朱き桜の散り逝く刻 01

第1章 退魔師と桜魔

1.退魔師

「それで、本当に連れていってやったのっ?!」
「う、うん。……蝶々、お茶零れてるわ」
 友人にして同僚でもある蝶々と甘味処でお茶をしながら、朱莉は明け方の桜魔とのやりとりを一通り話していた。
「呆れた。あんたね、その桜魔はこれまで、故あって川を渡ることができなかったんでしょ? 一度でも渡してやれば、次はもう制限はないわよ。そのせいで、橋のこちら側で被害が出たらどうするのよ」
 見た目も可愛らしい羊羹に乱暴に楊枝を刺しながら、蝶々は彼女にとって妹分たる朱莉をねめつける。しかし両手で湯呑を抱えた朱莉の方は、いっこうに堪えた様子はない。
「でも、悲しそうだったから」
「~~、あのねぇ」
「大丈夫よ、蝶々姐さん。念のためにその家には一応結界を張ってきたし、桜魔の名前も聞いたから、いざとなれば私がなんとかできるわ」
 楊枝を口にくわえたまま、蝶々はがっくりと項垂れた。せっかくの美人顔が台無しだ。
「朱莉……あんたって本当、素直ないい子なのか、計算高くて腹黒なのかわかんないわ……」
 脱力する姉貴分を前に、朱莉はいつものように静かに微笑む。朱莉の力は、相手の名を自ら告げさせることが条件の一つ。見つめるだけでもそれなりに相手の行動に制限をかけることはできるが、完全にその命を握るには、相手の名が必要だ。
 件の桜魔と友好を築いているように見せて、さりげなくその命を握っているあたり、大した退魔師根性だと蝶々は言いたいのだろう。
 朱莉は今年十五歳。見た目は可憐で、平素の性格もその印象を裏切らずに大人しい。
深く艶のある長い紫紺の髪を結わずに背にたらし、瞳と同じ橙色の小袖を着こなしたその姿は良家の子女そのものだ。
 確かに朱莉の世話になっている家は王都でも有数の名家であるので、良家の子女という印象は間違いではない。けれどそれと同時に、彼女は王都でも腕利きの退魔師の一人である。
 朱櫻国(しゅおうこく)の王都、瞬郷(しゅんきょう)。朱櫻国は十数年前、大陸中の国々に戦を仕掛けたおかげで有数の大国となった。しかし同時にその時の恨みにより、王都である瞬郷は無数の桜魔に常に悩まされている。
「でもあんた、本当に気をつけなさいよ。ただでさえ魅了者なんて奇特な能力持ちのせいで、あんたは人と桜魔の境界線にいるような危ういところがあるんだから。いくら無害そうだからって桜魔を助けたなんて他の退魔師に知られたら、何を言われるか知ったもんじゃないわよ?」
 軽々しく桜魔に関わっちゃいけません、と。蝶々はまるで小さな子どもに不審者についていかないよう注意するような口調で言う。
「大丈夫。その辺りは気を付けているもの。蝶々こそ、昨日の仕事どうだったの? 久々に私たち別々の仕事だったけれど」
「どうもこうもないよ。やたらと簡単な仕事でさ。金払いは良かったけど、あの親は過保護すぎるね」
「貴族からの依頼など、みんなそんなものでしょう。今回は男の人にいきなり求婚されて困ったりはしなかった?」
「したわ」
 蝶々は美しい女性だ。年齢は朱莉より三つ年上の十八歳だが、その立ち居振る舞いが彼女を実年齢以上に大人びて見せている。
 ぬばたまの黒髪に黒い瞳。白い肌。背は高すぎも低すぎもしない程良い身長で、胸元や腰回りなどは衣装の上からでもわかるほどの色香に溢れている。町娘の格好にどことなく違和感を覚える程気の強い娘だが、その印象も体にぴったりとした退魔師の装束を纏うことによって、彼女を引き立たせる更なる魅力となる。
 絶世の美女という月並みな言葉をまさに体現したかのような蝶々だが、それ故に日常での面倒事も多かった。異性には声をかけられ、同性には妬まれ、権力者には目をつけられる。幸か不幸か退魔師として優秀な蝶々はそれらを自分で跳ね除けるだけの実力があったため、いつしか彼女は周囲から遠巻きにされるようになった。
