朱き桜の散り逝く刻 02

第2章 国王と亡霊

4.国王

 嶺家の広い庭に白刃の煌めきが舞う。蝶々は愛用の薙刀を手に、武術の稽古に励んでいた。
 常人の目には視えぬが、退魔師や霊能者と呼ばれる人種ならば気付くであろう、彼女の肉体を取り巻く、霊力と呼ばれる力に。蝶々はただ薙刀を振るうだけでなく、どのようにすればより効率的に己の武器へ退魔師としての力を乗せられるかを模索していた。
 そんな蝶々の姿を遠く眺めながら、屋敷の縁側では朱莉が内職をしていた。これも退魔師特有の行動であり、自らの霊力を込めて必要な時に力を発揮するための札を今のうちに作り溜めているのである。
 退魔師の女性の実力は並の武芸者と違って肉体の頑強さに比例しない。とはいえ、朱莉に体術の心得などほとんどなく、素手や武器での直接攻撃力で判断するならば彼女は見たままのかよわい少女である。その朱莉が退魔師としては人並以上の実力者と一目置かれているのは、魅了の力に加えてこういった技術に優れているからだ。
 霊符と呼ばれるこの手の札は、あらかじめ念を込めて呪言を紙に書きつけることで、札に込めた霊力を戦闘時に一瞬で発揮することができる。力の弱い退魔師でも地道に霊力を札に込め続ければ戦闘の場で各上の桜魔相手に渡り合うことができるし、札に込められた力もそれを起動させる能力も退魔師の意志一つで方向性を変えられるため、非常に使い勝手が良い。
 ただ、やはり強い力を込めた霊符を作るにはそれなりの技術と霊力がいる。材料である紙や墨の質も多少は威力に影響する。また、目くらまし用の煙幕を発生する霊符など、あえて弱い威力の札を作ることもある。
 朱莉は用途に合わせた大量の霊符を普段から着物の下に隠し持っていた。稀に配下の桜魔たちの助力が期待できない戦闘の場合、彼女はこれらの霊符でもって桜魔と戦うからだ。
 朱莉の場合生まれ持った霊力自体は強大なので、小物から中堅の桜魔ならば一撃を当てさえすればそれでたいていは蹴りがつく。ただ、そこに至るまでに桜魔を弱らせるのにも、この霊符の威力頼りになる。どんなに強い攻撃であろうと、当たらなければ意味がない。
 そんな朱莉にとって、暇な時には手持ちの紙や墨が尽きる程に札を作っておいて損はなかった。よく相棒である蝶々の稽古の時間に、こうして自分用の、あるいは蝶々や顔見知りの相手に渡す用の霊符作りをする。
 その朱莉の周囲では、彼女の配下の桜魔たちが遊んでいた。肩に乗るほどの小さな猿や燃える羽を持つ鳥、顔こそ歪に引き攣れているが子どもほどの背丈しかない小鬼など、一目で異形とわかる恐ろしげな風貌をした妖たちが、朱莉を主人と慕いまとわりつく。
 朱莉の支配下にあるこれらの桜魔は人間を襲うようなことはないが、他の退魔師もこの屋敷の人々も、それが桜魔であるというだけで恐れて近づかない。例外は完全な人型である紅雅くらいのものだ。
 桜魔の能力と外見は個体によって差が激しく、中にはこれらの力弱い桜魔たちもいる。そういった力弱い桜魔は、ほとんど人の形をしていないことが多い。
 今は蝶々が薙刀の稽古中であることを理由に、この近辺に家人が近づかないよう厳命していた。庭と言っても屋敷にいくつかあるうちの一つで、もともとこの辺りは部屋数も少なく使用人たちもほとんど近寄らない一角だ。だから朱莉も安心して配下の桜魔たちを影の中から出してやることができた。
 誰も近寄らないのだから蝶々も集中して薙刀の稽古に励めるし、朱莉も安心して桜魔を戯れさせながら霊符作成に集中できる。
 そのはずなのだが、実際には、朱莉は目の前の札にまったく集中できずにいた。少しぼんやりして我に帰ると、欠けてはならない呪言の一部に墨の滴が落ちて台無しにしている。
「……はぁ」
 朱莉は溜息をつき、ついには筆を放り出した。縁側から庭に足をおろし、膝の上に飛び乗った猫の毛並を撫でながら物思いに耽る。猫は撫でられて二つの尾を揺らし喜んだ。
 集中できない理由はわかっていた。先日から事あるごとに、脳裏にちらつくあの少年の影のせいだ。
 花筏の流れる川の上で螺珠と話した。その時のことが胸の内を占めていて、今の朱莉は他のことを考える余裕がない。
 もともと朱莉は魅了者の宿命として、人間だけではなく桜魔たちとも深く関わる者。今ここで遊ばせている、人を襲うほどの力もない小物の桜魔。彼らの姿など見ていると、本当に人類の天敵とまで言われる凶悪な存在であるのか悩んでしまう。
 螺珠とのやりとりは、これまでの退魔師の仕事や、先日の花梨の言葉で揺れていた朱莉の価値観を更に揺るがした。
(もしもこの先彼のような桜魔と戦うことになったら、私は、その桜魔を殺せるの?)
