薔薇の闇は深く 01

002

 それは、突然に訪れた。
 ――お呼びでしょうか? 国王陛下。
 その日、父王の命により、ドラクルはその寝室に呼び出された。夜明けが近いというその時間帯は、夜に活動し昼に眠る吸血鬼にとっては、就寝間際にあたる。
 ――……父上? 
 その日、ブラムス王はいつもと様子が違った。
 広い室内の窓は開け放たれ、寒気が入り込んでいる。暦の上ではまだ秋の終わりであるために本格的な寒さに凍えかけたわけではないが、その外気の冷たさと白み始めた空の眩しさに、部屋に足を踏み入れたドラクルは自然と目を細めた。吸血鬼は光に弱い。
 白い髪と赤い瞳を持つ彼らは、どうやらもともと陽光に耐性のある色素を持つことが少ないらしい。それでも人間で言う白子(しらこ)とは違って、白の強いその色こそが色素の働いた結果だという。
 色素が薄いので陽光に弱い。朝陽を浴びた途端消えるなどということはないが、直射日光を浴びれば確実に弱る。
 もっとも、ローゼンティアという大陸端の大森林に囲まれた国はほぼ毎日天候が悪く、昼間でも薄曇で晴れていることなど滅多にない。
 通常は気にせず真夜中に活動し必要があれば真昼に行動することもあるのだが、ローゼンティアの一日のうちで少しだけ天候が回復するのがこの朝方という時間帯であった。紫の空が美しく見えるのが、ドラクルの目には眩しすぎる。
 そんな風に不用意に窓もカーテンも開け放している父の部屋の様子を見て、ドラクルは訝りに眉を潜めた。父王の様子は明らかにいつもと違う。開け放された窓もそうだが、おかしいのはテーブルの上。
 酒瓶が幾つも転がっている。庶民の好む安酒から国外から輸入した年代物の名品まで、ありとあらゆる銘柄が無造作に床に投げられていた。テーブルの上で一つのグラスは倒れ、罅(ひび)が入っている。もう一つは割れている。杯こそ二つ用意されていたが誰かと飲んでいたという様子もなく、これは明らかに自棄酒(やけざけ)の後だ。テーブルの上に零れた紫の液体。
 そして、罅の入った方のグラスの中を覗き込んでドラクルはますます眉を潜めた。中に入っていたのは、酒ではない。赤く濁り、粘性のある液体。それは血だった。
 吸血鬼の食事は人間の血液。しかし魔族よりも人間の数が多い世界でそんな無体を働くわけにもいかず、大抵は牛や羊の血などで吸血衝動を抑える。あるいは、魔力を封じる薔薇の花びらを砂糖漬けにしたようなものを齧り、空腹を宥める。
 吸血鬼にとって、人間の血は文字通り極上の美酒。酒などよりも遥かに、魅惑の深紅は彼らの脳髄をとろけさせ、酔わす。
 だからこそ彼らは、血を飲まない。特に人間の血を飲めば、思い出してしまうからだ。自らが圧倒的な力によって他の生き物を引き裂き喰らう魔族であるのだということを。
 それでもブラムス王が血を飲んだというのであれば、それは彼にとって余程の事があった時だろう。貴族どころか生まれながらの王族である彼が、酩酊して醜態を晒すチンピラのようになっても構わないと思うほどに酔いたかったのだと。
 ――国王陛下、一体何があったのですか?
