薔薇の闇は深く 01

003

 激しい雨の中を一頭の馬がひた駆ける。その背にまたがる者は雨除けの外套を被っていて、顔が見えない。フードの端から覗く白い髪が乱れ、頬に張り付いている。
 雷鳴が轟いた。天候はすこぶる悪い。
 時刻は勿論真夜中だ。吸血鬼たちの活動時間帯は夜だから、この時間に外出する者がいること事態は珍しくない。ただ、こんな土砂降りの中を、馬を走らせ強行軍で出歩く者がいるのは珍しい。せめて馬車を使えばまだ濡れずに済むだろうものを、彼は鞍もつけぬ馬にそのまま跨り、ひた駆けている。よほど急ぎ、焦っているようだ。
 空は強すぎる雨を降らせる雲のせいで、夜中だと言うのに逆に灰色に明るいくらいだった。時折轟音を立てて落ちてくる雷も遠く、けれどその響はこの上なく不吉なものを胸にもたらす。
 それでも冷たい雨に濡れること以上の理由で青褪めて、ドラクルは馬を走らせた。ぬかるむ地面を踏んで頬にまで泥が跳ねる。もともと体温の低い身体は蝋を塗って防水を施したにも関わらずずぶ濡れになった外套越しにも染みこむ雨のせいで凍えている。手綱を握る手は氷のようで、噛み締めた唇には血が滲んでいた。吸血鬼の凍えた血が。
 目指す先は、ローゼンティア王城からは少し離れた離宮の一つだった。街中を突っ切るのではなく、一度市街地を出てしまえば後はひたすら森の中を行くので限界まで馬をとばしても誰かを撥ねる心配がないのだけが救いだった。
 雨の道は暗く、夜の空は暗く、誰もいない道は暗く。
 けれどそれ以上に、凍えて真っ暗なのは胸のうちだった。
強すぎる雨が血を叩く音以外全てを世界からかき消し、まるで自分は世界に一人取り残された者のようだった。神の救いもここには届かず、ローゼンティアの魔を封じるはずの薔薇の香りも、この雨に洗い流されてしまっている。
きっと明日の朝は酷いことになっているだろう。国中に咲いている薔薇がこの雨に散らされて、道には赤い残骸が散り敷くのだ。深紅の血のような薔薇色が闇色の土に降り注いで、ぬかるむ大地は底なしの沼のようなのだろう。深く深く、一度沈んだら決してあがっては来られない、そんな泥沼の闇。
 離宮が見えて、ドラクルは一度手綱を引き絞った。門は堅く閉じられていて、強行突破はできない。何よりまず無礼だ。速度を落として守衛室に歩み寄り顔を出して名を告げると、国中知らぬ者のいないその顔を見て、初老の男は仰天した。他の平民ならばこんな激しい雨の中護衛も連れずに一人訪れた世継ぎの王子の姿に半信半疑だったろうが、ここは何しろかのフィリップ=ヴラディスラフ大公の住まう離宮。国王にそっくりな主君にそっくりな第一王子の顔を見間違うわけはない。
 そう、国王ブラムスと、彼の双子の弟であるフィリップ=ヴラディスラフ大公はそっくりだった。同じ血を分け合い、同じときに生まれた兄弟だ。だからこそ、ブラムス王に生き写しだと言われるドラクルもかの大公の若かりし頃に、よく似ていた。
 すぐに屋敷に通されて、飛び出てきた執事がうろたえながらも主君のもとへと案内する。漆黒の壁に赤い絨毯を敷かれた廊下を早足に歩きながら、ドラクルは正面を睨み続けていた。いつも穏やかな彼の様子しか知らない使用人たちは、何事があったのかと擦れ違うたびに驚いた顔をしてとりあえず礼をとる。普段はいちいち笑顔を絶やさないドラクルも、今日ばかりはそれに目もくれない。
「こ、こちらです王子殿下」
「ありがとう」
「あの、本当に湯の支度はせずとも大丈夫なのでしょうか」
「いい。いらない。大公閣下に話があるだけだ。それもすぐに出て行くから、構わずともよい」
「そ、そうは言われましても」
「命令だ。私が大公閣下と話をしている間、誰もその部屋に近づくな。近づくことは許さない。この禁を犯したものは」
 一瞬立ち止まったドラクルの深紅の瞳が、主人もとへ案内する召し使いを睨んで鈍く光る。
「殺す――――」
「ヒッ!」
 十七歳の少年のその眼光がどれほどの迫力だったというのだろうか、執事は恐ろしいものを見たというように、がたがたと震えだす。
 それには構わずに、ドラクルはヴラディスラフ大公フィリップのいる部屋を教えられると、ノックもなしに乱暴にその扉を開け放った。
「おや、ドラクル殿下」
