5.亡霊
後宮は予想と違い、王宮の中とも思えない寂れ具合だった。本殿や書院に庭、他の場所があれほど絢爛豪華なのが嘘のように荒れ果てている。木々は枯れ、常緑樹の茂みも花を咲かせることを忘れ、桜魔の力の影響で王都中が春の陽気だというのに、この後宮だけはまるで今も冬の只中にあるようだ。
その中でただ一種、あちらこちらで咲き誇る朱色の桜ばかりが異様な程に鮮やかだった。
主どころか誰も住んでいない後宮に手をかける気は宮廷の人々にはないらしく、建物自体も人がいない家屋独特の廃れ具合だ。高価な調度品は全て持ち去られたらしく、がらんどうとした部屋ばかりが幾つも続いている。
朱莉と蝶々は来たときと同じように辰の案内で、今度は後宮の中にまで通された。今彼女たちがいるのは、後宮の敷地内に更にいくつかある中庭のうちの一つだった。
「ねぇ、辰。国王陛下が身罷られたのは、今から一年くらい前だったわよね。でもこの後宮の寂れ具合、とても一年やそこらのものとは思えないのだけど」
「陛下の崩御は確かに一年前でしたが、それ以前からすでに、この後宮は使われていなかったそうですよ」
朱莉の疑問に答えた声は、辰のものではなかった。
「国王陛下」
「こんばんは、朱莉様。蝶々様。朱莉様、私のことは蒼司で十分ですよ」
建物をぐるりと回る道からやってきたらしい蒼司は、そう言うと自分も輪の中に入った。
「すみません。結局あなた方を、こうして巻き込んでしまった」
「いいえ、国王様。これは私たちが自分で志願したことです」
例え仕事をまったくしなくても、後宮の桜魔を退治したと大臣たちに証言さえすれば報酬を出す。蒼司はそう言ったが、朱莉と蝶々はそれを聞かなかったことにした。そのような形で報酬を得ることへの抵抗もあるし、何よりこの依頼は、朱莉と蝶々でなければ達成できないだろうと退魔師協会に判断されたものだ。蒼司の知人がどれほどの実力者か知らないが、その相手が一人で桜魔を退治するのを放っておくわけにもいかない。
「微力ながら、お手伝いさせていただきます。ご安心ください。もしも本当にその方御一人で依頼を完遂できるだろうと判断した場合、私たちは余計な手出しはしませんから」
とはいえ、その相手はまだ現れない。
時刻はすでに真夜中だ。先日、勇那の娘、茅の姿をした桜魔を倒したのもこのぐらいの時刻だった。けれど蒼司の秘密の待ち合わせ相手、後宮に出現する桜魔の血縁らしき退魔師は現れない。
「もし相手が来るの遅れたら、あたしたちがやらなきゃいけないんじゃない。これ」
誰もが危惧しながらも口にしないことを遠慮なく蝶々は言う。そんなことはないと信じたいところなのだが、あろうことか蒼司までもが視線を逸らす。
春の夜の暑いような涼しいような生温い風がひゅるりと吹きすぎていった。
「……忙しい方ですし、しょっちゅう国外にも出かけているようなので……」
「ちょっと! 本当に来ない可能性があんの?! 朱莉、急いで装備の点検! あと念のため、紅雅は常に出しときなさい!」
「紅雅を出すと彼を怖がって格下の桜魔が現れない可能性があるのだけど……」
「いいから、出しなさい」
「は、はい」
蝶々の気迫に押され、朱莉は影の中から彼女の配下の中で最強の桜魔を呼び出す。
「あああもう! その退魔師ってのはどこで何やってんのよ!」
「そ、蒼司王陛下。事件のことについて、もっと詳しく聞いてもいいですか」
「ええ、そうですね。約束の相手が来るなら大丈夫かと思ったのですけど、来ないようなら本当にあなた方に彼女を倒してもらう必要がありそうですから」
「というか、ここ危なそうだし蒼司は正殿に戻った方が良くないか?」
「いいえ。彩軌。戦うことはできませんが、せめて見届けることくらいさせてください」
