004
皇暦三〇〇二年。
「ところで、アウグスト=カルデール公爵。 もしお前に、愛して愛してとっても愛してやまないのに、決して自分とは添い遂げない相手がいたとしたらどうする?」
「は? いきなり何の話です、ドラクル様」
白い毛皮を敷いた豪奢な椅子に腰掛け、ドラクルは第一の部下に尋ねた。二十六年間変わらない彼の私室に、今は公爵となったアウグストが訪れている。
季節はあの頃と同じ、冬の最中だった。窓の外灰色の夜空にしんしんと雪が降り、あと二月もすれば新年を迎える。そうすればまた彼らは一つ歳をとる。帝国の民である世界中の人間や魔族は、生まれた季節や日付に関わらず新年を迎えると一つ歳をとるのだ。
来年になれば、ドラクルは二十七歳になる。そして、「弟」のロゼウスは十七歳だ。
「ただの世間話だよ。もっとも、狭すぎる世間かも知れないけどね。それで、どうするんだい?」
暖炉には煌々と火が燃えていた。時折薪が
爆ぜ、パチパチと音を立てる。暖炉の炎が明るくて燭台に灯す火を少なくした室内、二人の間に手慰みに広げた遊戯盤の上で、滑らかな石でできた駒が虚しく立ち尽くす。これを広げることも随分少なくなった。いまだドラクルが教育を任されているロゼウスと打つことはあるけれど、もうアンリやヘンリーとはこんな遊びに興じることも滅多にない。
今でもこうしてドラクルに呼ばれればそれがどんな状況でも馳せ参じ、彼の小さなわがままから大掛かりな仕事までこなすのは部下であるアウグストくらいのものだ。現在二十歳である彼は、十四歳で正式なカルデール公爵位を継いだ。寿命五百年の吸血鬼族の中では若すぎる公爵の誕生に、王族からの後見としてドラクルが尽力したのは言うまでもない。
だからこそ、アウグストは今でもドラクルに頭が上がらない。もともと王族と臣下なのだから上げてはいけないのだが、それを置いても彼のドラクルに対する忠誠は有名だ。カルデール公爵アウグスト卿はドラクル王子の懐刀であり、ヘンリー王子の友人でもある、と国の者には認識されている。
そんなドラクルの第一の部下アウグストは、半ば放り出されたゲームの盤面を見つめながら、しばし考える様子を見せてから言った。
「そうですね。……添い遂げない理由にも寄りますが、自分を嫌って逃げようとする相手なら、手足斬りおとして鎖に繋いで未来永劫監禁、というところではないですか?」
十年前の、理知的だが大人しげな少年だった彼の様子からは想像もできない言葉をアウグストは吐く。そしてドラクルも、笑みながら品行方正とはかけ離れたそれを聞いている。
「人間ならそれでもいいかもしれないが、普通手足斬りおとしたら相手が死ぬだろう。私たち吸血鬼は、出血に特に弱い種族だ」
「そうなんですよねぇ。そこが問題で。なら薬漬けにして精神破壊。いっそ、相手が二度と自分以外の者を見る事がないように殺すとか」
末期の吐息も、青褪める頬も、温もりを失う身体も、憎悪に染まる瞳も、せめてその全てを自分のものに、と。
手に入らないのならば殺してしまった方がいい。その方がいっそ楽で確実、他の誰かに奪われると心配する必要もない、などとアウグストは笑う。
「なるほど。お前は、自分の欲しい相手に対し遠慮と言うものをまったくしないタイプなんだな。相手の幸せを考えて身を引く、や醜聞を立てられるのが怖くて想いを断ち切る、などという選択肢はないんだ?」
「ああ……そういう考えもありましたか。そんなことを言ったって、無理ですよ殿下。この私が本気で、一人の女性をそうして思いつめるほどに、愛したことがあるように見えます?」
「さっぱり」
「でしょう」