 最近は国内外で情勢も落ち着いているし天候の崩れによる土砂崩れや洪水のような自然災害もない。王都をはじめとする治安はどこも良く、貴族間の諍いなども表面上は落ち着いている。何も心配するようなことはなかったはずだ。
 では何故父親がこれほどまでに荒れているのか。彼に何があったのか。その身を案じて天蓋付の寝台にだらしなく腰掛けていた父親のもとに駆けつけたドラクルの腕を、ブラムス王は強く引いた。思いがけない父親の行動に、体勢を崩してドラクルはその腕の中に倒れこむ。
 ――っ、申し訳ありませ……
 非礼を詫び起き上がりかけたドラクルの身体を、父親の力強い腕が引きとめる。振りほどけない。酔っているせいか体温が熱でも帯びたように高い。得体の知れない不安に、背筋にぞくりと寒気が走った。
 ――……父上、一体どうし――
 問いかけようとした唇は相手のそれに塞がれた。触れる、生温い熱。酒と血の香り。眩暈のするような。
 目を瞠(みは)り思わずそれがこの国の最高権力者であることも忘れ、男の胸を突き飛ばして身体を離そうとする。しかし、叶わなかった。そのまま乱暴に寝台へと突き飛ばされる。三百年を生きた吸血鬼の男に抵抗するには、まだ十七歳の少年など赤子も同然で。
 ――おやめください! 父上……ッ!
 開け放された窓の向こうは紫の夜明けで、差し込む朝陽は地獄の業火のように美しかった。

「――――――ッ!」
 ドラクルは飛び起きた。急に動いたために、次の瞬間、眩暈が襲ってくる。崩れかけた体を、寝台に手をついて支えた。
「な…で……、この前の……」
 ああ、あれは夢だったのか。一拍してようやくドラクルはそれを認識した。寝台の上に半身を起こしたこちらが現実。カーテン越しに窓から差し込む真昼の陽光で確認しても、目覚めまではまだ随分時間がある。吸血鬼の目覚めは本来夕刻で、眠りにつくのが明け方だ。
叫んだ自分の声さえも鮮やかな、あれは夢の中の出来事だ。けれど自らの妄想が作り出したまったくの虚実というわけでもない。あれは夢の中に見た、確かにあった過去の話だ。
 あの日の事は、一夜……時間帯としては昼だが……の悪夢としてドラクルの脳裏に刻まれている。思い出すのもおぞましく、何も考えられなくなる。現実があまりにも現実感を伴わず、ただ胸の痛みだけがあって、できれば思い出したくもない。
 あれ以来、ブラムス王の側に近づくのが怖い。国内で与えられている役職が役職だけに執務中は彼の側近くに侍(はべ)らないわけにもいかないのだが、できれば顔を合わせたくないのが本音だ。
 彼は何故あんなことをしたのだろう。
 自分は彼の息子だ。そう、息子なのだ。王子である。男である。そして自分たちの関係は親子だ。なのにどうして。
「ん……?」
 放っておけば考えたくもない、しかも現時点では答も出ないようなことまでまたぐるぐると考え出してしまいそうなドラクルの思考を引きとめたのは、手に触れた柔らかな肌だった。
「……何故ロゼウスがここにいるんだい?」
 うっかり手で踏みかけてしまった弟は、すやすやとドラクルの隣で寝息を立てている。普段の行動を見ていれば決して警戒心が乏しいわけではないのだろうが、ドラクルが飛び起きてもこちらは眠りから覚める様子はない。いくら第一王子であるドラクルの私室の寝台が四人、五人は楽に横になれる広さがあるからと言って、何故彼が。
 そこまで考えて、ああ、そういえば昨日は一つ、ロゼウスがなかなか解けない課題の面倒を見ていて、部屋に戻るのがいやだと駄々をこねる彼をそのまま泊めたのだったとドラクルは思い出す。
 わがままばかりで面倒をかけてくれる弟だが、こんな時は側に、気負わなくていい人の温もりがあることに安堵する。大事な、可愛い、弟。父と母、両方の血の繋がった、実の。
