朱き桜の散り逝く刻 01

2.桜魔

 朝から情報屋の辰(しん)が訪ねて来たというので、朱莉は彼を出迎えに応接間へと赴いた。案の定彼と一緒に蝶々がいて、ああ、仕事の依頼だなとゆっくりと意識を切り替えながら席に着く。
「よ、お嬢さん。ご機嫌麗しゅう」
 白露の命でいつ来客があってもいいように毎日念入りに掃除されている応接間は、今日も塵一つない。品良い調度に負けぬ美貌の女性の隣に、飄々とした青年が一人、煙管をふかしている。
 青年は見たところ年の頃二十代半ば。遠い日の雪のような見事な銀髪に、深い蒼の瞳をしている。
 近くで見ると意外な程に端正な面差しをしている彼だが、普段の言動がどうしても二枚目半と呼ばれてしまい残念ながら女性受けは良くないという。
 もっとも彼が例えば万人の認める美青年だったとして、情報屋などという胡散臭い商売をしている限りは御婦人方の人気を得ることはかなわないだろう。
 彼――情報屋の辰は、この王都で桜魔に関わる情報を専門に扱う人間なのだ。
 当然、辰は退魔師協会とも関わりが深く、こうして退魔師である朱莉や蝶々とも面識がある。もっと言ってしまえば、朱莉の数少ない友人の一人だ。
 魅了の力により蝶々以外の退魔師から敬遠されている朱莉には、こうして辰を通じて退魔師としての依頼がされることが多い。王都には退魔師協会の本部があるが、そちらに呼び出されたり朱莉自身が赴いたりすることは、ほとんどないと言っていい。
 ちなみに、世間一般の退魔師稼業というのは、自ら退魔師協会の支部や本部に赴いて依頼を探すものだ。協会は名簿に登録された退魔師の可能な限りの事情を把握し、それぞれ適正な依頼と報酬を得られるように調整する。
 それだけ聞けば随分煩雑な作業が要されると思われそうだが、そもそも自称ではなくきちんと退魔師協会に登録されるほどの能力を持った正規の退魔師の数自体が少ないので、事務員が忙殺されるほどでもないようだ。なんらかの事情で正規の退魔師登録をしていない退魔師の方が、現在正規の退魔師よりも多い。
 朱莉は退魔師の中でも異質であり特殊な分類で、協会から特別扱いされている一人だ。
 そうした協会の意向を朱莉に伝え仲介するのが、辰の役目である。
「朱莉お嬢さん、蝶々姐さん、あんた方に依頼ですよ。ちなみに秘密厳守で、先方が協会一の実力者を寄越せというんでお二人が選ばれました」
 室内でも外さない鳥打帽を片手で押さえながら、辰が意味ありげに笑う。
「ふん。もったいぶって。そういう言い方をする時ってのは、だいたいお貴族様絡みでしょ?」
「大当たりだぜ、姐さん」
 辰は依頼主の名を告げる。家名は伏せられ名だけを告げられたが、朱莉には相手が誰だかだいたいわかった。なるほど、人見知りで社交界のこともわからぬ朱莉ですら名を知る大貴族の当主だ。
 とはいえ、朱莉自身もその人物の顔は思い浮かばない。名前を知っている程度だ。生まれも育ちも平民である蝶々はピンとこなかったようだが、朱莉の説明で納得した。
「で、そのお貴族様は何に困っているっていうの? わざわざあたしたち二人を指名するってことは、当然訳アリなんでしょ?」
「そりゃあねぇ。ま、お二人が引き受けるつもりなら詳細は直接依頼人に聞けって話だって。……どうする?」
 もともと桜魔という存在に関する事柄である以上、依頼人は秘密主義が多い。内容を聞かずに引き受けるも何もないが、簡単に事情を知る者を増やさないために、退魔師への依頼はこのような形をとることが多い。朱莉と蝶々には慣れたやりとりだった。
「さて、依頼主の意向は伝えたよ。それで、お二人の御意向は?」