「なら、お前は一体誰が好きなんだ? 女好きのカルデール公爵。お前ほどの家柄と容姿、実力を備えているならこの国の誰とだって婚姻を結べるし、もし相手方に断られたとしても王家の力で後押ししてやるが? 可愛い部下よ」
今年で二十歳の青年公爵は、顔も家柄も才能も文句なしの人物として貴婦人の話題を攫っておきながら、いまだに決まった相手を持たないことで知られている。誠実などという言葉とは程遠くどちらかと言えば浮いた噂を立てまくりだが、それでも相手を一人には絞らない。だから傍から見ている者には、アウグストが一体誰を想っているのかさっぱりわからないのだ。
「あなたとヘンリー」
話の流れでドラクルが尋ねると、いたって真面目な様子でアウグストはそう返してきた。
「そうか。私が好きなのか。ふむ、金貨五枚で抱いてやるし、倍額出すなら抱かせてもやるが?」
なので、ドラクルはドラクルでいたって真面目な様子でそう答えてみた。男同士だの主君と臣下だの悪い冗談だの、今更そんな答、面白くもなんともない。
自分から話を妙な方向に逸らしたくせに、アウグストは呆れたような声を上げる。
「そういう意味じゃありません……っていうか殿下、金貨十枚なんですか? 王国の第一王子が、金貨十枚。せいぜい色街の高級娼婦の値段程度って……そんなお安くていいんですか? そりゃあ、最近の第一王子ドラクル殿下の淫蕩ぶりは有名ですが」
暖炉の中の薪は殆どがもう炭となっていて、火の勢いが弱まり始めた。公爵であるアウグストは、手ずから薪を足しにいく。ここにいるもう一人は第一王子殿下で、まさか彼にそんな使用人の役目をさせるわけにはいかない。そして話している内容が内容だけに、誰か世話役の侍女を呼ぶのも憚られる。
世界はいつの間にか閉じていた。身の回りの世話ですら、誰かにさせるのも厭わしいほどに。アウグストはそんなこともないが、ドラクルはこの十年近く、ほとんど他人に自らの肌を触らせたことはない。表向きには。
一方で彼はローゼンティアの中でも腹に一物抱えた連中が集う世界に出入りして、とても王子が行うとは思えない背徳を繰り返していることもアウグストは知っている。
そして彼がもう十年近い前のあの日から、そんなことを仕出かすようになった訳(わけ)さえも。
「有名とは言っても、お前が出入りするような世界での有名だろう? ならば問題ない。それに、得だと思わないか? アウグスト。例えば金貨十枚で、寝所を共にした政敵の一人を確実に葬れるのならばさ」
「そういう意味の値段ですかい」
「ああ。それに、そうでなくてもどうせ私の値段などそんなものだ」
あの日から、真実はドラクルを苛んでいる。
いくら表の努力を人に称えられても癒えることはない。いくら評判の美女と閨を共にしても温まることはない。いくら事業に成功し富を築いても満たされることはない。いくら気心知れたアウグストや妹のルースが慰めても救われることはない。
むしろ、そんなことを重ねるたびに、ドラクルの中では果てることのない渇きが増すばかりだ。何をやっても、それがどんなに成功しても本当に彼の手に入るものなど何もないのだと。
「……殿下」
「なぁ、アウグスト。お前は先程私に言ったな。好きな相手が自らの手に入らないのならば、拉致監禁し脅迫し、手足を斬りおとして鎖に繋いででも自らの下に留め置くのだと。貞操帯も麻薬も生温い。欲しいもののためには何だってしてみせる、どんな悪でも行ってみせ、そのために相手が疵物(きずもの)となっても構わないのだとお前は言った」
だからこそ、彼は渇きを癒すために求め続ける。
魔を封じる薔薇の味のまやかしではなく、とろけるように甘い血を。吸血鬼の喉を満たすのは薔薇の封印ではなく。流される赤い血。
「……ええ。言いました」