「……おやすみ、ロゼウス」
 無邪気に眠るロゼウスの、さらさらとした白銀の髪を優しく梳いて、ドラクルは再び眠りに落ちた。

 ◆◆◆◆◆

 皇歴二九九三年。
 時刻は人間たちならば眠りにつく真夜中、しかし吸血鬼にとってはこれからが活動の本番である時間帯だ。薄曇の空に白い月が明るく、城の外壁を伝う銀の荊がその光を受けて輝く。少し風の強いこの日は、国中に咲いた薔薇の香りが流れてくる。窓を開けていいですか、とヘンリーが言った。彼はドラクルの部屋に、自ら勉強道具を借りに来ていた。
「今日は、叔父上が来ていらっしゃるんですってね」
 ブラムス国王とフィリップ=ヴラディスラフ大公の不仲は有名だが、もちろん不仲だからと言って顔を合わせないわけにもいかない。政務の上で相談事がある時は、必ず大公は国王のもとへ赴く。
「あんまり城内をうろつきたくないや。あの二人の喧嘩に巻き込まれて面倒事になるのは御免です」
「ふふ。そうだね」
 十歳のヘンリーは王子としての才能は突出してどうということはないが、とにかく態度が落ち着いていて、この歳にしてすでに王子たるに相応しい人格だとして知られている。
 しかしドラクルとアンリのゲームの際に見せたような友とじゃれあう無邪気さも持ち合わせており、王子でさえなければ少しだけ賢い普通の少年と言えた。
 その彼は、父のもとへ叔父が訪れている事が不満らしく、唇を尖らせた。
 ヴラディスラフ大公フィリップ卿。今でこそ大公爵の地位を得ている彼は、ドラクルやヘンリーたちにとっては叔父にあたる、つまり、ブラムス王の弟だ。王弟フィリップは、兄の即位を国内でも快く思っていない存在であり、何かにつけてはブラムスの行うことに文句をつけるのが趣味のような人物だった。
「ヴラディスラフ大公閣下は、父上と南の領地のことで少し話があるらしいよ。私は挨拶に行くけれど」
「僕は遠慮させてもらってもいいですか?」
「かまわないよ。私だけで充分だろう。公式の行事でもあるまいし、兄弟全員で押しかけてもね」
 ドラクルの部屋で少し話をした後、二人はそれぞれ自らの役目に戻ることにした。そろそろ年若の王子たちは勉強の時間が迫っているので、ヘンリーが今日から一段高等になるという授業のためにドラクルが昔使っていた書き込みありの教科書を借りに来たのもそのためだ。一方ドラクルやアンリは執務で、その前に叔父に挨拶に行こうとするドラクルだったのだが。
「ん? ロゼウス?」
「兄様」
 専任の教師と違って執務の片手間にロゼウスの教育を命じられたドラクルは、いちいち教材をロゼウスの学習部屋に自室から運んでいくのはめんど……非効率だと考えた。
 そのため時間なら有り余っているまだ年少の王子を自室に呼びつけて勉学の面倒を見ていたのだが、今日は連絡が上手く伝わっていなかったのか、昨日と同じ時間にロゼウスが部屋へと来てしまった。
「ロゼウス。今日はドラクル兄上は忙しいんだよ」
 ヘンリーが弟の頭を撫でながら告げる。
「え、でも……俺」
「だったら、ロゼウスも叔父上に会いに行くかい?」
「兄上?」
「兄様」
 ドラクルはロゼウスを抱き上げる。十歳のヘンリーはもうしっかりとした少年らしい様子だが、七歳のロゼウスは幼年と少年の境だ。ドラクルはすらりと背が高く、ヘンリーならまだしも、ロゼウスと並んで歩くにはコンパスが違いすぎる。
「うん。行く! 兄様と一緒に」
 頷き、きゅっと細い腕を兄の身体に絡めてしがみついてきたロゼウスをそのまま抱いて、ドラクルはヘンリーと別れて国王と大公が顔を合わせている部屋へと足を運んだ。
「……だから……ディアのことに関しては……」