 今ではそんな蝶々に付き合えるのは、自身も魅了の力で厄介事を引き起こしてしまう朱莉くらいのものである。朱莉の魅了者としての力はわずかながらでも人間にさえ影響を及ぼすらしく、蝶々程派手ではないが、反面彼女とは趣の違う美しさを持つ朱莉の周囲では、やはり面倒事が絶えない。
 その上朱莉は蝶々と違って見た目も性格も大人しく、養女という事情もあって若干気の弱いところがあるため、周囲も蝶々より目をつけやすいのだ。
 あらゆる意味で王都の退魔師協会の問題児である二人は、今日も仲良く二人でいる。この二人に声をかけてくる顔見知りの人間はほとんどいない。ただ、顔見知りでない人間からはよく声をかけられる。
「あ、あの……やめてください」
 ちょうど茶屋を出ようとしたところで、男たちの集団に絡まれた。自分たちと一緒に芝居でも見に行かないかという誘いに、朱莉は困ったように拒否の言葉を返す。
「朱莉、すべてはあんたのその下がり眉が悪いのよ。もっと強気でいきなさい」
「え、ええ?」
 蝶々に怒られた。それはともかく、断り続けているというのに男たちはしつこい。
 そうなると、更に機嫌が悪くなるのが蝶々だ。声をかけられた時点でやたらとドスの利いた声で返すのに、今は二、三人殺してきたかのような目になっている。
「だから、あんたたちみたいなのに興味はないって言ってんの! あんたたち程度であたしらと肩を並べて歩けるかどうか、鏡を見て考え直して来たら!」
「ちょ、蝶々!」
「んだと! この女!」
 暴言に男たちが気色立つ。あわや乱闘騒ぎになりかけたところで、朱莉は最後の手段とばかりに「それ」を取り出し男たちの眼前に突き付けた。
「待ってください! 私たちは――」
「た……退魔師!!」
 朱莉の手にした手形を目にし、男たちが顔色を変える。
 手のひらに収まる大きさの朱塗りの手形。現在大陸中で不吉とされる桜の紋様を堂々と使ったそれは、朱櫻国の退魔師の証だ。
 彼らだけではなく、周囲で様子を窺っていた町人たちまでもが、目を丸くする。我に帰るとそそくさと一人、また一人と踵を返していった。店内から急に人気がなくなる。
 潮が引くようにその場を離れはじめた人々の口から洩れる囁きに、破落戸(ごろつき)たちは完全に戦意を喪失したようだった。
「た……退魔師だったとはな! だったら今日はこの辺にしといてやるよ」
「そうかい? まだ何もしてないような気がするけど、遊んでくれるんじゃなかったの?」
 にこりと、あえて妖艶に笑う蝶々を前に、男たちは悪鬼にでも睨まれたように身を震わせる。
「冗談じゃねえ! 誰が退魔師みてぇな化け物なんかに手出すかよ! お前らがそうだと知ってたら声なんかかけなかったぜ!」
 口ぐちに捨て台詞を吐いて、男たちは取り出しかけた刃を収め身を翻す。最後の一人が背中を向けたところで、蝶々もようやく隠し持っていた短刀から手を離した。
「蝶々、大丈夫?」
「当たり前でしょ、朱莉。あんたこそ怪我はないわね?」
「ええ」
 好奇の視線はもう、ない。けれどあちこちから、こちらの様子を窺うような、どこか怯えた視線が注がれる。
 一般の人々にとって、退魔師とは畏怖の象徴だ。彼らにとって恐怖の対象である桜魔、その桜魔を更に屠るものなのだから。
 朱莉と蝶々は勘定を済ませて茶屋を出る。蝶々の気に入りの甘味処だったのに、もう来られないだろう。あれだけ思い切り営業妨害してしまったのだから仕方ないが、少しさびしい。
「あーあ」
 面白くなさそうに頭の後ろで手を組んで歩く蝶々が言う。
「あんなチンピラどもじゃなくてさ、どこかにいい男がいないかねぇ」
