薔薇の闇は深く 01

薔薇の闇は深く(1)

001

 皇暦三〇〇二年。
「ところで、アウグスト=カルデール公爵。 もしお前に、愛して愛してとっても愛してやまないのに、決して自分とは添い遂げない相手がいたとしたらどうする?」
「は? いきなり何の話です、ドラクル様」
「ただの世間話だよ。もっとも、狭すぎる世間かも知れないけどね。それで、どうするんだい?」
「そうですね。……添い遂げない理由にも寄りますが、自分を嫌って逃げようとする相手なら、手足斬りおとして鎖に繋いで未来永劫監禁、というところではないですか?」
「人間ならそれでもいいかもしれないが、普通手足斬りおとしたら相手が死ぬだろう。私たち吸血鬼は、出血に特に弱い種族だ」
「そうなんですよねぇ。そこが問題で。なら薬漬けにして精神破壊。いっそ、相手が二度と自分以外の者を見る事がないように殺すとか」
「なるほど。お前は、自分の欲しい相手に対し遠慮と言うものをまったくしないタイプなんだな。相手の幸せを考えて身を引く、や醜聞を立てられるのが怖くて想いを断ち切る、などという選択肢はないんだ?」
「ああ……そういう考えもありましたか。そんなことを言ったって、無理ですよ殿下。この私が本気で、一人の女性をそうして思いつめるほどに、愛したことがあるように見えます?」
「さっぱり」
「でしょう」
「なら、お前は一体誰が好きなんだ? 女好きのカルデール公爵。お前ほどの家柄と容姿、実力を備えているならこの国の誰とだって婚姻を結べるし、もし相手方に断られたとしても王家の力で後押ししてやるが? 可愛い部下よ」
「あなたとヘンリー」
「そうか。私が好きなのか。ふむ、金貨五枚で抱いてやるし、倍額出すなら抱かせてもやるが?」
「そういう意味じゃありません……っていうか殿下、金貨十枚なんですか? 王国の第一王子が、金貨十枚。せいぜい色街の高級娼婦の値段程度って……そんなお安くていいんですか? そりゃあ、最近の第一王子ドラクル殿下の淫蕩ぶりは有名ですが」
「有名とは言っても、お前が出入りするような世界での有名だろう? ならば問題ない。それに、得だと思わないか? アウグスト。例えば金貨十枚で、寝所を共にした政敵の一人を確実に葬れるのならばさ」
「そういう意味の値段ですかい」
「ああ。それに、そうでなくてもどうせ私の値段などそんなものだ」
「……殿下」
「なぁ、アウグスト。お前は先程私に言ったな。好きな相手が自らの手に入らないのならば、拉致監禁し脅迫し、手足を斬りおとして鎖に繋いででも自らの下に留め置くのだと。貞操帯も麻薬も生温い。欲しいもののためには何だってしてみせる、どんな悪でも行ってみせ、そのために相手が疵物(きずもの)となっても構わないのだとお前は言った」
「……ええ。言いました」
「例えばその相手というのが、自分と相手の親の意志によって結婚を決められ、婚約したはいいが引き離された元婚約者だったとしても」
「前提条件は、その政略結婚の相手を自分が愛した、ということですか。そうですね。ならばなおさら死に物狂いで取り戻しますかね。だって一度は私のものになった相手を、他人の勝手な都合で取り上げられるなんて許せない」
「ああ。そうだ。私も許せない」
「殿下?」
「だから取り戻そうと思うんだ――一度は私に与えられたのに、その後、勝手な都合であっさりと取り上げられた権利を」
「ドラクル様」
「私から取り上げられた最高の伴侶。このローゼンティア王国そのものを」

 ◆◆◆◆◆

 皇暦二九九三年。
 その国は南北二つの大陸のうち北の方の大陸にあり、しかも東端に位置する。深い森林に囲まれていて空はいつも薄暗く、気温は肌寒い。
 特に四季のある国ではないが、時期によって多少の気温の変化はある。周辺諸国が秋という季節を暦の上で確認する頃には、暖炉に火をつけることが必要だ。
