薔薇の闇は深く 02

薔薇の闇は深く(2)

005

 大きな獲物に罠を仕掛けるには、役に立つ手駒が必要だ。
「このたびは我らがローゼンティアにご足労頂き……」
「能書きは結構。さっさと本題に入ろうではありませんか」
 特にどこかの国と問題を起こすということもないが、魔族と人間と言う種族の性質の違いから消極的な鎖国政策をとっているとも見えるローゼンティアに、同じ魔族ではなく人間たちの国で一つだけ交流を続けている国がある。隣国エヴェルシード王国、炎と言われる気性を示すその国は、世界に名だたる軍事国家だった。ローゼンティアとほぼ唯一交流のある人間の国と言う事で、自然と吸血鬼王国と外界の国々とを繋ぐ橋渡しのようなこともしている。
 もっとも、かの国が好意によってその橋を渡しているのかは定かではないが。
 ローゼンティア側にとって見れば、自分たち魔族に対して物怖じしない度量のあるエヴェルシードは、貴重な取引相手だった。かの国を通して世界と繋がっていると言える部分も確かにある。また、エヴェルシードも他国とは滅多に国交を結ばないローゼンティアと結びつくことで、利益を受けている面がある。そのためローゼンティアとエヴェルシードは常に代々の王が行き来して、水面下で緻密な駆け引きを交わしながら表面上は波風立たぬ外交を続けていた。
 毎年恒例となっている友好使節の訪問。これは年度によってどちらの国の代表が相手国を訪れるのかが変わるが、今年はエヴェルシードの代表者がローゼンティアを訪れる番だった。先年はローゼンティアの代表としてドラクルがエヴェルシード国王へと目通りを願い、今年はローゼンティア国王ブラムスの機嫌伺いに、エヴェルシードの第一王子が訪れる。
 大きな獲物に罠を仕掛けるには、役に立つ手駒が必要だ。
「エヴェルシードを利用させてもらおうと思う」
「エヴェルシード、ですか? あなたと何度か面識のあるあの国王に、簒奪の協力を要請するのですか?」
 使節の訪れる前に、ドラクルはアウグストと打ち合わせをしていた。ローゼンティア王国王位簒奪の打ち合わせを。すでにドラクルの実力は国中に知れ渡っているし、中には事情を知らされ、ブラムス王を廃してもドラクルを玉座につけるべきだと陰で主張する一派もいる。もちろん、全ては表沙汰にはならない。
 どこの国にも物事の表には決して出てこない後ろ暗い組織は存在するものだ。それまで品行方正な王太子であったドラクルは、十年前に自らの出生の真実を知ったことをきっかけに、彼らの仲間入りをした。
 もともと家庭環境が複雑なアウグストは十歳当時でそれらの組織に片足を踏み込んでいたのだが、事態を受けてドラクルにもそれら地下組織の住人たちを紹介した。ドラクルにとっては初めて見る世界だった。合法非合法入り混じる享楽と駆け引きに興じる貴族たち。第一王子として国政の上で何度も直接顔を合わせたことのある者もその場にはいた。
 堕ちて初めて知ることもある。これまで良い噂しか聞いたことのない上流貴族の子女が違法な集まりに参加していることを知って、自分がこれまで把握していたこの国の事情など表面的な部分だけでしかなかったのかとドラクルは軽い衝撃を受けていた。あくまでも軽く、だ。彼にとって、自らの出生と廃嫡の未来以上に衝撃的なことはない。
 そして、カルデール公爵子息に連れられて現れた彼の主君、ドラクル王子を裏社会で見かけた者たちも残らず仰天していた。才色兼備にして清廉潔白な第一王子は彼らを摘発することはあっても、決して内部の仲介を通してその乱れた集まりに参加する人物だとは思われていなかったので。当然不審を煽るその事態に関しては厳密に相手を選んでだがこうなった理由を説明しないわけにもいかず、だからこれまで王と王弟と王妃によって針の穴も漏らさぬように秘匿されていたこの国の真実は一定の世界ではすでに広範囲に知れ渡っている。
 十七歳までは清く正しい道を歩いていた王子の輝かしき未来は、暗黒に染め上げられた。
 確かに自ら裏社会、地下組織の夜会に参加するようになったのはドラクルの意志だが、それを彼に選ばせたものは……。