「……いう問題では……れにもともと……」
「それを言うならば――――」
 吸血鬼は聴覚もいい。ドラクルももちろんその辺りのことには優れている。分厚い扉が行く手を阻む部屋の向こうから微かに聞こえる話し声に、間違いなくそこに父と叔父がいることを確認して扉をノックした。
 薔薇の浮き彫りの施された重い扉も吸血鬼の腕力には問題なく、ロゼウスを抱えたまま片手で開けると室内から驚いたような視線が返ってくる。
「父上。叔父上、ご挨拶に……どうかしたのですか?」
 二人が終始仕事の話をしに来たのならばドラクルも相手を国王と大公だと意識し、かしこまった態度で接するのだが、今回ブラムス王が弟大公を招いたのは客室でも謁見室でもなく彼の私室。
 南の領地のことを建前に兄と弟として話をしている間だろうから、と大貴族を相手にするには少し砕けた態度で挨拶に赴いた彼を、室内の二人は驚いたように見つめていた。ノックをして向こうもそれを許可してからの入室なのだから、どこにも驚く理由などないはずなのだが。
「あ。ああ。よく来てくれた、ドラクル」
「?」
 先に我に帰ったのは、二人の兄弟の父親であるブラムスの方だった。二人の表情がそれぞれ崩れると双方の違いが表れてきて、ドラクルは少し安心した。
 先程部屋に足を踏み入れた時、こちらを振り向いたブラムスとフィリップはまるで鏡写しのように見えた。もともと漆黒と深紅で構成されたローゼンティア王城の一室は、視覚を惑わせるような内装だ。一枚の騙し絵のようなその光景に、時折眩暈がしそうになる。
 ローゼンティア国王ブラムスとヴラディスラフ大公フィリップの二人は実の兄弟で、それも双子だった。もともと顔立ちは瓜二つで、髪型を意図的に変えて他者に区別させている。しかしふとしたときの表情が、わかっていても間違えるほどにそっくりだった。
 そしてそれこそが、余計この二人の関係を複雑なものにさせる要因でもある。生まれた時間も顔も同じなのに、何故兄が王位について弟はいけないのか、とフィリップにはそれが不満らしい。
「ロゼウスも連れて来たのだな」
「ええ。叔父上に挨拶を、と思いまして……ほら、ロゼウス」
 ドラクルが床へと降ろすと、ロゼウスは素直に叔父であるフィリップの側へと歩み寄っていった。教えたとおりに礼をとる弟を横目に、ドラクルは父へと話しかける。ここにはロゼウスもフィリップもいるとは知っていながら、適度に距離を保ったままで。
「ハノーヴの堤防の件を片付けました。最新技術で強度を上げた、新たな包みを築かせるということで」
「そうか、よくやったドラクル。あそこの川の氾濫は、何度対処しても同じだったからな。また十年位したら同じ問題が起こると思うが。……ではお前もフィリップに」
「はい」
 ロゼウスと入れ替わるようにして、今度はドラクルが叔父の前に立つ。
 しかし。
「ああ。久しぶりだな、ドラクル」
 叔父の眼に、ドラクルは違和感を覚えた。先程ロゼウスに対しては通常通りか、微妙にいつもより冷たい眼差しをしていたような彼の眼が、自分を見た途端に和んだような気がするのは気のせいだろうか。
 ロゼウスがいくら愛らしげな少年だとは言っても国王になり損ねた彼から見れば王位継承争いの敵。それもいたし方ないこととして形式上穏やかな親戚同士のやりとりをする彼の眼が自らにも冷たくむけられると思っていたドラクルは、その些細だが重要な変化に戸惑う。
「あ……ええ。ご無沙汰しています。大公閣下」
「そう硬い顔をしなくても大丈夫だよ」
 ドラクルとフィリップが会話している横では、ブラムスが自らの子であるロゼウスを膝の上へと抱き上げていた。父と子と言えど、国王と王子であるからにはそんな風に接してもらえるのはロゼウスくらいの年齢までだ。