「いい男って?」
「そりゃあ優しくて気が利いて、あたしのことだけを大事に大事にしてくれる、あたしより強くて顔も格好いい背の高い美青年さ」
「……それに似た台詞、うちのお兄様もいつも言ってるわ」
「へぇ? あいつが。なんて?」
 朱莉のいうお兄様は、蝶々の幼馴染だ。
「どこかに有能で気が利いて仕事熱心で私に忠実な部下はいないのかって」
「いねーよそんな奴。……つまりはそういうことよねー」
 二人は溜息をつく。今日も春の陽気の冬空が淡い色をしていた。

 ◆◆◆◆◆

 いつの頃からだろう、この大陸に“桜魔(おうま)”と呼ばれる妖が蔓延るようになったのは。
 桜魔。それは桜の樹の魔力に、人々の昏い怨念や瘴気が結びついて生まれる魔物の総称。見た目や能力は個体によって差があるが、その存在は一様に桜の樹より生まれ、桜の樹を力の源とする。
 桜魔のいる街では、春が永い。
 彼らは自らの力の源である桜の盛りを長引かせるために、妖気で自然界の法則までも歪めるのだ。桜魔の力の根源たる桜は、桜魔の妖気を受けてそれ自体が妖樹へと変質し、いつまでもその美しくも禍々しい花を咲かせ続ける。妖樹は只人の手では伐ることすら敵わず、実をつけることもないまま延々と不自然な花盛りをもたらす。
 最初の桜魔がいつこの大陸に発生したのかはわからない。だが桜魔というその存在が人類に確認されてから、夥しい被害が現れだした時期を聞けば誰もが十五年ほど前からだと答えるだろう。
 その頃、大陸では大規模な戦争が行われていた。
 事の始まりは、他でもないこの朱櫻国の王の一存である。彼は近隣諸国を次々に侵略、併合し、国土を大きくした。もともと小国でもなかった朱櫻国は戦によって更に豊かになり、資源や労働力、他国の溜めこんでいた財までも得た。
 しかしそのために引き起こされた戦争のせいで、大陸には人々の嘆きと怨嗟が満ちた。
 屍に満ちた大地と血で染まった河川。生き残った人々の苦悩と死者の憎悪、悲嘆。それらが凝り、瘴気と混じり合い桜の樹の魔力と結びついた結果、大戦後は大陸中で爆発的に桜魔の被害が増えることとなった。
 桜魔は人の感情より生み出されるものだから、いくら瘴気が深まろうとも人間の数の少ない山奥や僻地には存在しない。負の感情より生まれし彼らが好むのもまた人々の負の感情。
 桜魔は街中に出没し、人々を襲う。恨みを持って死んだ死霊が生者の魂を引くように。
 その見た目も能力も様々な妖。彼らの共通項は、桜の樹をその力の源とすること、そして人を襲う異形の化け物であること。
 今では、王都のような大きな街において、“春”以外の季節は存在しない。
 一度増え始めた桜魔の勢力は衰えず、様々な人々が生活する大都市では、その力は人間たちの怨念を糧に増すばかりで、いっこうに弱る気配もなかった。
 実体を持つ妖である桜魔に、普通の刃物は効かない。彼らを倒すには、相応の特別な力が求められる。
 そして桜魔を倒す力を持つ者たちを、人は“退魔師”と呼んだ。

 ◆◆◆◆◆

 筏川と呼ばれる川のほとりに朱莉は立っていた。
 蝶々とは道の途中で分かれた。これから自宅に帰るだけの蝶々とは違い、朱莉にはやるべきことがあったのだ。それにうってつけだったのがこの筏川の岸辺だった。
 昔この川は、春になると周辺の桜の花弁が無数に舞い込んだ。水面に浮かんだ花弁が連なり、まるで筏のように見える様を花筏という。そこからついた名だ。
 今では暦の上で夏盛りだろうが年の瀬だろうがおかまいなく桜が咲き続けているので、花筏が流れていく光景にも風情などなくなってしまった。否、暗くも透き通った水面を淡い花びらが流れていく光景に人々が某かの感傷を覚えたとしても、それを口に出すことなど許されるようなご時勢ではなくなってしまった。