 にやにやと笑う辰に、蝶々が溜息交じりの返事をした。

 ◆◆◆◆◆

 辰の案内で辿り着いた屋敷は、幸いなことに朱莉の知らぬ家だった。彼女が兄の命で貴族同士の付き合いに顔を出すことは滅多にないが、それでも退魔師という職業柄、仕事現場で知り合いと会うのはやりづらいものがある。
 そして今回の依頼相手は、そもそも人付き合い自体が少ない朱莉がそうした危惧を抱くほどの名家だった。
「勇那(いさな)様、ですね?」
 指示通りに裏口から途中で合流した使用人に紛れて屋敷の中へ入ると、嶺家に負けず劣らず整えられた応接間へと通された。縁側から覗ける庭も美しく、広い池に金色の鯉が泳いでいる。
 やがてやってきた壮年の男の顔に、あえて家名を呼ばずに名だけを確認する。それが依頼者の望みだった。そこまでして家の名に傷を負わせまいとする目の前の男の望みだ。
 勇那という名の依頼人は、退魔師協会からやってきたと蝶々が名乗る間、二人に見惚れるように硬直していた。それも無理からぬことで、絶世の美貌を持つ蝶々と魅了の力を持つ朱莉の二人組だ。こうして依頼人が驚かない方が少ない。
 しかしそこはやはり名家の当主と言うべきか、勇那はすぐに驚きを収めると、今回の依頼のあらましを朱莉たち二人に説明し始めた。
「先日、この家の者たちで出かけた折に不幸がありました。私の上の娘が亡くなったのです」
 今回この屋敷に現れた桜魔、朱莉と蝶々が対峙すべきその相手こそ、亡くなった姉娘の姿をしているのだという。
 勇那には娘が二人いた。上の娘を茅(かや)、下の娘を花梨(かりん)と言った。姉の茅には風吹(ふぶき)という名の婚約者がいたが、茅は先日、川の事故で亡くなった。
 それから、この屋敷で様々な怪異が起こるようになり、ついに昨夜は亡くなったはずの茅の姿をした桜魔が現れた。
「間違いなく、あれは私の娘でした。叫び声に驚いて使用人と共に庭に飛び出した私の顔を見て、私を呼び、悲しげに微笑んで消えました」
 そして後には、桜の花弁が残っていたという。
 娘を亡くしたばかりの人の前では決して口にはできないが、まるで陳腐な幽霊譚だ。けれど現場に残っていたものが桜の花弁だというのであれば、それは相手がただの幽霊ではなく、桜魔である証。
「酷なことを言うようですが、御主人。その桜魔は、あなたの娘さんではありません」
「ですが――」
「桜魔は桜魔です。幽霊ではありません。桜魔とは人間の情念に桜の樹の魔力と瘴気が結びついたもの。人型の現身を得るために娘さんの顔を借りたのだとしても、相手はあなたの娘さんではなく、その中身は禍々しい魔力と瘴気です」
 勇那に反論を許さぬ勢いで、蝶々は断言する。
 人の情念を核として発生する桜魔は往々にして人の似姿をとる。しかし彼らは決して人ではない。ましてや現世に未練を残した人々の霊魂などは欠片も含まれていない。
 桜魔に残っているものは、それよりも更に厄介な人間の感情だけだ。
「勇那様、今一度依頼の内容を確認させていただきます。私たちへの依頼は、この屋敷に怪異を引き起こす桜魔の退治――それでよろしいのですね?」
「……ああ」
 無表情に最終確認をする朱莉の前で、勇那は一度だけ瞼を震わせたが、次の瞬間にはもう割り切った大人の態度で頷きを返していた。
 桜魔と幽霊は違う。だが世間はそうは見てくれない。ましてや、屋敷に現れる桜魔が娘と同じ顔をしているのであれば。
 だから彼はそれを秘密裏に処理するために、わざわざ高い金を払い秘密厳守で退魔師協会に依頼したのだ。
