朱き桜の散り逝く刻 02

6.神刃

 後宮の桜魔を退治するという依頼が、朱莉と蝶々の手で「無事に」達成されたということにされ、ひとまず王宮での事件は終わりを迎えた。
 だが、あの場にいた当事者たちにとって、もちろんそれだけでは終わらない。
自ら捩じれさせて協会や国の重鎮に結果を伝えた事件の影で起きた出来事について、蒼司は後日再び朱莉と蝶々を王宮に呼び出して説明してくれた。
 国王である蒼司が兄と呼んだ少年退魔師の神刃。後宮に現れた桜魔、寧璃。
 去り際の神刃の台詞は、これからも螺珠と敵対する意志が十分に感じ取れた。螺珠を殺させたくない朱莉としては、神刃が何故そんなにも桜魔を憎むのか、その訳を聞いておきたいところだ。
 人を害する桜魔をただ憎むというよりも深い憎悪を、朱莉はあの時の神刃に感じていた。
 表向きは先日の礼という形で再び王宮に招かれた朱莉たちは、最初に蒼司から説明を受けた小部屋へと通される。茶菓子の支度をした侍女が給仕を終えて下がったのを見計らい、蒼司は口を開いた。
「彼は……神刃は私の異母兄です」
 これらの事情もまた、蒼司よりも彼の父王、暴君で知られた先代国王緋閃の行動が発端だった。
 神刃は蒼司の異母兄。異母とはいえ「兄」であるならば蒼司よりも高い王位継承権を与えられそうなものだが、朱櫻国の継承権事情以前に、神刃はそもそも世間にその存在を知られていない王子だという。
 これは蒼司の時のように、彼が正式な嫡子であるのに市井の朱莉や蝶々が知らぬというわけではない。宮廷の重鎮たちも誰もかも、先代国王緋閃に近しい一部の人間しか神刃という存在のことは知らないらしい。
 神刃が母と呼んだ後宮の桜魔、その姿の元となった女性・寧璃は、花栄国辺境にある一地方の領主の妹姫だったという。花栄国と言えば、朱櫻国が十五年前まで戦争をしていた隣国だ。
 寧璃の兄が治めていた辺境地域は古くから身体能力の高い人間が生まれることで有名な土地で、戦時中により強い兵士を求めた緋閃王が、領主の虎の子であった一戦士を手に入れるために領主を殺し、その地方の人材から富から全てを奪い取ってしまった。
 緋閃王は領主を殺し、その妹姫を自分の寵姫の一人として後宮に迎えた。そして彼女を人質に、その地方の兵士たちや、花栄国の兵士たちを働かせていたのだ。
 緋閃王が欲しかったのは、かつて“戦場の死神”とも呼ばれた、領主の忠実な部下。その死神は領主家に忠誠を誓っていたので、主が亡くなった後も妹姫を護るため強制的に緋閃王の下で戦に駆り出されていたらしい。
 だがその状況に一番納得していなかったのは、他でもない人質となった妹姫――寧璃その人だった。彼女は暴虐な隣国の王に殺された兄の無念を晴らし、自らに忠実な臣下を緋閃王の手駒という状態から解放すべく、嫁いだ一年後に腹の子を道連れに自害した。
「……と、表向きにはこのような話が宮殿には伝わっています」
「表向き……。つまり、その道連れにされたはずのお腹の子が神刃様なのですね」
 神刃や寧璃が何度も口にしていた“火陵”というのは、戦場の死神と呼ばれたその戦士の名前であるらしい。領主とその妹の寧璃に仕えていたが、優れた剣の腕故に緋閃王に目をつけられ、結果的に主家を破滅に追い込んだ。
 彼は寧璃から生まれたばかりの神刃を託され、緋閃王の追手から逃げ続けながら神刃を退魔師として育て上げた。だから神刃は母の顔を知らないと言っていたのだ。
「御推察の通りです」
 蒼司は目を伏せた。
