朱き桜の散り逝く刻 01

3.花筏

「あの風吹とかいう婚約者は、なんでも相当の遊び人らしいね」
 後日、辰を通じて勇那からの謝礼と報酬が届けられた。
 依頼を受けた時と同じように嶺家の応接間に集まって、白露の心遣いで供された菓子を堪能しながら蝶々と辰がしみじみと言う。
「上の娘と風吹青年は、完全な政略結婚での許嫁同士だったんですよ。それでも、茅お嬢さんの方では風吹青年を慕っていた。だけど、風吹の方では彼女が彼を想うほどに彼女のことを想ってはいなかった」
 情報屋の辰が告げるのは、仕事後の補足というよりも、単に彼の趣味の情報集めだ。この男は桜魔専門の情報屋を名乗るくせに、こうして下世話な噂話から貴族の弱味までなんでもよく知っている。
 とはいえ勇那の二人の娘と姉の婚約者であった風吹との三角関係については、少し名の知れた貴族の間では有名な話らしい。
「風吹は婚約者である姉の方だけでなく、姉より美人な妹にも色目を使っていたそうです。もともと妹に引け目を感じていたのに最後の最後で見捨てられて、桜魔にまで身を落とした茅お嬢さんの気持ちもわかるような気がしますよ。風吹はあの後結局、妹さんと婚約しなおしたそうですし」
「家の事情とはいえ、難儀なことだね」
 お茶を啜りながらあくまでも噂話として、どうでもいいことのように蝶々が言う。その隣で、朱莉は湯呑の中の青い水面を見つめながら呟いた。
「でも……幸せになれるといいですね」
「朱莉、あんたまだあのお嬢さんに言われたこと気にしているの?」
 蝶々が柳眉を顰める。
 花梨が朱莉を平手打ちしようとしたように、家族と同じ顔の桜魔を殺されて退魔師を逆恨みする依頼人などよくある話だ。それをいちいち真に受けて落ち込んだりしていては、退魔師などやっていられない。
 けれど今回の花梨の言葉は、それまでの朱莉の価値観を揺らすものがあった。
「ええ。私、あの時花梨様に指摘されるまで、桜魔の心のことなんて考えたこともなかったの」
 記憶があり、感情がある。ではそれは心ではないのか。花梨の指摘は朱莉の思いがけないものだった。退魔師としては、人型で生前の記憶を持っていても、桜魔はあくまでも生者の感情の残滓を持つだけと教えられる。桜魔になった時点でそれは新しい生命であり、生者との共通点を上げるならそういう言い方しかできなくなる。
「紅雅やその辺の、人間に近い連中に関しては?」
「私にとって、紅雅は紅雅だもの。他の子たちも同じ。桜魔としての彼らしか知らないし、彼らの核となった人物の生前の人生までは考えていなかった」
「それが当然だろ。自分の配下の過去にまでいちいち責任なんか感じていたら、その前にあんたが壊れちまうよ」
 人は何故桜魔になるのか。それは触れてはならぬ問題なのだろうか。
 蝶々の言うことは正しい。朱莉もそれはわかっている。だが、朱莉には一つだけ、どうしても解決したい問題があった。
「ねぇ、蝶々、辰。桜魔って、なんなのかしら?」
「朱莉?」
「桜の樹の魔力に瘴気と人間の負の情念が結びついたもの……そう言われているけれど、私たちのその認識は正しいの? だって桜の樹も戦も、桜魔が生まれるずっとずっと前からあったのに」
「うーん、それはですねぇ。たまたま条件が合っちまったからではないかと」
 菓子の砂糖が付いた指をぺろりと舐め、辰が言った。
「条件?」
「ええ。本来妖なんてものは、この世に存在があってないようなもの。けれど奴らは人の恐怖や恨みつらみを力に変えて存在するでしょう。たまたまそれらの条件が重なって曖昧だった魔物の存在が桜魔という定義の妖として定着し、更に先代朱櫻国王が戦を起こしたことで、それらの桜魔が爆発的に増えたのかと」
 十五年前の戦がなければ、桜魔自体は存在していてももっと細々とした種族であり、大陸の人類を脅かすほどの脅威にはならなかったかもしれない。