「例えばその相手というのが、自分と相手の親の意志によって結婚を決められ、婚約したはいいが引き離された元婚約者だったとしても」
「前提条件は、その政略結婚の相手を自分が愛した、ということですか。そうですね。ならばなおさら死に物狂いで取り戻しますかね。だって一度は私のものになった相手を、他人の勝手な都合で取り上げられるなんて許せない」
「ああ。そうだ。私も許せない」
「殿下?」
アウグストの言葉に、ドラクルは翳りを帯びた笑みを浮かべた。長い睫毛を伏せた端麗(たんれい)な容貌が毒々しいほどに赤い唇の端(は)を吊り上げる。
「だから取り戻そうと思うんだ――一度は私に与えられたのに、その後、勝手な都合であっさりと取り上げられた権利を」
窓の外にはいまだ白い雪が降り続く。土砂降りの雨よりも、あるいはその静寂は五月蝿い。静か過ぎるあまりに世界を閉ざす。
「ドラクル様」
「私から取り上げられた最高の伴侶。このローゼンティア王国そのものを」
*
風が少し強いから、弦は思い切り引き絞らねばならない。雪明りが予想以上に明るいことだけが救いだったが、それでもしんしんと降る白い冬の精霊たちは、彼が的を狙って意識を集中するのを邪魔する。
繊細な感覚を必要とする弓の訓練では、厚手の手袋などつけられない。剣にしろ槍にしろ武芸に関しては全般的にそうだろうが、それでも弓は特別だ。何しろ一射放ったらもう修正がきかず、鏃(やじり)の尖端は小さいだけに的を射る正確さが要求される。
新しい矢をつがえ、ロゼウスは精神を集中した。一度白い瞼を下ろし、その印象的な深紅の瞳を閉じる。
雪に溶け込みそうな白銀の髪が微かな風に靡いている。外套の裾もはためいて、雪は横から来て頬を叩く。けれどロゼウスは気を抜くことなくゆっくりと慎重に弦を引き絞り、カッと目を見開くと鋭い視線で的を射抜きつがえた矢を放った。
白い羽を持つ矢は、狙い違わず遠く離れた的の中央に当たる。
「やった……ッ!」
真っ直ぐに的の中心を射抜いた自らの矢の軌跡を目の当たりにして、ロゼウスは小さく歓声をあげた。しかしそれを聞く者も、この光景を見てその腕を褒め称える者も生憎とこの場にはいない。
当然だった。いくらいつでも武器を使える腕が必要だとはいえ、こんな天候の中で弓の稽古をする物好きなどいない。そこまで過酷な訓練を兵士たちにさせる教官もいないとくれば、こんな雪の中でよりにもよって弓の稽古をしているロゼウスの方が異常なのだ。
彼だって本当はこんな寒さと雪の中、見守る者も肩を並べる相手もいないのに黙々とただ一人弓を射続けるのは辛い。けれどそれでもこれは、兄に言いつけられたことなのだ。
今日は弓の稽古をしていろ。その通りに夕方からこの真夜中まで、食事もとらずにひたすら遠く離れた的を相手にしている。兄様の言う事なんだから、間違いのはずはない。これは必要なことなんだ。ロゼウスは自分に言い聞かせる。かじかんだ白い指先はすでに擦り切れて血が滲んでいた。
あまりの寒さに、射る人間の方だけでなく、弓の方も限界だ。張り詰めた弦は定期的に休ませて解すかどうにかしないと、凍り付いて切れてしまう。あと一射でこの時間の目標を達成するロゼウスは、最後の一矢と思って弦を引いた。
そこへ、弦から指を離し安堵する直前の絶妙のタイミングで声がかけられた。
「ロゼウス!」
「わぁッ!?」
突然かけられた強めの声に、驚いたロゼウスは集中を失う。下手な離し方をしたせいで、弓が暴れて弦がぶつりと音を立てて切れた。その拍子に、ロゼウス自身も指先を引っ掛けて傷を作る。
「いっ……」
「おやおや」
