9.魅了
首斬りの丘とは、確か半月程前、螺珠に出会う前に受けた仕事で訪れた場所だった。斬首の丘、通称首斬りの丘と呼ばれる、古くは処刑場だった場所だ。
小高く見晴しがよく、そして適度に街の中心地から遠く人気がない。背後には森が広がっている。そんな場所に紅雅はやってくると、肩の上にかついでいた朱莉を柔らかな草の上に放り出した。
「きゃっ!」
痛みはほとんどなかったが、それでも朱莉は驚いて小さな悲鳴を上げる。
「紅雅!」
これまで誰よりも信頼していた男の顔を責めるように見上げたが、紅雅は冷たい表情を崩してはいなかった。
「紅雅……本当に」
「ええ、今の私はあなたの支配から抜け出しています」
朱莉はぐっと強く睨んだ。次の瞬間、彼女が投げ出された地面の脇に鋭い刀の切っ先が突き刺さる。
「こ……」
紅雅の刀に切られた草が、ぱらぱらと舞う。朱莉の首筋から、赤い血が一筋滑り落ちた。
「もう一度私を支配しようとしても無駄ですよ。癪なことですが、あの男のおかげでしょうね。今の私は、力に満ち溢れている。肉体も精神も、生半な相手に屈したりはしません」
紅雅はちらりと、朱莉の首筋についた傷に目をやる。
「ああ、綺麗な肌に傷がついてしまった」
彼は朱莉の背を抱き、首筋に顔を埋めるようにしてその血を舐めた。
「え? 紅、雅……? いやっ!」
人の男のものと変わらないざらついた生暖かい舌の這う感触に、朱莉はたまらず彼を突き飛ばす。
「な、なんでこんなこと……あなたは、私を憎んでいるんじゃないの? 私の声は耳障りだって」
「ええ。耳障りですよ。あなたを憎んでいるのも事実。けれど私がどれほどあなたを憎んでいようと、人型に近い私の目から見ても、あなたがとても美しい少女であることに変わりはないのですよ」
その涼やかな瞳の奥のぎらついた欲望に、朱莉はぞっとする。それはこれまで、朱莉に配下として従っていた時の紅雅は見せたことのない感情だった。
朱莉は初めて、紅雅のことを怖いと思った。
「美しいものを壊すのは本意ではありませんが、あなたを引き裂き、悲鳴を上げさせて得られる恍惚はさぞや甘美なのでしょうね」
紅雅が久方ぶりに、残酷な桜魔らしく嫣然と笑う。
その表情を前に、朱莉は初めて彼と出会った時のことを思い返す。
紅雅は剣の道を志した青年の執着から生まれた桜魔らしい。より強い相手を求めて辻斬りを続けていた彼を、朱莉は辰の手助けによって服従させることに成功した。
紅雅が求めるのは、あくまでも強い相手との戦い。彼は憎悪や復讐の念で動く桜魔たちとは違い、殺す相手を嬲るようなことはしていなかった。そもそも人間を殺す気もほとんどなく、彼曰く“ぎりぎりの戦い”の中で敗れ去った相手が命を落とすことになったらしい。
辰が何人かの桜魔を朱莉に示した中で、朱莉は幼心に他の桜魔たちと紅雅の歪みの違いを感じ取り、彼を配下とした。辰の助言があったとはいえ、朱莉の霊力に最終的には屈した紅雅は、彼女に忠誠を誓った。
朱莉が紅雅を支配したのは、彼がちょうど歪みかける直前。初めは戦うことだけが目的であった紅雅が、重ねた殺人の快楽に溺れ人殺しだけを目的とし始めた頃。
辰が言っていた。恐らくあの時でなければ、もう紅雅を配下とすることは叶わなかっただろうと。
恐らく世界中を探しても稀有な能力である魅了者。退魔師として生きるためには、抱える桜魔の性質は、よく考えなければならない。
本当に人殺しが好きで好きで仕方なく、人間を見れば見境なく襲ってしまうような桜魔はいくら強くても退魔師の配下にはできない。そして人としての姿を保てるほどの桜魔は、人界で強い恨みを抱いて死んだ情念を核としている可能性が高く、基本的に好戦的だ。
普段退魔師が退治するのは、桜の樹の魔力と瘴気に、戦時中に発生した負の感情が結びついて生まれるような、人の姿もとれない原始的な本能に支配された桜魔だ。朱莉が主に配下として捕獲するのもそれ。紅雅は朱莉の配下で、唯一の完全な人型の桜魔だった。
今の紅雅は、あの時と同じ歪みかけた状態だ。ここで紅雅がその望み通り朱莉を引き裂いたならば、彼は今度こそ間違いなく殺人の快楽に堕ちることだろう。目的もなく人を殺し、神刃が言うような、ただの化け物に成り下がってしまう。