国王としてかそれとも単に知人としてか、蒼司の身を案じる辰の提案も少年王は退ける。以前にも聞いた彩軌というのは、辰が昔間諜をしていた時に使っていた名だそうだ。
そして蒼司は後宮の桜魔について語りだした。
桜魔に殺された最初の犠牲者は、奥の殿に用があって、後宮を通り抜けようとした文官だった。本来なら規則違反なのだが、それまでは使われていない後宮ということもあって、暗黙の了解で見逃されていた。仕事の途中で消えた彼を探し、後宮のこの庭で発見したが、その尋常でない死にざまから、桜魔の仕業と噂されるようになった。
そこで国王である蒼司本人までもが乗り出して後宮の桜魔の姿を発見したところ、先代国王の寵姫の一人によく似た顔立ちの桜魔が現れた。蒼司は寵姫本人は知らなかったが、その顔によく似た退魔師を知っていたため、その人物を今夜後宮に呼んだのだという。
「でも、陛下はその時に桜魔の顔を見て、知人と似ていると思ったのですよね? であれば、陛下の知る方はもしかして、この後宮に何か関係のある人物――ひいては、陛下ご自身の縁者なのですか?」
不躾な質問とはわかっているが、重要なことだった。人型の桜魔は勇那の娘、茅のように、人間であった頃の記憶を備えている場合が多い。もしもこれからやってくる予定の退魔師が桜魔を殺すことができなかった場合、その役目は朱莉たちが果たすことになるのだ。先日の茅の件のように人に似た桜魔であれば生前の記憶が倒す鍵となる場合もある。
「それは――」
蒼司が言いかけたその時だった。
ぴん、と空気が張りつめる。
「……朱莉様」
紅雅が自らの武器を手に朱莉に警戒を促す。蝶々は薙刀を構え、情報屋であるはずの辰も懐に手をやった。
「ええ。――どうやら陛下のお知り合いの方は、完全に遅刻のようですよ」
「え?」
朱莉だけが何も構える様子を見せず、ただ淡々といつものように影の中に指示を出す。
「玉蘭、紫歌。陛下を護って」
「御意」
突然どこからともなく聞こえてきた二つの声に、蒼司がびくりと身を震わせた。だが事前に朱莉の力の説明を聞いたためか、それ以上驚く様子はない。
否、それどころではないと言うべきか。
ひた、ひた、と裸足の足が板張りの廊下を歩くような音がする。それに、ずる、ずる、と何かを引きずるような音も。
なのに人間の気配は一切ない。
意外なことに、侵入者の気配は庭からではなく、後宮の建物の奥の方からやってきた。
夜の闇の中にぼんやりと浮かび上がるようにして、人影が一行のもとへ近づいてくる。
それは、美しい女性だった。それも、とても若い。
華奢な肢体。長い紫の髪。蝶々どころか、朱莉とすら幾つも変わらないように見える、少女姿の桜魔。
「蒼司様」
後宮の関係者ならば、相手が陛下という呼びかけに反応することを危惧して、朱莉は名前で呼びかける。
「あの女性で間違いはありませんね」
「……ええ」
お互いの顔が見える距離まで近づいてきた桜魔は、回廊から庭の朱莉たちに気づくときょとんと目を丸くした。
その仕草からは、人を憎み襲う桜魔の凶暴性など欠片も感じられない。まるで街中にいる普通の少女のように、あどけなく首を傾げる。
「どなた?」
「私たちは……」
「もう! お兄様ったら、お客様が来るなら一言いっておいてくださればいいのに。火陵(かりょう)も火陵よ。お兄様の言うことはちゃんと聞くのに、私のお願いはまったく聞いてくれないなんて」
愛想は良いのに、話は噛みあう様子もない。それどころかこちらの言うことを聞く様子もない。過去の記憶のみで生きている桜魔にはよくある反応で、むしろ会話が噛みあってしまうと向こうがこちらを現在進行形の敵と認識してしまう。
「寧璃(ねいり)様」
そんな事情を露知らず、蒼司が少女姿の桜魔に呼びかけた。
「陛下! やめたほうがいいよ。桜魔を刺激するなんて」