 夕暮れの川縁には他に人の姿もなく、朱莉は水道橋の一端から、誰に見とがめられることもなく雑草の生えた橋脚の下へと降りて行った。
 黄昏時は古来より逢魔が刻と呼ばれるが、今では“桜魔が刻”である。夕暮れと明け方は真夜中に負けず劣らず桜魔の動きが活発化するため、人々は夜道を歩くよりも警戒して、極力外に出ないようになる。若い娘がこのような時間に外を出歩くことはない。
 朱莉が今日、それもこんな時間にあえてこの場所に来たのは、もちろん理由がある。
 桜魔に会うためだ。
 西の空には赤い夕陽が在り、橋の周辺に並んだ桜を朱に染めている。散った花弁が水面に浮かび、花筏となって流れていく。
 橋脚の影が濃く、朱莉の姿もその紫紺の髪から影に同化するように次第に降りてくる夜へと馴染んでいく。
 その闇の中で――何かが蠢いた。
「……見つけた」
 隠れ鬼をする子どものように呟くと、朱莉はそっと微笑んだ。
 川の中から、橋の下の影から、桜の根元から、蠢く小さな生き物の気配がする。それらは一様に息を殺し、川のほとりに立つ朱莉のことをじっと見つめている。
 朱莉は遠くから自分のことを観察する桜魔たちに呼びかけた。
「いらっしゃい」
 影の中に白い手を伸ばし、差し招く。闇の中で白い蝶が羽ばたくかのようなその動きに惹かれ、何かがずるりずるりとそこかしこの闇の中から這い出てきた。
 手のひらに乗る大きさの蜥蜴、三足の鴉、小さな鵺。いずれも小物の桜魔ばかりだ。これでは駄目だ。まだ、足りない。
 不意に、背後、川の中に気配を感じた。一際強い妖気を放つ桜魔がそこにいる。
「あなたもいらっしゃい」
 朱莉が着物の裾を濡らさぬように袖をまくり腕を川の水に浸すと、何かが絡みついてきた。
 細く長く、縄のように腕にまとわりつく。その先端の頭では、四つの紅い目が朱莉を睨んでいた。大きさはそれほどではないが、力は強い。蛇の姿をした桜魔。
 ここに集うのはいずれも、朱莉の魅了者としての力に惹かれてやってきた桜魔たちだ。朱莉の存在に惹かれてはいるものの、まだ彼女に隷属を誓ったわけではない。桜魔としての本心では人間に服従するなどたまったものではないと考え、魅了の力に必死で抵抗している。
 朱莉はその最後の抵抗を突き崩し、彼らを自分の支配下に置かなければならない。桜魔と契約するのに必要なのは、相手の名前と視線、そして敗北を認めさせること。
 腕に絡みつく蛇、それから近くの暗がりから這い出て彼女の足元に集まりだした桜魔たちに、朱莉は言った。
「私に服従しなさい」
 同時に、懐に忍ばせていた霊符を発動させた。
 弱い桜魔たちを殺してしまわない程度の攻撃でも、周囲に群がる桜魔たちは一斉に混乱する。首に噛みついて来ようとする蛇の頭を抑え、その体に直接霊力を叩き込んだ。
 霊力、桜魔からすれば妖力と呼ぶ力。生命力と言い換えることもできるその力の強さが、肉の身を持たず妖力と瘴気でできている桜魔にとっては直接の力の差だ。
 隙を見て朱莉に噛みつこうとしていた蛇が、やがて大人しくなる。殺気が消えたのを慎重に見計らい地面に下ろしてやると、とぐろを巻いて頭を垂れるようにした。
「あなたの名前は?」
「睡黎(すいれい)」
 蛇の口が動き、人間の言葉で答えた。桜魔が自らの負けを認めて名を預ける。これでようやく配下としての契約の完了だ。
 一度その場で最も強い個体が応じてしまえば、あとの桜魔たちも続々と朱莉に従った。
 朱莉は支配した桜魔たちを、自らの足元の影の中に入れる。影渡りという術で、桜魔は地中を通って影から影へと一瞬で移動することができる。全ての桜魔に使える技ではないが、朱莉の場合影渡りが得意な桜魔を捕まえ、その能力と他の配下の桜魔の力を連動させ操っている。