 そして彼が続けたのは、王家の恥部であり、朱莉たちの想像より遥かに残酷な真実だった。
「宮殿内の通説では、寧璃様は兄の仇である憎い相手の子を産む精神的負荷に耐えられず自害したとされています。けれど事実は……彼女は父に、緋閃王に恨みを晴らすため、自らの命の全てで生まれたばかりの我が子に呪いをかけたのです」
「呪い……?」
「そう、父殺しの呪いを」
 しん、と部屋の中の空気が重たく沈殿する。
「そして彼女は、彼女の忠実な臣下たる戦場の死神に我が子を託しました。その子が無事に育ち、いつか実父を殺すようにと」
 寧璃はただ自分の子を育ててほしくて、臣下であった火陵に神刃を託したのではない。
 彼の優れた武術を息子に叩きこんで、いつか父王を殺す復讐の駒として造り上げてほしかったのだと。
「去年の陛下の暗殺事件は、まさか……」
 蒼司は淡く微笑んだ。自分の父親が異母兄に殺されたという話題に、何故彼がその表情を選んだのか朱莉にはわからない。考えてわかるようなものでもない。
「……兄上は、自分の父と彼が生み出した数多の悲劇の産物である桜魔を憎んでいます。だけどあの人が一番憎んでいるのは……本当は自分自身なのでしょう」
 全ての桜魔が滅びればいいと言った神刃。
 彼は寧璃を殺し螺珠に攻撃を仕掛けたけれど、同時に朱莉たちを助けたはずだった。しかし神刃はそのことにはまったく目もくれず、ただ桜魔を殺す者としか自分自身を見てはいない。
「ところで蒼司王、なんであんた、そんなに裏事情に詳しいの? 話を聞く限り、あんたにそんなこと話してくれそうな相手、傍にいないような気がするんだけど」
「蝶々」
「何よ、朱莉。本当のことでしょ」
 まるで蒼司の周囲に信用できるものが誰もいないとでも言いたげな蝶々の言葉に朱莉が諌めようと口を挟むが、それよりも蒼司自身が蝶々の言うことを肯定する方が早かった。
「いいんです、朱莉様。蝶々様の言うとおり、本当のことですから。この宮殿内に、父王や戦場の死神や寧璃様、そして神刃のこと全てを知っていて、なおかつ常に私を支えてくれるほど信頼のできる者はおりません」
 その穏やかな微笑みの裏に、蒼司がずっと感じていただろう深い孤独が透けて見える。王と言うのは名ばかりで、彼は玉座に座る人形にしかなれない自分を知っている。
「私にこれらのことを教えてくれたのは、彩軌……あなた方が辰と呼んでいるあの男です。花栄国から寝返った彼に父王がくだした最後の命令が、十三年間姿をくらましていた“戦場の死神”を連れ戻すこと、でしたから。彩軌はその時に自然と神刃兄上の存在を知り、王家を廻る問題の渦中に巻き込まれたんです。だから彼は兄上のことを今でもとても気にかけている」
 朱莉たちの知らぬ辰の経歴の空白の謎は、こんなところにあった。朱莉が彼を王都で見かけなかった数年間、彼は情報屋の辰ではなく花栄国から朱櫻国に寝返った間諜・彩軌として、火陵と神刃の姿を求め、国中、あるいは隣国までも探し歩いていたらしい。
「ともあれ、これで後宮の怪異を無事に解決することができました」
 本来部外者である二人に語れるだけ語ったところで、蒼司はまとめの言葉に入った。
「最初にあんな断り方をしたのに、結局あなた方のお力を借りることになって申し訳ありませんでした。助けてくださったこと、とても感謝しております」
 静かに語るあどけない顔立ちの奥、緋色の瞳に歳に不似合いな翳りが落ちる。
「ここからは、私たち王家の……私と兄の問題です」