 例えそれが本物の娘の霊であっても、勇那という名家の当主である男は、その場合頼む相手が拝み屋に変わるだけで、最終的には怪異を引き起こす妖退治を決意したことだろう。
「この依頼、お引き受けいたします」
「感謝する」
 視線を合わせて蝶々と頷き合い、朱莉はその旨を依頼主に言葉としてはっきりと伝えた。

 ◆◆◆◆◆

 一度依頼を引き受けると決まれば、桜魔退治への下準備が必要になる。使用人たちが息を潜めるようにしていた屋敷内に勇那が号令をかけ、慌ただしく今夜のための支度が始まった。
 桜魔がいつも現れる場所は決まっているという。ならばそこ以外には結界を張って住人の安全を確保し、できれば貴重品も移動させる。桜魔の強さや性質にもよるが、戦闘になれば家屋が半壊するのも珍しくはない。一般人の民家であればそうならぬよう細心の注意を払うが、今回は依頼主が大貴族なのでそこまでの心配はせずに済んだ。むしろ、娘が桜魔になったかもしれないという醜聞を立てられたくない勇那は、桜魔を取り逃がさず必ず屋敷の敷地内で仕留めてくれと注文をつけた。
 侍女たちが今夜の準備をする慌ただしさの中、朱莉と蝶々は勇那から彼の残りの家族と顔合わせをさせられていた。
 奥方であり亡くなった娘の母親である婦人と、二番目の娘の花梨。そして茅の婚約者であった青年、風吹。
 夫人は二人に対し丁寧に頭を下げるのみであったが、妹と婚約者は違った。
「そう、あなたたちなの。退魔師って。どう見ても私と同じくらいの歳じゃない。そんなので本当に迷えるお姉様の魂を救うことができるの?」
 ぶしつけな眼差しを向けてくる花梨の態度。とはいえ朱莉と蝶々の二人にとってはこんな態度は慣れっこだ。桜魔に対しての認識も間違っているようだが、特に注意するようなものでもないだろう。
「驚きましたね。もっと厳つい大男や、怪しげなお坊さんみたいな人が来ると思っていましたから」
 茅の婚約者であったという青年風吹は、朱莉と蝶々の姿を見るなり顔を赤らめていた。男のそういった反応も二人は慣れているので、今更何も感じはしない。
 だが、姉の元婚約者の反応に、妹は気分を害したようだった。花梨が二人に向ける眼差しはますます冷たくなる。
 そんなやりとりを挟みつつも、朱莉と蝶々と屋敷の者たちは、手際よく桜魔を迎え討つ準備をこなしていく。
 そして、夜が来た。
 遍く生き物にとって恵みたる太陽の光が届かぬ時間。月は白く輝き、魔とつくあらゆるものが跋扈する。勇那の屋敷の庭に桜はないが、王都のどこかでは今も、妖力を秘めた桜が咲き誇っているだろう。
 いまや街中で爛々と輝く桜の樹は全て妖樹であり、桜魔の核であり母体であり、力の源でもある。
 桜魔の力の源となる桜の樹が増えたからと言って、桜魔自体が鼠算式に増えて常時街中に居座るということはない。しかし桜の樹の数と桜魔の発生数はやはり関連があって、街中や人通りの多い街道などに彼らの力の源である桜の樹が増えるほど、桜魔も数が増え、またそれぞれの個体が強さを増すことになる。
 時刻は真夜中。貴族街の一角にある大きな屋敷の広い庭に、いつしかゆらりと白い人影が立ち上がった。
 その影はやがて青ざめた若い女の姿をとる。全身が水に濡れたように着物が体に張り付き、髪は酷く乱れていた。
桜魔は何かを探すようにあたりを見回すと、まるで歩き方を覚え始めた子どものようなたどたどしい足取りで母屋を目指す。
 しかし、その目前にほっそりとした一つの影が立ち塞がった。
「……誰?」
「それはこちらの台詞さね。亡くなった令嬢の顔を被った桜魔よ」