 この場に集った全ての桜魔と契約し終え、朱莉はようやく、肩の力を抜いた。すると。
「鮮やかな手際だな」
 彼女と桜魔の契約が終わったその瞬間に、背後から声をかけられた。
 朱莉が目の前の桜魔たちに集中していたとはいえ、それまで一切気配を悟らせなかった力量の持ち主だ。振り返った先で見たのは、知らぬ顔ではなかった。
「あなたは……」
 明け方、川を渡れないと嘆いていたので橋を渡してやった少年だ。浅葱色の髪と菫色の瞳。
 桜魔は人の感情から生まれるのだから、強い感情と力を持つほど原型である人間に近い姿をとる。肉の器を持たぬ彼らは、妖力の質量だけで人間ほどの大きさを維持するのは難しいのだという。逆に恨みの感情ばかりが強すぎると、姿は大きくとも人間の細かな造作までは作れなくなる。だから完全な人型をとる桜魔は相当の実力者だと考えられていた。
 二度目の出会いということで、朱莉はこの機に彼の容姿を、黄昏時の薄闇の中ではあるがじっくりと観察する。彼は完全な人型の桜魔だ。
 年の頃は十六か、七か。朱莉よりも少し年上に見える。しなやかな痩身をまるで退魔師のような体にぴったりとした袖なしの衣装に包み、腰には装飾性の高い剣を下げていた。剥き出しの腕には、肘まで伸びる長い手甲。足元は草履ではなく、膝までを覆う長靴と呼ばれるものを履いている。
「噂には聞いていた。“桜魔を魅了して隷属させる者”か」
 浅葱色の髪が緋色の空と朱く染まった桜の中で一際鮮やかで、朱莉はしばしその姿に見惚れた。
「以前私の名を聞いたな。それも契約に使うためだったのか」
「……ええ、そうよ。螺珠(らじゅ)」
 ここで狼狽もせずに嘘をつけるほどの器用さはさすがになく、朱莉は正直に答えた。
 少年の名は螺珠。それは朱莉があらかじめ彼に聞き出していた情報だ。
「あなたが会いに行きたいという相手に、あなたが危害を加えない保証はなかったもの。一応鎖をつけさせてもらったの」
 息をするように嘘をつける器用さはない。けれどここでその真実を口にする度胸だけはある。
 少年はくす、と小さく笑った。
「それにしては私は、君に服従したいという気持ちにはならないようだが」
「桜魔の名を知ってもそれだけでは完全な支配にはならないわ。配下にするには、最終的にはその桜魔に負けを認めさせないと」
 つまり、強い桜魔を手に入れるには自分で戦わなければならないということだ。答えながら、朱莉は懐に手を入れた。
「……そうか」
 霊符はいつも数枚持ち歩いている。いつ桜魔との戦闘になってもいいように。先程契約したばかりの桜魔たちも、自身の配下で最強の桜魔である紅雅もすぐに影の中から出すことができる。
 螺珠という名の少年桜魔が襲い掛かってくるつもりだったら、朱莉は応戦するつもりだった。
 だが。
「面白いものだな。桜魔を魅了する、とは。退魔師を間近で見ることもさほどないが、皆、変わった衣装で剣を振り回す印象しかないぞ」
「……確かに、多くの人はそういう能力だけれど」
 自分が支配されるかもしれないのにその心配もせず、こうして穏やかに退魔師について語っている目の前の桜魔は変だ。
 変と言えば、螺珠はもとからそうだった。桜魔なのに同族であり桜魔の血の匂いをさせていた。それに。
「あなた、何者なの?」
 自分の前でもまったく平静な様子の螺珠に向けて、朱莉は尋ねた。
「何故、桜魔なのに私を前にして、揺らぐ様子の欠片もないの?」
「揺らぐ?」
 朱莉の魅了の力はこの瞬間も無意識に発揮されている。彼女の能力は彼女の霊力の波形そのものに特徴があるらしく、力を抑えてもその波形を完全に打ち消すようなことはできない。普通の桜魔なら、傍にいるだけで影響を受けるという。
