて共にいる間はひたすら息子に甘かった。
 眠れないと言えば、一緒の寝台に入れてくれるはず。しかしそもそも親子の寝室として与えられた広い部屋に、その日はいつまでも父が帰って来なかった。
 サンは父の姿を探して王宮を歩き回った。顔馴染みの歩哨何人もに尋ねたが、誰もクオの行方を知らない。
 胸騒ぎを抑えこみ、真夜中の迷宮のように広い王城を彷徨う。
 ようやく父がいるらしい部屋に辿り着いた時、部屋から出ていく小さな人影を目撃した。
 夜の藍色の闇の中で、翻る白く長い髪。こちらを見て一瞬笑った? それは不吉な予感と共に、サンの脳裏に焼きついた。
 ――父さん?
 血だまりの中に倒れこんだ、見慣れた姿。自分と同じ銀の髪が赤く染まり、碧い瞳は瞼の内に閉ざされたまま二度と開かない。
 先程の人影が、彼を殺したのだ。
 サンの父親であり、魔王を倒した英雄とまで呼ばれるクオを。

 ◆◆◆◆◆

 父の死に顔は何故か酷く安らかだった。
 王国側は英雄の死に瑕疵をつけることを嫌い、「勇者は魔王との戦いで受けた傷が原因で亡くなった」と公式で発表される。
 父を殺した犯人を見つけてと叫ぶサンに、子どもの頑是ない我儘を諌めるようにかけられる数々の言葉。
 ――もう忘れなさい。王宮に怪しい人影なんて、そんなものは夢を見たのだよ。
 違う違う、そんなはずはないと必死に言い募る全てが大人の耳を通してどう聞こえたものか、捻じ曲げられていく。
 伝わらないのではなく向こうにサンの主張を受け入れる気がないからそうしたのだということは、サン自身がもう少し成長してようやく理解した。
 ――英雄が暗殺者に弑されるなどあってはならない。魔王を倒した勇者は、誰にも負けてはならない。
 ――こんな事実を発表すれば、英雄の名に傷がつく。それは君も望むことではないだろう?
 ――クオ様は魔王の脅威から人々を守って死んだ。それでいいじゃないか。
 良い訳がない。それならば、クオを殺した犯人はどうなる。野放しにする気か。
 馴染みの女王、当時の王女は少し悲しげに、悔しげに告げる。
 ――恐らく犯人は見つからないだろう。お前の見た人影は実行犯ではあるが、クオの死を願った真犯人は別にいるはずだ。
 ――だが暗殺者を雇ったならば、証拠を見つけ出すのは難しい。
 ――よしんば見つけ出したところで、真犯人はいくらでも他の人間に罪をなすりつけて逃れるだけだ。
 真実を伝える言葉すら封殺されて、クオの死は虚飾に彩られていく。人々はクオを立派な勇者だった、真の英雄だったと美しい言葉で褒め称え、彼の痛みを忘れていく。
 サンはその環境に耐えられなかった。英雄の遺児を引き取りたいと申し出るあらゆる貴族たちの援助の手を断って、王宮を出ていく。
 ――行くのか、サン。
 ――ああ。じゃあな、アルマンディン。
 ――まぁ、幼いとは言ってもお前ならば大丈夫だと思うが……。
 サンの引き取り手として真っ先に名乗りを上げたはずのアルマンディンは、サンが王宮を出ていくと聞いた時もあまり反対はしなかった。
 魔王を倒しても、全ての魔獣が完全に駆除されたわけではない。手練れの冒険者への魔獣退治の依頼は後を絶たなかった。
 父に鍛えられていたサンは、齢八歳にして並の大人では相手にならない程に戦えた。魔獣がこの大陸から完全に消えるまでは、戦士としてしばらく食いつないでいくことができるだろう。
 戦い以外の道を探す気はなかった。サンは生きるために冒険者としての仕事をすると同時に、自分の腕をもっと鍛えたかった。
 目的を果たすために。

 ――誰も父さんの仇を討ってくれないなら、俺が自分でやる。

 ◆◆◆◆◆

 目の前の女の姿の端々に、あの日の小さな暗殺者の面影が残っている。
 サンがあの時王宮で見た人影は、せいぜい十一、二歳の子どもだった。今にして思えば、サンの訴えが受け入れられなかったのはその目撃証言の不審さもあったのかもしれない。
 年端もいかない少女が大陸最強の英雄を殺した、など笑い話にもならない。幽霊を怖がる子どもが闇を恐れて何かの影を見間違えた、そう考える方がまだ納得が行くと。
 だが生憎と、サンの脳裏に焼きついた記憶は嫌になる程正確だったようだ。
 何より、向こうがこちらに気づいて様子を変える。
「ん……? お前、なんかどこかで見たことのある顔だな」
 父である英雄クオにそっくりなサンの顔立ちに気づく人間は多い。だが女の台詞は、親子の相似性よりももっと別の理由から湧き上がったもの。
「五年前……」
 サンは決定的な発言を求めて女に尋ねる。

「英雄クオが死んだあの日、あの夜……お前はあの場所にいなかったか?」

 しん、と広場に静寂が訪れる。
 ユークとフェナカイトの二人は、急な展開に声も出せず静観している。
 そして女は――嗤った。

「ああ、そうか。思い出したよ、英雄の息子。……そう、もう五年も前の話になる。あの夜、お前は私の姿を見たんだったな?」

 サンの証言は、親しい仲のアルマンディンたち以外は誰も信じてはくれなかった。
 だから自分たち以外でそれを知っている人間はいないのだ。――あの日、父を殺したその犯人以外には。
「お前か……!! お前が、父さんの仇!!」
 激昂するサンを、女は見つめる。藍色の瞳に酷薄さと、少々の興味を乗せて。
「つくづく私は勇者と言うものに縁があるんだな。五年前は英雄クオで、今度はその息子かぁ」
 女の右手に、身の丈よりも巨大な武器が現れた。同じような大きさでもユークの得物は斧だったが、女が手にしているのは巨大な鎌だ。
 絵画や本の挿絵に描かれる死神が必ず手にしている武器。命を刈り取る大鎌。
「いけない! あれは――」
 フェナカイトに言われなくても、もうわかっている。あれは神器だ。ユークやフェナカイトが使っているのと同じ、神々の遺産と呼ばれるものの一つ。
 だが相手がどれ程強力な武器を用いようと、退くわけには行かない。
 サンはこの日のために生きて来たのだ。
 自らの身長よりも巨大な鎌を手にした女が冷たく笑う。
「さぁ、来いよ勇者様。お前は父親のように歴史に名を刻む前に、ここで殺してやる」