10.散花
「……意気込んできたはずだったんだが、一人で片づけてしまったのか? 朱莉」
「ええ。螺珠! 私初めて自分一人の力で、紅雅に勝てたのよ!」
「……ああ、うん、その、おめでとう」
歓びに水を差すのも難なので、他に言葉を返しようもない螺珠はそう言うしかなかった。朱莉は螺珠のそんな複雑な男心には気づかず、再び紅雅が自分の元へ戻ってきてくれたことと、自分だけの力で彼に勝てたことを喜んでいる。
「ところで螺珠、その、神刃様は大丈夫そうだった? 紅雅に吹き飛ばされた時、怪我をしていたようだけど」
「ああ。肋骨を何本かやったみたいだが、命に別状はないようだ。応急手当だけして、退魔師協会に行くと言っていた」
「協会に? 何故」
「……まさか君が一人でその紅雅とやらを倒してしまうとは思わなかったものだから。私が一人で助けに行っても、返り討ちにされて死んだら、そもそもこの事実を知る者自体いなくなってしまうだろう。だからこのことを、せめて協会に知らせてくれようとしたらしい」
そんなことを話しているうちに、首斬りの丘の麓の方が騒がしくなってきた。ほとんど見覚えのある顔が、集団でこちらへやってくる。
「おい、生きてるか!」
「朱莉、無事なの?!」
「神刃様、蝶々」
駆けつけてきた者の中には神刃だけでなく、蝶々と辰がいた。神刃が他に連れてきたのは、王都の退魔師協会に登録している退魔師たちだ。彼らは朱莉たちが無事だと見ると、少し距離をとって立ち止まった。
「は? 結局一人で倒した……? そりゃまた、なんと言ったらいいか」
螺珠が駆け付けた時にはすでに朱莉が自力で紅雅を倒した後だったと聞いて、一行は脱力した。
「朱莉、あんた自分がどれだけ助け甲斐のないお姫様かわかってる?」
「え?」
蝶々に問われて、朱莉はきょとんとした。年上の相棒は意味深な溜息をつくと、それはともかく、と話題を変えた。
「朱莉、あんた王都の霊的閉鎖と、桜魔の殲滅計画については聞いた?」
「……ええ。国王陛下が号令をかけると」
「そ。それでできればこいつに伝えてほしいって、あたし蒼司王から頼まれてきたんだけど」
こいつ、と蝶々は薙刀の先で螺珠を指示した。螺珠自身は目を丸くして、朱莉と蝶々の顔を見比べる。
そう、元はと言えば、朱莉はそれを伝えるために螺珠を探していたのだった。
朱莉の立場としては螺珠を王都から追放するような話は喜べないが、朱櫻国王が国を挙げてこれまで以上に桜魔への被害に気を配り対策するというのは、その被害に苦しめられている市井の人々にとってはとてもありがたいことだ。
「でも、そうしたら、螺珠は……」
「そうだな。私はもう、この街にはいられないな」
蒼司を責める素振りの欠片もなく、淡々という螺珠。
蝶々が指を二本立てながら、選択を迫る。
「蒼司王の案に関して、螺珠とやら、あんたがとれる道は二つあるわ。一つは王都をこのまま出て行くこと。そしてこの先も人間に危害を加えないこと。二つ目は、王都に住む代わりに、朱莉の配下となって人に害を与える桜魔と戦うこと」
「……」
名前を出されて、朱莉は沈黙する。
「そのどちらも拒むなら、三つ目――ここであたしたちに殺される道を選ぶかい?」
「蝶々!」
「朱莉、これはあんたにとっての問題でもあるんだよ。あんたは自分が退魔師として、これから桜魔とどう付き合っていくのさ」
蝶々の問いに、朱莉はぐっと押し黙った。反論ができない。いつまでもこのままでいいなんて、朱莉自身思ってはいない。
けれど、けれど。
「……決めました。私は王都を出て、この国ではないどこか別の場所で暮らします」