 いや、それよりも。
 もしもこの先、何かの事情で螺珠が退魔師に狩られる事態となったとしたら。
 その時、自分は――。
「……さん、お嬢さん、朱莉お嬢さん、おーい」
「朱莉―、バカがずっとあんたを呼んでるわよー? ……あら、あたしの声まで聞こえてないわけ?」
「は」
 ぼんやりと物思いに耽っていた朱莉は、男と女の呼びかけでようやく意識を戻した。
「辰?」
 目の前にいるのは、お馴染みの情報屋だ。彼はようやく視線の合った朱莉に対し、どこか困ったような笑顔を浮かべる。その後ろには薙刀を担いだ蝶々もいた。
「やー、朱莉お嬢さんこんにちは。先日はどうも。で、早速次の仕事なんですが、ちょっと困ったというか、大きな話になっているんですよね」
「大きな話?」
 辰の胡散臭い物言いに対し、蝶々が眉根を寄せる。
「いっぺん本部に来いってさ?」
「朱櫻退魔師協会本部に? 私も行っていいの?」
 無数の桜魔を従える魅了者の朱莉は、普段は滅多なことでは退魔師協会本部に足を踏み入れるのを禁止されている。朱莉だって自分の可愛い配下たちを他の退魔師に退治されたくはない。ではその滅多なことが、今回起きたということだろうか。
「ええ。何せ依頼主が依頼主ですからね。基本事項の確認だけでも、協会長が直々にあなた方に説明してくださるそうです。ちなみにこの依頼は断れないからね。協会には詳細を聞くのと、釘を刺されにいくだけ。で、そのあと……」
 その後――。
「……本気?」
 蝶々の唇から呆れた声が漏れる。朱莉も顔色こそ変えないながらも、呆然としていた。
「本気も本気。文句は俺じゃなくて協会のお偉方か、これから会うお方に直接言ってね」
「言えるわけないじゃないのよ。だって」
 今度の依頼は仲介役兼案内役として辰も同行するのだという。協会本部で説明を受け、そして三人が訪れた場所。今、蝶々が呆然と指をさしながら見上げた場所は。
「ここ、王宮じゃない!」
 朱櫻国王宮殿。
 その城は、王都の土地面積の実に半分を占めるという巨大で勇壮な建築物。朱と金と白の三色を基調としていて、その周囲は濠に囲まれている。数人がかりで開く大門の向こうに覗く正殿の赤瓦屋根は、黄金の彫刻で飾られていた。
 そして、桜の樹。
 通常の白や淡い紅の花をつける桜とは違う、宮殿の朱を映したかのような朱色の桜が咲いている。これが朱櫻国の名の由来だという。
 風に乗って舞い散り、濠の中で淀んだ緑の水に浮かぶ朱色の桜はこの世のものとも思えない程に美しい。
「つまり、今度の依頼は――」
「そ、現場はここ。そして、ここに住む人が依頼主ってこと」
「……」
「うっそぉ……」
 もともと感情表現の少ない朱莉だけではなく、蝶々までもが度肝を抜かれている。
 何も王宮に来たからと言って必ずしも依頼主が殿上人であるとは限らない。王宮に住み込みの下働きか誰かが――。
「あ、ちなみに依頼主は国王様だって。やったねお二方。宮廷御用達退魔師とか、大出世じゃん」
「「……」」
 思考の最後の逃げ道まで、辰のあまりにも軽い一言によって塞がれる。まぁ、そもそも普段協会に足を運ぶことさえ忌避される朱莉が直々に本部に呼び出され、その足で直接王宮に向かえと指示される辺りでただの依頼でないことはわかっていたのだが。
 一介の情報屋とはここまで顔が広いものなのか、どう見ても王宮に登城する格好ではない青年は、常日頃は鳥打帽で顔を隠し気味に行動するのが嘘のように堂々と、豪奢な宮殿内を二人の前に立って進んでいく。帽子自体はやはり外していないが。
 あらかじめ話を通してあったのか、出迎えこそないが衛士に見とがめられるたびに辰が何事か耳打ちすることで、三人はあっさりと通行を許される。
「ちょっと待ってください。この先って」
「すぐに会ってくださるそうだよ」
 遠慮のえの字もない態度で、辰は二人を引き連れて歩いていく。
(ねぇねぇ、朱莉。そういえばさ、あんたって今の国王様がどんな方か知ってる?)