 ローゼンティアの中央部に位置し、王族の居住はもちろん政務が行われる場でもある王城の一角に、その部屋はあった。磨きぬかれた黒曜石のような光沢を放つ石で作られたローゼンティア城はこれから冬にかけて、酷く冷え込む。特に石造りの建物は冷気を逃がさず刺すような寒さが足元に溜まるようなので、厚い敷物は欠かせない。廊下にも赤い絨毯が敷かれ、無数に並ぶ部屋の中には直に床に座ることもできるようにと、毛足の長い絨毯が敷かれているのが通常である。その部屋も勿論例外ではなく、むしろ暖炉はそろそろ火を入れられるように召し使いたちが手入れをし、寝台には柔らかな羽毛布団と毛布。壁を飾る絵画をはじめ、並べられた調度はどれも一級品だ。
 まず壁からして漆黒というその部屋は赤い煉瓦の暖炉を備え、通常ならば剥製の一つでも壁にかけられていそうな雰囲気のある部屋だがそんなことはない。その代わりに溢れているのはところどころに薔薇のレリーフを施した調度品の数々で、薔薇の王国と呼ばれるローゼンティアにおいては、全てを薔薇で飾るのが基本だった。
 黒い壁に赤い煉瓦の暖炉、ただでさえ仄暗い部屋に灯す燭台は人間の手の形をしている。《栄光の手》と呼ばれる形のそれは、本来なら人間たちが行う黒魔術に使われる呪具を模している。黒檀で造られた重厚なテーブルの上にはやはり真紅の薔薇が陶器の花瓶に飾られ、艶やかにその存在を主張していた。
 窓の外は、月も見えぬ暗い夜。吸血鬼族は夜行性だ。
 人間たちは眠りへと落ちている真夜中こそが、ローゼンティアの民にとっては真昼の活動時間帯と同じだった。この国の民は皆吸血鬼で、例外はない。旅人が訪れる事はあっても、この国に永住する人間はいない。魔族はできるならば同種族で婚姻を結び、人と血を混ぜてはいけないという伝統がある。
 そんな真夜中、吸血鬼たちにとっては一日の内で最も心地よい時間帯、四人の少年がその部屋に集まっていた。
「さて、そちらの王をもらおうか」
 薔薇の花が活けられたテーブルの上では盤上の遊戯が繰り広げられていた。少年のうちの一人が穏やかに言い放つと、対面に座った相手は貴族めいた装いの上品さに反し、げっと顔を歪ませる。
「ちょっと待ってくれ、ドラクル。あんた強すぎるんだよ。もう少し待ってぇ~」
「別にいいけどね、アンリ。こうして待ったところで、この局面の形勢が変わるとは思えないんだけど?」
「酷いな。俺だって頑張れば一度くらいは勝てるかもしれないじゃないか。兄さん」
 ドラクルと呼ばれた少年は、それを聞いてにっこりと、しかし不敵に微笑んだ。穏やかな表情ながら、できるものならやってみろと言わんばかりの余裕綽々なその顔に、アンリが頬を引きつらせる。
 彼らの背後にそれぞれついたまた別の少年たちが、椅子の背もたれに肘を置くようにして盤上の局面を覗き込みながら、口々好き勝手に言い合った。
「では、私はこのままドラクル殿下が勝つ方に……そうだな、ヘンリー、前に君が欲しがってた本の写しを三十頁ほど」
「本当か? 嘘はなしだぞ、アウグスト」
「誰が嘘など言うもんか。で、君は何を賭けるんだ? ヘンリー」
「じゃあ僕は……って、ちょっと待てよ! なぁ、この局面でお前がドラクル兄上に賭けるってそれズルくないか!? 僕もそっちがいいって!」
「なぁ、弟よ、俺に愛は……?」
 この場にいる四人は、皆良家の子息だ。否、良家などという言葉を使うには些か語弊がある。四人の少年のうち、三人は王族なのだから。ただの良家などこの国の王族を前にしては何の意味もない。
 ドラクルと呼ばれた少年は、四人のうちで最も年長であった。その見た目から測るに、年齢は十六、七。吸血鬼族ローゼンティアの民が持つ特徴を外れない白い肌、白銀の髪、そして血のように紅い瞳。けれど造作は人並み外れて整っていて、動作の全てに嫌味でない気品がある。
 独特の艶を持つ白銀の髪は肩に先が触れるほどの長さで、柔らかに頬を縁取っている。長い睫毛は髪に比べたら銀が強いために、その瞳に淡い影を落としていた。通った鼻梁、緩やかな笑みを刻む優美な口元。何より極上の鳩の血色(ピジョン・ブラッド)の瞳の印象が鮮やかで、この美貌を見て見惚れぬ者はいないと言われるほどだ。
 ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。