 バンッ、と重厚な樫の扉が軋むほどの勢いで開けて部屋に踏み込んだにも関わらず、中にいたヴラディスラフ大公は涼しい顔をしていた。長靴の音はよく響く。潜めもしない足音から誰かがこの部屋に向かっている事はすでにわかっていたのだろう。そして涼しい顔など、王族のお家芸だ。支配者という存在は、大抵のことでは驚いた顔などしてはいけない。
 けれど今のドラクルの状況は、とうていそんなことを言っていられるものではなかった。
「大公閣下、聞きたい事がある」
「なんです? 殿下」
 執事が青い顔でこの部屋の周囲から逃げたのを確認してから、単刀直入にドラクルはそう切り出した。
「あなたが、私の本当の父親なのか?」
「――――ッ!」
 ヴラディスラフ大公フィリップは一瞬、その瞳を大きく瞠った。
 それは本当に一瞬だけ。静まり返った室内に、ドラクルの外套からぽたぽたと滴る雫が絨毯に染みこむ音さえ聞こえそうなほどの静寂。
 パチ、と暖炉の中で橙色に爆ぜた薪がその静寂を破った。
「ああ……」
 酷く感慨深そうに、フィリップという叔父は呟く。
 叔父だと思っていた、父親は呟く。
「とうとう、お気づきになられたのですね」
「……ッ!」
 遠回しな肯定の言葉に、半ば覚悟していたことのはずなのにドラクルはやはり衝撃を受けた。濡れた髪を振り払うように二、三度ゆっくりと頭を振り、覚束ない様子で後ずさる。
 その事を知ったのは、つい先程だった。伝えてきたのは、妹の第二王女ルース。ドラクルと同じく正妃クローディアから生まれた、同母妹。のはずだった彼女。
 ――あなたに、言わなきゃいけないことがあるの。
 普段から繊細王女などと呼ばれる外見に反して芯の強い妹が、躊躇いながら口を開いた。
 ――あのね、私この前、聞いてしまったの……叔父様と、お父様の話。それに、お母様が―― 
 やめてくれ、と。
 悪夢だ。寝言だ。そんなことは全く根拠のない出まかせだと。
 だけど一刀両断に切り捨てるには、ルースの言葉には真実味がありすぎた。惑うような彼女の瞳に、けれどドラクルを騙そうとするような気配は微塵もない。
 ――ドラクル、あなたは、いえ、あなたも含めて私たちは……私たちきょうだいの半分近くは、お父様の子どもではないのですって。
 こんな雨の中危険だと、ルースの必死の制止の声も聞かずにドラクルは城を飛び出してきた。厩舎に赴くと、驚いている馬番のことも気にもせず、鞍もつけない馬にそのまま飛び乗って雨の中を走らせた。
 空が一度白く輝き、次いで雷鳴が轟いた。窓硝子の向こう、雷が落ちる。窓を背に立つフィリップの表情はその影になって、見えない。この時間だというのに、部屋の中は薄暗く、燭台に一つ火が灯るだけだった。
 フィリップは立ち上がり、腕を広げる。
 ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
 また、窓の外が光った。先程の場所から少しだけ移動した男の口元が今度は見えた。彼は笑っていた。
 冬の雨の中外套一枚で駆けてきたためにずぶ濡れであることも構わず、フィリップはドラクルを強く抱きしめる。
 その腕の強さは、まるでこれまでずっと離れ離れになっていて、やっと出会えた運命の相手を抱くように、強い。
 振りほどけない。
 あの日の父……ブラムスの腕のように。
「ああ。ようやく気づいてくれたのか。我が息子よ」
 その言葉に、ドラクルの膝から力が抜けて崩れ落ちた。
「どうし……て」
「復讐だよ。私の。いや、私とクローディアの。私たちから、兄上ブラムスへの」
 兄王への復讐だ、とうっそりとした笑みを湛(たた)えながら彼は言う。
「復讐……?」
「ああ。そうだよ。本当はあの玉座は、私のものになるはずだったのだから。私の方が兄より王に相応しいんだ。なのに、ほんの数分生まれるのが早かったというだけで、あの男が全てを持っていった」
 フィリップは王になりたかったのだと言う。だが、それで何故母の名が出てくるのだろうか。ドラクルにはわからない。
 ドラクルがローゼンティア国王ブラムスの息子ではなく、ヴラディスラフ大公フィリップの息子である。それと、彼の復讐と、何が。