 蒼司の瞳は、目の前の朱莉と蝶々に向けられているようでいて、実際にはここではないどこかを見つめているようだった。
「本当にありがとうございました。今回のことで、我が国の退魔師と協会が頼りになることもわかりましたし、また何かあったらぜひお願いします」
 それでも最後は国王として拙いながらも丁寧な言葉と誠実な笑顔を二人に向け、王宮からの依頼は、これで完全に終結した。

 ◆◆◆◆◆

 とはいえ、神刃はまだ螺珠を狙っているようだし、この先蒼司があの王宮でひとりきりで孤独な玉座を温め続けねばならないと考えると、なんだかやりきれないものがある。確かに後宮に出現する桜魔は退治されたが、果たしてこれで終わり、めでたしめでたしとしてしまって良いものだろうか。
「なんだか」
「なんだかねぇ……」
 朱莉は蝶々と顔を見合わせる。お互いにどこかすっきりしない顔をしていて、同じ想いでいることがわかる。
 けれど、蒼司自身がこれからは国王である彼とその兄の問題だと言い切って線引きをしたのだ。ただの一般人である蝶々と、ただの貴族の娘である朱莉に、これ以上嘴を突っ込む権利などない。
「あー、朱莉。あんたこれからどうする? あたしはとりあえず協会にでも寄って、ちっちゃい依頼でもこなそっかなって思うんだけど」
「蝶々は常に体を動かしている方が気が紛れるのだものね……。私はいいわ。それより」
「あの螺珠って桜魔と話したいんでしょ?」
「……なんでわかったの」
「見ればわかるって」
 朱莉にとっては答にならないような答を口にし、蝶々は軽く手を振るとさっさと退魔師協会に向かって歩き出す。往来に一人残された朱莉は、仕方なく一人で歩き出した。
 いつもなら一人になりたくない時は、紅雅を影から呼び出す。彼の見た目は完全に人型だから、その妖気に気づかれさえしなければ外を歩いていても問題ない。妖気に気づくのは同業者である退魔師くらいのもので、しかも王都の正規退魔師とはほとんど顔見知りなものだから、朱莉はいつも遠慮なく桜魔である紅雅を連れ歩いていた。
 蝶々にはだから他の退魔師に敬遠されるのだと怒られるが、他のどんな人物よりも昔から自分の配下というよりもはや侍従と言えるほどに面倒を見てくれた紅雅と一緒にいるのが一番落ち着くのだから仕方ない。
 しかし今日は、紅雅を呼び出して歩く気分ではなかった。
 朱莉の足は、自然と筏川へ向かう。最初に会った時も彼の姿を探した時もそこにいたから、今日も同じ場所にいるのではないかと思った。
 けれど目当ての桜魔――螺珠は今日に限って、いつもの橋の傍にいなかった。その代わり千里眼の桜魔に探らせたところによると、筏川は筏川でも、ここより少し上流の川岸にいるらしかった。
 悩んだ挙句、朱莉はそのまま川の岸辺を歩いて上流へ向かった。
 そこに、配下の報告通りすでに見慣れてしまった背中があった。
「螺珠……」
 気配を消したつもりはないが、呟きは届かない。彼は何かに集中している。
 真っ黒な筏川を、一艘の舟が滑るように降りてくる。
 白装束で顔まで隠した男が一人、花筏の群れをかき分けるようにして、静かに櫂を漕いでいた。
 男は、桜魔だった。朱莉はそれに気づき、桜魔である螺珠が、その桜魔に何の用だろうかと不思議に思う。舟に乗っているということは、川の渡し守か何かだろうか。だが螺珠が川の渡し守と知り合いならば、初めて朱莉と会った時に川の向こうに行けないと嘆いたりしないはず。
 川縁の螺珠の姿に気づき、白装束の桜魔は低い声で尋ねた。
「王の定めた罪人は、お前か」
 罪人――?