ローゼンティアと国の名を冠するとおり、彼はこの国の王子である。正妃の息子であり第一王子であり第一王位継承者。つまりは王太子であり、王族の血統が重視されるローゼンティアにおいてはその身分の高さにおいて敵う者は国王しかいない。
「はい、アンリの番だよ」
 おまけにドラクルは国を継ぐ者としての能力にも申し分なく、彼に何らかの形で勝負を挑もうと、生半の相手など敵にならない。
「えー。本当に容赦ないな。兄上は。可愛い弟に花を持たしてやろうとかないのか?」
「手加減はいらないって、強がったのはどっちかな?」
 アンリ、とドラクルが呼ぶ相手は彼の弟である。第二王子アンリ=ライマ=ローゼンティアはドラクルより一つ年下で、第二王妃の息子だ。そのため兄弟でありながらどちらかと言えば友人という感覚が強く、母親違いの兄弟ではあるが、それにしては仲が良い。
 兄であるドラクルが優しげでぱっと見にはおっとりとした印象を与える美貌なのに比べて、弟のアンリは快活な印象が強い。特段美形と言うわけではないが、はっきりとした目鼻立ちと、はきはきと物を言うところが魅力的だ。髪は短めで、瞳の色は吸血鬼族にしては珍しく、赤と言うより朱色がかっている。
「頑張ってくださいよ、アンリ兄上。でないと僕がアウグストに気に入りの小刀、あげることになるんですから」
 アンリの椅子の背後に、彼の頭の上からテーブルの上の遊戯の様子を覗き込むようにして立っている少年は前の二人に比べると少し幼い。十を少し越えた程度の年頃である彼の名はヘンリー=ライマ=ローゼンティア。ドラクルとアンリの弟であり第三王子。彼もアンリと同じく第二王妃の子どもである。しかし、母親違いのドラクルはもとより、二親同じ兄弟であるアンリともさほど似ていない。
ヘンリーは少し歳の離れた兄たちに比べてまだ子どもと言った印象が強く、これから意志の強い男に育っていくのだろう、利発そうな面差しをしている。
「期待していますからね。ドラクル殿下」
 最後の一人は彼もまたヘンリーと同じ年頃の、まだ子どもらしさの残る少年だった。彼はこの場では唯一王族ではなく、従ってドラクル、アンリ、ヘンリーの、王家の兄弟とは血が繋がっていない。しかし王子が三人も集うこの場に極普通に居合わせている彼のフルネームはアウグスト=ミスティス=カルデールと言い、カルデール公爵家と言えばローゼンティアでも国王にすら影響力があるという名門貴族だ。その、次男ではあるが跡取り息子のアウグストは、歳が近いこともあって第三王子ヘンリーの友人である。王子でこそないが、その年齢にしては貴族らしい上品さを備えた顔立ちをしていた。
 アウグストはヘンリーの友人であると同時に、彼の兄であるドラクルの部下としても重用されている。もう数年も経てば実家のカルデール公爵位を継ぐだろうアウグストは、王国において国王に次ぐ地位にあるドラクル王子の腹心の部下だ。ヘンリー自身も異母とはいえ長兄であるドラクルを尊敬していて、このような顔ぶれで集まる事は少なくない。
「さて、アンリ。他に手があるかな?」
 盤上の遊戯は佳境を迎えていた。とは言ってもそれはすでに予想されていたことで、今になって形勢逆転のドラマが起きたわけではない。順調に、淡々と、阻むものもなくドラクルは駒を進め、弟の陣営を追い詰めていく。
色分けされ升目の描かれた盤の上に駒を置き、交互に自軍の王や騎士や他の駒を動かし相手の王を追い詰める。そのゲームは帝国では主に貴族階級に人気のもので、それはこの吸血鬼の王国においても例外ではない。昔、人間たちの文化から持ち込まれたその遊戯は、小さな盤上で擬似的に戦略を考えるのに適しているとして、特に支配階級でもてはやされているのだ。国や領地を治める立場にいる男性が好むが、女性でもこういったゲームに強い者は大勢いる。
「うわっ、タンマ! ちょっと待って!」
「タンマなし。喜べ、アウグスト。ヘンリーの飾り刀は君のものだ」
「ありがとうございます。殿下」
「ちょっ、頑張ってくださいよ! アンリ兄上!」
「だから――――」
