朱き桜の散り逝く刻 03

epilogue 流転――永い別れ――

 その大陸は、黄金の大陸と呼ばれていた。
 黄金と言っても金が発掘されるわけでもなく、あくまでも照りつける陽光を受けて煌めく、砂漠の砂の金色の輝きを指していうことだ。
 砂漠地域に存在する王国の一つが、広いオアシスを抱いた国ベラルーダ。
 昼間には黄金に輝く砂漠は、この国の夜には一面銀に染まる。
 人々の肌の色は砂漠地域の深度によって違い、より砂漠の中心で生きる民ほど、肌の色が浅黒い。砂漠と緑化地帯の狭間にあるベラルーダでは、緑化地帯の帝国とも交易が発達している。そのため様々な外見を持つ様々な人種が入り乱れていた。
 そしてベラルーダの王都にある酒場の一つで、今宵、東から来た旅の吟遊詩人と踊り子が芸を披露することになっていた。
「おーい、ラジュアネ。お前も行かないか?」
「いいけど、水汲み終わってからな」
 酒場の近くにある宿屋の息子、ラジュアネは吟遊詩人を見に行こうと誘う友人たちに気のない返事をした。
 ラジュアネも東大陸から来たという吟遊詩人には興味がある。だが悪友連中のお目当ては、異国の吟遊詩人というよりも彼の傍にいる綺麗な少女の踊り子の方だ。
「すっげー可愛い子なんだってさ!」
「ああ、そう……」
「なんだよ、反応が薄いな。お前、東の大陸の美女なんて見たことないんだろ? すっげー細くて小さくて、かわいいんだぜ!」
「いや、お前の感想はどうでもいいから……」
 とはいえ、人の訪れが盛んなベラルーダでも、大陸をまたいでやってくる客人は本当に珍しい。好奇心に負け、ラジュアネは吟遊詩人と踊り子を見るために酒場へと赴いた。
 酒場の一階の奥が簡素な舞台となっており、そこに見慣れない楽器を携えた吟遊詩人がいる。彼の歌声に合わせて、酒場の中央、人が並んで輪を作った空間の中央に立った少女が、華麗な蝶のように舞い踊る。
 意外なことに、少女の手は二振りの剣を握っていた。曲刀が主流のこの大陸では珍しい、細くて真っ直ぐな刃の剣だ。少女の踊り子の芸は剣舞だった。
 その美しさにラジュアネが魅入られているうちに、一曲が終わった。少女は礼をして、踊りを終える。
 ――と、次の瞬間、酒場の隅で異変が起こった。
「砂鬼だ!」
「なんてことだ! 逃げろ!」
 それまで何らいつもと変わりのない様子で酒を飲んでいた男の人が、突然皮膚を突き破るようにして内側から化け物に変化したのだ。砂鬼と呼ばれる、最近この地域で沸き起こった、人が魔物に変貌してしまうという現象だ。砂漠から始まったその現象は、いまや黄金の大陸を確実に浸食してきている。かつて緋色の大陸と呼ばれた場所で、桜魔と呼ばれる魔物が脅威を振るったように。
「逃げろ!」
 入り乱れる人込みの中で、小さな子供たちが逃げ遅れるのが目に入った。ラジュアネは彼らに駆け寄り手を引いて走り出そうとする。けれど兄妹の一人が脚を挫いたらしく、すぐには動けない。
 逃げ惑う人々の中で動きの鈍い彼らに気づいた砂鬼が、ラジュアネたちに目をつける。もはや元の男の面影すらないほどに変貌した鬼は、岩さえも砕けそうな拳を彼らに向けて振り上げた。
「ギャァアアアアア!!」
 次の瞬間轟いた恐ろしげな断末魔は、生憎とラジュアネたちのものではなかった。紫紺と朱の軌跡が走ったかと思うと、桜魔が糸を失った操り人形のように崩れ落ちる。
 まだ混乱の冷めやらぬ酒場で、のほほんとした男の声がよく通った。
「やれやれ。ここでもまた砂鬼ですか。それはともかく、相変わらず見事な腕前ですね、朱莉お嬢さん。最近は剣の腕も上がってきましたし。だからと言って、何も別大陸でまで鬼退治なんてしなくて良いと思いますけど」
「いつまでも紅雅に頼りきりではいられないもの。それに、私は桜人になったからといって、退魔師を辞めた覚えはないわ」
 驚いたことに、あの巨大な砂鬼を斬り殺したのは、先程まで壇上で見事な剣舞を披露していた異国の踊り子だった。華奢なその身からは想像もできない強さだ。
 そして退魔師と言う初めて聞いたはずの言葉に、ラジュアネはどこか懐かしさを感じた。
「やれやれ。そんなに強いんじゃ守り甲斐がないと、紅雅君が嘆きますよ。……おや?」
 砂漠地域では滅多にお目にかかれない見事な銀髪の男が、ラジュアネを見つめて首を傾げた。踊り子の剣舞の伴奏を奏でていた異国の吟遊詩人だ。彼の視線の先を追い、踊り子の少女が振り返る。
「あ――」
 小さく呟いたきり、彼女は声を失った。その面立ちに、橙色の瞳に、ラジュアネは先程の不思議な懐かしさよりも激しい、泣きたいほどの愛しさと切なさを感じた。
 炎色の瞳にみるみる涙を浮かべ、彼女は両手の剣を取り落した。駆け出し、彼の胸に飛び込む。
「ようやく会えた……螺珠!」
 聞き覚えのない名。知らない響きの言葉。
 けれど、ラジュアネは胸の内でどくんと鼓動が打つのを感じた。愛おしさが溢れだし、少女の身体を抱きしめる。唇が勝手に言葉を紡ぐ。
「会いたかった――」

 かつて緋色の大陸に、桜魔という魔物が跋扈していた。桜魔を殺す存在を退魔師と言い、その中でも桜魔を服従させ自らの下僕と化すことのできる稀有な能力者を、魅了者と呼んだ。

 けれどそれも今は、吟遊詩人のみが語り継ぐ遥か昔――朱き桜の散り逝く刻の物語である。

 了.