「私は今日は、お前を運べばいいのか」
「いいや」
 朱莉の見ている前で、螺珠はゆっくりと首を横に振った。彼女に見えるのは螺珠の背中と揺れた浅葱色の髪ばかりで、彼がどんな表情を浮かべているのかはわからない。
「お前の王は、もはやこの世にはいない。お前はもう、罪人を首斬りの丘に運ぶ必要はない」
 筏川の上流は王城に近く、この近くには確か牢獄があった。
 先代国王緋閃の時代には、多くの罪なき民が、彼の不条理な粛清の犠牲となって、斬首の丘送りとなったのだと。
 罪人を処刑場へ届けるためには、舟を使ったという。王城から出発した筏川の舟人は牢獄近くの橋の下で罪人を拾い、処刑場である斬首の丘の麓まで運ぶ。
 渡し守の櫂を持つ手が震えた。
「王が、いない?」
「いない。緋閃王は死んだ」
「では私は、次は誰を運べばいい」
「誰も」
 螺珠はもう一度首を振る。
「もう誰も運ぶ必要はない。だって、お前も、もうすでに死んでいるのだから」
 次の瞬間、渡し守が螺珠に襲い掛かってきた。
 螺珠は短刀を抜いていた。それで渡し守を一閃する。
 白装束の中から桜の花弁が零れ落ちていく。一瞬見えた布の中は、何か黒い闇が凝ったようで、人間のような顔が存在していなかった。人の姿さえ保てないということは、相当小物の桜魔だったのだろう。
 螺珠は桜の花弁と化した血を振り払うと、短刀を懐に収めた。そういえば彼は王宮でも剣ではなく短刀を使っていた。
「いつも短刀で戦うのは、太刀を使うと家族を殺した時を思い返すからなの?」
 朱莉が話しかけると、螺珠が驚いた様子で振り返った。
「朱莉!」
「……こんにちは。螺珠」
 朱莉は渡し守の桜魔が消えた水面に目を落とす。あの渡し守は舟ごと桜の花弁と解けて、黒い川を彩る花筏の一部となった。
「いつもこんな風に、桜魔を殺しているの?」
 出会った時から、退魔師の朱莉と同じくらい桜魔の血の匂いをさせていた螺珠。
 改めてそれが気になった。
 人と桜魔。桜魔と退魔師。その境界線はどこなのだろう。
「ああ」
 螺珠は頷き、川面に視線を落とす。
 蒼が深すぎて、水底が透けて見える筏川。昼間にここに来たことがほとんどないが、この川はこんな色をしていたのか。
「私のせめてもの罪滅ぼし、そして弔いだ。桜魔という存在は、やはり不自然だから」
 あの渡し守は、決まった日に川の近くを歩いている人間にお前は罪人かと問いかけては、その答がどのようなものであれ舟に乗せて殺す桜魔だったのだという。
 渡し守が生前どんな人物だったのか、王と何があったのかは知らない。そこには深い事情があったのかもしれないが、知らないまま螺珠は渡し守を倒すことは選んだ。
 これまでの螺珠は、自身が川を渡ることができなかった。だからあの桜魔も人を襲う存在と知りつつ野放しにするしかなかったが、朱莉のおかげで川を渡れるようになったので、ようやく退治することができたのだという。
「前に話しただろう。私が桜魔――確かあの子どもに言わせれば桜人だったか、になったわけを」
 辰の、そして神刃の口にした桜人の伝説を朱莉は思い返す。桜魔と桜人の違い。それは、桜魔はただの生者の残滓としての記憶しか持っていないが、桜人は自身の魂と記憶をそのまま引き継いでいるということ。
 螺珠はだから、朱莉の魅了の力が効きづらいのだ。彼は桜魔とは呼ばれるが、ほとんど人間に近い。それでも彼と人間との間には、生者とすでに一度死んだ者という越えられない川がある。