 四人の盛り上がりに水を差すように、その時、部屋の扉を上品だが有無を言わせない規則正しさで叩く音がした。ドラクルの部屋に、そんな風に強気なノックをするものは珍しい。
「ドラクル殿下」
 部屋の主であるドラクルが入室を許可すると、姿を見せたのは彼ではなく、父につく世話役の筆頭侍従だった。第一王子である彼の父とはもちろん、このローゼンティア王国の国王、ブラムス=ローゼンティアのことである。王国で父に次いで身分の高いドラクルに対し、遠慮なく声をかけられる者など彼の上に立つ父の周辺でそれを指示された者ぐらいだろう。ローゼンティアは王家の血統を崇拝する習慣だ。
「何だ?」
「国王陛下がお呼びです」
 決着のつきかけている遊戯は、一時中断とされた。

 *

 薔薇の王国、ローゼンティア王国第一王子、ドラクル=ノスフェル=ローゼンティアはその名と全ての民の期待に違わぬ名君となることがすでに信じられている。
 一つの《帝国》として成立する世界共通の暦である皇暦二九九三年現在で十七歳。すらりと伸びた背に、細身の体。しかしもともと筋肉のつきにくい体質である吸血鬼族にしては日々の弛まぬ鍛錬によって筋肉をつけ、端麗な容姿からは想像もしがたい実力を誇る。剣の扱いにかけては間違いなく王国一であり、その腕前は軍事国家である隣国の人間たちからしても目を瞠るものだという。他国と国交を開くことの少ないローゼンティアだがそれは意図的に鎖国しているわけではなく、魔族である彼らの習慣に隣接する人間たちの国家がとっつきにくさを感じているだけだ。この国にもっとも近い、国境を接する隣国エヴェルシードだけはそういうわけにも行かず、両国の間には適度の交流がある。エヴェルシード自体いまだ強烈な男尊女卑思考を持つ軍事国家であり、帝国成立の起源にも関わる国として他の国々から敬遠されているのも理由の一つにはあるのだろう。
 それはともかくとして、ローゼンティア王子ドラクルの手腕に関しては、人も魔族も関係なく、誰が見てもその才覚を認めるものであった。
 ローゼンティアの吸血鬼は、紙のように白い肌と白銀の髪、それに紅い瞳を持つ。耳の先が少し尖った形をしていて、人間に限りなく近い姿形をしながらその暮らしは人間とは大きく異なる。地上で暮らしながら昼夜逆転の生活を送る魔族たる彼らは総じて美しい容姿をしているが、その美しさは一歩間違えば人間の恐怖を煽るものにもなりうる。
 ドラクルの美しさも、そんな魔的な魅力を兼ね備えたものであった。元々は人を魅了する魔族としての特性を持つ吸血鬼の容姿には、彼らが望まずとも危うい魅力がある。意図的でないとはいえ放っておけば簡単に半鎖国状態になりがちなローゼンティアにおいて、彼は若くして政務をこなし、また外交の名手でもあった。常に堂々と背筋を伸ばして歩く聡明な若き王子の姿に、誰もがその目を奪われずにはおれない。
 そしてドラクルは何も容貌の美麗さと口先だけで国の第一線に立っているわけではなく、その執務能力の全てに関して、肩を並べる者がいないほど有能と言われていた。
 彼の父であるブラムス王も悪い君主ではなく、歴代の王の中では優秀な部類に入る。しかしそれでもドラクルの手腕が秀でている事は周知の事実であり、彼が父王の後を継いで即位すれば、ローゼンティア建国以来の賢王が誕生するだろうと噂されていた。もっとも、建国以来とは言っても寿命が五百年弱もある吸血鬼の国では、千数百年前に建国されたこの国の王はまだブラムス王で三代目なのだが。
 そんな、国の期待を一身に背負って立つドラクルにとっては、最近どうしても気にかかることがあった。
「国王陛下。……ドラクルです。私をお呼びと伺いましたが」
「入れ」
 男兄弟たちと部下と少年らしくゲームに興じていたところを父王に呼び出されたドラクルは、真っ直ぐに国王ブラムスの私室へと向かった。国王の命令に逆らうことなど、この王族の血統が絶対的に重視されるローゼンティアで許されることではない。しかし、漆黒の床に敷かれた赤い絨毯を踏む足が重い。繊細な彫刻を施された重厚な樫の扉の前に立った時、つい、逃出したいような衝動に駆られる。胃の腑に冷たいものを落とすその衝動をなんとか堪えると、彼は意を決して父王の寝室の扉を叩いた。