蝶々が警告する。だが彼は聞かずに、桜魔に叫んだ。
朱莉たちにもわかっていた。死者と同じ顔の桜魔を前に、冷静にいられる人物の方が少ないのだ。この手の忠告が聞きいれられることは滅多にない。
「寧璃様! もうそのお心を鎮めてくださいませ。火陵は死にました。緋閃も。あなたを傷つけた父もあなたを守っていた男も、もういないのです!」
「あら、嘘よ。火陵が死んだなんて」
呼びかけに反応し、寧璃という名の桜魔は可憐に微笑んだ。
そしてその笑顔のまま――狂う。
「だって緋閃王、あなたはそこにいるじゃない。だから火陵も死なないの。あなたを殺すまではね! だって、私がそう“お願い”したんだから……!」
「寧璃様! ――わぁ!」
「馬鹿! 避けろ!」
最低限の礼儀もかなぐり捨てて、蝶々が蒼司を庇いながら叫ぶ。朱莉が同時に前に出て、何枚もの霊符を放った。
寧璃に攻撃の意志はなかったようだが、彼女の殺気に先行して何かがその身から放たれたのだ。王の身にそれを触れさせまいと朱莉は札を放ち、更に結界を張る。
「さすがに初っ端から私たちに回されてくるだけあって、手強い相手じゃない」
「辰、陛下を頼みます」
蝶々が二人の前に立ち、盾となる。朱莉も蒼司の身柄を辰に預けると、放ったばかりの霊符をまた新たに数枚手に取り、いつでも反撃に移れるようにした。
先程の攻撃は咄嗟に防いだとはいえかなり重かった。やはり蒼司だけでも後宮から引き離すべきだったかもしれないと、朱莉は今更ながらの後悔を覚える。
寧璃と言う名のこの桜魔、かなり強い。これまで朱莉と蝶々が組んで戦ってきた相手の中では最も高位の桜魔だ。
朱莉は気を引き締めて、霊符に力を込めはじめた。下手な攻撃に巻き込むわけにはいかないので、紅雅以外の配下は全て影の中に避難させる。
蝶々も薙刀を構えながら、じりじりと寧璃へと歩み寄った。
(朱莉様!)
影の中から配下の桜魔の、鋭い警告の声が響いた。次の瞬間、無数の何かが朱莉と蝶々に向かい飛んでくる。
手足に何か重いものがぶら下がった。生温い温度と臭気。べったりと濡れた感触。これは――。
「きゃぁああ!」
目前の蝶々が、薙刀を放り出す勢いで悲鳴を上げる。彼女がこんな風に戦闘中に狼狽するのは滅多にない。
朱莉は凍り付いていた。「それ」と視線を合わせてしまうと、まるで金縛りにかけられたように身動きできない。
醜い妖怪が張りつく程度なら耐えよう。血濡れた肉塊や臓腑の一部を顔面に投げつけられても、ここまで動揺することはなかろう。
けれど今、朱莉と蝶々の手足に張り付いていたのは、腐りかけた肉と虚ろな眼窩を晒す、無数の胎児や嬰児の姿をした妖だったのだ。
「ヒッ――」
数多の激戦を乗り越え、退魔師としてそれなりの経験を積んでいる朱莉と蝶々でもこれは堪えた。単純に動きを邪魔する目的も何よりだが、それ以上に精神的な負荷が酷い。
「朱莉様」
駆け寄ってきた紅雅が慌てて朱莉の体からそれらを引きはがそうとするが、一度落ちた嬰児たちは、再び体に這い登ってくる。その感触がおぞましく、朱莉は吐き気を堪えた。やがて朱莉の体から嬰児を叩き落そうとした紅雅自身も、重石のような彼らに動きを封じられてしまう。
寧璃はくすくすと笑っている。そのさざめくような笑い声は、朱莉たちに酷い頭痛を湧き起こす。影の中の桜魔たちが忠告を寄越してくれるが、すでに遅い。
「ぐっ……!」
「蝶々……これ、すでに相手の術中に……!」
蝶々が地面に膝をついた。薙刀を杖替わりに、なんとか体を支えている。
朱莉は寧璃の様子を見た。いつの間にか彼女の足元には、深い血だまりができていた。
肌蹴た着物の裾から覗く白い足を伝う血。桜魔である彼女の身体は人間そのものではないけれど、その血が意味するものを思い浮かべれば一層胸が悪くなる。