「噂だけなら聞いたことがあるだろう。十八年前、つまり君が生まれる直前、ブラムスの三人の妃たちは争っていた。もっとも、第三王妃がその頃に身篭ったのはただの偶然で、真に争っていたのは第一王妃クローディアと第二王妃マチルダだけだけどね。彼女たちは王の寵愛を得ようと必死だった。子どもが生まれるのと生まれないのとではその後の立場が全く違う。そして、その子が男であるならばなおさらだ。普通なら正妃であるクローディアの方が立場が上だけれど、それでも彼女に全く子どもができず、第二王妃と第三王妃にしか子どもが出来なかった場合、正妃の立場に意味がなくなってしまうからね。だから彼女たちは焦っていたんだよ。何でもいいから王の子を孕みたくて仕方なかった」
「何でも、いい?」
「ああ。そうだ。例えばそれが、王の目を誤魔化せるならば、王と同じ顔をした王弟の子でもね」
 フィリップはその端正な面差しに、部屋の薄暗さのせいだけではない、陰鬱な影を浮かべて続ける。
「クローディアは子どもを欲しがっていた。何としてでも、第二王妃よりも先に。第二王妃の方も同じだ。兄上とは相性が悪いのか、二人ともなかなか子ができない。だから、私に取引を持ちかけてきた」
「母上、が?」
「ああ。そして私もそれに応じた。最も、取引をしたのはクローディアだけではないが……。兄上は贅沢だね、二人とも家柄は文句無く高貴で美しい女性だというのに、一体何がご不満だと言うのか。全てを持っているくせに、まだ選り好みをしようというなんてね」
 その赤い瞳には、淀んだ光が浮かんでいる。
「だからね、これは復讐なんだよ、ドラクル。全てを奪ったあの男への」
 ブラムス王の弟である大公フィリップは、彼の双子の弟だ。だから顔立ちは瓜二つで、細かな癖や仕草や好みも同じ。
 だからこそ、その子どもとブラムス王の子どもとの区別などつかない。社交界では数々の浮名を流しながらも、大公フィリップにはまだ子どもがいないと公式には言われているが、それがまさか。
「どうして……なんで、私、が……」
「どうして? イヤだな。ローゼンティアきっての聡明な君ならばわかるはずだろう。ねぇ、第一王子、世継ぎの王子、ドラクル殿下。あの男の子どもではなく、私の息子が次の王になる。これ以上の復讐が、あると思うのかい? この血統を重視するローゼンティアにおいて」
 そのために。
「そのために、私は生まれたのか。そんなことの、ために」
「ああ」
 濡れたままのドラクルの身体を、なお強くフィリップは抱きしめる。その強さはフィリップの持つ感慨の強さを表わしていたが、相手を思いやるでもなくただきつく、意志を持たぬ物でも抱きしめるようなその手にドラクルは自分が彼の道具でしかなかったことを悟った。
「愛しているよ。私の息子。私の切り札。さぁ、この父に、我が復讐が成り立つところを見せておくれ。私の息子であるお前が次代の玉座に座るところを。ブラムス王の子ではなく、このフィリップの息子こそが、この国史上最高の王となるところを」
 お前は本当によくできた王子だよ、そう耳元で囁く声に、吐き気がする。男の言葉は歪んだ熱を帯びている。この男の目には、空ろな憎しみしか映っていない。
 そしてまた二言三言、何事かをドラクルに囁く。
「……嘘だ」
「本当だよ。ドラクル、だから」
「そんなこと嘘だ!」
 思い切り叫び、ドラクルはフィリップの腕を振り払った。本気で突き飛ばした男の身体が吹っ飛び、部屋の奥のテーブルに激突する。
「あなたは馬鹿だ! 最低の大馬鹿者だ! なにが復讐だ! 私が陛下の本当の子より優れていて次の王になれればあなたの復讐が成り立つ? 愚かしい。そんなもの、例え正統な子ではなくとも努力で玉座を勝ち取れることを証明するだけじゃないか! つまりフィリップ=ヴラディスラフ、あなたはブラムス王に玉座を奪われたのではなく、あなたがブラムス王に劣っているから玉座を手にできなかったのだろう!!」
「なっ……!」
フィリップが絶句する。凍りつく彼の様子に見向きもせず、ドラクルは踵を返した。
「待ちなさい! ドラクル!」
 待つわけがなかった。
 驚く使用人たちの目も気にせず、ドラクルは走り出す。どこかで誰かにぶつかってもかまいはしない。もう、何があったって。
 生憎と誰と激突することも咎められることもなく、ドラクルは大公の離宮を出る事ができた。厩舎に繋がれ馬番の手から餌を貰っていた馬の手綱を半ば無理矢理奪い返す。常にない彼の乱暴な所作に怒るよりもまず先にぎょっと目を剥いた馬番の様子に構わず、今度は王城へと戻るために馬を駆けさせた。
(父上)
 胸の中にあるのは、ただひたすらに、これまで父親だと思っていた人のことだ。
(父上、父上、父上!)