(……いいえ。そういえば、王様の話って滅多に聞かないわ。お兄様の口から聞くのは、摂政閣下の話ばかりよ)
 二人は恐る恐る、謁見の間の扉を見つめた。
 朱櫻国はその名の通り朱色を貴色とする国だ。だから城内の装飾も朱色が多く使われている。両開きでその両側に衛士が配置された謁見の間の扉も目の覚めるような朱塗りだ。
さすがに壁や床までこの色ということはないが、建物内の構造の要所要所に、目の覚めるような朱い柱が使われていた。白い壁の上部の飾り桟にも繊細な浮彫が施され、そこかしこに朱い花が咲いているかのようだ。
 十数年前までは、貴色の朱に加えて桜の花も朱櫻国の象徴であったという。しかし今は桜魔が大陸中に跋扈するようになり、桜花の紋様は不吉と凶事の象徴となったために使われていない。
 この桜魔時代を作りだしたとされるのが、他でもないこの朱櫻国の前国王だというのだから皮肉なものだ。他国では桜魔(おうま)のことを、朱櫻の国が作りだした魔という意味で、櫻魔(おうま)とも呼んでいるらしい。
 そして不幸にもそんな悪名高い国王の後を継いだはずの新国王のことを、国民たちはほとんど知らなかった。義理の兄が古くから続く名家の当主である朱莉ですら、冷静に思い返してみるとその名すら聞いたことがない。単に白露が話題に出さないだけかもしれないが。
 隣国との戦が終結したのは十五年前。ちょうど朱莉が生まれた頃。その隣国から得た物資や人手で今度は遠方の国々と始めた戦が終わったのは、その一年後、今から遡ること十四年前。
 そして、長く大きな争いを引き起こし、桜魔時代を引き起こした暴君であった前国王が没したのが、今から一年ほど前のこと。
 すでに新しい国王が即位して一年になるのだが、民には不思議なほどその新王の情報が降りてこない。前国王は暗殺されたらしいので、その混乱から宮廷の機構を刷新し立て直すのに為政者たちは大混乱だったという。
 前国王は若き暴君ではあったが、決して暗愚な王ではなかったという。その後を継ぎ、前国王の暴虐の償いを求められながら、前国王とその能力を引き比べられる新国王はさぞや苦労していることだろう。
 これまでの大陸の歴史では名君と呼ばれる人は一年もすればその名を市井にまで知らしめるとされていたから、まだ城下にもその名が轟かぬ新国王は、良くて普通の王なのだろう。せめて暗君でなければいい。
 現在の朱櫻の政は、ほぼ前国王の時代から勤めている古参の大臣たちの手により行われているらしい。だから民衆は、あえて新国王の名も素性も意識はしない。十年以上に渡った暴君の治世の下、国は富み豊かになったが、その反面人々の心は深く病んでいったのがこの朱櫻国だ。
 戦争が終結して十四年が経った今でも近隣諸国の朱櫻国へ向ける恨みは深く、その恨みで王都には桜魔が跋扈する。けれど前国王は逆らう者は容赦なく首を刎ねる残酷な性格であったから、民衆は自らの境遇を城に泣いて訴えることもできなかった。
 その後を継いだ新国王のことは、だからそれを支える側近たちがあえて情報を伏せさせているのだろう。
「まぁ、そう緊張しないでくださいよ。今の王様は優しい性格ですから」
 現国王を個人的に知っているのか、辰が軽い調子を崩さずに言う。だからと言って、本当に緊張せずに国王と対面できる強者もそういるまい。いつも強気な蝶々でさえ、腰が引け気味だ。
 三人は辰を先頭に、謁見の間へと入室した。
 国王のおわす玉座は、御簾の向こう側だった。朱莉たちにわかるのは、その向こうに薄らと見える輪郭だけだ。人がいるのはわかるが、その人物の顔立ちまではわからない。
 御簾の周囲には何人かの人々がいる。文官の服装をした者や、槍を抱えた衛士。そして華やかな着物を身に着けた貴族。