朱莉たちの背後では、蒼司も辰も言葉を失っていた。特に蒼司は真っ青な顔をして、辰に縋りつくことでようやく意識を保っているような状態だ。
寧璃の足元の血だまりから、また新たな嬰児が生まれる。沸騰したようにボコボコと湧きだした泡が凝り、骨の欠片と肉片を繋ぎ合わせたような奇怪な姿の桜魔ができあがる。
あれら一つ一つが、目の前の寧璃の顔をした桜魔の分身のようなものだ。
「後宮の女たちの怨念」
青ざめたままがたがたと震える蒼司を抱き抱えながら、辰が言った。
「姐さん、お嬢さん。その桜魔は、寧璃様の姿と記憶を核にしているようですが、実体はこの後宮で恨みを持って死んだ女たちの寄せ集めです」
「寄せ集め?」
「ええ。あなた方ならば集中すれば見えるでしょう? あの桜魔の中には、複数の人間の怨念が詰め込まれていることを」
辰の助言に従い、朱莉たちは桜魔の妖力の流れを探ることに集中した。
確かに辰の言うとおり、目の前の女の中には複数の気配がある。
それに、一つわかったことがある。
「蝶々」
「ええ。あたしも大分落ち着いてきたわよ」
二人は、手足にかかる重みを振り落した。言葉にならない呻き声を上げる、嬰児のできそこないのような肉塊たちは、特に抵抗もできずに払い落された。嬰児の姿をしたこの桜魔たちは弱い。その弱さが逆に不気味に感じられるほど、呆気なく地面に叩き付けられる。
べちゃりと、肉の塊が地面に落ちる音がした。血に似た赤い液体が跳ねる。
彼らが再び手足によじ登ってくる前に、朱莉たちはその身を霊符の炎で焼いた。異形であっても幼子の姿をしたものを生きたまま焼くなど、これまでの桜魔との戦闘の中でも感じたことがないほど、気分が悪くなる光景だった。
「うふふ。うふふふふふふ」
目の前で寧璃はまだ笑っている。彼女の足元の血だまりからは、まだ嬰児の姿をしたものが生まれ続けている。
「何度でも、殺せばいいわ」
歌うように、寧璃は口にする。
「何度でも、生み直すの。何人殺しても、何人殺されても。何度でも。だから殺すの。だから殺されるの。だから」
「そんなの……おかしいです」
ぽつりと呟かれた声は小さかったが、静まり返っている後宮には響いた。蒼司が白い顔で、寧璃の姿をした桜魔を見つめている。
朱莉も蝶々も、蒼司のすぐ傍にいる辰さえも彼の言葉を止めなかった。蒼司が感じている想いは、朱莉たちと同じもの。
「死んでしまったら、全て終わってしまうんです。どんなに新しい子どもを産んでも、その子は前の子どもとは違う。だから、だから……」
「それを」
凪が来た。嵐の前の静けさが。
朱莉と蝶々は己の武器を構える。
「それをあなたが言うの! 緋閃王!」
寧璃の足元の血だまりから、蛇が鎌首をもたげるように血の鞭が飛んだ。
赤い触手のようなそれを蝶々と紅雅が片っ端から斬り落とす。しかし数が多い。全ての蛇の攻撃に反応する力のない朱莉は、その代りには霊符で結界を張った。自分と背後の辰と蒼司だけでも守れば、蝶々と紅雅が楽になる。
間合いの大きい蝶々がひたすら空間を広げ、紅雅はその場所を自らの前を塞ぐ蛇だけを斬りおとして進んでいった。寧璃に向けて剣を振りあげる。
しかし、他者の目にはゆっくりと持ち上げられたようにしか見えなかった二本の白い指が、紅雅の剣先をいとも容易く受け止めていた。
「なっ――」
「駄目よ紅雅! さがって!」
桜魔の身体能力はその妖力の強さに左右される。人間のように骨格も筋肉量も関係ない。
怨念の寄せ集めである寧璃は、紅雅よりもずっと強い妖力の持ち主ということか。
「がはっ!」
朱莉の警告は一歩遅く、相手の懐に入った紅雅は逆にそのまま、寧璃の妖力で弾き飛ばされた。後宮を囲む内壁に罅が入るほど叩き付けられる。
「紅雅!」