 ブラムス王は、特段優れていてこの世に代わりのいない名君……というわけではない。
 だけどドラクルは尊敬していた。常に穏やかで、民にも部下にも子どもたちにも優しかった父。確かに第一王妃と第二王妃との仲は芳しくはなかったかもしれない。だけれど、子どもたちには……自分には優しかった。
 こんなこと、何かの間違いだ。 
 あんなのは、フィリップが勝手に言っているだけの虚言だ。母は浮気などしないし、王は間違いなく自分の父だ。
 けれど、また別の声がどこからか聞こえてくる。
 本当にそうか? 彼の胸に影を落とす一つの出来事がある。先日、自分はあの人に何をされた? 夜明けの光差し込む、薄暗い部屋。
 それでも一筋の、髪の毛一本ほどにもすぎないたった一つの希望に縋りたくてドラクルは馬を走らせる。雷の音も土砂降りの雨も気にならない。薔薇の香りは聞こえない。
 王城に戻ってくると、出てくるときと顔ぶれの代わっていない馬番の男たちに無理矢理手綱を押し付け、ずぶ濡れの衣装を着替えもせずに、真っ直ぐに父王の執務室へと向かった。この時間帯は間違いなくそこにいると、彼の仕事を普段から手伝っているドラクルだからこそわかっている。
濡れ鼠で廊下を走る第一王子の姿に臣下たちは仰天しつつ何も言えず、戸惑いながらその背を見送った。普段温厚なドラクルが、怒りと不安を織り交ぜたような顔を人前ですることなど滅多にない。
「ドラクル――」
途中、そもそもこの事態の発端となる情報をもたらしたルースと擦れ違ったが、彼女のことさえ今のドラクルは無視した。
「父上!」
 悲鳴のような声で叫びながら、執務室の扉を挨拶もなしに開ける。中にはブラムス王ともう二人、執務を手伝う大臣たちがいた。これまで廊下で会った使用人たちと同じようにぎょっとする彼らには構わず、ブラムス王は顔を上げて自らの息子とされている少年の様子を見る。その顔は、普段と変わらない。
「どうした? ドラクル。執務中は親子であっても王と臣下だ。気安く呼んではならぬ、と言ってあるはずだ。……お前、ずぶ濡れじゃないか? どうしたんだ?」
 外套も髪も何もかも濡らして全身から水を滴らせ、青褪めた様子のドラクルにブラムスはいたって普通に声をかける。先日とは打って変わって、これまでどおり、十七年間ドラクルが父親として尊敬していた頃のブラムス王の態度だ。変わらないその様子に、思わず涙が溢れそうになる。
「ち……いえ、国王陛下。失礼、いたします。ですが……内密に、お話したいことが、ございまして……」
 切れ切れになんとかそれだけ言うと、ブラムス王は二つ三つ部下に指示を出して席から立ち上がった。
「わかった。話を聞こう。ただしその前に、その格好を何とかしろ。身体を壊してしまうぞ?」
「は……い。ですが、早急に、確認したいことが……」
「わかった。話なら聞く。だがその濡れ鼠のままでは話にならん。ひとまず私の部屋に一緒に来い。そこで着替えながら話せ」
「はい……」
 ドラクルの腕を掴み、ブラムス王は僅かに早足になりながら自室へと向かった。途中行き会った侍女にドラクルの分の着替えを用意するよう告げる。部屋へ戻るとすぐに、ドラクルの外套を脱がせる。分厚い外套を脱ぎ捨て、同じようにずぶ濡れの長靴もこの際だからと脱いでしまったところで、先程の侍女が着替えを置きに来た。
「下まで見事に水浸しじゃないか。一体何をしたらこうなるんだ?」
 シャツもズボンも、もちろん大きな声では言わないがその下の下穿きまで。あれだけの土砂降りの中を外套一枚で遠乗りしたのだ。雨の勢いはいまだ止まず、雷はごろごろと鳴っている。獰猛な獣のように灰色の夜空が唸り、時折神の火のように光る。
 やれやれと言った表情で侍女にまずは外套を運ぶように指示してから、ブラムスはからかうように聞いた。男物の外套、しかも濡れたものは華奢な女性の手にはあまる。他に人手がないためか、外套と長靴だけをまずは洗濯室へ置きに行こうとする侍女の足音が遠ざかる。
「……レンフィールドの離宮で、叔父上と話をしに馬を駆けたらこうなりました」
 せっかく持ってきてもらった着替えの服にも手をつけないままに、ドラクルは言った。
「レンフィールド……? フィリップのところか? 何をしに、行ったと?」