「退魔師、嶺朱莉。蝶々。面を上げよ」
 壇上の御簾の向こうの国王ではなく、衛士の一人が声をあげた。
 しかもそのまま、今度は別の人物から今回の宮廷への召喚に対する説明が続く。衛士ではなく文官のようだが、国王その人が言葉を発しないことには変わりない。
 要約すると「先日の勇那の依頼はよくやったらしいな。そんなお前たちの腕を見込んで宮殿に現れる桜魔退治を任せる」というような内容だった。形式的なやりとりが行われ、案内役の辰が主に受け答えを行った。この場を取り仕切っていた文官じみた服装の男は、これでも現在の王国の摂政らしい。
 摂政がいるということは、現在の国王は一人で統治を行うことはできないということ。
 その後、一度静まり返った謁見の間に御簾の向こうから、ようやく声が投げかけられた。
「――大臣よ。役目、御苦労。下がっていいぞ。あとは私が、このお二人のお相手を務めよう」
「陛下!」
「僕が個人的にこの人たちと話をしたいんだ」
「しかし……」
「お願いだよ」
「王ともあろうお方がそのように簡単に臣に『願い』などされてはなりません。ぜひともお『命じ』ください」
「じゃあ、命令だ」
 そのやりとりに、朱莉と蝶々は微かに目を瞠った。この声は。
 摂政と名乗った男は最終的には国王の頼みに折れたらしく、形式的な挨拶だけを述べて別室に消える。衛士すらも下がらせ、その場には国王と朱莉たち三人だけが残された。
「やれやれ」
 他の人間が姿を消した途端、許しも得ずに顔を上げて立ち上がったのは辰だ。彼は固まった身体をほぐすというように腕を回し、御簾の内側に気楽に声をかけた。
「出てきなよ、蒼司(そうじ)。この二人は十分に信用できる人たちだ」
「彩軌(さいき)が言うならそうなんでしょうね」
 そして御簾を鬱陶しげに振り払って奥から進み出てきたその人の姿に、朱莉と蝶々はわかっていても驚いた顔をする。
 先程聞いた高く澄んだ声から予想できることではあったが、御簾の内側にいた人物――国王陛下は、まだ年端もいかぬ少年だったのだ。
 今年十五の朱莉よりもまだ若い。十二か、三か。そのくらいだろう。完全な子どもというには大人に近く、しかし大人として扱われることはないその年頃。
「初めまして。朱莉様、蝶々様。私が朱櫻国王、蒼司です」
 少年はそう言ってにこりと笑った。邪気のない笑みに、これまでが身構えていただけに、朱莉も蝶々も毒気を抜かれてしまう。
「り――いえ、某家の当主勇那殿と、その令嬢と婚約関係にあった風吹殿の紹介で、あなたたちに仕事を依頼したいと思い、今日この場にお招きいたしました。僕の話を、聞いてはいただけませんでしょうか?」
 てっきり上から目線で仰々しく形式的に命令されるものだとばかり思っていた朱莉たちは、この若すぎる国王の『お願い』にきょとんと顔を見合わせた。
「詳しく説明しようにも、ここは落ち着けませんね。あなた方にも……僕にも」
 宮殿の主であるはずなのに、どこか悲しげな眼をした少年はそれでもすぐに表情を切り替えて二人に御簾の奥を指し示す。
「隣の部屋へ移動しましょう。奥に簡易の応接間が用意されているんです」

 ◆◆◆◆◆

 確かに謁見の間と比べずとも、そこは随分と落ち着ける内装の部屋だった。王宮の他の場所の内装や嶺家の屋敷の応接間と比べると質素ですらある作り。一応部屋の中央に配されているのは文机ではなく応接用の円卓なのだが、雰囲気としては応接間というよりは書斎に近い。
「後宮に出る桜魔?」
 そこで朱莉たちは、蒼司の口から改めて事件の全貌を知らされることとなった。