壁から剥がれるように地に倒れ、紅雅はそのまま動かなくなった。桜の花弁として散りゆく様子はないから死んではいないのだろうが、意識を失ったのだろう。
「朱莉!」
紅雅に意識を向けていたせいで、朱莉の結界を保つ集中力に影響が出ていた。背後の辰と蒼司に影響はないが、二人の前に立つ彼女自身に、血の蛇の牙が迫る。
「っ――!!」
慌てて術を発動するよりも、一度攻撃を受けて落ち着いてから体勢を立て直した方が良い。自分ならそれができる。そう信じて攻撃に耐えようと腕を上げて顔を庇った朱莉に、いつまでたってもやってくるはずの衝撃は襲ってこなかった。
「いつもいつも」
その代わりに目の前には、今までいなかったはずの人の背中があった。いつかのように、幻にしてはやけにはっきりと浅葱色の髪が眼前で揺れる。
「君は危ないことをしてばかりだ」
「……螺珠?」
なんでここにいるの。問いかけたいが、言葉が出ない。生憎とそんな場合でもない。
「単に通りすがりだ」
「どんな散歩で王城の後宮の中まで通りすがるの」
「いやその……あまりにも強い妖気と激しい戦いの気配を感じたからつい、な」
「……そう言えば、あなたはもともと桜魔の血の匂いをさせている人だったわね」
そういえば螺珠は桜魔でありながら、桜魔と戦う者なのだ。だから今日も、特別朱莉を助けようと考えてこの場に来たわけではないのだろう。先日の借りはすでに返し終えているのだから。
朱莉はそれに気づき、なんとなく心が沈むのを感じた。螺珠が普段何をしていようと、関係ないはずなのに。
――今は、そんなことを気にしている場合ではない。
「それは――その」
「助けてくれてありがとう。もう大丈夫よ」
朱莉の周囲の蛇は螺珠が払ってくれた。彼の攻撃はどうやら自分の妖力で相手の妖力を焼き尽くすものらしく、消された蛇は復活してこない。その分戦いが少し楽になった。
「ちょっと、朱莉! 無事だったなら早く手伝ってよ!」
今は一人で寧璃と向かい合っている蝶々が、こちらを半分振り返るようにしながら怒鳴った。寧璃は目の前の蝶々ではなく相変わらず一番後ろの蒼司を狙っていて、自分が直接攻撃されるわけでもないのに気が抜けない。
「私も力を貸そう。桜魔のことは、私の問題でもある」
自分も短刀を構え、螺珠が蝶々の隣に並ぶように飛び出した。紅雅の抜けた穴を埋めてくれるのはありがたいが、彼の真意が今一つよくわからない。
「あんたは……」
「詳しい話は後だ」
蝶々と背中合わせになるような形で、螺珠は参戦した。無数に襲い掛かってくる血の蛇や異形の嬰児たちを切り払う助けとなる。
「朱莉を助けてくれたみたいだし、あんたに敵意はないようだしね。いいわ。今は信用してあげる」
「光栄だな」
寧璃と同じ桜魔ではあるが、螺珠は以前にも朱莉のことを助けた知り合いだ。蝶々もここでは螺珠の手を借りることにしたらしく、無言で背中を預け合う。
「辰、蒼司様。もうしばし御辛抱ください」
朱莉はその言葉で背後の二人の言動を封じると、自分もいよいよ寧璃を倒すために集中し始めた。
紅雅は倒され、螺珠が参戦した。寧璃は手加減して倒せるような相手ではなく、これ以上の犠牲は出したくない。
朱莉も全力を出さなければ。そのための時間は、蝶々と螺珠が稼いでくれる。
朱莉の足元の影が、不自然に大きく膨れ上がった。寧璃の足元の血だまりと同じように。
ただしその色は黒で、正真正銘の影だ。その中に朱莉の切り札たる、配下の桜魔たちが棲む。
皮肉なことに朱莉の最強の配下である紅雅が意識を失っていることで、彼の前に姿を現すことを恐れるほかの桜魔たちも影の中から出て、十分に力を発揮することができるようになった。
朱莉の体よりも大きく広がった円状の影の中から、異形たちが次々と姿を現す。