 その名を出した瞬間、スッとブラムスの眼差しが険しくなる。
「私、の」
 詰まる喉を懸命に宥め、ドラクルは口を開いた。
「私の、父親は――」
 けれど最後まで言わせてはもらえなかった。
「聞いたのか」
 ダンッと音を立てて体が扉脇の壁にぶつかる。いや、ぶつけられる。骨を折りそうな勢いで、ブラムスはドラクルの肩を掴んでいた。
「誰に聞いた。フィリップか。それともクローディアか」
苦痛に、ドラクルは秀麗な面差しを歪める。
「父上、知って……」
「ああ。そうだ。もっとも、気づいたのはつい最近のことだがな。あの二人の企み、弟と妻の私への裏切りに気づいたのは」
 ブラムスの顔が一瞬にして歪む。その歪み方は苦痛に眉根を寄せるドラクルとは違い、どこか触れない場所に患部があって、いつまでもその痛みを抱えている者の歪み方だった。
柔和で温厚と言われる常の様子とは一変して、彼はこれまで息子と信じてきた甥の肩を掴む。ぎりぎりと肉に指が埋まり、ドラクルはますます眉根を寄せた。
「ふざけた真似をしてくれたものだ、あの二人。復讐だと? そんなことのために、私に実の子でもないお前を育てさせ、王位継承権まで与えさせたというのか」
 ブラムス王のもう一方の手も、ドラクルの肩にかかる。しかしその手は肉に食い込み骨を軋ませるものではない。濡れた服の上から、温い熱を伝えてくる。また、いつかのようにぞくりと、背筋に得たいの知れない悪寒が走った。気分が悪い。
 できるなら今すぐこの場から逃出したかった。だが、肩をつかむブラムスの両手がドラクルを離してはくれない。
「愚かしい。フィリップが王位につけないのは、あいつの才能のせいだ。正々堂々と私から玉座を奪う器量もないのなら黙っておればいいものを。双子だと言うのを利用するというのなら、さっさと私を殺して身代わりにでもなんでも玉座を奪えばよかったのだ。それができないのは、あいつの実力不足だ。それを私のせいだなどと、逆恨みもいいところだな」
 それは、ドラクルもそう思う。やはり十七年間この人の息子として育てられたのは伊達ではない。だが。
「だからなのですか? だから、私を……」
「ああ。そうだ」
 紫の夜明けが眩しかった。終わった後は、ただひたすらに身体が痛かった。無理矢理寝台に引きずり込まれ、言葉にならない恨みと憎しみをぶつけられたあの日。
 あれは、まさかブラムスがドラクルのことを、実の息子ではないのだと知ったからだったのか。
 男は酷薄に笑う。
 父と信じていた男は、酷薄に笑う。
「お前はいずれ廃嫡だよ。ドラクル」
 残酷に、はっきりと、あっさりとそう告げる。
「え……」
「当然のことだろう。お前は私の息子ではないのだから」
 極々当たり前のこと。そう言われれば、そうなのかもしれない。けれど、ドラクルの頭は混乱する。告げられた言葉を俄かには受け入れがたく、目を見開いて父だと信じてきた男の冷徹な表情を眺める。
「私は……十七年間、あなたを父親だと思ってきました……」
「ああ、私も、お前を息子だと信じてきたよ。ある日偶然、弟と妻の話を聞いてしまうまではね」
「今でも、あなたを父親だと思っています……」
「私は、もうそんな風には思えない。お前は……お前は私とクローディアの子では、なかったのだから!」
 やっと肩に食い込む指が離れたと思ったら、その腕はドラクルの顔のすぐ横の壁を、穴が開きそうな程強く叩いた。その行動に、様子に、ブラムスの全身から滲む憤りと悲哀が伝わってくる。その悲哀がドラクルの口を塞いだ。
 いくら顔が似ていようと、それでも駄目なものは駄目なのだと。
 間違ったことは正さなければ。間違ったものは、正しい場所に戻さなければ。
 だから本当の息子ではないドラクルは、廃嫡される。
「では……このローゼンティアの、次の王は……誰になるのですか? アンリ?」
 掠れた声で尋ねたドラクルに、ふっと顔を上げたブラムス王は疲れた顔で告げる。
「なんだ……そこまで聞いたわけではないのか……? ロゼウスだよ」
「え……?」
「フィリップと通じて私を裏切った恥知らずはお前の母クローディアだけではない。第二王妃も奴の誘いにのった尻軽だ。アンリも、ヘンリーも私の子ではない」