 闇の中に不自然に浮かび上がる桜魔の姿とは違い、その輪郭の半分は闇に溶けている。しかし発せられた声音は凛とし、突き刺すほどの闘気がその肢体から立ち昇っていた。
 薙刀を手に、蝶々は桜魔の前に姿を現す。
 退魔師としての彼女の能力は、霊力で自らの肉体及び武器を強化するものだ。これは退魔師に一番多い能力、最も単純で効果的な力の使い方で、それに武芸を収めた肉体と鍛え上げた武器本来の殺傷力を上乗せして桜魔を直接攻撃する。
 妖の世界に属し、妖気で作られた桜魔の身は、ただの武器では傷つけることすら困難だ。それを可能とするのが、退魔師の霊力を込めた刃だった。
 退魔師としての力には、通常の肉体と違って男も女も差がない。人間同士で拳をぶつけ合う場合には技巧の他に純粋な筋力も必要とされるだろうが、退魔師にはそれは必要ない。相手の攻撃を身軽に躱し、一撃を狙い違わず打ち込むことさえできれば、その霊力の強さに応じて桜魔に傷を与えることができる。
「死んだお嬢さんのどんな感情を呑み込んであんたがここに来たのかは知らないが、当のお嬢さん本人はとっくに黄泉路を辿っているんだ。その残滓であるあんたが、お嬢さんの家族を傷つけるのをみすみす見ているわけにはいかないね」
「……そこ、どいて」
 幼児のように舌足らずな口調で、茅の姿をした桜魔が言う。
「いやだね」
 ばっさりと拒絶した蝶々に向け、茅――否、彼女の顔をした桜魔は形相を鬼のように歪ませた。
「おのれ、おのれおのれぇええええ!!」
 この桜魔の武器はその手に生えた爪だった。着物の袂で隠されていた指先に、彼女自身の腕の長さほどもあろう刃物のような爪が伸びている。
 蝶々の武器は薙刀だ。いくら長いとは言っても、桜魔の爪がその身長より長いというようなことはない。間合いという面では、蝶々が圧倒的な有利。
 しかし、彼女はそのことで微塵も油断しなかった。何せ相手は人外の化け物だ。どんな隠し玉を持っていてもおかしくない。
「気を付けて蝶々、その爪は伸びます!」
「!」
 朱莉が忠告する。蝶々はそれによって危うい攻撃を回避し、相手の桜魔は目を見開いた。
 その視線が目前の蝶々から、少し離れた場所――母屋の縁側の手前にいる朱莉に移る。
 朱莉の足元では、彼女の影の中を移動する銀の魚が泳いでいた。
 直接攻撃の蝶々と違い、朱莉の戦いは、捕獲して服従させた配下の桜魔を使役するものだ。使い魔となった桜魔の中には、紅雅のように攻撃力が高い者だけではなく、力は弱くても偵察や防御などそれぞれの特質に優れた者がいる。
「朱莉!」
 桜魔は自分の能力を先読みした朱莉の方が厄介と感じたか、蝶々への攻撃の手をとめて朱莉へと向かってきた。
 しかし鋭い爪は彼女に届く前に、一瞬で影の中から飛び出した紅雅の刀によって防がれる。
 紅雅は桜魔を退けると、一度朱莉を抱えて跳んだ。予想していたよりも桜魔の爪の届く範囲が広かったので、攻撃が直接朱莉に触れないよう、母屋の屋根の上に運ぶ。
「私は大丈夫。蝶々に加勢してあげて」
「あの御仁には、私の助太刀など無用でしょう」
 紅雅の言うとおり、桜魔が朱莉を標的とする危惧が無くなったあとの蝶々の猛攻は凄まじかった。あっという間に令嬢の姿をした桜魔を追い詰め、庭の木が行き止まりとなって動けないようにしてしまう。
 しかしそこで、不意の闖入者が現れた。
「……お姉さま……?」
「花梨、行っちゃ駄目だ!」
「!」
 家人に危険が及ばぬようしっかりと封印を施したはずの屋敷から、妹娘の花梨が跳びだしてきたのだ。風吹青年が止めようとするが間に合わず、彼女は姉の顔をした桜魔を前に息を呑んだ。
「お姉さま!」
「花梨……」