「おいで。ドラクル」
「……」
 肌の上を蛇が這うように、奇妙に優しい声が部屋の中へと足を踏み入れたドラクルを己の側へと招きよせる。息子であるドラクルの私室とは比べ物にならない広い部屋。そこに飾られた調度は、どれも高価だが幾つかはどこか華美で品に欠ける物も含まれている。
ブラムス王は長椅子ではなく、寝台へと腰掛けていた。命令に従ってその側近くへと歩み寄ったドラクルは、ふいに腕を掴まれて父王の胸の中へと倒れこんだ。
「申し訳ありま――」
「よい。そのままで聞け」
 慌てて身を起こそうとした息子の体を手荒に抱きしめると、王は口元を笑みの形に歪めながら、少年の耳元で囁いた。
「先日のマクダレード侯爵の件、上手く処理をしたようだな」
「……ええ。あの程度ならば、国王陛下のお手を煩わせることもあるまいと、こちらで判断いたしました」
 吸血鬼の体温は基本的に低い。けれど触れられた部分からはじっとりとした嫌な熱が伝わってきて、ドラクルは我知らず身体を震わせる。父王の腕の力は、無礼にならぬようさりげなくの言葉内で外すには静かに強すぎた。
 抱きかかえられた部分以外は、寝台にのりあげて絹の敷布の柔らかさを感じている。それが、たまらなく嫌だった。
「そうか。お前の執政能力には、正直国王である私でさえも頭が下がる」
「そんなことは――」
 ドラクルには気にかかっていることがある。先日から、どうも父王の様子がおかしい。
 ブラムス王はローゼンティアの玉座についてもう三百年ほどにもなる。他国と国交はさほどないがそれは戦争や情勢の不安もないということで、国内では建国以来の絶対王政が浸透し内乱の危険などないために一人の王の治世が長いこの国において、数百年を治めてから妻を娶り子を持つことなど当たり前だ。
三百歳を越したとはいえ、長命な種族である吸血鬼はもともと外見と実年齢が一致しないことが普通であるため、ブラムス王の容貌はまだ人間でいうところの三十過ぎほどである。顔立ちはローゼンティア王族の特徴として、美形揃いの吸血鬼の中でも最上級に属する。立ち姿は威風堂々とし、政務もそつなくこなす。彼の妻となることを望まない女性などこの国にはいないとさえかつては謳われた。
 ブラムス王には三人の妃がいる。一人目は正妃であり、ドラクルの母であるノスフェル家のクローディア。二人目はアンリやヘンリーの母、ライマ家のマチルダ。この二人は上級貴族の令嬢であるが、あからさまな政略結婚であるためにブラムス王との夫婦仲は芳しいものではない。むしろ王が真に愛しているのは、下級貴族からぎりぎり結婚を許される立場として最後に迎えた第三王妃、テトリア家のアグネスである。
 国王の血統が重視されるローゼンティアにおいては、正妃となり、その子が第一王位継承者となることは貴族の女の最重要課題であった。そのため、子どもたち同士の仲はともかく、王妃同士の仲は一口では言い表しがたい程に悪い。特に正妃たる条件としてほとんど差異のない貴族出の第一王妃クローディアと第二王妃マチルダの争いは凄まじいものがある。正妃と第二王妃の待遇は目に見えて違うことがその原因だ。
 そんな王妃たちの犬猿の仲はともかくとして、王国の兄弟姉妹たちは揃って仲が良く、また父王であるブラムスも、妻のことはともかく、彼女たちの産んだ息子と娘にあたる王子王女を父親として溺愛していた。
 先日まで、ドラクルもそう思っていた。父親がその子どもに与えるだろう当然の愛情を、信じていた。
「そこでドラクル、お前に一つ任せたい仕事がある」
「え?」
 ドラクルを抱きしめたまま、ブラムス王はそう言った。低い声には、薄暗い、何か黒い感情が含まれている。あの時と同じだ。先日、吸血鬼にとっては眠りに落ちる時間帯にあたる明け方に寝室に呼び出されたあの時と。窓の外が地獄のように明るかった。今はちゃんと、差し込む光は漆黒の夜のもの。ドラクルの身体が自然と強張り、それに気づいているだろうに知らぬげな微笑を浮かべたブラムス王は続けた。
「ああ。ドラクル王子。お前に、ロゼウスの教育を任せる」