「な……」
「第一王女のアンは私の子だが、テトリアなど歯牙にもかからぬ小貴族。それに女だ。私を裏切ったとはいえ、クローディアのノスフェル家の血は惜しい。私の血を引く者で一番玉座に相応しいのはロゼウスだ。ミカエラは病弱だからな」
 第一王妃の息子第四王子ロゼウス、そして第三王妃の息子第五王子ミカエラ。まさか、七人も王子がいてこの二人しか本当にブラムス王の血を引く者はいないというのか? ドラクルは愕然とした。
「クローディアは忌々しいが、ノスフェルの血はローゼンティアでも特別だ。その血を引くロゼウスならば、教育次第で、いずれはお前を凌ぐ王子となるだろう」
「……あなたは、ノスフェル家の血統欲しさに母上と結婚したのですか?」
「それがどうした。政略結婚など、王族にとっては珍しくもなんともない。向こうもそれはわかっていたはずだ。何か悪いとでも言う気か?」
「……いいえ」
 言えない。何も。ブラムス王の言葉がいくら打算と欲に溢れていようと、それは母の方でも同じ。
 権力欲と虚栄心が強いという母の性格はドラクル自身が一番よく知っている。彼女が王の寵愛を得られないことに焦り、大公と通じたという話も、だから本当なのだろう。
 ただドラクルは知らなかったし、知りたくもなかったのだ。これまで頭では理解していた事実とはいえ、自分たちの両親の溝が、ここまで深いものだなどと。
 日々外交官と並び世界の中でどれほど困窮した国々の様子を見ようとも、家族不仲な者たちを見ようとも、自分の周囲だけはそんなことはないのだと信じていた。
 ぱたぱたと廊下をやってくる軽い足音が聞こえる。壁に頭をつけられているものだから、より一層はっきりとしている。先程の侍女が汚れ物を取りに戻って来たのだろう。これを機に抜け出そうにも、顔の横に置かれたブラムスの手が阻む。その片方がふいに素早く動いて、ドラクルの口をきつく塞いだ。
「陛下、王子殿下のお召し物を預かりに参りました。……陛下?」
「いらないよ。今は、大切な話をしているんだ。後でまた呼ぶから、今は休んでいてくれないか?」
「は……本当によろしいのでしょうか?」
「ああ。後で」
「それでは失礼いたします」
 ノックの後聞こえてきた侍女の声には優しく答えながら、ブラムスの手はドラクルの口を覆ったまま離さない。彼が口を出せないままに、王は侍女を追い返してしまう。
 そして彼女の気配が立ち去ると、口元を離れた手に安堵する間もなく、ドラクルは背中から床へと叩きつけられた。
「うあっ!」
 厚い絨毯が敷かれてはいるものの、その下は黒曜石に似た輝きを放つ石の床だ。痛くないはずがない。けれどブラムス王はこれまで息子だと信じていた者への乱暴にも頓着せず、その身体にのしかかり、身動きできないよう仰向けに床に縫いとめた。
「な、何を……」
 濡れた服の上から、冷たい肌の温もりが伝わる。気味が悪いほどに優しく、彼はドラクルの頬を撫でた。
「何を? この体勢で、そんなこともわからないか? ……この前のあのことを覚えているかい? それと、同じ事を」
 紫の夜明け。開け放された窓から差し込む、地獄のように眩しい光。テーブルの上に転がる酒瓶と割れたグラス。天蓋付の寝台の敷布は乱れ、薄暗かった。
 身体を引き裂くあの痛み。
「――……イヤだ!!」
 叫んで突き飛ばそうとしたのに、完全に馬乗りになられたこの体勢のせいかもともとの腕力差か、びくともしない。逆に抵抗を封じるためか、頬を強くはられた。吸血鬼の回復能力も人間と違って尋常ではない速さとはいえ、怪我をしないわけでも、痛みを感じないわけでもない。これまでずっと優等生で通してきたドラクルは、こんな場面で思いもかけず殴られたことに動揺する。
「な……で……」
「……もう、お前は私の息子などでは、ないのだから……」
 これまで父と信じていた人の、その呟きの意味もわからない。言葉が全て、頭の中を通り過ぎていくようだ。
倒れ付したドラクルの白銀の髪が、赤い絨毯に乱れ散る。濡れた服は肌に張り付いて、乱れた襟元から覗く首筋が艶かしい。
 布を引き裂く音がして、着ている衣装を無理矢理剥ぎ取られた。ずぶ濡れになって冷え切った肌に、男の手が触れる。