 桜魔が一度、動きを止める。
 風の音さえも止んで、庭に一気に静寂が訪れた。
 だがその動揺は嵐の前の静けさだ。瞬時にして爆発的に高まった妖気に、朱莉は屋根の上から蝶々に警告を発する。
「蝶々!」
「わかってる!」
 蝶々は屋敷へと駆け寄ると。花梨と風吹の二人を全力で突き飛ばし頭を伏せさせた。その頭上を間一髪で、何かが通り過ぎていく。轟音と共に、縁側の部屋が半壊した。
「きゃああああ!」
 花梨が甲高い悲鳴をあげる。朱莉は屋根の崩落に巻き込まれないよう、もう一段高い部分へと登った。
 目に見えぬ斬撃のようだったそれは、桜の花弁を風の刃に乗せて放つという大技だ。半日がかりで準備した結界に護られていたはずの屋敷の一室が、家具と瓦礫の山となる。
 茅の姿の模倣とはいえ、完全な人型を保っている桜魔はやはり強い。
「花梨……」
「お、お姉様」
 濡れた着物姿の茅を守るように、彼女の周囲を桜の花弁が取り巻いていた。くるくると風に遊ぶように、淡い色の花弁が踊る。
 一歩ずつ近づいてくる桜魔を、花梨は怯えながら見上げた。
 腰を抜かして動けない花梨に、茅の姿をした桜魔が茅の記憶で叫ぶ。
「お前が憎い。お前たちが憎い。花梨、あんたが、人の婚約者を奪うなんて!」
「違います! それは誤解です! お姉さ……」
「嘘をおっしゃい! 私は見たのよ! あの時、皆が川で溺れたあの時、風吹様は私ではなくあんたを一番に助けた!」
 屋根の上で話を聞いていた朱莉は、配下の力で桜魔の激情から茅の記憶を盗み見る。
 それは、川の中だった。上流で大雨が降った日、晴天の下流地域で川の水が反乱する事故が起きた。その時に溺れた茅が見た光景だ。
 力の入らなくなった手足を伸ばしながら助けを求める茅の視線の先、水の中で抱き合う二人。溺れる者が藁にもすがる必死さ故に、その男女の姿はきつく互いを求めあっているようにも見える。男は風吹、女は花梨。
 茅の見ている前で二人は岸に向かって進んでいき、彼女の方を振り返ろうともしない。
そして茅一人だけが、力尽きて、冷たい川底へと沈んでいく。
「この桜魔、核となった人物の記憶が残っているのか。厄介だね」
 花梨ににじり寄る茅の顔をした桜魔をとめるため、蝶々は再び薙刀を構えて立ち上がる。
 人の情念を核とする桜魔は、姿や精神が人に近いほど強い。そして、記憶のある桜魔は行動原理も人に近く、その記憶で生前の近しい者や、憎い相手を襲うことがある。
 彼らはあくまでも生者の感情の残滓でしかない。なのに死したはずの者が蘇ったかのように、死者の顔で生者を襲う。
「蝶々、一つ思いついたのですが」
 朱莉は配下の桜魔の能力で、敵に悟られぬよう相棒に話しかけた。分身できる小鳥の桜魔の片方が朱莉の肩に、もう片方が蝶々の肩に乗り、声を伝える。
伝えられた内容に蝶々が了解の意を伝え、二人は行動に出た。
 薙刀を掲げて突撃を仕掛けてきた蝶々に、桜魔も対抗するように身構える。
 その時、朱莉が罠を仕掛けた。桜魔が蝶々の攻撃に集中した隙を狙って、配下の小物の桜魔たちにその足を引っ張らせたのだ。
「え?!」
 小さな驚きに声を上げる桜魔。その体が浮いたところで、今度こそ蝶々が渾身の一撃を繰り出す。その攻撃の目的は傷を与えるというよりも、桜魔の身体を、庭の池に沈めること。
「いやぁあああああああ!!」
 核となった人物の記憶まで持つ桜魔は少ない。それらの桜魔は総じて能力が高く退魔師にとって厄介になることも多いが、この場合はその記憶こそが仇となった。川で溺れ死んだ娘の記憶を抱えた桜魔は、再び溺死させられる恐怖に猛然と暴れ出す。
