楽園夢想アデュラリア 06

036:フェナカイト

 黒く煤けて焼かれた形跡のある廃教会の中、予想に反して、フェナカイトは祈りを捧げてはいなかった。祭壇近くに腰かけて、ぼんやりと月明かりの差し込む天窓を眺めている。
「フェナカイト」
「フェナカイトさん?」
「なんだ、君たちも起きて来たのかい?」
 いつもと同じ態度を装って声をかけてきたその平静を、ラリマールが無邪気に突き崩す。
「フェナカイトは何を考えていたんだ? ここはお前に何か関係ある場所なのか?」
 フェナカイトは目を丸くして、次の瞬間ふっと力を抜いて微笑んだ。
「起きて来たと言うより、起こしちゃったみたいだね」
 サンたち三人は砂だらけの床を踏みながら教会の中に入り込む。
 魔獣、そして魔族の襲撃と、何年も平和を脅かされる事態が続き、人々の心は信仰からほとんど離れていた。
 ユークは貴族なので建前でも信じる神がいるはずだが、サンはそう言ったものとは無縁だ。ラリマールも特定の神への信仰はもっていないらしい。
 だが恐らくフェナカイトは違う。
 彼はいつでも、戦いの後に王都の聖堂で祈っていた。
 今日もそうだろうと、サンやユークなどは思っていたのだが……。
「ここはね、俺が女王陛下に拾われる前に住んでいた村なんだよ」
「そうなのか!」
 意外な答に、少年たちは目を瞠る。教会だけでなく、この村自体にフェナカイトと縁があったとは。
「ああ。そして村を追い出された」
「フェナカイトさん……」
 いきなり不穏な単語が続いて、ユークが眉根を寄せる。彼とサンはちょこちょこ表情を変えるが、ラリマールは最初にフェナカイトがこの村に住んでいたということ以外は驚かなかった。
 ラリマールだけは、フェナカイトがこの先何を言うのか察しがついているからだ。
「何があったか、聞いてもいいか?」
「そうだな……もう言っちゃってもいいか。ラリマールのこともあるし、俺自身の心も半ば決まっているし」
 ラリマールがあからさまな嘘をつかなくても隠しておきたい事情を抱えていたように、フェナカイトも混乱や敵意を避けるために、自分の素性を説明しなかった。
「俺は村を追い出されるまで、この教会で神官――神父と言ってもいいか。そういう立場だったんだ」
「神父……だから……」
 飄々としていながらもいつも堂々としていて、相手が平民の子どもだろうが女王だろうが良い意味で公平に態度を変えなかったフェナカイトの理由がわかった。
 神の下においては、人は皆平等。そういうことだろう。
「でもただの神父じゃない」
 神父であるだけなら素性を隠す必要などない。
「背徳の神の教えたる睡蓮教を信じる神官。俺は――魔族と人間のハーフなんだよ」
「ハーフ……?!」
 ユークが再び衝撃を受ける。
 サンも目を瞠った。
「って、ラリマールの前例があるからわからないけど、やっぱり人間にしか見えないぞ」
「俺はラリちゃんほど力の強い種族じゃないし、他の姿に変身もできないよ。姿かたちも能力もほとんど人間だ。ただ一つ、魔族の血がもたらす治癒の力を除いては」
 少年二人はあっと気づく顔になった。フェナカイトの治癒術は魔導ではなく、そっちの由来だったのか。
「そう言えば、ベニト殿は……」
「彼の場合もほとんど同じ事情だろう。ただ、治癒の力は彼の方が強い」
 同じ魔族のハーフで治癒術の使い手。
 しかし聖者ベニトは人にも魔族にも肩入れせず争いを拒み、フェナカイトは勇者として己の血の片方に銃口を向けることになった。
「先程、村を追い出されたと言ったな」
 魔族であるが故に、魔族の血を引くフェナカイトの素性についてはすでに把握していたラリマールが静かな眼差しで問いかける。
 血によって素性を理解しても、それはフェナカイトの過去や生き方と直接には関わらない。
 フェナカイトが本当に隠しておきたかったのはハーフであることではなく、それ故にかつて彼の身に起きた出来事の方なのだ。
「それが理由なのか?」

 ◆◆◆◆◆

 ――神官なのに、戦いを誘発するのか?
 ――あら、あなたもそうではなくて?

 フェナカイトは魔王城近くのある村に生まれた魔族と人間のハーフだ。
 珍しい話ではない。人間と魔族が袂を分かち戦争を始めたのは、ここ数年のことである。それまでは人間と魔族が共存して生きる土地も少ないながら確かに存在していた。
 フェナカイトもそうした、どちらかと言えば人間寄りの村で生まれ育ち、やがては神への信仰から神官になった。
 背徳神は邪神と目されることもあるが、本来はそれほど激しい気性の神ではない。
 異端を受け入れる神、子どもの頃に亡くなった両親からそう聞かされて慎ましい信仰を背徳神に捧げて生きていたフェナカイト。
 彼の他にない特徴は、魔族の血がもたらす治癒術による治療だった。
 医者の仕事を奪う程ではない。けれど本当に医術では間に合わない急病や重傷、そして医者にかかることもできない貧しい者たちの治療を主に行って、人々から感謝されて生きてきた。
 ――しかし、世界は穏やかに暮らす彼を放っておいてはくれなかった。
 各地で次々と魔族と人が争う事件の噂が村にも流れてきて、不穏な空気が漂い始めた。
 村の中でフェナカイトに救われた者たちは彼に感謝している。けれど、全員が全員そうではない。面識のない者もそれなりにいる大きな村だ。
 特に村の外に出て一旦帰ってきた若者などは、外で聞いた魔族の襲撃の噂から、魔族の血を引くハーフをも疎んじるようになった。
 初めは少数だったその勢力が日増しに増えていく。
 そしてついに、教会に火がかけられる日がやってきた。
 ――逃げてください! 神父様!
 まだフェナカイトにも、数は減ったが味方は残っていた。その人たちが事前に警告してくれたおかげでぎりぎり焼かれる教会から逃げ出したのだ。