「ロゼウス……ですか? 第四王子の。それはまた、どうして」
「どうしてでもいい。お前に命じる。あの子を為政者として一人前になるまでお前が育てるのだ。ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。武芸も政務も外交も、できる限りをお前の手で仕込め。あの子がどこに出しても恥ずかしくない王子になるようにな」
「は……御意」
 ロゼウスの教育。思いもかけない言葉を聞いて、ドラクルは目を瞬かせた。そのままの顔で多少まだぼんやりとしながらも、頷く。
 ロゼウスとは、第四王子のロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。姓の共通性からも分かるとおり、彼はドラクルと同じく、正妃クローディアの息子、つまりはドラクルと二親血の繋がった実の弟である。年齢差は十歳で、向こうは今年七歳だ。
 その弟であるロゼウスの教育を、自分が? 教師役を行う存在として自分の能力が足りないとはドラクルも思わない。けれど、王子の教育は普通、特に優秀な人材として選ばれた教師が行うものだ。それをわざわざ第一王子である自分に命ずる王の意図が掴めずに、ドラクルは胸中で首を傾げる。実際にはその身を抱きしめる王の手が普段は髪に隠されているうなじにそっと触れているために、首が動かせないのだが。
「わかったな。ドラクル。お前はロゼウスを教育しろ。あの子を、最高の王に育てるつもりで」
「……わかりました」
 ブラムス王の言葉に不穏なものは感じるものの、ドラクルは頷くしかできなかった。
 最高の王。ロゼウスをそうしろ、と。けれど次の国王になる者としては彼の上に、第一王子であるドラクル自身と、第二王子であるアンリがいる。ローゼンティアの王位継承問題のややこしいところとしてこの順番の次に第三王子ヘンリーを抜かしてロゼウスが来るのだが、ドラクルもアンリも王子としての才覚はそれぞれ質こそ違えど充分で、明日の命が知れぬほど病弱だという事情を抱えているわけでもない。むしろそれはまた別の兄弟の方で、第一王子であるドラクル自身は勿論、弟のアンリも理由もなく玉座を諦める理由はない。
 これが、ドラクルとアンリの関係がブラムス王と言語を絶する仲で、ブラムス王がどうしても上の王子二人に玉座を継がせる気がせず、二人を暗殺して第三王位継承者ロゼウスを次代国王にしたいと言うのなら話は別だ。
 だがしかし、それならばわざわざドラクルにロゼウスの教育を任せる理由がない。むしろ、これから王位継承権を剥奪する相手に次代国王の教育を任せるなど矛盾と滑稽もいいところだ。一体ブラムス王は何が目的なのか。
 残念ながらドラクルの手持ちのカードからでは、その目的を今の時点で推測することはできない。王の奇行と呼んでも構わないその命令に、異を唱えることもないが疑問は抱く。一体どうして。
 黙りこみ思考していた時間はほんの数秒のことだった。けれどその瞬きのような間に、ブラムス王は息子を抱きしめる腕に力をこめる。
「陛下」
 王の腰掛けた寝台の軋む音がする。優しげな面差しのわりに力強い父親の腕に抱きしめられる多少の息苦しさと、この後どういった事態になるかという不安を感じて思わずそう呼びかけたドラクルの耳元に、再び低く、熱の込められた囁きが落とされた。
「頼むぞ、ドラクル」
 広い部屋にその声は、見えない壁に反響しているかのように深く聞こえた。
後はもう何も言えず、向こうから何か言われることもなく、危惧に反して何も起こらずにドラクルは王の御前から解放された。
 
 *

 部屋に戻ると、アンリがテーブルの上に撃沈していた。
「お帰りなさい、お兄様」
 可憐な声がドラクルを迎えた。先程まで男しかいなかった空間にそんな可憐な声の持ち主はいない。彼らの中の誰かがそんな声を出していたとしたら気持ち悪いことこの上ないが、そんな間違った意味で楽しい事態が繰り広げられていたわけではなく。
「ルース……それに、ロゼウス」