 人々の認識はそれそのものが一種の力だ。人が桜魔と言う存在を知っていて、強い恨みを抱いて死ぬのだから自分は桜魔になるに違いないと思えば、それだけで桜魔が生まれることがある。
「そう言えば、辰が昔してくれましたね。はじまりの桜魔とやらの話」
「ええ。俺が朱莉お嬢さんにお会いしたばかりの頃ですね」
「はじまりの桜魔。桜神(おうしん)とも呼ばれる、この世界で最初に生まれた桜魔」
 朱莉が昔辰に聞いたのは、復讐に病んで鬼となった男の話だ。
 男は長年好きあっていた女と結婚したその翌日に、盗賊に妻を殺される。彼は生きながら鬼と化し、妻を奪った盗賊たちを切り刻んだ。その恨みの強さが瘴気と桜の樹の負の魔力を呼び込み、男は人間から妖へと生まれ変わったのだという。
「桜神はまだその時の恨みを抱いて、自らのしもべたる桜魔を増やしてこの世を混沌に陥れようとしているとか、もしくは桜魔となっても一人の男として、今も亡き妻を探してこの世を彷徨っているのだとか」
「はじまりの桜魔に関してはそんなところですね。ついでに言えば、桜神以外にも人間が直接瘴気を吸いこんで桜魔へと生まれ変わった存在を桜人(おうじん)とも呼ぶとか、桜魔たちの中には桜魔王と呼ばれる王様がいて、世界征服を狙っているとか」
「へぇ、そんなのあるのね?」
 蝶々はどうやらこれらの話を知らなかったようで、首を傾げる。
「桜魔が街中に出始めた最初期の頃には、そんな物語もいろいろと語られていたものですよ。けれどここ十数年で桜魔の脅威が洒落にならないところまで来てしまったんで、大体のお伽噺は抹殺されてしまいましたがね」
 それらのお伽噺を理解でき、もっとも楽しめるようになった子ども時代を桜魔の脅威が迫ってくる只中で過ごした蝶々が知らぬのも無理はない、と辰は言う。朱莉だって彼から聞かされなければ、はじまりの桜魔も桜魔王も名を聞くことすらなかっただろう。
「桜魔が生まれてからこの大陸は何もかもおかしくなっちゃったものね。気候だって全然元に戻らないし、いつでも春で。……そういえば朱莉は、春以外の季節って知ってる?」
 今の子どもや若者が知らぬと言えば、春以外の季節のことだと、蝶々が話を向ける。
「ええ。王都に春以外の季節がなくなったのは、ここ十年ほどのことでしょう? 夏や秋は印象が薄いけれど、冬のことなら。十年前に、一度だけ見た雪景色を覚えているわ」
 冷たく、全てが息絶えるような冬のあの日。
「朝目が覚めたら窓の外が一面真っ白で、お庭の木々も何もかもが雪を被っていて、その雪に音が吸われてとても静かで……いつも見ている場所がまるで違う世界になったようで驚いた」
 好奇心のままに庭におり、そして。
「その雪の中で同じように真っ白い髪の男の人が倒れているのを見て、更に驚いたの」
「辰?! あんた一体なにやってんの?!」
 朱莉の狭い交友関係で、雪のような白銀髪の男など一人しかいないことを蝶々も知っている。
「え? いやぁ。若さって怖いよね」
「そういえば辰ってあれから全然見た目変わっていないように思えるのだけれど。今は一体いくつなの?」
「お嬢さん、俺は永遠の二十四歳です」
「あんた今すぐ殴っていい?」
「ごめんなさい姐さん。ほんのお茶目な冗談だったので赦してください」
 拳を固めて殴る素振りをして見せた蝶々は、その手で卓の上の菓子をまた一つ新たに手に取る。ちなみに皿の上の三人分のお茶請けの半分はすでに彼女が消費していた。
「そういえばあたし、あんたたちの出会いとか聞いたことなかったわね。見るからにお嬢さんな朱莉にこんな胡散臭い情報屋の知り合いがいるっておかしいとは思ってたけど、そういう理由だったのね」
 蝶々は朱莉が辰と退魔師協会を通じて知り合ったとばかり思っていたらしい。実際には朱莉が辰と知り合いだったので情報屋を寄越される時彼に依頼する回数が多いというだけだ。