 だが、蝶々は池の底に桜魔を縫い付けた薙刀に込める力を緩めない。もがく桜魔がその力を失うまで抑えつづける。
 茅の顔をした桜魔は妖力こそ強いが、強大な力と複雑な能力を持つ桜魔ほどそれを制御するのに精神力が必要となる。こうして混乱させてしまえばひとたまりもないだろう。
 ふいに、抵抗がやんだ。
 力尽きたのかと蝶々が身構えた瞬間、絶望の表情を浮かべていた桜魔が水中でにやりと笑った。茅の姿を崩し、ただの力の奔流となったものが池の中から最後の力で飛び出した。
「蝶々!」
「駄目よ! 朱莉! こいつの狙いは――」
 桜魔に近いのは蝶々の方だ。最後に攻撃を仕掛けてくるならそちらだろうと身を乗り出した朱莉に、蝶々が叫ぶ。
 先程花梨たちに向けた風と花弁の刃。あれは茅が腕を振るっただけで発せられたが、それは彼女自身の肉体そのものを削って放った力だった。今度はそれが文字通りの全身全霊で放たれる。それが朱莉に向けられたのだ。
「朱莉様!」
 紅雅が慌てて主を護ろうとするが、間に合わない。多少は霊力で防御するとはいっても、防ぐものもない屋根の上で、家屋を半壊させるような攻撃を受ければ人間などひとたまりもない。
 顔を庇う朱莉の前に、誰かが滑り込んだ。
「え――」
 その人は短刀を持つ腕を一振りすると、風の刃をより強い妖気で散らす。バンッと盛大な破裂音が響き渡ると、背後にいた朱莉の頬にまで柔らかな桜の花弁が叩き付ける。
 だが、その行動は衝撃の全てを殺しきることはできなかったようだ。先程の攻撃ですでに不安定だった瓦屋根がついに崩れ、朱莉の体ごと落下する。
「きゃあああ!」
 落ちていく彼女は、しかし地面に落ちて潰れる前に、誰かにしっかりと抱きしめられた。
「こ……紅雅?」
 反射的に目を瞑っていた朱莉は、配下の桜魔の腕かと恐る恐る目を開けて名を呼んだ。しかし彼女の視界に入ってきたのは、意外な顔立ちだった。長い黒髪を束ねた紅雅ではなく、鮮やかな浅葱色の髪をした少年。
「ら……螺珠!? どうして!」
「これでこの前の借りは返したぞ」
 突如現れた少年は、朱莉を優しく地面に下ろした。
 朱莉は呆然とその顔を見つめてしまう。確かに借りを返すとは言っていたが、本当に仕事中に、こんな形で会うとは思っていなかったのだ。
「朱莉! 大丈夫?!」
 蝶々が心配して駆け寄ってくる。彼女は螺珠の姿を認めると、顔つきを安堵から険しいものへと変えた。桜魔嫌いだが朱莉の相棒である彼女は、朱莉の配下も逐一覚えている。今の朱莉の配下に螺珠のようなものがいないことも知っているのだ。
「誰よ、こいつ」
「あの、この人は……」
 睨み合いをやめてほしくて言葉を発しかけた朱莉の台詞を遮ったのは、虚ろな呼び声だった。
「お姉様……?」
 蝶々も螺珠も、ぴたりと口を噤む。
 虚脱した表情で茅の顔をした桜魔が消えた池の方を眺めていた花梨が、その名を何度も呼んでいた。
「茅お姉様……お姉様、お姉様……! いやぁああああ!」
 幾度呼ぼうともそれに応える姿はないと知った花梨は、自らの頬に爪を立てるようにしながら顔を抱え、悲鳴を上げる。
 茅――その姿をした桜魔は、蝶々に倒され、池の中で無数の桜の花弁となって消えた。その後の話となるが、池の底からは、婚約者の風吹がかつて彼女に送った櫛だけが見つかったそうだ。
「花梨様」
 近寄って声をかけた朱莉を、花梨はきつく睨み付ける。彼女の目には、激しい怒りと憎しみがあった。茅の姿をした桜魔を倒した退魔師に対する、一時的だがそれ故に激しい怒り。
 反射的に振り上げたのだろう右手は、朱莉の頬へ届くまでには至らない。