 雷がまた遠くで光り、唸りをあげた。一瞬の強い白光の中見た男の顔は、酷く苦しげで悲しげだった。
 ……どうして。
 何故、あなたがそんな顔をする。そんな、今にも泣きそうな顔を。辛いのは私の方だろう。いきなり自らの存在価値を否定され、全てを奪われたのは。
 耳元で低く囁かれる。
「……ロゼウスを教育するのは、お前の役目だ、ドラクル」
 びくりと、身体が強く震えた。
「あの子をお前に代わる完璧な、最高の王にしろ。お前の全てを、あの子に。それが私からの、私から全てを奪おうとしたフィリップとクローディアへの復讐だ」
「復讐……」
 力なく鸚鵡(おうむ)返しに呟くドラクルの耳元で、ブラムス王はさらに熱をこめて語った。
「そうだ。例え一度は偽りの世継ぎの王子を立てたとしても、それに匹敵するほど、いや、それ以上に優れた王が跡を継ぐのならばそんな失態はなかったことになる。……ドラクル、お前にはヴラディスラフ大公として、今はフィリップの奴が持っている莫大な権利をやるから」
 フィリップたちは、自分たちの密通が私に知れても、お前のことまではまだ明るみに出ていないと考えている。あの二人の屈辱に歪んだ顔が見たいんだ。自分たちの子どもが玉座に着くと悦に浸っているあの二人の、一転して地獄に落ちたような表情が見たい。
そう、熱病に浮かされた男は狂気の言葉を滔滔と口走る。
「だからお前も協力しろ。私が憎いのはあの二人。私を裏切ったのはあの二人だけなのだから。ああ、そうだ。お前に罪がないことなどわかっている。王子ではなくなっても、お前の事は決して悪いようにはしないと、約束するから……」
 また雷が光った。その光の中、自らを組み敷く男の頬に、ドラクルは一筋、光る跡を見た。
 そして世界が暗転する。

 ◆◆◆◆◆

 父王の私室を辞した後、ドラクルはふらつく身体を壁に手をついて支えながら何とか自室へと戻った。
 すれ違う者にそれこそ片端から顔色の悪さを心配されたが、それに答える気力もない。こんな時は、普段の自分の人望の厚さを呪う。いっそ誰にも顧みられないような最低最悪の不良王子だったならば、このような事態になっても、ここまで傷つくこともなかったのに。
 誰にぶつければいいのかもわからない恨みを抱いて自室の扉を開くと、客がいた。
「あ、兄様!」
 人の事情を知らず、邪気のない顔で駆け寄ってきたのはロゼウスだった。そうだ。今日もあの時、ルースにあのことについて言われるまでは何一つ変わりない一日を過ごすつもりで、だからロゼウスもいつも通りこの部屋までやってきたのか。ドラクルは一応は納得したものの、それでも今この弟の顔を見ると酷く気が滅入った。
「兄様、どうしたの? ……血の匂いがする。どこか怪我を――」
「触るな!」
 自分に触れようとしたロゼウスの手を、ドラクルは思わず思い切り強く振り払ってしまった。突然のことに吃驚(びっくり)として、ロゼウスがぽかんと口をあける。
「あ……ご、ごめ……ロゼウス、ごめん……本当に……」
 謝ったものの、痛かったのか驚きのあまりか、ロゼウスの瞳はすでに潤みかけている。ドラクルは頭を抱えたくなった。今ここで泣かれたりしたら、どうしていいかわからない。
 しかしロゼウスは泣かなかった。
「う……ううん。ごめんなさい。急に触ろうとしたりして」
 しおらしく謝る彼の姿に、ドラクルは全身の強張りが解け、一気に力が抜けた。思わず、その場にへたり込む。
 毛足の長い柔らかな絨毯に腰を落ち着けても、まだ全身の痛みがとれない。鞭打たれた背は、燃えるように熱い。
 けれど吸血鬼の怪我はだいたい数時間から数日で跡形もなく治ってしまうから、これもきっと誰にも知られずに消えていくのだろう。
 出生のことは、ブラムス王だけでなくドラクル自身にとっても不利なことだ。誰かに言ったその瞬間に、彼はこの王城から、王家から放り出される。よほど上手くやらねば、四方八方から批難を受けて野晒しだ。
「兄様?」
「ああ……ううん。なんでもない」
 言えるわけがない。
 もしもこのままの生活を維持したいと願うなら、誰にも言えるわけがない。
 それでもいつか終わりは来るのだ。ブラムスはいずれはドラクルを廃嫡にすると言っていた。ドラクルが動かなくても、彼が動くならば世界は変わる。いずれ必ず、終わりは来る。