「私の力は、桜魔の魅了。私を前にした桜魔は、私に惹かれるか、私を嫌悪するか、そのどちらかよ」
 魅了と言ってもそれほど万能な力ではなく、正式な契約を交わす前の桜魔は、魅了者を前にして何をするかわからないものだ。先程捕らえたような力の弱い桜魔たちであれば遠巻きに朱莉を見つめるくらいだが、なまじ力のある桜魔は不可視の支配から逃れようと、朱莉に対して他者に向けるよりも攻撃的になる。
 朱莉が見つめるだけで相手を支配できるような強い力を発したのは、生涯ただ一度だけ。それは彼女がこの力に目覚めた瞬間。両親が目の前で桜魔に引き裂かれ、自らも殺されるところだったその瞬間だけだ。
「こんなに傍にいるのに、あなたはどうして何もないの?」
 魅了者というのは、桜魔にとって誘蛾灯のようなものらしい。その光に近づくことは破滅であるのに、惹かれずにはいられない。彼らの大半は自ら望んでその光に焼かれるために飛び込んでくるのだ。
 魅了者の支配を跳ね除けるには他によほど強い憎しみの対象が存在する場合くらいのものだが、目の前の螺珠は常に穏やかで、憎悪に駆られているようには見えない。桜魔は人の純粋な感情の塊でできているようなものだから、誰かを強烈に憎んでいる場合どうしてもそれが表に出ないはずはないのだが。
「何者、か? 桜魔に最も詳しい人種であるはずの退魔師からそう聞かれるとは。私は確かに桜魔としては変わり者なのだろう」
 螺珠は口元に小さく笑みを浮かべる。その笑みはどこか自嘲的で、彼は結局問いに答えてはくれていない。
 あるいは自分が何者かなど、螺珠自身にもわからないのかも知れない。
「私に言えるのは、私が生前桜魔の発生の仕方として伝え聞いたのとは違う方法で自分が生まれ変わったことくらいだな。だから私には、君の力も通用しないのかもしれない。私にとって君は普通の女の子と同じだ」
 朱莉はぱちぱちと瞬いた。自分が普通の女の子などと、久々に聞いた。
 彼女のそんな驚きも気にせず、螺珠は話を進めた。
「今日ここに来たのは、君に明け方の借りを返すためだ」
「借り?」
「橋を渡してもらっただろう」
「ええ」
 もちろん朱莉も覚えていた。けれど彼の方までも律儀にあれを借りだと考えているとは思いも寄らなかった。それに、どうしてここがわかったのか。
「この場で出会ったのは偶然だ。妖気が集まる場所に来てみたら、君がいた。窮地に陥ったのなら助けようかと思ったのだが……」
「もしかして、さっきのずっと見ていたの?」
「ああ。助けようかと思ったが、助ける場面もなかったからな。おかげで借りを返す機会が先延ばしになってしまった」
 淡々とした口ぶりだが、螺珠はどこか困っているようだった。
「また今度、何かあったら手伝わせてもらうよ」
「あ……」
 それだけ告げると、彼は朱莉が引き留める間もなく姿を消してしまう。彼も高位の桜魔。紅雅と同じように影を渡ることなど造作もないのだろう。
 後にはどこからともなく、川の流れとは違う水と桜の香りが舞い込んできた。

 ◆◆◆◆◆

 王都の中心部にある貴族街と呼ばれる一角。その中でも一際大きな古めかしい屋敷。それが今現在、朱莉の世話になっている嶺(れい)家だ。
 伝統的な装飾を施された外観に、中はどこも最新の技術で塗り固められた建物。朱櫻国でも名のある名家であることを誇示する嶺家の屋敷は、その名を知らぬ者にさえも威容を誇る。
「ただいま戻りました」
「まぁまぁ、朱莉様。お帰りなさいませ! 奥様も若旦那もお待ちかねですよ」
 朱莉が玄関で挨拶の言葉をかけると、どこからともなく女中がやってきて彼女の手から荷物を受け取る。朱莉は両親が死んでからこの家の若き当主である青年の妹として嶺家に引き取られたために、扱いも一家の一員とされていた。