 真実を知る者にとってはいまや見る影もないドラクルの放埓ぶりだが、それでも表の仮面は剥がれない。今でもドラクルを品行方正で過ちの一つも犯したことがないような世継ぎの王子だと信じる者たちは多数いる。
 だがその一方で、確かにドラクルの忌まわしき出生と、彼が父王に受ける処遇についてを知り、その反抗のために立てられた反逆計画に加担する者も大勢いる。
 決して表には出ないところで、ローゼンティアは現在二分されていた。中立派も中にはいるが、元々ローゼンティアという国は絶対王制を国民の意識に強く植えつける国家だけに、普通に生活していれば国に対する不満の意志は弱い。
 そんな中で現在の王政に逆らって裏社会に足を運ぶような者たちの意志が一つ切っ掛けを得れば強固なものとなるのも当然のことであり、一度真実を知らされれば彼らの決意は固かった。
 ドラクルの出生に関する事は、一度表に出れば最後、引き返せない道となる。それがもたらすものは、国内のあらゆる階層、あらゆる人々に多大なる影響を与える。ドラクル王子と言う存在を支持する者もブラムス王を支持する者も、その事実には必ず揺るがされる。
 機を窺うのは慎重に慎重を期さねばならなかった。一つ判断を間違えれば、どちらの陣営が敗北するかわからない。
 そもそもドラクルをいずれ廃嫡にするというブラムス王の発言からして奇異なものではあった。すでに世継ぎの王子として発表されている偽の第一王子が邪魔であるならば、誰にも真実を知らさぬまま暗殺してしまえばいいだけだ。第二王子であるアンリも、ヘンリーも、ブラムス王の血を引かぬ王族の全てを事故にでも見せかけて殺してしまえばいい。そうして水面下で全て真実を闇に葬り自らは何食わぬ顔で王位交替の日まで玉座に座り続ければいいだけであるのに、ブラムス王はそうはしない。
 自分を裏切った大公フィリップと王妃クローディアに屈辱を味合わせたいためだけにドラクルをいずれ廃嫡してロゼウスを王太子にするというブラムス王の考えは、愚劣で私情に走りすぎているがためにドラクルたち反国王派にとっては付け入る隙となる。が、同時にその発表をされてしまえば終わりだと言う意識もドラクルたちにはあった。廃嫡の発表は自らの弱味を晒すブラムス王にとっても自爆行為であるが、当然その被害をもっとも受けるのは廃嫡になるドラクル本人だ。
 ドラクルにとっては、あれ以来人生の一瞬一瞬が戦いと絶望の連続。ブラムス王の気違いじみた考えが読めないだけに、いつ自らがその座を追われ国内で誰よりも惨めな立場となるのかわからないという緊張感に常に苛まれている。
 だから国を、王を、これまで父と慕った人を裏切ることに抵抗はなかった。実の父であるヴラディスラフ大公ともあれ以来公式の場以外では顔を合わせていない。
 もう、道はないのだ。
 全てを踏みつけて進むしか、彼の生きる道は。
 カルデール公爵子息であるアウグストはそんなドラクルにとって、裏社会との繋ぎを作り一定規模の集団をドラクルの代理として取りまとめ、陰の打ち合わせによって表向きの国内情勢もブラムス王の信望者たちに悟られずに操作するという、ドラクルにとっては代わりのきかない腹心の部下となった。
 アウグストはそれこそドラクルが真実を知ってすぐに、彼の出生の秘密を知った。その後、父王がたびたびドラクルを寝室に呼びつけてはどのように扱っているかも知っている。
 ローゼンティアを混乱に陥れ少なからぬ犠牲を出そうともドラクルの玉座簒奪のために協力することに否やを唱える意志はアウグストにはない。彼はドラクルの忠実な部下だ。
 今は公爵位をついでカルデール公爵家当主となったアウグストは、そうして彼にもっとも近しい位置で、その計画を聞く。
「エヴェルシードを利用させてもらおうと思う」
 カルデール公爵館の一室で、長椅子に腰掛けたドラクルは長い足を組みながらそう言った。
 王城では下手な相手に話を聞かれるとまずい。アウグストがカルデール公爵となってからは、ドラクルはちょくちょくその屋敷に足を運ぶようになった。カルデール領は都合の良いことに王都周辺の日帰りできる距離にあり、またアウグストが王城でドラクルの小姓を務めていたころから、家族同然の扱いを受けていた事は彼らの周囲の者たちは誰もが知っている。だから、ドラクルが頻繁に彼のもとを訪れても怪しまれる事は少ない。