 もっとも、最近のドラクルは親子として自然な触れ合いとはまったく別の意味で父王に触れられてはいるのだが。
「なぁ、ドラクル。お前も話に混ざらないか。南の所領と、後はエヴェルシードとの外交のことについてだ。得意分野だろう?」
「ですが、私などがお二人の話に口を挟むなんてよろしいのでしょうか?」
「いいから。お前も力を貸しなさい」
 ドラクルが一瞬覚えた違和感に関しては、彼らは全く触れない。それまで続けていた話もあっただろうに、二人が来た途端に話題をすぐさま切り替えた。どうやら二人が話していた事は、ドラクルとロゼウスには聞かれたくないらしい。だからこそのわざとらしい話題変更だ。
 それを追求させることもなく、話は兄と弟の話から、第一王子を交えた政治的な話題に移っていった。

 ◆◆◆◆◆

 ローゼンティアは薔薇の国と呼ばれるだけあって、薔薇の花は一年中枯れない。季節を過ぎても盛りを衰えることのない花々が国中でその馥郁(ふくいく)たる芳香を放つ。
 ローゼンティアの国は薔薇に包まれている。王城も、街も、国を囲む大森林も、どこもかしこも。
 王城を囲む鉄柵にはこの国にしか咲かない銀の蔓を持つ荊が絡みつき、街中には他国でも一般的な普通の緑色の茎葉を持ち赤や白の花をつける薔薇が蔓延って赤煉瓦の外壁を飾っている。春であっても、冬であってもその花は枯れない。
 国土を包む大森林は黒に近いような暗緑色の葉をつける背の高い木々が並ぶが、その森林も木々の足元を見ればやはり荊が訪れる者を拒むように道を閉ざしている。魔力を持つ花に抱かれた、魔物の国。
 その中で暮らす吸血鬼たちは、けれど魔物という言葉ほどには恐ろしくもなく、凶暴でもなかった。
「ドラクル、アンリ」
 その日は、第一王女のアンがドラクルのもとを訪ねてきた。彼のもと、とは言うものの忙しいドラクルは私室を空けていることが多い。刻々と移り変わる情勢に気を配って不規則な時間に仕事を行うドラクルを、明らかに仕事中だろうと思われる時間に探すのはなかなか難しい。現に、ようやく彼の姿を見つけ出したらしい第一王女は、軽く息を切らしていた。
 ドラクルは執務室の一つで、弟王子のアンリと共に国の治安の問題について話しあっているところだった。勢いよく扉を開け放って登場したすぐ下の妹姫の姿に、羽根ペンを持ったまま穏やかに書類から顔をあげる。
「アン。どうしたんだい? 急に」
 第一王女のアンは、第二王子アンリとは同い年。そして母親は、王の寵愛深いと言われている第三王妃だった。
 とは言うものの正妃たる第一王妃の血統優先と女児より男児の継承権が高いローゼンティアでは第一子のアンが女性だった時点ですでに第三王妃が子ども同士の継承権争いに実子を参加させる事はほぼ不可能となり、そのために彼女は第一王子と第二王子と同時期に産まれながらも、そう言った骨肉の争いとはまったくの無縁に過ごしている。
「ちょっと時間ができたから菓子を焼いてみた。そなたたちも食べに来ぬか?」
 第一王女でありながら継承権十位の王女は気を張らなくていい立場のためか、ドラクルやアンリからすれば信じられないほど奔放に生きていた。奔放と言っても何か悪さをするわけでもなく、ただ時折妙なところに行ってしまうというだけだ。この喋り方もその一つで、兄弟姉妹のうちで何故か彼女だけがこのような喋り方をする。
 波打つ長い髪は頭の高い位置で一つにまとめられているが、もともとの髪質のためにそれでも華やかな印象を与える。年齢の割には豊満な肉体をしていて、堂々と胸を張るのでついつい男ならば振り返って見てしまうような美人だ。