 王宮と一口に言っても広い。正殿、正門、東西南北と名のつく殿に、濠、庭。書院に回廊。桜魔が出やすい場所を思い浮かべる朱莉たちに蒼司が告げたのは、意外な場所だった。
「はい。先程大臣たちが口にしていた桜魔はそれのことです」
「後宮って……でも、あなたは」
 蒼司の口から出たその単語に、朱莉はまじまじと少年の様子を見まわした。
 端麗な容姿をした、生真面目そうな十三歳の少年。人目を引くのは、その見事な蒼い髪と緋色の瞳だ。華奢で小柄で、身長も朱莉より若干低いくらい。声だって女の子のように高く澄んでいて、まだ子どもの域を出はしない。
 そんな蒼司と、歴代の男王が見目麗しい美女を侍らせた後宮という言葉がうまく結びつかない。
「はい。私はまだ結婚していませんし、後宮に女性を囲っているというわけでもありません。それどころか、現在この宮殿の後宮に住んでいる人は誰もいないのです」
「それで桜魔が出るってことは、その桜魔は先代国王、緋閃(ひせん)陛下の関係者ってわけかい」
 はじめは敬語や格式ばったやりとりをせねばならぬと身構えていた蝶々は、今では王である蒼司に対しても、本人の望みだからと朱莉に接するようにざっくばらんな言葉遣いに戻ってしまっている。
 蝶々の口から、先代国王の名が出たことにより、蒼司は顔を曇らせた。
「ええ。そう……でしょうね」
 この朱櫻国の、先代国王・緋閃。
 それは隣国を征服し、遠方の国々にも侵略戦争をしかけ、たくさんの民を虐殺し、現在の桜魔時代を大陸にもたらした全ての災いの元凶たる人物。
「すでにお気づきでしょうが、緋閃王は私の父です」
 朱莉も蝶々も噂の人物を直接目にしたことはない。暗殺直後の混乱期に王位を継ぐのが先代の嫡子ではないという事情もありがちだ。しかし王族がこぞって継承争いをしたにしては朱櫻国の代替わりはやけにあっさりとしていて、国民にも何も知らされなかった。その簡素さの理由は、やはり蒼司が先代国王の実の息子であったからというのが大きいのだろう。
 緋閃王が生きていた時、彼は王太子である実の息子にまるで興味がなかったのか、市井の人々に蒼司の存在を知らしめるような行事は一切行っていなかった。しかし宮中で働いていれば当然耳に入ることで、街から城に通いで勤めている僅かな人々の証言から、緋閃王に彼の後を継ぐ王子が「いるらしい」ということは伝わっていた。もっともそれさえも、王都ですら知らない住人の数の方が多いようなことではあったのだが。
「私は彼の傍で育った唯一の子どもですが、形式的なやりとりの度に顔を合わせるくらいで、私人としての父のことを何一つ知りません。私が先代国王緋閃について知っているのは、国の人々が知る“暴君”に関する噂とたいして相違はないでしょう」
 朱莉と蝶々は顔を見合わせた。横から辰が補足する。
「いくら国を強くするためとは言っても、緋閃王はやりすぎだというのが周囲の共通見解だったからね。重鎮たちの手で、蒼司は早くから父親と引き離されて育ったんだ。母親である正妃も蒼司が小さい頃に死んじゃった……ってか、父親が殺しちゃったし。だから蒼司はほとんど父王のことを知らないんだよ」
「……辰、あんたなんでそんなこと知ってるのよ?」
 蒼司王がその父である緋閃王について知らないということは、まぁ、いい。王が王妃を殺したなどという物騒な話が間に含まれてもいたが、それもすでに何年も前に過ぎたことで今更、しかも朱莉たちが口を挟めるような問題でもない。それもまぁ、いい。
 それよりも彼女たちが気になったのは、案内役である情報屋の王宮に来てからの態度だった。確かに辰は見た目二十代半ばで、昨年三十になる前に死んだばかりの先代国王と同世代の人間なのかも知れないが、だからといって所詮は平民であるはずの彼が何故、そんなにも一国の宮廷事情に詳しいのか。