「お兄様は書斎ですか?」
 もともと従兄妹同士なので、義兄を兄と呼ぶことに躊躇いはない。むしろ、以前からそう呼んでいたのが本当の兄になったくらいだ。
「ええ。いつものように書類と本にかじりついていらっしゃいますよ。そろそろ休まれるよう朱莉様の方からお伝えしてくださいな」
 先日の首斬り魔退治のため、朱莉はここ数日間家を空けていた。桜魔と戦う際には、下調べと準備が大切だ。しかも決行は真夜中になるため、仕事があると彼女はよくこうして家を空け、現場の近くに宿をとる。
 それが退魔師の仕事とはいえ、少なからず命の危険を伴う仕事に出向いて何日も戻らなければ、さすがに家人が心配する。
朱莉の配下の桜魔には長距離を一瞬で移動できるような能力の持ち主もいるので、実を言えばいくらでも真夜中に帰ることは可能だった。しかしそれはそれで家に迷惑をかけることになると、気を使った結果がこれだ。
 まずは無事に仕事から戻ったことを伝えるために、朱莉は現当主である義理の兄の書斎へと向かった。
「白露(はくろ)お兄様。朱莉です。ただいま戻りました」
「入れ」
 嶺家の当主、白露は義理の妹を冷たい硝子玉のような瞳で見下ろした。すっかりお馴染みとなった顰め面で、今日も領地の税収の書類と格闘していたらしい。
 桜魔が気候を狂わせるせいで、ここ十年ほど、朱櫻の作物は不作気味だ。なんとか人々が食べていける程度ではあるが、それも年々収穫量が減っている。
「よく、無事に戻った。協会の方からも任務完了の連絡が来ている」
 感情を押し殺した眼差しで労いの言葉をかけられて、朱莉はただ頭を下げる。
「……退魔師の仕事は過酷だ。自らの身体を労わるのだぞ」
「はい、お兄様」
 短い挨拶のあとは、言葉少なに兄の書斎を後にした。
 年の離れた義理の兄である白露は、嶺家の養女となった朱莉のことを良く思ってはいない。正確には、義妹が退魔師であることを良く思ってはいないのだ。
 別段朱莉が来てからこの家の人間関係が乱れただとか、そういう理由ではない。むしろその逆だ。
 十年前に両親を亡くしてこの家に引き取られた朱莉のことを、奥方もその夫である前当主も屋敷の使用人たちも、誰もが皆可愛がっている。だがそれは、朱莉自身の人柄や彼女の身にまつわる利害関係というよりも、朱莉の持つ能力によってのことだった。
 退魔師の朱莉。桜魔を魅了し、服従させ隷属させる者。その力は、少なからず、人間にまで影響する。
 朱莉自身明らかにしてはいない。退魔師協会も何も言わない。けれど白露はこの義理の妹に、そのような力があると薄々勘付いているのだろう。昔はよく従兄妹として面倒を見てくれたのに、最近は距離をとられている気がする。
 桜魔にとってはほぼ絶対的なこの力も人間相手には個人差が激しく、強いれば奴隷にでもできそうなほど朱莉に惹かれる人間もいれば、逆に兄のように朱莉に嫌悪感を抱く人間もいる。桜魔を屈服させるのと違い、無意識のうちに流れ出る霊力に影響される人間のことまで、朱莉は制御できない。
 そして朱莉の力の影響で好意よりも嫌悪を抱くような人間は、兄のような一般人よりもむしろ、退魔師に多い。自らも異質な力の持ち主である退魔師たちは朱莉の力の波形にも気づきやすいらしく、影響されるのを恐れて彼女を避ける。
 退魔師は一般の人々に忌避される職業。そして退魔師たちの中ですら、朱莉は異質だった。
 いつも通りに素っ気ない兄への挨拶を終え、優しい笑みを浮かべた義理の母や女中たちに囲まれて表面上は笑顔を浮かべる朱莉は、ひとつのことを思い出していた。
 先程も、川縁で再会した桜魔の少年、螺珠。何故彼は朱莉の力に充てられても、彼女に魅了される様子がなかったのだろう。