「朱莉お嬢さんの前の家の庭っていうか敷地内の雑木林で倒れていたところをお嬢さんに発見されて助けてもらったんですよ。それから体が回復するまでしばらくお世話になっていました」
「結構長い付き合いだったのね。十年?」
「もうそのくらいになるわ」
 二人はしみじみと昔を振り返る。
「辰は忙しい家でいつも一人だった私をよく膝に乗せて色々な話をしてくれたんですよ」
「ええ。朱莉お嬢さんは本当に大人しい子で、下町の悪がきどもみたいにあれやってこれやってとせがんで来ないのでいつも楽させてもらいましたよ」
「あの頃はまだ辰が情報屋だなんて知らなかったけれど、いろんな話を聞くたびにこの人はとても物知りだなって思ってたわ」
 朱莉は昔を懐かしみ、目を細める。まだまだあの頃は良かったなどというような歳ではないが、子どもの頃の話というのは理屈ではなく、むしょうに懐かしいものだ。
「辰の話は大抵が桜魔や他の妖怪変化、魑魅魍魎の話だったの。それでいつごろか従兄妹のお兄様が怪しい話ばかりするなと竹箒で辰を屋敷から追い出したのよね」
「白露?! あの過保護、昔から何やってんの?!」
 朱莉の身内で従兄妹のお兄さんなど、現在本当に義理の兄になってしまった白露しかいないことを蝶々も知っている。
「でも、辰がそうして傍にいてくれたから、私は退魔師として色々なことができるようになったのよ。辰が桜魔について色々話してくれたから、両親が亡くなった後、こうして退魔師として生きることも決意できたの」
「ああ、こんなお屋敷に住んでると忘れそうだけど、あんたも親を桜魔に殺されて退魔師になった口だっけ?」
「ええ、蝶々もよね」
「そうよ。てか、王都で退魔師をやる奴なんて半分はその手合いでしょ」
 今でこそ嶺家に世話になっているが、朱莉はもともと嶺家と縁戚の貴族の娘だった。現在も白露のように官吏として王宮に出仕する人間が多い嶺家とは違い、時流に合わせるように静かにその権勢を手放した過去の貴族の血統、それが朱莉の実家。
朱莉は七歳の頃に両親を殺されてこの家の世話になるようになり、同時に身についた魅了の能力を使い退魔師になることを決意した。
「あれ? でもそう言えば、辰って三年くらい前にこの街に来たんじゃなかったっけ? 朱莉はずっと王都暮らしでしょ?」
 話を聞きながら年数を計算していた蝶々が首を傾げる。
「俺はもともと王都暮らしだったところ、何年か前に旅に出たんですよ。戻ってきて情報屋になるまではずっと王都には寄らなかったし身寄りもないから、すっかり忘れ去られていましたけどね。俺を覚えていてくれたのは、朱莉お嬢さんくらいのもんですよ」
「だって、辰には昔から世話になっているもの」
 朱莉は微笑んだ。
「本当に、辰には昔から助けられてばかりだわ。私は紅雅を手に入れる時に、辰の力を借りたの」
「あの紅雅を? 役に立ったの? こいつ」
「あ、酷い。酷いよ、蝶々姐さん!」
 他愛ない話は、お茶請けの菓子が全てなくなるまで続けられた。

 ◆◆◆◆◆

 蝶々と辰と話をして、少しだけ朱莉の気も落ち着いた。けれど花梨に問われた言葉は彼女の内側に今も残り、事あるごとに思い返しては胸を悩ませる。
 桜魔とは、何か。
 彼らは一つの生命であると同時に、死者の残滓でもある。そしてどちらにしろ生者を害する存在であるために、放ってはおけない。
 けれど魅了者である朱莉にとっては、桜魔はもともと身近な存在だ。配下となった桜魔たちの中には瘴気が結びついて偶然桜魔として形になっただけの弱い桜魔もいて、その存在の全てが人類の敵で悪だと言われてしまうと、違和感がある。
 蝶々はこれについて朱莉に何度も忠告していた。退魔師が桜魔に心を近づけすぎるのはよくないと。