「侍女の言葉で私は今の境地に辿り着いたが、そうでなければきっと家族も使用人も皆殺しにし、世界を憎んで生前の自分とは違う健康な人間を襲う桜魔になっていただろう。――人を襲う衝動が薄れたとはいえ、私の存在は、人に害をなす魔物であることに間違いない」
 桜魔とは何なのか。まだ人である朱莉には辿り着けない境地。その答となるかもしれない言葉を螺珠は紡ぐ。
「そして同時に、私自身が桜魔だから思うこともある。……彼らは、桜魔という存在は憐れだ」
「憐れ?」
 螺珠は自らの右手を見て、静かに微笑んだ。先程渡し守の桜魔の命を奪った手。桜魔の血もその死と共に、桜の花弁となって彼の手から剥がれ落ちていった。けれど目には視えぬだけで、螺珠の手は今までに奪った桜魔の血で真っ赤に濡れている。
 同胞殺し。
 桜魔となった螺珠が選んだのはそういう道だった。桜魔に同胞という概念が本当にあるのかは疑わしいが。
 口先でなら何とでも言える。人だって人同士殺し合う。
「そう、憐れだ。感情の欠片が暴走したものを、まるで幽霊のようにその人自身だと思われることが。桜魔が憐れだというよりも、桜魔の元となった人間が憐れだと言うべきか……いや、やはり人々の恐れと憎悪を一身に受ける、かつて人だった感情と記憶を持つだけの空っぽの器たる桜魔そのものが、私にとっては憐れに思える」
「……空っぽの、器」
 朱莉は螺珠の言葉を、鸚鵡返しに呟いた。
「母親が我儘な子どもを持つとする。あまりの怒りに手を上げようとするが、普段は理性でそれを制し、子どもに辛抱強く言葉で言い聞かせる。桜魔とはこの母親が理性をなくして子どもを感情のままに打ち据えてしまうような存在だ」
 螺珠の言いたいことは朱莉にもわかった。退魔師として最初に教えられることだ。桜魔は生前のその人物の魂そのもの、幽霊などではないということ。
 厳密に言えば、桜人である螺珠はただの桜魔と違って彼自身の魂を持っている。けれど感情に引きずられて罪を犯すという性質自体は桜魔と同じものだ。だから彼らの気持ちがわかるというのだろう。
「いくら人型の桜魔でも、生前のその人物と混同するのは酷い話だろう。私のように自ら妖気を取り込んだのであれば別だが、大抵の桜魔は人の感情の一部と記憶が魔力に結びついたものでしかないのに」
 桜魔となっては子どもを打ち据えてしまう母親も、生前はそんなことはしなかった。その理性や良識、何より子どもへの愛情までも含めて、その母親は人間だったのだ。それが失われて本能のままに行動してしまう桜魔は、やはり人間とは違う存在なのだ。
 朱莉は、花梨の言葉を思い出した。
「でも、感情と記憶が残っているなら、それは紛れもなくその人の心の一部だと言った人がいたわ」
「先日の事件で、君に突っかかっていたお嬢様か」
 螺珠も花梨のことは覚えていたようだ。すぐに記憶を引っ張りだしてくる。
「人間から桜魔になった私は、そうは思わない。人には人にしかない心があって、桜魔には桜魔にしかない心がある」
「だったら、肉体(いれもの)が心を決めるの? それならば、桜魔という存在は何? あなたや紅雅、それに私の配下の桜魔たちの存在は、その意味は……」
 人と桜魔が所詮わかりあえない存在でしかないというのならば、神刃のように桜魔は人に害をなすただの魔物だとして、問答無用に全て斬り殺すのが正しいのか?