「紅雅、やめて」
「ですが」
 主の危機に咄嗟に動いた紅雅が、花梨の華奢な手首を強い力で捩じりあげたからだ。小さな悲鳴が零れ、花梨が苦痛に顔を歪める。
 紅雅にも一応手加減するつもりはあったのか、そのまま腕を折ったり関節を外したりはしないようだ。それでも花梨の手首にはしばらく痕が残る怪我となるだろう。
 朱莉の命にもこればかりは従えないとばかり紅雅は花梨の腕を捕らえたままだ。しかし少女はその分言葉で朱莉の横面を張ろうと、目元に涙を浮かべながら朱莉を睨みあげてくる。
「人でなし!」
 激しい糾弾に、朱莉はびくりと身体を震わせた。
「お姉様は川で溺れ死んだのよ! それを、もう一度殺すなんて!」
 花梨は朱莉と蝶々の打ち合わせを聞いていたわけではない。けれど女の勘で発案者が朱莉とわかったのか、それとも魅了の力の反動で敵意を増幅されているのか、目に見えて茅の顔をした桜魔にとどめを刺した蝶々よりも、彼女と目線の近い朱莉の方に噛みついてくる。
「……あれは、茅様本人の魂でもなんでもありません。ただ、彼女の似姿と記憶と感情を得て、形となっただけのただの桜魔です」
「だからなんだって言うの! 記憶があって感情があると言うなら、それは姉様の心を殺したのと同じことよ!」
 花梨の言葉に朱莉はハッとした。
 心。記憶とそれに付随する感情。それが心。
 そんなこと、考えてもみなかった。
 桜魔に魂はない。そう言われている。だけれど、魂がないから心がないとまでどうして言えるのだろう。そもそも心が何かすら、自分たちにはわからないというのに。
「……朱莉」
 蝶々が庇うように前に出る。
「ちょいとお嬢さん、あんたがあたしたちを恨むのは勝手だがね、その言い分は随分と筋違いってものだよ。あたしたちにこういう依頼をしたのはあんたの父親で、そもそも――」
「蝶々、それは」
「さっきの桜魔の言い分を聞くに、あっちのお嬢さんを見殺しにして恨まれるほどのことをしたのは、あんたたちだろ」
 花梨の顔が凍りついた。
 しだいにその氷は解けて歪み、彼女は顔を覆って泣きだす。
「蝶々……何もそこまで……」
「ふん。本当のことだろ。不倫だか略奪愛だか知らないけど、それで殺されかけた方こそたまったもんじゃないよ」
 泣く花梨を、茅の婚約者であった青年、風吹が慰める。彼女が朱莉たちに突っかかっていた間も蝶々に詰られている間も何一つ口を挟めなかった、気の弱い男。
 後味の悪さだけが残る。
 そんな中、それまで風吹とは違う意味でだまり通しだった少年が口を開いた。
「……私は、今日はこれで失礼する」
「螺珠、あの……」
 色々と聞きたいことがあって引き留めようとしたのに、螺珠はそれだけ言うと、すぐさま現れた時のように木の上へ跳び上がった。
 妖ならではの非常識な身体能力で高い塀の上へ身軽に飛び移り、朱莉たちの視界から姿を消す。
 あとにはどこからか、桜の花弁が風に攫われて降ってきた。
 非常識な退場の仕方だが、幸いにも花梨と風吹は自分たちのことでいっぱいでそれを言及しなかった。
「あ……」
「朱莉、あたしもあんたに色々と聞かなきゃいけないことがあるみたいだけど? ま、でもそれは無事にここの仕事を終えたあとにしましょう」
 螺珠の消えた塀の向こうを見つめ続ける朱莉に、背後から蝶々が声をかけてきた。
「……ええ。そうね」
 どのような経緯であれ桜魔は退治され、任務は完了した。勇那の依頼は達成されている。
 恐らく仕事そのものよりも長くなるだろう後始末のために、朱莉は最後にもう一度だけ塀の向こうを振り返ると、蝶々と共に母屋へと戻った。