目的があれば人を殺していいというわけではない。だが理性を保ち目的に専念する心さえあれば、その殺戮衝動もまた抑えることができる。
逆に言えば。
紅雅を止めるには今しかないのだ。
「私が、やらなくちゃ。私が……!」
「朱莉様?」
朱莉は咄嗟に簪を引き抜き、その鋭い切っ先で紅雅を突き刺す素振りを見せた。
簪ごときに怯えたわけではないだろうが、紅雅は自分に向けられた凶器の姿に、反射的に朱莉から距離をとる。そこで朱莉は改めて懐から短刀と霊符を取り出し、構えた。
「……一応お尋ねしましょうか。何のつもりですか? 朱莉様」
捕食者に食われる草食動物のあえかな抵抗を見おろすように、紅雅は慈悲深ささえ感じる眼差しで朱莉を見つめた。その紅雅に、朱莉は意を決して告げる。
「紅雅、私が……あなたをとめてみせる」
朱莉は昔からこの力を疎んじてきた。
懐いてくる小物の桜魔たちは可愛い。けれど桜魔を引き寄せれば引き寄せるだけ、同じ退魔師からは忌み嫌われていく。
力が発動したのが、両親の死の直後というのも嫌だった。まるで自分だけが助かりたくてこの力に目覚めたみたいだ。
いつしか何が善か悪か、何が敵か味方もわからなくなり、螺珠のような相手を知り、花梨の言葉を聞き、価値観が揺らいでいった。自分のすべきことがわからず、神刃一人の意志すら変えられないことが歯がゆく、己の無力感に絶望した。
けれど。それでも。
「私は、退魔師なのだから――!!」
救いたい人のすべてを救うと、私自身で決めたのだから。
「退魔師だから? あなたがそれを言うのですか。朱莉様。螺珠というあの桜人の男を愛しているあなたが?」
「ええ。私は螺珠のことが好きよ。そして」
朱莉はいつも自らの傍らにあった青年の顔を見上げる。
「あなたのことも、大好きよ。紅雅」
紅雅が一瞬、動きを止めた。
朱莉が螺珠に向ける気持ちと、紅雅に向ける気持ちはもちろん違う。けれど二人とも、朱莉にとって大切な存在であることは間違いない。例え先程の触れ方から、紅雅が自分に向ける欲望の形を知ったとしても、それだけで簡単に嫌いになれるほど浅い付き合いではないのだ。
「だからこそ、私はあなたをとめなくちゃならないのよ!」
睨み付ける朱莉の燃えるような橙色の瞳を見つめ、紅雅は薄く笑みを佩いた。
それはこれまでの、籠の中で泣き叫ぶ小鳥を憐れむように見ていた眼差しとは違う。相手が自分にとって好敵手であることを認めた時にだけ剣士が浮かべる笑み。
「なるほど、それがあなたの覚悟というわけですか。これまで仕えてきた主がただの腑抜けではないということは、臣下だった身としては喜ばしいことですよ」
涼やかな双眸がスッと細まる。
「殺し合いましょう、朱莉様」
「違うわ。紅雅、あなたはもう一度、私に敗北し、服従するの」
仕掛けたのは、朱莉が先だった。
小袖の袂をはためかせると共に、無数の霊符を紅雅へとぶつける。
霊符一枚一枚の爆発は小さい。紅雅は難なく避けるか、もしく爆発前の霊符を太刀で切り裂いていく。しかし、その時一際大きな爆発が起き、霊符を斬ったばかりの紅雅の身体を吹き飛ばした。
「威力の違う札を紛れ込ませていたのですか」
吹き飛ぶと言っても、紅雅は彼に体当たられた神刃のように地面に顔を擦るような真似はしなかった。咄嗟に体勢を低くし、草むらの上を足と膝とをついて滑る。
辛くも体勢を整えた紅雅に、朱莉はもう一度霊符を放つ。死なない程度に胸を射抜くはずだったその光の矢は、紅雅の剣で呆気なく断ち切られた。
「くっ!」
しかも、紅雅はその反動を利用して一気に間合いを詰め、朱莉へと斬りかかってくる。
「今度は私の番だ」
猛然とした剣さばきを、朱莉は短刀で受け止めていた。剣術の腕がない分霊力を多く回し、多少狙いが外れても刃が体に届かないようにする。
だが、その分短刀を振るう右腕以外の場所は防御がおろそかになっていた。紅雅がその隙を狙って、彼女の脇腹を蹴りあげる。
まるで人形のように軽く、朱莉の身体は丘の草の上を滑った。
「かはっ! けほっ!」