彼らの能力を総動員し、朱莉は少しずつ、寧璃の力を削いでいく。
自分の分身を作れる桜魔は先程の嬰児たちのように寧璃の手足に張りついて動きを止め、弱点を探すのが得意な桜魔は寧璃の妖力の核を探す。少し体の大きい桜魔は、異形の嬰児たちに飛び掛かり打ち倒す。
不快な音を発して敵の集中を乱す者。遠くから火を吐く者。蝶々や螺珠の傷を触れもせず癒す者など、朱莉の配下の力は様々だ。
「蝶々! 螺珠! その桜魔の弱点は、右目です!」
朱莉は配下の視界を霊力で自身と連動することで、全ての生命の核を見ぬくというその霊眼を得た。その力で見た寧璃の力の核は、彼女の右目に集中している。
しかし寧璃も強い。弱点を明らかにされたことで、これ以上剣士二人を自分に近づけさせないようにと、血だまりから作り上げた鞭で二人を一撃で弾き飛ばす。
血の鞭の形状は蛇とほとんど同じだが、力の使い方が今までと変わったことで、二人は咄嗟に対応しそびれた。単純な攻撃だからこそ一撃の威力は重い。蝶々は障子の桟を破壊しながら房室内に突っ込み、螺珠は朱桜の樹の幹に激突する。
寧璃がこちらを向いた。
朱莉ではなく、その背後で辰に庇われている蒼司を睨む。血の伝う裸足の足でずるずると何かを引きずるような音を立てながら歩み寄ってくる。
両手を広げて背後を庇いながら、朱莉は焦りを覚えていた。蝶々と螺珠が立ち上がる気配がない。彼女一人で、この場を持ち堪えられるか。
「緋閃王、許さない――」
絶体絶命かと思われたその時、頭上から声が降ってきた。
「その男なら、もう殺しました」
朱瓦の屋根の上の月を背景に、一人の少年が佇んでいた。
蒼司王が息を呑み、辰が安堵の溜息をつく。それで朱莉にも、その少年こそがこの夜の待ち人だとわかった。
紫紺の髪。橙色の瞳。少年らしい華奢な体を、螺珠のようにぴったりとした衣装に包んでいる。その手には一振りの諸刃の剣があった。
寧璃が動きを止める。だが少年を見た彼女の驚きは、他の者たちとは違うところにあるようだった。
「……お兄様?」
何故その人がこんなところにいるのかわからない。寧璃はそんな表情をしていた。
朱莉たちの傍では蒼司が囁く。今度は桜魔である寧璃を刺激しないように、けれど朱莉たちにははっきりと否定を告げる。
「違います。あの方は寧璃様の兄君ではありません。寧璃様の息子の神刃(しんは)、私の兄です」
蒼司の言葉に朱莉たちが月下の少年へと視線を戻すと、彼は寧璃と目を合わせながら薄く微笑んでいた。
だがそこには、桜魔に関わる人生を持ってしまったもの特有の痛みがある。
少年は蒼司とそう変わらない年齢に見えた。蒼司が兄と呼ぶからには十三歳よりは上なのだろうが、それでも彼を兄と間違えた寧璃の方が、まだ年上に見える。部外者である朱莉たちの違和感は、当事者たちの間では何らかの意味を持っているようだった。
「――ああ、そうなんだ。例え正気を失い桜魔と成り果てたあなたでも見間違えるくらい、俺はあなたの兄上と似ているのですか。火陵の主君と」
火陵、先程から何度も寧璃や蒼司が口にする名前。だが朱莉たちには、一体誰のことだか見当もつかない。
「あの人が俺を殺せないわけだ」
そして少年は刃を手に、口の端を吊り上げて凄絶な笑みを刻んだ。
いつしか寧璃と言う名の桜魔は完全に動きを止めていた。不安げな顔で少年を見つめている。
「母上」
少年が小さく呟いた。
それはまるで木々の葉がそっとすれあうような微かな囁きだったが、緊張に張りつめた狭い戦場で、やけに鋭く皆の胸に響いた。
「あなたはもう、人としては死んでいるのです。あなたを傷つけた緋閃王も、あなたに忠実だった火陵ももういない。だからもう、殺す必要はないのです。誰を傷つける必要も、恨みを晴らす必要もない。もう殺す必要はないのです――もう、殺される必要はないのです」