「螺珠!」
「そんな顔をしないでくれ、朱莉。別にこれは辛い決断ではないよ。昔は王都どころか、自室から家の外に出るのさえ精一杯だった私が、今度は自分の足でこの世界中を見に行くことができるんだから」
その言葉に込められた彼の決意を感じ、朱莉は何も言えなくなる。
「ただ、君ともう会えなくなる。それだけが寂しい」
「螺珠」
「もう少しだけ傍にいれば、私が君に抱いている感情も、その理由も、何かが掴めそうな気がするんだけど」
「それでも、行ってしまうのね」
「ああ」
「……わかった」
螺珠と朱莉は静かに見つめ合った。
そこに神刃が口を挟む。
「――お前は、彼女の使い魔になる気はないのか? 使い魔として、人間に与する桜魔になる気は?」
神刃の真摯な問いかけに、螺珠はそれでも首を横に振る。
「いいや。断る。私は私だ。一度死んで桜人として生まれ変わって、ようやく自分自身になれた気がする。朱莉に協力したのだって、自分が朱莉を主君として仰ぐためではない。彼女に人としての好意を寄せていたからだ。私は、初めて自分の意志で、誰かに何かをしてあげたいと思った」
それには、朱莉と紅雅のような主従関係では駄目なのだと螺珠は言う。
形式的な絆の中で本物の愛情を育んでいくのではなく、億千万の可能性を含む自由の中で、たった一つを選ぶことに意味があるのだと。
「螺珠……」
朱莉は胸の前で祈るように手を組んだ。
螺珠が今口にしているのは、とても重要なこと。そして朱莉自身が、ようやく気付いたことでもあった。朱莉と螺珠は、お互いがお互いの存在を鍵として、誰かに何かをしてやりたくなる気持ちというものを知った。
ただ無条件に愛されたいとだけ願っていた子どもが、ようやく人に与えること――人を愛することを知った。
「朱莉」
螺珠は自分に道を指示した少女を振り返った。
「私の想いはまだまだ未熟だ。でもいつか、たぶん、私は君を好きになると思う」
「……ええ。私も」
「その時になったら、また、必ず君に会いにいく」
今はまだ自分を見つめ直すだけで精一杯のこの想い。けれどいつか、いつかは。
そんな未来が来ると、この時信じていた。
「だからすまない。私は一介の桜魔として、使い魔にされるわけにはいかない」
「そうか」
螺珠の返答に、神刃は短く相槌を打つ。
首斬り丘に吹く風が、紫紺の髪を揺らす。そこから覗いた面差しの冷たさに、不意に朱莉は得体のしれない胸騒ぎを覚えた。
「神刃様……?」
少年は小さく吐息する。
「残念だよ、螺珠」
神刃が右手を挙げたと同時、空を切る矢の音が世界を引き裂いた。
「え……」
螺珠の胸に刺さった一本の破魔矢。
「螺珠?」
不思議そうに丸く見開かれた紫の眼。
「螺珠!」
彼の体が地に伏す音で、朱莉はようやくこれが紛いもない現実なのだと実感した。
「螺珠、螺珠! しっかりして! ……神刃様、どうして!」
朱莉は螺珠の半身を抱き起した。だが、螺珠の傷を治す手立てはない。それどころか、直に触れたことで彼の肌がどんどん冷たくなっていくのがわかる。
桜人も桜魔と同じく、その流れた血は桜の花弁へと変わる。けれど肌を滑る真紅はあまりにも鮮やかで、花弁へと変わる前に螺珠の命の欠片と共に大地へと染み込んでいく。
螺珠が口からまた鮮やかな命の色を吐きだす。やつれた瞳が、感情を抑えた凪のような瞳の神刃を見上げる。
「神、刃……」
矢を射たのは、神刃が退魔師協会から連れてきた退魔師の一人だった。神刃の挙動には気を配っていた朱莉たちも、さすがに彼らの方までは気を付けていなかった。