「ああ、姐さん方にはまだ言ってませんでしたっけ? 実は俺、花栄国の間諜だったんですよ」
「は?」
 意外な言葉に蝶々が怪訝な声をあげ、朱莉は目を点にした。
「もとはそうだったんすけど、それを緋閃王に見破られて朱櫻に寝返ったんです。で、緋閃王が死んだもんで、今は街の情報屋の辰さんに」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
 目の前の湯呑をひっくり返す勢いで、蝶々が思わず身を乗り出す。
「まぁまぁ、確かに混乱するのは無理もないですが、いま大事なのは蒼司の話であって俺の素性じゃない。もっと気楽に、肩の力を抜いて聞いてくださいよ」
「あんたが言うな!」
 混乱の元凶にそう諭されても、そんな簡単に冷静になれるものでもない。だが、辰の素性よりも今は蒼司の事情の方が大事だというのは本当だ。
「……国王陛下。単刀直入に話をしましょう。私たちがお聞きしたいのは、一つだけです。あなたは後宮に出没するというその桜魔を、結局どうしたいのですか?」
 若いというよりもまだ幼さが残る国王は朱莉の言葉に反応し、ぴくりと眉を跳ね上げる。
 朱莉とて伊達にこれまで何年も退魔師として生きてきたわけではないのだ。桜魔被害に悩む依頼人の態度を観察することには慣れている。
 蒼司には他の依頼者のような、どうあっても桜魔を退治してもらわねば困るという切迫感がない。自らの悲惨な境遇を示して同情を買うのでもなければ、桜魔の凶悪さをまくし立ててこちらの正義感を煽ろうとするのでもない。
 だからといって、彼がただ単に朱莉と蝶々という二人の退魔師に興味を持ったとも思えなかった。後宮の話から父王について語り始めたその話運びに、朱莉は彼が自分たちに頼みにくいことを頼まねばならないと意識しているのを感じた。
「……朱莉様」
「まぁ、確かに裏があると考えない方がおかしいわね」
 蝶々も同意する。二人の女性から見つめられて、蒼司は観念したようだった。卓の上に組んだ手に目を落とし、小さな声で言った。
「これは、あなた方には失礼なお話かもしれません。けれど私が余人の邪魔のない場所であなた方お二人と話をしたかった理由はただ一つです」
「それは、なんですか?」
「今回の依頼から、手を引いてください」
 退魔師二人は揃って沈黙する。
 依頼があると聞いてやってきたのに、訪れて早速、では帰れと言われては何のために呼ばれたのかすらわからない。
「お金ならば成功報酬として支払います。いえ、むしろ、あなた方にはこの依頼を引き受けて、成功したように見せかけていただかなければいけないのです。あえていうならば、それが私からの依頼です」
「どういうこと? それって……」
「実は、今回あなた方への依頼を発案したのではなく、決定してから私にこのことが伝えられたのです。そして摂政たちが退魔師協会にあなた方への依頼を持ち込む間、私は私で知り合いの退魔師にこの問題について相談してしまっていたのです」
「それならどちらかの依頼を取り下げればいいように思えるけど……」
 表だってそうしない、しかもこうして朱莉と蝶々に依頼を達成したようにだけ見せかけてほしいということは、その知人の方に何か事情があるのだろうか。
「……後宮に出没するという桜魔の話は僕も聞いていましたし、ついに先日、実際にこの目でも見ました。だからこそ周囲が騒いでこうして退魔師に依頼をする騒ぎになったわけですが、でもその時に僕は、思ったんです」
 次の言葉を発するのを躊躇うように、蒼司は目を伏せる。
「あの桜魔は、僕の知っている人によく似ていました。だから、その人の家族なんだって」