 退魔師は桜魔とある意味最も近いが、基本的にはその対極に位置する存在なのだ。彼らを殺す退魔師がいくら桜魔について自分一人で考えたところで、何がわかるはずもない。
 だから朱莉は、桜魔を探した。
「こんなところにいたの?」
 螺珠を見つけたのは、彼と最初に出会った筏川のほとりだった。相も変わらず桜の樹の枝に腰かけて、川の向こうの家々を眺めていた。夕暮れ時が近く、螺珠の白い頬が朱色に照らされてやけに健康的に見える。
「驚いた。何故ここがわかった」
 枝に揺れる淡い色の花弁を散らしながら、螺珠は朱莉に合わせて地上へと降りる。二人して橋の欄干にもたれながら話した。
「私の配下の桜魔たちには、色々な能力を持つ子がいるの」
「……私を探していたのか? そこまでしてわざわざ、何故?」
 何故、と彼は繰り返した。朱莉が単に螺珠の姿を見つけたから声をかけたのではなく、配下の力を使ってまで彼を探していたのが意外なようだ。
「あなたに会いたかったから」
「え?」
 螺珠は目を丸くする。豆鉄砲をくらった鳩のような表情だ。
「この前、どうして私を助けてくれたの?」
「……あ、ああ! それを聞きにきたのか」
 何を動揺したのか、螺珠が顔を赤く染める。
「そのことなら、言ったはずだろう。この前の借りを返したかっただけだ」
「そんなの、良かったのに」
「恩は恩だ。いずれ返すと決めていた。もっとも、君は行動が派手だ。退魔師はみんな夜に動くから、探しやすかった」
「螺珠、あなたは私を見つけるために夜な夜な退魔師と桜魔が戦っている場所を全て探したの?」
 よくよく考えれば当然のことだが、朱莉のような反則技でもない限り普通の人間には名前も知らない一度会っただけの相手を探す方法など限られている。それは螺珠が桜魔であっても同じこと。
「ああ。いくら私の外見が人間そのものだとしても、まさか退魔師協会であれは誰だと尋ねて回るわけにもいくまい」
「それはそうね……」
 朱莉を探すために王都中の夜中の戦闘の気配を探るのもどうかと思ったが、飛んで火にいる夏の虫状態な協会への聞き込みを思い浮かべれば、あまり変わりはないのかもしれなかった。
「でも、川を渡れるようになった割には、相変わらずここにいるのね。あの時と同じように、あの家を見ているの?」
「……ああ」
 小首を傾げた朱莉に、螺珠は川の向こうの家の一つを指して告げる。
「あの家に、生前の私の家に仕えていた侍女が一人いるんだ。彼女が今どうしているのかだけ、知りたくってな」
「そう……」
 語る螺珠の横顔は酷く穏やかだった。朱莉は何故か彼の目を見ることができず、橋の下の水面に目を落とす。
 淡い桜の花弁が幾つも幾つも流れていく。川の水が濁り黒ずむ程、美しく水面に映える花筏。
「でも、その人以外の知り合いや、えっと、御家族はいいの?」
「他には誰もいない。私が桜魔となったその時に、全て殺しつくしたから」
 一瞬、世界から音が消えたかと思った。
 朱莉は思わず隣の少年を振り返る。物騒な言葉を吐いた唇は穏やかに微笑んでいるけれど、彼女を見返す眼差しはどこか悲しげだ。
「君だって予想くらいはしていただろう? 桜魔とは死者の情念と桜の魔力が結びついたもの。私の中にも、かつて己を鬼に変えたほどの憎しみがある」
「……ええ」
 まるで考えないわけではなかった。けれど出会った時から螺珠は穏やかで、その穏やかさという仮面が剥がれる場面など朱莉には想像もできなかった。
「私の家は下級貴族だった。貴族と言っても、今の瞬郷で隆盛を誇る商人に比べたら平民となんら変わらないくらい小さくて貧しい家だ。宮殿に登城する権力もない。けれど私はそこの跡継ぎ長男で、いつか自分がその名を負わねばならないと理解していた」
「……貴族と呼ばれる人の重責なら、私も少しは知っているわ」