「朱櫻国王蒼司が決めたんだ。この国の総力をあげて、大陸から桜魔を消し去ることを」
神刃の表情は変わらない。
「そのために、まずこの王都の退魔師たちを団結させる必要があるのだと。人々が桜魔の被害に遭う前に、消し去るのが退魔師の役目だ」
朱莉は唇を戦慄かせた。目が眩むような怒りと絶望で、咄嗟に言葉が上手く出てこない。
「だからって、だからって、こんなの……!」
震える朱莉の手を、包み込む感触が引き留めた。死相の浮いた顔で、螺珠が自分を抱きかかえる彼女を見上げている。神刃への怒りよりも強い感情が、朱莉を螺珠に向き合わせた。
「螺珠! お願い、死なないで……」
死なないでと願う。心から祈る。だけどその祈りは、どうしても届かない。
朱莉にだってわかっている。紅雅が攻撃されて取り乱した時とはまた違う。螺珠の胸を貫いた矢は、確実に彼の心臓を射抜いていた。
破魔矢の一撃は急所狙い。大きな傷ではなくとも、確実に命を奪う。
螺珠は桜人だ。その肉体は紅雅より更に人に近い。だから命の核も、間違いなく心臓と同じ場所にある。
朱莉は残ったなけなしの霊力を注ぎ込むが、傷口が塞がる兆候はまったく表れない。もともと先程の戦闘で力を使い果たしてしまったのだ。他者に与えられる力そのものが不足しているのに、その上螺珠の身体には朱莉の霊力がうまく馴染んでくれなかった。彼が、桜魔ではなく桜人だからなのか。
流れる血の多さよりも確実な、この手を滑り落ちる命の感触。どんなに手を広げても、零れる水のようなそれを掬いあげることはできない。
最期の瞬間、目元を和ませて螺珠は言った。
「君に会えて良かった、朱莉。生まれ変わったら、きっとまた、君と……」
そして彼の姿は、朱莉の腕の中から消えた。
さぁっと舞いあがり風に乗って散るのは、無数の淡い桜の花弁。
桜魔も桜人も、その死体すらこの地上に遺してはくれない。本当に一瞬で、それらは彼らを生み出した花へと還ってしまう。
「螺珠……」
あまりにも幻想的で美しいその光景を、朱莉は瞬きもせずに見ていた。限界まで開ききった橙色の瞳に、花弁の蝶の乱舞がよぎる。
「あ、あぁ、螺珠、……ぁあああああああ!」
天を仰いで叫ぶ少女の姿を、彼女と同じ色彩を持つ少年が見ている。
次の瞬間、朱莉は神刃に飛び掛かった。
螺珠を失った悲しみから、それを引き起こした神刃への怒りに感情が切り替わったのだ。不意打ちの上、獣じみた動作で飛び掛かった朱莉の行動を予測しきれず、神刃はそのまま地面に押し倒された。
手当てをしたとはいえ、肋骨を折っているという神刃だ。その体勢が辛くないはずはない。
退魔師たちが再び矢を構えるのが見えた。神刃の制止の仕草も虚しく放たれた矢を、朱莉の影から飛び出した紅雅がその手に受け止める。
場は再び張り詰めた。朱莉は神刃を睨みながら見下ろし、神刃は朱莉の長い髪の隙間から、白い月を見上げる。
「何故! どうして、あの人を殺したの!? どうして!」
もう少しで分かり合えるはずではなかったのか。螺珠と共に朱莉を紅雅から助けるためにやってきた神刃。この少年の主張は朱莉のものとはいつも大分違ったけれど、それでもその心の奥にある平和を、人々の幸福を望む心は本物だと思っていたのに。
「あなたにとって、桜魔はそんなに目障りな生き物なの? 紅雅が私を裏切ったから、やっぱり本当は桜魔と人は分かり合えないのだと諦めてしまったの?」
「君が、人として歩むべき道を踏み外しかけていたからだ」
神刃の言葉に朱莉は動きを止める。