咄嗟に霊力で防御したとはいえ、直前の攻撃の分相殺率は低くなっている。成人男性の力で容赦なく蹴られた少女の身体は、その威力が半減していても強烈な負荷をかけられた状態だ。ただでさえ神刃と同じく紅雅に霊力を分けてしまっていた朱莉では、霊力だけでその攻撃の負荷を受け止めるのはきつい。
頭がぐらぐらと回り、吐き気がして息が止まる。それでも退魔師として霊力で防御する修練を積んでいなかったら、この程度ではすまなかっただろう。
「ぐっ……」
「少し卑怯な気もしますが。最後に勝てばそれでいいのですよ。さぁ、愛しくて憎い私の朱莉様……今、楽にしてさしあげます」
勝利を確信した紅雅が悠然と歩み寄ってくる。呼吸を整えながら、まだ諦めの色など灯さない朱莉は、小さく呟いていた。
「……そうね、最後に勝てば、それでいいのよね」
蹴られた際に短刀は朱莉の手を離れていた。でも武器がないわけではなかった。
「なにっ……!」
近づいてきた紅雅の手が触れる瞬間、朱莉は懐に隠し持っていたもう一本の簪を、紅雅の腹に全力を込めて突き刺していた。
◆◆◆◆◆
これは、賭けだった。
紅雅があそこまで朱莉に近寄らず、刀の届く範囲から容赦なく攻撃を仕掛けてきていたら、朱莉に反撃の余地など残されていないはずだった。
けれど彼は、わざわざ自らの手で朱莉を縊り殺そうとでもいうように、簪の針の届く限界まで近づいてきた。
結局彼は、これでも朱莉を侮っていたのだろう。だがその油断こそが、朱莉にとっては勝機となる。
自分が弱いことなどとっくにわかっている。だからどんな卑怯な手段でも使って、最後には勝つのだ。
簪の針がこじ開けた小さな傷口から、朱莉は退魔師協会でも非常識だと太鼓判を押されたほど強大な霊力を、ありったけ叩き込む。
薬を傷口から染み込ませるように、霊力も身体に与えた傷からの方がよく染み込む。先程螺珠が行ったのはあえて元の持ち主の波形を消して純粋な力に変えた霊力を注ぎ込むことだったが、今の朱莉の行動は逆だ。
一度彼女の支配から逃れた紅雅の肉体にもう一度支配の印を刻み込むため、自らの霊力を紅雅の肉体の隅々まで行き届かせる。透明な水の色を染めるかのように、己の霊力を容赦なく流し込んだ。
「禍々しき花に魅入られた哀れなる魂の残滓よ、現世に痛みを遺した仮初の生命よ。もう一度、私に……服従しなさい!」
紅雅が頭を抱えて苦しみ始める。けれど朱莉は支配をやめない。
「お願いだから、もう一度だけ、どうか、私と行く道を信じて! ……紅雅!!」
「うわぁああああ!!」
万感の想いでその名を呼ぶと共に、玻璃が砕け散るような音が響いた。それは現実の音ではなく、霊力を持つ者にだけ聞こえる、術式に伴う音。
まるで世界の壊れる音のようだと朱莉は思った。紅雅がそのまま彼女の眼前に倒れ込む。
「朱莉!」
背後から名を呼ばれて、朱莉は振り返った。
「螺珠?!」
「よかった、無事だったんだな。紅雅はどうし――」
螺珠の言葉が不自然に途切れる。
彼の方を振り返った朱莉の身体を、それまで頭を抱えて蹲っていた紅雅が背中から抱きすくめたからだった。緊張に身を強張らせる朱莉の首筋に顔を乗せ、紅雅は小さく囁いた。
「だからあなたは、嫌なんだ」
言葉とは裏腹に、紅雅が朱莉を抱きしめる腕の力は熱く強い。
桜魔の存在は炎に例えられることがある。確かに生きてはいるのだが、石や木のように手で触れられるような存在ではない。けれど桜魔である彼の体に、こんなにも暖かな温度があることが不思議に感じられる。
「私は強さを追い求めるあまりに成仏できなかった男の念を取り込んだ桜魔。生前は人界の柵に翻弄されたが、桜魔になって、ようやく何の良心の呵責もなく人を斬れるようになったと思ったのに」
潰れそうなほどに強く抱きしめられているのに、髪に触れる手つきは壊れ物を扱うように優しい。
「朱莉様、あなたはいつだって簡単に、私をあの頃に引き戻す。捨てたはずの人の心を思い出させる」
するりと手が離れ、朱莉は背後の紅雅を振り返った。改めて正面から向き合った彼女の手を紅雅が恭しくおしいだいた。
「……あなたには、敵いませんよ。今も昔も」
「……紅雅」
「もしも愚かなる私をお許し下さるなら、今一度、真実主従の契りを」
口付が朱莉の手の甲に落とされる。
そうして、彼らの戦いはようやく終わったのだった。