「私たち桜魔は憎まれて当然の存在、そして消えゆくもの、だ」
「そんなの嘘よ!」
 朱莉の唇から、自分でも予想していなかった言葉が零れ落ちる。こんなに声を荒げるのは、どれだけ久しぶりだろう。
 螺珠は桜魔の心と人の心は別だという。それは彼にも、桜魔としての心があるということ。なのに人に憎まれて当然と笑う彼は、自分自身を否定する。けれど。
「私は、あなたが好きよ。螺珠」
 螺珠が目を見開いて朱莉を見つめた。
「桜魔であるあなたが好きよ。あなただけじゃない。紅雅も、他の子たちも。桜魔としてのあなたたちが好きよ」
 朱莉が興味を引かれ、人として惹かれたのは、かつて罪を犯しそれに気づかされて後悔をしている今の螺珠なのだ。黄昏の岸辺で朱莉に殺されたかったなどと言っていた彼なのだ。病弱だが誰の害にもならなかった、平凡で善良だった頃の人間の螺珠など知らない。
(ああ、そうか)
 これまで胸にわだかまっていた感情がすとんと収まるべきところに収まる。
 何が正しいとか間違っているとか、そんなことはどうでもいいのだ。
 神刃に螺珠を殺させたくないのは、ただ単に、朱莉自身が螺珠のことが好きだから殺させたくないのだ。螺珠に死んで欲しくない。
 ただそれだけで、それこそが全てなのだ。
「あなたが好きよ。例えあなたが桜魔でも」
 螺珠は凍り付いていた。
 しばらくして恐る恐るのように口元に手を当てて息を吐きだす。
「吃驚……した。人生で初めて婦女子に告白されたかと思った」
 こけた。あまりにも脱力感溢れる話運びに、朱莉はこれまでの話を忘れそうになる。
「螺珠……あなたねぇ……」
「それだけ衝撃的だったということだ。まさかあの流れで“好き”なんて言葉が返ってくるとは思わなかったから」
「今、そんな話の流れではなかったでしょう」
「そうだな。たぶん、私が君のことを好きだからそう勘違いしたんだろう」
「え? ――ぇえっ?」
 あまりにもあっさりとした告白に、朱莉もまた妙な声をあげた。
「もっとも、私のこの想いも、世間一般の男女の恋愛感情とはまた別のものかもしれないが」
「そう……なの?」
「よくわからないんだ。自分自身の気持ちが。君に好意を感じている。たぶん今は、人間としての好意を。けれどこれが恋と言われるものなのかどうなのか、わからない」
 ただ、と螺珠は続けた。
「今まで与えられる愛だけを求め続け、その果てに桜魔となって家族までも殺してしまった私が、君にだけは何かをしてあげたいと思う。借りを果たしたはずなのに先日、後宮の戦いに思わず割って入ってしまったように」
「……ただの散歩じゃなかったのね」
「ああ」
 螺珠は苦笑した。朱莉もつられて笑う。
 嬉しいのに、どうしてか悲しい。その悲しみの理由を、彼女はまだ知らない。
「私たち、きっとまだ子どもなのね。恋なんてずっと遠くに感じてる」
 流れに任せて、するりと言葉が滑り落ちた。
「だけど、あなたを守りたい。あなたに死んでほしくない。それだけは本当なの。好きよ、螺珠」
 初めての想い、初めての悲しみ。まだ恋という形すら得ていない未熟な気持ち。
 螺珠を守りたい。それが今の朱莉の全てだった。何を捨てても、全てを捨てても、この人を守ってあげたい。
「私もだ。無為に死にたくはない。まだこうして君と、言葉を交わしたり、日常を送ったり……君と生きていたい」
 桜魔は人ではないし、死者の念を引きずっている。けれど、生きているのだ。
 だからまだ、終わらせないで、この日々を。
 泣きそうになって、朱莉は顔を覆った。背後に歩み寄ってくる気配を感じている。螺珠がその人物に向けて言った。
「だから見逃してくれないか」
「断る」
 にべもない答。神刃はきつい眼差しで、螺珠を睨んだ。

 ◆◆◆◆◆

「この前の桜魔と、退魔師の一人か」
 朱莉は顔を覆っていた手を外す。背後の神刃を振り返り、螺珠を庇うようにちょうど二人の少年を結ぶ線上に立った。