「あいつがどんなに優しい性質だと言っても……桜魔に身内を殺された人間は決して納得はしない。同じ人間同士でさえ憎みあうんだ。異種族であり妖である桜魔の存在を、人は、受け入れられない」
ましてや、桜魔は人を襲う。もう死んでしまったはずの人の顔で、記憶で、箍の外れた悪意を突きつける。
だからわかりあえるはずなどないと、神刃は言う。
「これ以上あいつに近づくことは、あいつが人に近づくというよりも、君自身が人の世を離れることだ」
「……それならば、本当にそれしか、道がなかったと言うならば」
朱莉の頬を新たに一筋の涙が伝った。
「ならば私は、人であることをやめるわ」
「朱莉様!」
紅雅が驚いたように振り返る。すかさず放たれた矢を刀で振り払うことは忘れないが、朱莉の言葉に対する動揺は隠せない。
場を収めたのは、それまで沈黙し続けた一人の男だった。
「あー、はいはい。二人とも、そんなに激しないで」
「辰?」
「彩軌」
二つの名前で呼ばれた情報屋は、紅雅の剣先をやんわりと避けると、上下になって睨み合う少年少女に歩み寄った。
「とりあえず朱莉お嬢さん、神刃の上からどいてやってくださいよ。あなたを助けようとして文字通り骨まで折った子にそれはあんまりだ」
辰の言葉で少しだけ冷静になり、朱莉はそっと少年の体の上からどいた。他の者の言葉ならともかく、辰の言葉には何故か逆らう気が起きない。神刃が苦労しながらも上体を起こすのを見届けて、辰はようやく口を開いた。
「お嬢さん、螺珠君のことは、残念でしたね」
「残念なんて、そんな言葉で」
「彼が消えてしまったのは現実ですよ。だけどそう嘆かないでください。彼は桜人だ。ただの感情の残滓とよくわからない魔力の塊なんかじゃなく、自分の魂を持ったまま桜人になった。だからきっと、生まれ変わっても彼の魂は朱莉様のことを覚えていますよ」
優しい言葉にこそ打ちのめされて、朱莉はその場に崩れ落ちた。
――生まれ変わったら、きっとまた、君と……。
先程の螺珠の台詞。遺言。半ばで途絶えてしまったこの先に、彼は一体なんと続けるつもりだったのだろう。もう聞けやしない。二度と。
「生まれ変わったら、なんて……その時はもう、私と螺珠じゃ、ないじゃない。ここにいた朱莉と、螺珠じゃあない。そんなの――」
「おや、諦めるんですか? 桜魔である螺珠君こそを好きだと言ったあなたにしては素直なことだ。死が二人を別ったらそれでおしまいなんて、随分と往生際の良いことですね」
「……辰?」
螺珠が桜人だということは、王宮で寧璃と戦った時に神刃が見抜いている。そうでなくともこれに関しては、神刃と同じ知識のある辰があらかじめ知っていたとしてもおかしくない。
けれど朱莉が螺珠を好きだと言った時――筏川の岸辺でその会話をした時、辰はその場にいなかったはずだ。聞いていた可能性があるのはその直後に現れた神刃くらいのものだが、それをわざわざ辰に言うとも思えない。何故彼がそんなことまで知っているのだろう。
「辰……あなたは、何者なの?」
情報屋と名乗るこの青年は、もともと不思議なところのある男だった。初めて彼を見た時には赤い目をしていたはずなのに、次に会った時には帽子の下の目が青くなっていたとか。十年も見た目がまったく変わらないだとか。やたらと桜魔の話に詳しいだとか。
それでも朱莉は、辰のことを人間なのだと信じて疑わなかった。――今日この瞬間までは。
完全に人の姿をした桜魔は、人と見分けることが酷く難しい。それが狂気に囚われず、人として振る舞えるだけの理性が残っていれば尚更。
情報屋としての辰は気配を消すことに長けている。でも、それだけか?