 しかし目元がどうもきつそうに見えるために、彼女と近づきになりたい貴族の青年たちも、簡単には声をかけられないらしい。
「どうする? アンリ」
「ああ。これだけ終わったらすぐ行く。アン、他の奴らも呼んで待っててくれ」
「承知した……と言いたいところじゃが、そなたたち以外はすでに皆集まっておるぞ。ミカエラだけは今気分が優れないから後にすると言っておったが、他の者たちはもうみんなお茶の時間にしている。仕事仕事もいいが、二人もそろそろ休憩せぬか?」
「……わかったよ。アンリ、これの続きは後でいいかい? じゃ、行こうか。アン。場所は?」
「東の食堂。作りすぎてしまったからな。使用人たちにも配っておる」
 見た目は高慢な美女に見えると評判の第一王女は、その外見に反して気さくな性格だ。芯が強く凛々しいが、政治的な才能はほとんどない。
 けれど彼女をよく知る者は、その性格を慕って彼女についてくる者が多い。いい例が第三王子ヘンリーで、他の人間の前では賢しげな発言をするヘンリーもアンの前では顔を赤らめて年相応の少年の顔へと戻る。
「食堂一帯使って使用人たちにも配る量って……アン、お前どれだけ作ったんだよ……」
「わらわ一人ではない。ミザリーとロザリーとメアリーと、みんなでやったのじゃ」
「そんなに暇だったのか?」
「失礼な。わらわたちは元々予定していた行事の一つが潰れて時間ができてしまったのじゃ。アンリこそ、失敗をやらかしてなんぞドラクルに迷惑でもかけておらぬか?」
「あはは。大丈夫だよ。アン。それより、みんな、の中に赤ん坊のエリサはまだしもルースが入っていないことが気になるな。それに、君とメアリーはともかく、ミザリーとロザリーの二人って、料理できたっけ?」
 アンの後に続く形で、王子二人は使用人用の食堂に向けて廊下を歩く。王族や来賓が食事をとる場所は晩餐室と呼ばれるから、単に食堂と言う場合は使用人たちが食事する場所のことを指す。使用人の食事にしろ王族の食事にしろ作る厨房は同じなので、アンたちもそこを借りて菓子を作ったのだろう。
 吸血鬼国家に限らず、普通貴族の令嬢や王女など、高貴な身分にある者は料理などしない。それらは全て使用人のするべきことである。と、考えるのが一般的なのだが、現在この国の王女たちは揃いも揃ってそういった形式に拘らない規格外の人物ばかりである。
 そしてそれ自体は王族だからと偉ぶっておらずいいことなのかもしれないが、問題は一部の者の行動力と実力が激しく釣り合っていないことだった。
「うむ。まずは最初の質問に答えよう。ルースのことはな、探したのに見つからなかったのじゃ。あの娘はドラクル以上に雲隠れが得意じゃからなぁ。ミザリーとロザリーに関してはな、それは素晴らしかったぞ」
「え? あいつらとうとう成功したのか!?」
「いや、いつも通り失敗じゃ」
 不器用で有名な王女二人に対する「素晴らしい」という評価を聞いて一瞬喜びの表情を浮かべようとしたアンリを、アンが蝿を払うように奈落へと叩き落す。自覚はなしに。
「それはそれは凄かったぞ。西の食堂は白い災害に襲われて全滅じゃ。あの二人が何をどうするとそうなるのかぜひ理論立てて説明してほしいようなことを仕出かして、世界を地獄に染めておったものじゃ」
「……」
「……」
「気づいたら大量の、それこそ王族だけの分なら何か月分の食事になるのだろうという量の小麦粉を持ち出してな。わらわとメアリーで必死にそれをかき集め、作っては焼き、作っては焼きしたのじゃ。おかげで今東の食堂はヒトデ型クッキーの山じゃ」
「だから使用人たちの分もかい。それにしても……なんでヒトデ?」
「材料を食せるものにできるだろう見込みがなかったので、せめてもと形成を任せたらそうなった。二人の感性はよくわからんな」