 ドラクルが国王の呼び出しを受けていた間に、彼の部屋にまた二人ほど客人が増えていた。客と言ってもその相手は妹と弟だ。第二王女ルース=ノスフェル=ローゼンティア。第四王子ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。どちらもドラクルと同じくノスフェル家のクローディア王妃を母とする妹と弟だった。
 そしてこの弟ロゼウスこそが、つい先程父王の命によってドラクルに教育を任された相手でもある。
「兄様!」
 ドラクルが戻って来たのを知ると、二親血の繋がった実弟はぱっと顔を明るくして駆け寄ってきた。今年七歳の弟ロゼウスは、長兄ドラクルにとても懐いている。
「ロゼウス。どうしたんだ?」
「ルース姉様が兄様にお話があるっていうから、一緒に来たんだ」
 足元に飛びついてきた弟を抱き上げて、ドラクルは仄かに笑顔を浮かべた。彼に抱えあげられたロゼウスも、ドラクルの幼い頃に瓜二つの容貌を花のように綻ばせる。
「いきなりおしかけてごめんなさい。ドラクル。ちょっと相談があったのだけれど」
 黒檀のテーブルを囲む人数は増えていた。もとより椅子は、部屋の雰囲気を壊さない程度に溢れている。薔薇のレリーフを施されたそれの一つに腰掛けた細い背中が振り返った。
「ルース、その話とは?」
 第二王女であるルースは、ドラクルより二つ年下、第二王子のアンリより一つ年下でヘンリーより五つ年上……つまり、今年で十五歳だ。ロゼウスに次ぐ王継承権第四位の彼女は、六人いる王女の中でも珍しく積極的に政務に参加している人物だった。
 とは言っても実際のところ、ルースという姫君の容姿は積極的、行動的、力強さという言葉からはかけ離れている。繊細王女と綽名(あだな)される彼女の印象は一言で言ってしまえば「儚げ」。強風が吹いたら飛んでいってしまうのではないかというほど可憐な姫君として有名だ。背の中ほどまで伸ばされた真っ直ぐな髪は見事な艶を持ち、瞳は常に憂いを帯びているよう。
いかにも深窓の姫君然とした容貌で、姉妹の中で最も大人しげな顔立ちをしている。が、実際の彼女がどんなものかと言えば、間違ってもそんなことはない。だいたい、ドラクルの妹でノスフェル家というローゼンティアにおいては一種独特の地位を占める家の出である母を持つ彼女が他の王子王女に比べて弱弱しいなど、そんなことあるはずがないのだ。確かに彼女の態度は気の強さを連想させるものではなく、口調も態度も落ち着いている。しかし強風が吹いたらむしろ飛ばされていく大男の腕を捕まえて支え、「大丈夫?」といつもの憂い顔で平然として微笑みかけそうなほど儚さとは程遠い女性。それが第二王女ルース。
「さっき、アンリの方に許可を貰ったからそれで済んだわ。私の今日の仕事はそれで終わりなの。そのままあなたが帰って来るまでと思ってここで遊んでいたのだけれど」
「勝敗は?」
 ロゼウスを降ろして椅子に腰掛けさせながら、ドラクルは尋ねた。
「三十戦二十八勝二引き分け」
「立派な戦績だ。そう落ち込むんじゃないよ、アンリ」
 アンリは決してルースに比べてこの遊戯における思考力や戦術を考える力が劣っているわけではない。むしろ天才で知られたドラクルと張り合えるアンリは、彼自身もドラクルがいなければ問題なく王位につくことを歓迎される優秀さである。
 そのアンリを、さして長い時間王の部屋に留め置かれたわけではないドラクルが帰るまでに三十戦もして大敗させたルース。彼女の戦績は確かに立派だが、盤に遺された駒の様子を見ると、どうやら相当にえげつない手を使っていることも垣間見えてしまう。
「だって、ドラクル、ルースがぁああ」
「おかげでドラクル殿下がいなくても私は儲けさせていただきました」
「アウグスト酷い! 一度くらい賭ける対象換えさせてくれたって!」
「だからその発言は、むしろ俺が傷つくから、ヘンリー!」
 賭ける相手を場を外したドラクルから中途参入のルースに変えたらしいアウグストはほくほくとした笑顔で、アンリに賭けていたヘンリーは悔しげに唇を噛んでいる。そして異母兄をこてんぱんにした妹姫は面差しだけは儚げに遠慮がちに微笑んでいて、負かされたアンリはテーブルに突っ伏して撃沈していた。