 義理の兄である白露の苦労を知っている朱莉は、ぎこちなくもそう告げてみた。けれど螺珠は首を横に振る。
「君はそうなのかもしれない。でも、私はそんなことは知らなかった。長男ではあったけれど、人間だった頃の私は体が弱かったんだ。だから貴族として実際に何をしたわけでもないし、家を継ぐための勉学すらまともに修められない有様だった」
「……そう」
「私には、弟が一人いた。年齢も近く、私とは違い健康で、病床でいつも鬱屈していた私とは正反対の明るくて皆に可愛がられる優秀な弟。私は彼が妬ましかった」
 淡々と語る声はそれ故に重い。朱莉と同じように水面に落とした視線は、しかし足元の花筏ではなく、遥か過去を見つめている。
「それでも私こそが長男だと、家を継ぐのは私の役目と努力し続けた。だが、ある日父親が、私ではなく弟に家の名を継がせると言った。もう、いいと」
 静まり返った水面を揺らしもしない、螺珠の小さな囁き。
「そして私は、鬼になった。もともと病状が悪化して、肉体的に限界だった私は、死の間際に私を誘う闇を見た。……全ての桜魔がそう生まれるのかは知らないが、私はその闇を取り込んで負の感情に身を委ねた。そして衝動の赴くままに家族を皆殺しにし、屋敷で働いていた数少ない使用人さえも手にかけた」
 ああ、と朱莉は嘆息する。
 これまでほとんど意識したこともないけれど、彼も間違いなく桜魔なのだ。それも、すでに人を手にかけた。
 瞳を閉じれば、螺珠の語る光景がまるで目に浮かぶようだった。
 刀一本だけを携えて、無表情に人々を斬っていく少年の姿。すっかりと緋色に染まったのは、元は純白だったはずの死に装束。
 けれど彼は立ち止まる。目の前には侍女の格好をした一人の少女。
 その想像に、現実の螺珠の声が。
「あの家にいるのは、その時のただ一人の生き残りだ。とはいえ、私が彼女に何らかの感情を抱いていたわけではない」
「え? そうなの?」
 重ならなかった。この手の話の流れからすれば螺珠が彼女のことを想っていたとかそのような言葉が続くと予想していた朱莉は、意外な言葉にぱっちりと目を開けて瞬いた。
「ああ。……むしろ逆だ。生前とほとんど変わらぬ姿のまま桜魔となった私の乱行に、家人の多くはまるで信じられないような顔で死んでいった。だがあの侍女だけは、弟の世話役だけは、私を憎々しげに睨み返してこう言った」
 ――人でなし! この鬼子め! 
 ――ご主人様たちは兄である貴方の負担を減らすためにあの方に家督をお譲りになると決意されたのに、あの方も貴方のためにそれを受け入れたのに! 
「私はその時ようやく知ったんだ。父の放った“もう、いい”と言う言葉は、弟に家督を譲るから私の存在が必要ないということではなく、私が重責に潰れぬように私こそを気遣ってくれたものだということに」
 もちろん螺珠の父にも弟にもそれなりの思惑はあっただろう。病弱な長男よりも健康な次男に家督を譲るということを明らかにしておいた方が家のためであったのは間違いない。
 けれど決して、それだけではなかった。さまざまな利害の絡み合う中で、それでも確かに螺珠自身へ向けられていた気遣いや暖かな想いに、彼は気付くことができなかった。
 冷静になってちゃんと思い返せば、螺珠にも自分の家族がそんな人たちでないことはわかっているはずだったのに。
「我に帰った私はその侍女を殺すことができずにその場から逃げた。……そう、逃げたんだ。自分でしたことの責任をとりもせず」
 気付けば桜の咲き乱れる山中に立っていた。皮肉なことに、あれほど焦がれていた健康な――人並み以上に強靭な肉体を、螺珠は桜魔として生まれ変わったことでようやく手に入れた。
 けれど軽やかに動くはずの手足は、刀の重さに引きずられるように酷く重い。我が身を見下ろせば剣を持つ手も着物も何もかもが、家族の紅い血で濡れていた。