 ◆◆◆◆◆

「……それで、視察に出ていた女王陛下に拾われたと?」
「ああ。酷い顔で行く当てもなく放浪していたのが目についたとかでね」
 アルマンディンはあの性格なので、フェナカイトの境遇を聞いてもまったく動じなかったという。
 彼女はフェナカイトを王都に連れ帰り、当面暮らせるだけの面倒を見た。
『お前は役に立ちそうだからな』
 フェナカイトにはその意味がわからなかった。彼はもはや生きる目的もないまま、日々神を――恨んだ。
 自分はこれまで村のために誠心誠意働いて来た。魔族として持ち合わせた治癒能力だとて、あくまで貧しい者たちの治療のために用い、人に危害を加えたことなど一度もない。それなのに……。
「俺は、信仰を失った。そして全てを憎んだ」
 もう神を信じられない。
 もう何も信じられない。
「正直、あの頃は世界なんてそのまま滅びてしまえばいいと思ったよ。魔族も人もいなくなれば、ハーフにだって意味はない」
 憎しみに囚われ日々神と人間への恨み言を吐き続け、自暴自棄となっていたフェナカイトに、ある日アルマンディンが言った。
『勇者になってみないか?』
 フェナカイトの治癒術は、人間で使える者は少ない。大戦の中で人間の魔導士が激減しているからだ。
 魔族とのハーフならただの人間よりも戦いの素養がある。そして何より、その数日前にアルマンディンに言われて試した神器の、フェナカイトは適合者として認められた。
 こんなにも人への恨みを抱える自分にそんな重要な役目を任せるのかと、不審の目を向けると女王は言った。
『お前は今、多少荒んではいるが、狂ってはいない。本当に人間を憎んでいるのなら、この城を出て魔王の下にでも駆け込んでいるはずだ。あちらにはハーフも大勢いると言うからな』
『……!』
 確かに生来の性格のためか、フェナカイトは人を傷つけるのが嫌いだ。それが人間だろうと魔族だろうと、自分の手で相手を傷つけ苦しむ姿を積極的に見たい訳ではない。
 いっそそれ程に、狂ってしまえば楽だったろうに。
『どちらにしろ私が集めた者の中では、この神器はお前にしか扱えない。好きにしろ。お前がその力で人間を滅ぼそうとしたところで、私は気にしない。ま、その時はその時できっちり刺客を差し向けるがな』
 本当に何を考えているのかわからない相手だと思った。
『さぁ、どうする? フェナカイト=フローター。世界を滅ぼすこともできる力が、今お前の手の中にある。人間を滅ぼすことができる。目の前にいる私も殺すことができる。――そして同時に、それは世界を救う力でもある』
 勇者となり、魔王を倒して。
『世界を、救う……』
『力なき者たちは怖いのだ。いつ自分に、自分の大切な者たちにどんな理不尽な暴力が降りかかるかもわからないこの時代が。戦いが終われば、傷つくこともない。傷つくことがなければ、傷つける必要もない』
 これは一つの試練なのだとフェナカイトは理解した。
 彼が本当に信仰を試されているのは、今この瞬間なのだと。
 実際に相手に危害を加える力を与えられて、それをどう使うのかを問われている。
『ま、本気で嫌なら初めは真面目に勇者をやる振りをしておいて途中で裏切る手もあるな』
『……女王陛下御自らが、そんなこと勧めていいのですか?』
『お前にも色々と考える時間は必要だろう。とりあえず勇者として活動してみて、やはり自分には無理だと思ったらやめればいい』
 それに私にはお前が実際にそんなことをするとは思えない。アルマンディンはそう言って、いつものように不敵に笑った。
『ここでどんなに神に恨み言を吐こうと、答が天から降ってきたりはしないぞ。それは、自ら行動することでしか得られない。私は信仰心など一切ないが、神がそういう存在だということだけは知っている』
 フェナカイトの信じる神に限らず、フローミア・フェーディアーダの全ての神が言う。
 まずはお前から行動しなさい、と。
 救いを求めるなら、まずは自らが救いなさい、と。
『――』
 彼女もそうして超えてきたのだと、フェナカイトは目の前の女王をそう理解した。

「俺に、何ができるかはわからないけれど」
 過去と未来の言葉が重なり、弾ける。
「それでも自分にやれるだけのことはやろう。そう決めたんだ。それに」
「それに?」
 続きを促すように首を傾げた少年たちに、フェナカイトはとびきり悪戯っぽい笑みを返した。
「“心配しなくても、お前以外の勇者はもっとどうしようもない問題児揃いの予定だ”。陛下はそう仰ったんだよ」