寧璃の青白い顔に揺らめきが走る。少年の最後の一言だけ、前半と意味がまったく違った。
青白い桜魔の顔色より更に紙のように白い顔をした少年は平静な様子を保っているように見えて、同じように表情を取り繕うのが得意な朱莉にはわかった。彼は今相当無理をしている。
そして少年は静かに、月光のような白い刃を振るう。
「だから――もう一度だけ、死んでください」
誰にも腕を振るったその瞬間はわからなかった。ただ、彼の腕の軌跡を追うように飛び散った鮮血が宙に弧を描くのだけがわかった。
桜魔の血は一瞬後には白い桜の花弁と化して、淡く光るように消えていく。その光景は幻想的ですらある。
傷口から清浄な光が広がって、桜魔の姿はやがて闇に溶け行くように完全に消えた。
寧璃の弱点は右目だ。少年はそれを知らなかった。けれど寧璃の胴体を真っ二つに切り裂いた彼の力は、そのまま妖力で造られた全身を破壊していった。つまり神刃と言う名のこの少年は、高位の桜魔に力押しで勝ててしまえるだけの実力があるのだ。
朱莉が地面を見おろすと、先程まで蠢いていた嬰児めいたものたちも、泥のようにぐずぐずと崩れて死んでいる。
「う……」
その頃になって、寧璃の先程の一撃でやられた螺珠が、呻きながら身を起こした。
「あ……蝶々、紅雅!」
朱莉はこれまでの負傷で倒れていた仲間たちを叩き起こす。幸いなことに蝶々には大きな傷はなかったが、紅雅の方はまだ目を覚ます気配がなく、影の中で他の配下に治療させることにした。他の桜魔たちも、誰かに見られて騒ぎになる前に、影の中に戻してしまう。
気付けば戦闘が終わっていた二人は不思議そうに辺りを見回し、やがて視線が一人の少年に行きつく。
蒼司が神刃と呼んだ少年は、血を拭った剣を鞘に戻すところだった。キン、と鞘口と鍔のぶつかる澄んだ音だけが微かに響く。
彼の視線は、まずは辰に庇われている蒼司へと向いた。
「遅くなってすまなかったな」
「兄上」
一瞬前には母の顔をした桜魔を手にかけた嘆きも見せずに詫びた兄に、蒼司はどういう顔をしたらいいのかわからないようだった。
「兄上、寧璃様を……」
「あれは桜魔であって、俺の母上じゃない。だいたい、例え母だったとしても俺はあの人を直接は知らないんだ。今更悲しむ必要もない。俺は――退魔師なんだから」
それよりも、と彼は蒼司の周囲へ視線を巡らせた。
「なんだ、この人数は? お前の護衛の武官でもないみたいだが」
「王都の退魔師協会の方々です。私が兄上に頼む前に、大臣たちが依頼をしていました」
「またか。お前、国王になったのに好きにやらせてもらってないのか?」
「先代ではありませんし、そんな無謀なことできませんよ。それに、あの人たちも悪気があったわけではないんです」
「……火陵は退魔師だったからな。お前に気を遣いすぎて周囲が早まった結果が二重依頼ってわけか」
「ちょっと、ちょっと待った、ねぇ!」
こちらに構わず話を進める二人の姿に業を煮やし、ついに蝶々が会話に割り込んだ。
「さっきからあんたたち何なのよ! 人に説明もなしにがんがん話続けちゃってさ! 結局この仕事は終わりでいいの? 違うの?」
蒼司はそこでようやく蝶々や朱莉の存在を思い出したらしく慌てだしたが、反対に神刃と呼ばれた少年は冷めた表情で蝶々を睨んだ。
「あなたはなんだ」
「なんだも何も退魔師よ。あんたこそ何、退魔師のくせに仕事に遅刻してんのよ」
「こっちは忙しいんだ。王都の外に出たこともないお姫様が、余計な口出しをしないでくれ」
「何よ、その言い方!」
「蝶々、やめてよ……」
激しかかる蝶々を、朱莉は腕を掴んで宥めた。そこまで短絡的ではないと信じたいが、まだ二人とも手元に刃物があるのだ。依頼は終わったのに些細なことから刃傷沙汰など御免である。