「いや、それって多分星型を作ろうとして失敗したんだと思うよ……?」 
 アンの言葉から察するに、どうやら本日の菓子作りの結果は凄いことになっているらしい。それの後処理を誰がやるのだろうと考えて、ドラクルは思わず頭を抱えたくなった。
 そんなことを話しているうちに、一階の食堂に辿り着く。アンの言葉に偽りはなく、そこには正しくヒトデ型のクッキーが並んでいた。普通なら不格好な星と評してやるべき形が、どう見てもヒトデにしか見えない。これも一つの才能なんじゃないかと自分を誤魔化しつつ、ドラクルたちは一画に集まった兄弟たちのもとへと向かった。
「あ。姉様おかえりなさい。兄様たちも、おはようございます」
「おはようございます。おにいさま」
「おはよう。ヘンリー、ジャスパー、メアリー」
「なんだか凄いことになってるみたいだな」
 文字通り山盛りのクッキーを横目で見ながら、ドラクルたちはそう言った。使用人たちにも配っているという言葉は伊達ではなく、向こうのほうではこの事態の元凶となったロザリーとミザリーがひたすら小袋にできあがったクッキーを詰めている。その更に向こうでは、今年二歳のウィル王子に慎重に細かく砕いたクッキーを食べさせる第三王妃の姿などもあった。
「さて。ドラクルたちも遠慮せず食べていけ。今、茶を用意する」
「ありがとう、アン」
 ドラクルたちが席についた頃、ちょうど食堂の扉のほうから、また誰かが入ってきた。
「あ、ドラクル兄様とアンリ兄様がいる」
「ロゼウス。お前はどこ行ってたんだ?」
「西の食堂の片付け、指示出してって、アン姉様が」
「本当にやってきてくれたのか? 冗談じゃったのに。偉いぞロゼウス」
 髪やら頬やらを粉だらけにしたロゼウスが入ってきた。どうやらアンと何かやりとりをしていたようで、先程ドラクルがちらりと気にした西食堂の後片付けの話をしている。そこで使用人たちに幾つか指示を出して戻ってきたようだが、その粉だらけの姿では間違っても椅子に座れない。
「どうしよう」
「うわー、すげぇ粉だらけ。これ、落ちるのか? っていうかミザとロザの二人、一体何を作ったんだ? 髪がべたべただ……」
 ロゼウスの白銀の髪が、黄色がかった粉で汚れている。粉だけならまだしも、何か接着剤のようにねばついてしまってとれない。
「これはもう、髪を切るしかないね」
「えー!」
「まぁ、ちょうど伸びてたし、いい頃合だったんじゃないかな」
 唇を尖らせるロゼウスを宥めると、ふいに表情を明るくしたその弟は言った。
「だったら俺、ドラクル兄様みたいな髪がいい!」
「え?」
「って、兄様の髪型と同じのにしたいってこと? ロゼウス、何言ってるのさ!」
 粉だらけの顔と髪で笑うロゼウスを、ヘンリーが嗜める。
「駄目なの? なんで?」
「だって同じ顔の人間が同じ髪型してたらややこしいだろ!」
「ヘンリー……そういう問題なのか?」
 ヘンリーは何故か、すぐ下の弟に厳しい。アンリがそれにツッコミつつ、ドラクルに困った顔を向けた。
 ドラクルの髪型は、頬の両横に長めの鬢を垂らし、他の場所は肩につかない程度の長さに切り揃えている。優しげな顔立ちではっきりとした短髪は似合わない、という話だがアウグストやヘンリーのように長髪にして結ぶのも面倒だということで、そうなっている。ならば生き写しのロゼウスにも勿論似合うだろうが。
「ドラクルの髪型と同じに、というのはちょっと、どうかと思うぞ? 特徴があるから、二人いると何か違和感が……な?」
「そうですよ! だからロゼウスは駄目だ。いつも通りに切ってもらえばいいじゃないか。たかが髪のことぐらい」