「ただの男ですよ。ただの、ずっと昔から生きている男。今ほど桜魔が大陸に跋扈するようになっていない時代に、自分の生を恨み抜いたあまりに、邪悪な気を取り込んで鬼と化した男」
桜魔という名がそれにつけられる以前より存在した桜人。
はじまりのものであり、彼らの神と呼ばれるもの。
辰がゆっくりと姿を変えていく。鳥打帽を外し、彼は朱い瞳を露わにした。その身に纏う装束までもが、白一色の裃に変わる。手にしていた帽子は、いつの間にか桜の花吹雪を巻き起こしながら、朱色の扇へと変わった。
周囲の人々が驚愕のあまり誰も声を出せない場面で、朱莉の問いかけだけが響く。
「まさか……まさか、辰。あなたこそが、はじまりの桜魔――桜神?」
最古にして最強の桜魔。桜人よりも更に上位種だという、伝説的な存在。
「まぁ、そうとも言えます」
その神は、桜魔に関わる願いだけを叶えるという。
朱莉の胸に、すとんと何かが落ちた。気づいたら彼女は、その願いを口にしていた。
「だったら、私を桜魔に……桜人にして」
「いいですよ。朱莉お嬢さんには何せ十年前に助けられた借りがありますから。もっとも、あなたにその覚悟があるのならの話ですけどね」
「朱莉!」
諌めようとする蝶々の言葉も聞かず、朱莉はただ辰の胸に縋りつく。神刃が何か言いかけて唇を開いたが、結局そこから言葉が零れ落ちることはなかった。
「螺珠を探すの。桜人は人間としての魂をそのまま持っているから、人と同じように生まれ変わるのでしょう? だったら私は、この朱莉の心を持ったまま、生まれ変わるあの人を探すわ」
そのためには、人間のか弱い肉体も寿命も邪魔だった。
「朱莉……」
蝶々が力なく首を横に振った。それでも朱莉は、ここで止まることはできない。ごめんなさい。これまで自分を護り、育ててきてくれたこの王都の全てに感謝と別れを告げる。
「……途方もない旅になりますよ」
「わかっているわ」
「転生したら次の螺珠君は女の子かもしれないし」
「構わないわ。あの人が幸せならそれで」
「生まれ変わったら基本的に前世のことは忘れています」
「なら、もう一度知り合いになればいい」
「いくらお嬢さんの力が螺珠君の力の波形を覚えているとはいえ、輪廻転生はこの大陸だけで起こるわけではない。いつ現世に生まれ変わるとも知れないたった一人を、この世界中を彷徨い歩いて見つけ出せる確率なんて」
「それでも」
朱莉は辰の朱い瞳を見上げる。
「それでも、あの人を探すわ。きっと見つけ出してみせる」
「……わかりましたよ」
桜神――辰は彼女の熱意に負けたように頷いた。
その昔彼が彼女に聞かせたお伽噺のいくつかの結末の一つでは、はじまりの桜魔と呼ばれることになった桜神は、盗賊たちを斬り殺して復讐を終えた後、殺された妻の生まれ変わりの魂を探して様々な国々を旅してまわるのだ。
その旅路に一人連れが増えたところで、物語の大筋は変わらないだろう。
朱莉は先程螺珠が消えた場所に立ち、もはやその残滓すら感じられぬ空間に静かな決意を祈りとして捧ぐ。
「生まれ変わって……」
あなたを愛していた。それは幼い子どもが肉親に向けるような未熟で未成熟な感情だったけれど、傍にいればいつかきっと、共に手を取り合って生きることを選ぶと思えた。
もうそれは叶わない。だからこの道を選ぶ。それがどんなに途方のない道のりでも、あなたへと続くのならばかまわない。
朱莉は歌うように囁いた。放っておけばその音の一つ一つからすら桜魔が生まれだしそうな、強く深いこの想いを。
「また、きっと出会いましょう。そして今度こそ、恋を始めましょう」
囁きは桜の花の花弁となって夜空に溶ける。
命を懸けてなお消えることのない感情。それを糧にし、今宵、また一人桜に魅入られた魔が生まれる。