鮮血が零れて、白い雪の上に落ちた。ぽたぽたと垂れたそれは白い画布のような雪に、赤い花を描く。すぐに水気に溶かされて、赤は薄紅色となった。ロゼウスはのろのろとそこから視線をあげ、負傷した手をもう一方の手で押さえながら先程声をかけてきた相手の方へ目を移す。
「ドラクル兄様」
「やぁ、ロゼウス。稽古ははかどっているかい?」
わざと気配を消して一部始終を見ていたくせに、ドラクルはそう言った。雪景色に紛れる白い外套姿で歩いてきたドラクルは、ロゼウスの怪我をした右手をとる。白い肌を伝う赤い血に唇を寄せると、熱い舌で舐め上げた。
「兄様……」
ロゼウスは一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐに大人しくそれを受け入れた。寒さで青褪めていた頬に、薄っすらと朱が差す。
ロゼウスはドラクルに逆らえない。表向きの立場もそうだが、何よりも気持ちの上で。この九年間、もうすぐで十年にもなるこの時間、ドラクルはずっとロゼウスの面倒を見るという名目で彼の生活に干渉し続けた。今ではもう、ロゼウスはこの国の他の誰よりもドラクルの虜となっていて、逆らう気など起きるはずもない。
吸血鬼の再生能力は人間の比ではない。先程の傷口も、ドラクルが垂れたその血を舐めつくす頃にはほとんど塞がった。
「ちゃんと練習していたようだね」
「はい」
これまで部屋でぬくぬくとしていた手で、氷のように冷え切ったロゼウスの頬へとドラクルは触れる。吐く息も白い寒空の下、サボることもなくひたすら稽古に励んでいたロゼウスを一通り褒めると、離れた壁際にかけられた的の方を見た。
幾つかの的は、その中央部を矢で射抜かれている。もちろんこんな天気の中、この訓練場で弓の稽古をしていたのはロゼウスしかいない。
「へぇ。結構な命中率じゃないか」
「俺なんて。ドラクルに比べたらまだまだ」
褒められてロゼウスが表情を綻ばせる。紫色になりかけた唇が、それでも謙遜でない言葉でそう言った。
ドラクルは凍え切った弟の身体に、自らの持ってきた外套を着せかけた。そして驚くロゼウスの手から弓をとりあげると、切れた弦を張りなおす。ロゼウスの矢筒から矢を一本抜き出すと、流れるような動作で構えた。そして特に前置きもせず、射る。
トン、と小気味良い音を立てて、ドラクルの放った矢は見事に的の中央部を射抜いた。続けて新しい矢をつがえると、特に気負いもなくまた射る。今度は隣の的。その次はその隣の的。その次はその隣の隣の的。やがては訓練場にかけられた、中心が空いている的の中央部全てを埋めてしまう。
ロゼウスはぽかんとした顔で、その様子を見守っていた。一矢射るのに精神を集中するのが必要だったロゼウスに対し、ドラクルは気を抜けばそれが弓を引いているのだということを忘れそうなほど自然な動作で矢を射た。トン、トン、トン、と一定のリズムさえ作って、全てが例外なく的の中央を射抜いている。
「兄様、すごい!」
「私はまだ手が温かいから、お前よりコントロールが利くだけだよ。弓は速さと正確さが命だからね。剣なら多少からぶっても胴を狙えば大抵どこかに当たる。けれど弓は、的を外したらそれまでだからね。急所を射抜かなければたいしたダメージにもなりはしない」
「はい! 俺もドラクルみたいにできるようになるまで頑張る!」
この九年間、ドラクルはずっとロゼウスの教育係だった。勉強も政治も武芸も戦術も、ロゼウスはその全てをドラクルから教わってきた。さすがに芸術方面には疎いが、そちらはまた別の兄弟姉妹の方が詳しい。ただ国の運営のことに関しては、ロゼウスは今この国でも、滅多に敵う者のいない程の知識を有している。