 どうしようもない。
「兄様」
 ロゼウスが一度躊躇う素振りを見せてから、それでもおずおずと両手でそっと、ドラクルの腕に触れてきた。
「ここにいるからね」
「……ロゼウス」
「俺はずっと、兄様の味方だよ」
 にっこりとロゼウスは笑う。無垢な、邪気のない笑顔。心からの誠実さ。何の打算もない言葉。真っ白な、可愛らしいロゼウス。
 けれどこの、これまで弟だと思っていた生き物が、いずれは自分から全てを奪っていく。
しかも父だと思っていた人は、そのためにドラクルにロゼウスを教育しろなどという。ふざけた話だ。それが復讐だなどと。
 ……復讐。
 その時、悪魔が囁いた。
魔族と呼ばれる吸血鬼の彼らであるが、魔力を持つという魔族と、人をたぶらかす存在である悪魔とは、根本的に違う。けれどこの時確かに、悪魔がドラクルの耳元で囁いたのだ。
喉が酷く渇く。
できるなら血が吸いたい。そうして殺戮の衝動に狂ってしまいたい。けれどそれはできない。だから。
「ねぇ、ロゼウス」
 先程自分がブラムス王にされたように、ドラクルはその身体を引き寄せ弟の頬をそっと手で包むと、優しく撫で上げる。
 違うのは先程の自分と違って、弟は素直にそれを受け入れ、気持ち良さそうにドラクルに身体を預けているということ。
「私のこと、好きかい?」
「うん、大好き」
 ロゼウスは何の含みもなく頷く。
「そう……だったらね……」
 フィリップは言った。これは復讐なのだと。ブラムスは言った。これは復讐なのだと。
 彼らはドラクルを王太子の地位につけることによって復讐と為し、またそれを奪うことによって復讐と為している。
 ならばこれもまた復讐だろう。
 ブラムス王が自らの真の後継者として溺愛しているロゼウス。この王子を……
「兄様?」
 唐突に自らの唇に押し当てられた唇の感触に、ロゼウスが不思議そうに小首を傾げる。その身体を、ドラクルは優しく抱き上げた。寝台の方へ運ぶ。
「いい? ロゼウス。大人しくしているんだよ?」
「兄様? お勉強は?」
「今は、こっちの方が大事なんだよ」
 白い薔薇も赤い水を吸わせれば赤くなる。
もとがどんなに清廉(せいれん)で無垢であっても、だからこそ汚すことは容易い。そして幼い弟の心を捕らえて操るなど、それまで策謀の世界で渡り合ってきたドラクルには、本来造作もないこと。
だから。
「ねぇ、ロゼウス。これは私とお前だけの秘密だよ」
「? うん」
 きょとんとしているロゼウスの額に口づける。あいた手は、幼い王子の服の襟元に。
 黙っていれば、いつかこのロゼウスに全てを奪われる。だけれど、そうならないようこちらから反撃にでるのならば。
「約束だよ? ロゼウス。これからすることはね、誰にも言ってはいけないんだよ?」
「誰にも?」
「うん」
「……ロザリーにも?」
 一番仲の良い妹の名前を出したロゼウスに、ドラクルは言い聞かせるように微笑みかける。
 ブラムス王はわかっていないのだ。
 人の心を掴むならば、例えその行為の最後がどこに行き着こうとも、最初に与えるのは鞭ではなく甘い甘い飴でなくてはならない。
 そう、神経を麻痺させ、脳髄をとろかせ、冷静な思考力も判断力も逆らう気力さえ湧き起こさせないような、甘い飴を。
「ああ。ロザリーにも、ルースにも、お父様にも、召し使いにも、誰にも言っては駄目だよ。これは、私たち二人の秘密だ」
「ひみつ……」
「そう、だから、内緒だよ……可愛いロゼウス、お前は私のものなんだ。私がおまえのものであるように」
「兄様が俺のもの?」
「そう。そしてお前も、私のもの」
 秘密、そしてお前の物だという言葉。「特別」という言葉にはいつの時代であっても誰であっても弱い。特に子どもは、そう言ったことに敏感だ。長年長男として弟妹の面倒を見たドラクルだからこそわかる。思い通りに誘導されるロゼウスの様子に、内心で愉悦に暗く嗤う。
 お前は地獄へと落ちる道連れだ。
「うん、約束する」
 綺麗な翅を持つ獲物は、あっさりと蜘蛛の巣に引っかかった。
「誰にも言わない。みんなにも、ロザリーにもひみつ。ずっとずっと」
「そう」
 復讐が静かに幕を開ける。