 ある意味話の元凶となったアンが頬をかき、ヘンリーが強く反対する。その剣幕に、ロゼウスが瞳を潤ませ始めた。
「だって……だって俺……」
「ま、まあまあ二人とも。私が髪型変えるから」
「「ドラクル!!」」
「もともと私とロゼウスの髪の話だろう。二人がそんなにムキにならなくても」
 妹弟をまとめて宥めるドラクルの横では、アンリとメアリーがひそひそと声を交わしていた。
「自覚なしかよドラクル……」
「アンおねえさまもヘンリーおにいさまもドラクルおにいさまがお好きですものね……」
 ちなみにアンリは十六歳だが、下から四番目の子どもであるメアリーはまだ五歳。五歳児にまでいろいろと見抜かれているアンとヘンリー。
 そんなやりとりには気づく様子もなく、ドラクルは泣く一歩手前のロゼウスを慰めた。
「ほら。ロゼウス。切ってあげるから、こっちにおいで。誰か、湯で絞った布を部屋に運んでおいてくれないか?」
「兄様!」
「ヘンリー。そんなに怒るものではないよ」
「だって、こいつ子どもだからってわがままを!」
「確かにお前は年齢の割には大人びているよ。でも同じ事をロゼウスに要求しても無理だろう」
「でも!」
「ほら、ヘンリー『だかが髪のことくらい』だろ?」
「っ!」
「ほら、わかったね。ロゼウス、行くよ」
「うん」
 二人が食堂を出て行った後、ヘンリーが唇を尖らせ、憎憎しげに呟く。
「ロゼウスのヤツ……」

 ◆◆◆◆◆

 ドラクルは召し使いに命じて、ロゼウスと共にいったん自室へと戻った。全身の粉を落とさせてから、侍女が用意した熱い湯で絞った布を用いて丁寧にロゼウスの髪を拭いた。できるかぎりの汚れを拭き取っていく。
 それでもやはり、べとついた粉の塊が幾つか残ってしまっている。
「……じっとしているんだよ。ロゼウス」
 チェストの引き出しからナイフを取り出す。まずは汚れを周辺の髪ごと切り取って、そこに合わせて髪を切りそろえる。不揃いになってしまった髪を誤魔化すように、綺麗に切りそろえる。本来ならこれも専門家の仕事だが、この場ではドラクルが手ずからロゼウスの髪を切る。ザリ、と音を立てて、白銀の髪が床に広げた布の上に落ちた。
「できたよ」
「ありがとう、兄様!」
 ナイフをテーブルの上に置いて声をかけると、ロゼウスが感触を確かめるように、こわごわと己の髪に触れる。
 ひととおり触れて納得したのか、先程まで泣きそうだった顔にパッと明るい笑顔を浮かべてロゼウスはドラクルに飛びついてきた。
「ありがとう! ドラクル兄様、大好き!!」
「どういたしまして。もう行っていいよ。みんなに見てもらって、できあがりを確認してもらっておいで」
「うん!」
 言うと、ロゼウスは素直に駆け出していった。
 弟が何を思ってあんなふうに私の真似をしたがるのかは知らないが、喜んだのならそれでいい。この部屋には鏡がない。というか、この国に鏡なるものは一つもない。
 己の姿を確認する手段は池や湖に映る自分の姿を見るか姿絵を画家に描いてもらうよう依頼するか……もしくは人に見てもらうかだった。さきほどドラクルが一通り確認したとはいえ、見落としがあるかもしれないから他の者にも見てもらった方が確実だろう。
 ヘンリーはああ言っていたが、兄が弟に譲歩してやるのは、当たり前のことだ。すぐに自分の真似をしたがり、先程も飛びあがって喜んでいたロゼウスの様子を思い出して、ドラクルは苦笑する。
 けれど、切り落とした髪、小麦粉の汚れ、着替えた服、汚れ物である濡れた布。それらをいったん片付け、また床に新たな布を広げて、その段階になるとさすがに溜め息も出てしまう。
 ドラクルはもう一度ナイフを取り上げて、今度は己の髪にそれを押し当てた。