何しろ彼の教師は、即位すればローゼンティアきっての名君となるだろうと言われるこの兄、ドラクル=ノスフェル=ローゼンティアなのだから。どんなことがあっても、ロゼウスにとってドラクルは大好きな自慢の兄で、ローゼンティアと王家の誇りで、誰よりも大切な存在だった。
「うん。そうしよう。でもロゼウス、今日はもう終わっていいよ。一応の目標は達成したんだろう?」
「はい」
「じゃあ、部屋に戻ろうか。いい加減寒いだろう?」
優しい言葉をかけられて、ロゼウスが口元を緩める。遠い昔にわがままを言って昔の兄の髪型を真似て以来ずっとそういう姿のロゼウスは、感覚までも麻痺してきてたださらさらと頬に擦れるのを感じるだけの髪を揺らし、頷いた。
「う……うん」
「ほら、行くよ」
ロゼウスも現在十六歳、後二ヶ月すれば訪れる新年を迎えれば、十七歳になる。けれどドラクルは彼が子どもの頃にしたようにその手を引くと、自らの温かい手でロゼウスの凍える手を掴んだ。兄の手に引かれ、ロゼウスが嬉しそうに顔を綻ばせる。
しんしんと降る雪の中、積もり続けて足跡を消すその白い氷の花びらの中を、二人の兄弟は歩く。風に外套の裾がはためき、髪が嬲られた。頬が切りつけられるように痛い。
「部屋に戻ったら、さっきアンがメアリーと一緒に焼いたという焼き菓子でも食べて身体を温めなさい」
「はい。あの、ドラクル……でも俺……」
「いいから。お前は只、私の言うとおりにしていればいいんだよ」
「……はい、お兄様」
優しいのにどこか有無を言わせない口調で、ドラクルはロゼウスの言葉の続きを封じる。そうなってしまえば、ロゼウスにはもう、口答えをする事は出来ない。少し離れた訓練場から、王城の自分たちが住む区画までの道のりを見つめ続ける。
それから王城のドラクルの自室に帰りつくまで、二人の間はドラクルが喋らないためにただひたすら無言だった。
*
すぐに戻ってくるということで、ドラクルは暖炉の火を絶やさないように使用人たちに命じていた。部屋の中は程よく温められて、使い減っていた薪の量も足されている。この季節に温かくやわらかい素材で作られた室内着が用意され、ロゼウスがまずそれに着替えた。凍りつきそうだった身体を暖炉の炎に当たることによって温めている。
「兄様」
しばらくして、ロゼウスは慎重にドラクルの様子を窺った。この九年間で、ロゼウスにはいつもドラクルの顔色を窺う習慣ができた。機嫌が悪いときのドラクルは、何をするかわかったものではないから。
苛立ちを押さえ込めればそれが一番いいのだろう。しかしドラクルも、それがわかっていて叶えられないことを、誰よりもよく知っている。
「もう、戻れない。私は……」
あの日に知った真実は、自らの胸一つに抑えきれる範囲を超えていた。だから真実を確かめ、父に詰め寄り、そして……
自らがこんなに癇癪持ちで自制心のないヒステリックな性格だとは知らなかった。ドラクルは自嘲する。
「ドラクル?」
顔を覗き込んでくるロゼウスに、額に当てた手をゆっくりと離してドラクルは尋ねる。
「ねぇ……ロゼウス」
「何?」
「私のこと、好きかい?」
この九年間、幾度となく繰り返してきた問だった。
「……うん」
小さな声で、けれどはっきりとロゼウスは頷く。
「俺は、兄様が大好きだよ」
その顔を見て、ドラクルは薄く笑みを浮かべる。先程の自嘲に負けず劣らず、皮肉な嗤い。また、闇の奥底のように暗い思いは蛇のように鎌首をもたげてくる。
「そうか……じゃあ」
稽古着から薄手の夜着に着替えたロゼウスの身体を引き寄せる。柔らかな髪を梳いて、首筋に唇を当てた。
ロゼウスは抵抗しない。ドラクルの指先が触れるのを、頬を染めながら受け入れている。
その従順な様子に、ちくりと胸に走る痛みをドラクルは努めて無視した。