とはいえ、神刃と言う名のこの少年に言いたいことがあるのは朱莉も同じである。何せ自分たちは彼の遅刻の尻拭いで、寧璃と呼ばれる桜魔と一戦交えたのだから。
しかし朱莉が言葉を発するよりも先に、神刃の視線はこの場にいる残りの一人へと向けられていた。
神刃は寧璃を斬った時と同じ早業で剣を抜く。朱莉は悲鳴を上げた。
「螺珠!」
誰が止める暇もなく、神刃は螺珠に斬りかかったのだ。まだ剣を手にしていたことが幸いし、螺珠は間一髪でその攻撃を凌ぐ。
「――いい腕だな」
擦れ合う二本の白刃が立てる嫌な音を聞きながら、神刃はそう言った。
「それほどの腕を持つ人間が蒼司の近くに常にいてくれるのだったら、俺も今日ここへ来る必要はなかったんだろうが」
十代後半の青年に近い少年であり、もうしっかりと大人に近い体つきが出来上がっている螺珠に比べ、蒼司ほどではないが随分と細身の子どもである神刃。けれど両者の実力は互角らしく、螺珠は鍔迫り合いに勝てないでいる。
「――だが、お前は桜魔だ。いや、桜人か」
「桜人?」
神刃の口にした耳慣れぬ言葉に、螺珠が眉根を寄せる。
「それって……」
つい最近もどこかで聞いた言葉に、朱莉は目を見開いた。そうだ。十年前も先日も、同じ男の口から聞いた話だ。
「桜が死者の念を取り込んで魔となるのが桜魔なら、逆に死者が自ら鬼と成るために桜の魔力を取り込むのが桜人だ」
辰がかつて朱莉を膝に乗せて聞かせたお伽噺を、神刃が今口にする。
それでようやく朱莉も、先日筏川のほとりで螺珠と話した時の違和感を思い出した。そうだ。螺珠が桜魔となった経緯。あれは桜魔というよりも、桜人のものだったのだ。
後宮に咲く朱色の桜から、風に乗って無数の花弁が舞った。
神刃と螺珠のぎりぎりの斬り合いに、朱莉たちは迂闊な手出しができない。
「だから、殺すのか。君は退魔師か」
「ああ」
「私を殺せという依頼は誰がした?」
「そんな依頼は受けていない。だが、全ての桜魔を殺して大陸に平和をもたらすのが俺の悲願だ」
そう言うと神刃は螺珠の剣を強く打ち返し、その反動で一度後方へと飛び退いた。
「お前たち桜魔などという忌まわしい妖魅は、全て全て滅びればいい」
「兄上!」
あまりにも冷酷な神刃の横顔に、蒼司が悲鳴のような声を上げた。
「蒼司、お前もお前だ。必ず行くと言ったのに、何故こんな連中を呼んだ」
「ですが兄上! あなたが来る前に寧璃様の攻撃から私を守ってくださったのは、あなたではなくこの方々です! それでも手が足りず苦戦した時に助けて下さったのは、今兄上が刃を向けているその方なのです!」
神刃の言葉から螺珠が桜魔であることはすでに蒼司にもわかっているだろう。だが彼は、それを責めるようなことはせずにただ彼や朱莉たちが自分の救い手なのだと強調した。
「あなたが父上を憎み、父上が生み出した桜魔が人々を害することに心を痛めているのは知っています! けれど、その罪も償いも憎悪も、一人で背負わないでください!」
「……っ!」
蒼司の言葉に、神刃は唇を噛んで叫びを堪えるようだった。
「……今日のところはこれまでにしておいてやる。だが、次に会ったときは容赦しない」
燃える炎の瞳を持つ少年は、見つめる相手をも焦がしそうな激しい憎悪の眼差しを螺珠に向けて宣言する。
次の瞬間には、後宮を囲む高い壁を見事な跳躍で越えて、何処かへと姿を消した。人間とは思えない優れた身体能力だが、神刃は確かに人間だった。
そして彼は、桜魔という存在に強い憎しみを抱いている。朱莉たちにわかったのはただそれだけだ。
「一体、何なの……?」
蝶々の発したその一言が、この場の全ての者の心情を代弁する。戦闘が終わっただけではない疲労感が、朱莉や蝶々に重くのしかかっていた。