「こりゃあ酷いね。いや、逆に見事と言うべきか? ルース、今度から警備隊の戦術指南役でもやる? 父上に頼むかい?」
「まぁ。いいのですか? ドラクル」
「ちょっと待ったそれ俺の今の役職!」
 ドラクルが席を外していた間、弟妹と部下たちは楽しくやっていたようだ。先程の、自分の父親に私室で個人的に命令を下されただけなのにどんな公式の祭典や儀礼より緊張する謁見を終えたドラクルは、室内のそんな空気に知らず肩の力を抜く。燭台に灯る炎の色が暖かい。
「あ。そうそう。ドラクルお兄様、先程のあなたとアンリの試合だけれど、まだ途中でしたよね。盤はあのままで残しておいてありますから、続きをどうぞ」
 言葉と共にルースが席を立った。アンリの正面に当たるそこは、先程まで確かにドラクルが座っていた場所だ。言われてよくよく見れば、確かにゲームの駒やその盤はドラクルのものではない。ルースの移動に合わせてアウグストが二つ折りの盤を畳み駒を小さな箱に仕舞い始めたところを見ると、彼の私物らしい。
「ありがとう、ルース。それで、さっきの盤は?」
「これです。兄上」
「ありがとう、ヘンリー。待たせてすまなかったね。アンリ。では続きを――――え?」
 勧められて席に着き、元通りアンリとの勝負の続きを始めようとしたドラクルは、けれどヘンリーの差し出した盤を見て凍りついた。
「これ……すでに決着がついているのではありませんか?」
 何も知らないルースが極冷静にそう判断した。そう、途中だった勝負の決着がすでについている。駒の位置が変わっている。動かされたのは一つだけだった。けれど、その一つが問題だ。
「嘘だろ? だってさっきまでドラクルがどう見ても有利だったのに」
 黒と見紛う暗緑色の駒と、真紅の駒。盤面には薄く薔薇の絵が装飾として施されているその遊戯盤。緑を持っていたのはドラクル、紅がアンリ。確かに席を外すまではドラクルの緑がもう一歩で勝利というほどの優勢で、決着はすでについたようなものだった。けれど今、たった一つの駒の移動で形成が逆転し緑の王が紅の兵に討ち取られている。
「そういえば……先程ロゼウス殿下がそちらで何かしていたようですけれど」
 眉根を寄せたアウグストの言葉に、彼らは一斉にこの場で最年少の王子の顔を見た。七歳の少年は突然の注目を浴びて、きょとんとしている。
「ロゼウス、お前がこれをやったのか?」
 アンリが恐る恐ると言った体(てい)で尋ねると、ロゼウスは事もなげに頷いた。
「うん。それでいいと思ったんだけど、俺、間違ってた?」
 そもそもドラクルとアンリの試合を保存していたのだから駒を動かしてはいけないと注意するべきだったのだろうが、あまりにも無邪気に首を傾げられてしまっては、年端も行かない弟を誰も叱れない。
 むしろ一同は、そのロゼウスが打った一手の見事さに感服していた。
「凄いじゃないか! ロゼウス!」
「?」
 アンリが感激しきりの様子で、幼い異母弟を抱きしめる。いきなりの兄のその行動に、ロゼウスは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせていた。ヘンリーが褒めるようにその頭を撫で、ルースは盤の局面からゲームの流れを読み解きながら難しい顔をしている。アウグストはそんな彼らの様子を一歩離れたところから見つめ、そしてドラクルは。
(凄い? そんなものではない)
 ロゼウスの選んだ手は、戦局の全てを覆す至上の一手だった。先程までこのゲームを支配していたドラクル自身だからこそわかる。ドラクルとアンリの勝負は誰がどう見てもドラクルが優勢で、アンリが勝てる道などどこにもないように思えていた。けれどドラクルが見落としていたその一手を、まだ七歳のロゼウスは見つけ出してきた。兵や騎士と名づけられた駒で王を討ち取る、勝率は実際の軍事にも通じると言われる、この遊戯(ゲーム)で。
 背筋に冷たいものが走る。
 ――ロゼウスを教育しろ。あの子を、最高の王に……
 父王の声が蘇り、暖かな部屋の中、ドラクルはいつまでも寒気を消すことができなかった。