「……ごきげんよう、王子様」
「……ごきげんよう、お嬢様。ここで会ったのは偶然だが、ちょうどよかったと言っておこうか」
 そして彼は朱莉が止める間もなく剣を抜く。
「死ね――ッ!」
「睡黎!」
 神刃が螺珠に斬りかかるのと同時、朱莉は配下の名を呼んだ。影の中から飛び出してきた漆黒の蛇が、神刃の剣を持つ手首に巻きつく。
「ぐっ!」
「玉蘭、紫歌、万里、慈黄!」
 立て続けに配下の名前を呼び、影の中から召喚する。切り札である紅雅こそ出さないものの、それ以外の中堅の桜魔たちは全て呼び出した。
「いくらなんでも、いきなり斬りかかるのでは通り魔と同じではありませんか? うちの元辻斬りでも、戦いの前には一応名乗りを上げたそうですよ?」
「お前……魅了者か!」
 神刃が弾かれたように顔を上げて朱莉を睨む。睡黎は最近手に入れたばかりの配下だが、朱莉への忠実さは古参の桜魔と同じだ。
「話には聞いていたが、まさか実在したとは」
 どうやら神刃は、朱莉が魅了者だということに相当驚いているらしい。自分の手首を戒める桜魔の存在も忘れて、まじまじと彼女を見つめる。
 そう言えば彼は後宮の事件に「遅刻」してきたために、朱莉が桜魔たちに命令しているところを見てはいないのだ。あの時は紅雅も気絶していて、すぐに影の中に戻してしまったから姿を見られていないはずだ。
「自分が桜魔を支配できる人種だからといって、桜魔に同情か」
 侮蔑の言葉に、朱莉は静かに眉根を上げる。一方の神刃も、朱莉をきつく睨み付けた。
「……螺珠、逃げて」
「朱莉、だが」
「いいから、今日は逃げて」
 神刃が退魔師を名乗る以上、例え魅了者であっても完全な人間である朱莉を殺すことはないだろう。どうやら退魔師という職業観に違いがあるようだが、それだけはお互いに守ると信じたい。
 朱莉の言葉に、螺珠は渋々ながらも影渡りで姿を消した。渋々であっても一度動き出せば行動は早い。影の中に潜まれては、影渡りができる桜魔の手引きでもない限り追えない。朱莉は配下の力を使えばそれもできるが、神刃には不可能だろう。
 朱莉は配下の桜魔を両脇に侍らせたまま、神刃と真正面から対峙する。
「君は退魔師ではないのか。邪魔をするなら、何故、退魔師になったんだ?」
「……少なくとも、自分の気に入らない者はすべて殺してしまえなんていう考えからではないわ」
「退魔師のくせに、人を救いたくはないのか」
「救いたいわ。だけど、ここで螺珠を殺すことで人々が救われるなんて私は思わない」
 段々と神刃の形相が険しくなる。彼は問い詰めるような口調で言った。
「退魔師とは、桜魔を殺して人を救う者だろう?」
「それは、あなたの考えよ。あなたは自分を、桜魔を殺す者でしかないと思い込んでいる。そして、桜魔を殺す自分にしか価値がないと思い込んでいる」
 朱莉の返答に、神刃が息を呑んだ。
「確かに私は退魔師よ。桜魔を殺すこともできる。だけど、それだけが私じゃない。私は私のやり方で人を救う」
 殺すことが全てじゃない。
 本当は指一本触れることなく殺すこともできるけれど。
 ――あなたはね、桜魔を殺すだけの人ではないんですよ。
 遠い日の言葉はまだ朱莉を救っている。だから今も彼女は退魔師なのだ。
 神刃が踵を返した。
「神刃様!」
 朱莉は初めてその名を呼んだ。呼び止めたのは、反射的なものだった。彼にはもっと言いたいこともあるし、彼が聞かなければならない言葉もたくさんある気がした。けれど朱莉にもわかっている。それを言うべきは本来彼女ではなく、彼女が言っても神刃の心には響かないだろう。
 その代わりに、朱莉に伝えられそうな真実だけを告げた。
「蒼司様は、……あなたを心配していました」
 振り返る眼差しに炎が瞬いた。神刃は眦を吊り上げて最後にもう一度朱莉を睨み付けると、川の向こうに消えた。