狂った朝を繰り返す。
全てを知ったあの嵐の日から、ドラクルの中で全ての物事の意味が反転した。美しいものは醜く、醜いものは美しく。
苦労知らずの貴婦人の滑らかな白魚の指先が美しいと思えなくなったその日から、ドラクルは頽廃(たいはい)を求めるようになった。昇りつめるのはあんなにも難しかったのに、堕ちていくのは呼吸をするように簡単だ。もともと複雑な立場から地下組織などに繋がりを持って綱渡りのように生きてきた部下、アウグストの協力もある。
表向きには優秀で品行方正。しかしその一方で、淫蕩で残虐で冷徹だという評価も今のドラクルには下される。そう言われるようなことを平然とやってきたのは、ドラクル自身の意志だ。潔癖だったはずの王子は、今では名前を知らない相手でさえ、女も男もなく寝台に引き込むと有名だ。
そしてこの堕落と背徳の最たるものが、公式には弟とされる、実は従兄弟王子との関係だろう。
行為が終わり、白い背中を見せて隣で眠るロゼウスの髪を撫でながらドラクルはそっと目を伏せた。
禁忌などこの世にはありはしない。
夫に愛してもらえないからその弟と。そして生まれた子どもをのうのうと王位継承者の位置につける。そんなことがまかり通るならば、世界には結局規律など存在しないのだろう。表面さえ取り繕えれば、何をしたって構わないのだ。だからドラクルもロゼウスが自分に反感を持たないようじわじわと言葉で追い詰め洗脳し、奴隷のように彼を作り上げただけ。
第一王子ドラクルという存在自体が大公フシリップと第一王妃クローディアが国王ブラムスに復讐するための道具であり、そのドラクルを廃嫡にすることがまたブラムス王からフィリップとクローディアに対する復讐だというのなら、ドラクルがブラムスへの復讐に彼の実子であるロゼウスを陵辱して何が悪いと言うのだろう。
もともと、自らが廃嫡された後に王位を継ぐはずの弟王子の教育などをドラクルに任せたのはブラムス自身だ。全ての真実とこれまで父だと信じていたひとの思惑を知ったその時、ドラクルがどんな気持ちだったかも知らないで。
だから、ドラクルもロゼウスを使う。いずれこの「弟」がローゼンティアを継ぐと言うのなら、ロゼウスを手に入れる事はローゼンティア王国を手に入れることも同じだろう。
うつ伏せになって眠るロゼウスの、今は傷一つない背中にドラクルはそっと口づける。
先程までは、鞭とナイフで切り刻まれて酷い有様だったこの背中。吸血鬼は回復力が強い。数時間から数日もあれば軽い負傷程度はすぐに治るが、それにしてもロゼウスは再生能力が強い部類だった。
もちろん一口に回復力が強いと言っても利点と不利点は両方存在し、すぐに怪我が治る代わりに、彼がこの部屋でどんな扱いをドラクルから受けているか、知る者は極々限られているわけだが。
そしてそれは、ドラクル自身も同じ事。ドラクル自身も時折ブラムス王の寝室に内密に呼び出されることがある。あの十年前の黎明の日から、悪夢はずっと続いている。
その悪夢に、打ち勝ちたい。いつまでも押さえつけられて抵抗もできない子どもでいるなどまっぴらだ。今度はこちらが相手の心臓を抉る番だ。だからドラクルは周到に準備をし、機を見計らい、王に復讐する好機を待っている。
ロゼウスを使って。
「……お前は私の、大事な大事な切り札だ」
全てを覆し、あの男に屈辱を与えるための。
窓硝子の向こう、冷たい雪はまだ降り続いている。あの日の空は、身も凍るような雨だった。
自らがどれだけドラクルに恨まれているかも、それでいて彼がロゼウスに拘り続けるのは何故なのかも、いずれ自身にどんな未来が訪れるのかも。何も知らず眠るロゼウスの髪を撫でて、ドラクルはひっそりと陰鬱に呟いた。