「私は鬼だ。人の心を持たぬ、人の心を捨てた鬼。けれど、あの侍女があれからどうしたのかだけは気になった。だからいつもここから、彼女の新しい勤め先であるあの家の様子がわからないかと眺めていた」
「……」
「今は、新しい屋敷でそれなりに幸せに暮らしているらしい。少しだけ、肩の荷が下りた」
 それでも、螺珠が奪ったたくさんの命は返ってこない。
 侍女が再び笑顔を浮かべていられるのは、彼女が生きているから。彼女は生き残ったから。けれど彼女以外の全ての者から、螺珠はその未来や可能性を根こそぎ奪ってしまった。
 朱莉は口元に手を当てた。
「……どうした? 何故君がそんな顔をする」
「……こんな顔じゃなかったらどんな顔をすればいいっていうの?」
 そう、どんな顔をすればいいというのだ。こんな話を聞かされて。
 溢れ出る涙を、嗚咽を堪えるために、朱莉は口元を手で覆った。俯く彼女の頬を、長い紫紺の髪が撫でていく。
「……螺珠、あなたは、だからそんなに寂しそうなの? 初めて会った時も、今日も」
「寂しいのか、それとも虚しいのか」
 自分でもわからない、と彼はまた笑う。
「……私は結局、自分が愛されたいと願うだけのただの子どもだったんだ。愛されたいと願うばかりで自分から与えることをしないなら、それは愛情なんかじゃない」
 螺珠がそれに気づいた時には、全てが遅かった。大事な何もかもを、自分の手で壊してしまったその後。
「家族は私を愛してくれていたのに、私自身が彼らを本当には愛していなかった。侍女の言葉でそれに気づかされて以来、私を桜魔にした憎しみという情動が失せてしまった。健康な人間や自由な世界に憎しみを抱き、全てを壊してやりたいという思いが消えてしまった。今の私は空っぽだ。人でもないのに、人を憎む桜魔にもなりきれない」
 いっそこの虚しさに気づかなければ、自分の罪に苦しむこともなかったのに。
「私に自分の醜さを気づかせた侍女に感謝も罪悪の念も抱いているが、それでも少しだけ、何故彼女も殺しておかなかったと後悔している」
 そうすれば、最後まで狂えたのに。
 そうすれば。
「あのまま憎悪に狂った鬼でいれば……退魔師である君に殺してもらえたかもしれないのに」
「螺珠……」
 もはや川面を流れる花筏など二人とも見てはいなかった。西日で朱に染まる桜の花の散る中で、お互いだけを真っ直ぐに見つめていた。
 ああ、本当に。
 どんな顔をすればいいと言うのだろう。こんな悲しい顔で微笑う人を前にして。朱莉に殺されたいなどという人を前にして。
 堰が決壊し、涙が頬を伝う。心配した螺珠が手を伸ばしてくる。
「泣かないで」
 小さな子どもをあやすように、優しい囁き。触れる手はぎこちなく、彼がこういったやりとりに疎いことを示す。同じような優しさでも、義兄の白露や辰の仕草はもっと気楽で乱暴で、遠慮のないものだったと覚えている。
 蝶々の忠告通りだ。迂闊に関わるのではなかった。
 こんな話を聞いてしまったら、もう彼とは戦えない。殺せない。
 朱莉自身もとよりそんなつもりはなかったし、螺珠もこれ以上誰かを手にかけるようなことはないだろう。それでも彼は桜魔なのだ。桜魔なのに。
「もう、日が沈む」
 朱櫻国の名の通りに、川沿いの桜が夕陽に照らされて朱色に染まる。
「帰りなさい。君のいるべき場所へ」
「螺珠……!」
 それは単にこのまま家へ帰れというよりも、もっと深い意味のような気がした。
「螺珠、私は朱莉。嶺家の朱莉よ!」
 その場を動く気配のない朱莉に、ならば自分から立ち去ると背中を見せた螺珠に朱莉は語りかける。まだ、きちんと名乗っていなかった。だから螺珠は君としか呼ばない。そんなことにようやく気付く。でも。
「また、ね」
「……そうだな、またな。……朱莉」
 次会う時こそ敵同士かもしれない。そう思いながらも、二人はそうして約束を交わす。