 紅茶のカップを傾けながら、いつものように相談役となるアウグストは赤い目を瞬かせた。
「エヴェルシード、ですか? あなたと何度か面識のあるあの国王に、簒奪の協力を要請するのですか?」
 ローゼンティアには軍隊がない。これはローゼンティアの吸血鬼たちの性質と、国の規模に関係する。小国であるから軍隊などに人員を割く余力がないという理由は当然あるが、もっと重要な事実に、吸血鬼族は魔族と呼ばれるだけあって繊細な外見に反し超人的な身体能力、強力(ごうりき)を発揮する一族ではあるが、基本的には争いは好まないというものがある。
 先祖が地上で人間に交じり暮らす際に無差別な吸血を行わないよう本能に鍵をかけていたためとも伝えられるが、とにかく人間の血が主食の一族と言う割には、吸血鬼たちの性格は穏やかだ。そのため、余程の非常事態でもない限り彼らには好んで武力を持つという概念がない。
 更に消極的な鎖国状態が長年維持されているために、他国に対する感心が少なく、戦争に対する危機感と言うものも全くない。おまけに吸血鬼の基本的な身体能力は吸血鬼族であれば幼女でも人間のむくつけき大男を見事に伸してしまえるため、人間の国が攻めてきたところで、さほど大騒ぎする事態にはならないだろうという楽観もある。そして楽観視の最後の根拠こそが、世界最強の軍事国家エヴェルシードが、ローゼンティアと国交を結ぶ隣国であると言う点だ。
 いずれ廃嫡だとはっきりと宣言されながらも二十六になる今年までも当然のように国政に携わるよう命じられているドラクルは、外交官というその役職上、隣国の性質がそんな簡単なものではないことを見抜いていた。否、隣国に限らず、人間と言う生き物の性質は皆難しいのであろう。吸血鬼がそうであるように。
「いいや、働きかけるのは王ではなく王子の方だ」
「ああ。なんかあの、いろいろと曰くつきの王子のほうですか」
「そう。刺激してやる要素は多い方がいい。取引の基本は、こちらの第一の目的のために相手の望む物を目の前にちらつかせてやることだ。そのためには現状に特に不満のない国王ではなく、その父王を殺してでも早く玉座につきたい王子の方がいろいろと都合がいいだろう? あの王子は、今の王よりも有能そうだ」
「簒奪の際に国王派の抵抗を封じる策として、ローゼンティア内で戦力を募っては怪しまれる。けれど、向こうの国でも簒奪にこちらの手を貸してやる代わりに、ドラクル様に協力させれば……」
「そういうことだ」
 ローゼンティアの問題は、そのあまりにも閉鎖的な国の在り方にあった。国内で起こる出来事はそれが大規模になればなるほど、王の耳に入りやすい。裏社会のお遊び程度の悪事や貴族間の小さな揉め事は隠しとおせるかもしれないが、少量とはいえ武力を募るとなれば何事かと騒がれるだろう。それを回避し秘密裏に事を進めるために、外部の戦力を利用する。そお外部からの戦力となりうるのが、隣国にして世界最強の軍事国家、エヴェルシード。
 そして都合の良いことに、現在のエヴェルシードはドラクルの目論見に最も適する状態であったのだ。

 ◆◆◆◆◆

「それで、折り入って話したいこととは? ああ、その前に名乗ってもらえるだろうか。私は父の名代としてこの国に足を運ぶのは初めてで、失礼だが貴公の名も知らぬ」
 アウグストの館を利用し、ドラクルはエヴェルシードからの使節であるかの国の王子と向かい合った。部屋の中は豪奢だが、ローゼンティアでの一般的な活動時間帯は夜。無数の蝋燭を灯した部屋の中で向かいあうのは、自然と怪しげな密談の様相となる。
 エヴェルシードからの友好使節が訪れた際、ドラクルはその相手に呼ばれなかった。それまでエヴェルシードの国王と外交を結ぶ担当をしていたのだが、その辺りには例の廃嫡問題と絡んでローゼンティア側も密かに対応に苦心している。国王に会わせて後継者に会わせないのは、そろそろドラクルを廃嫡してロゼウスに後を引き継がせるというブラムス王の考えなのだろう。むしろその焦りこそが、今回のこの会談をドラクルに決意させる引き金となったのかもしれない。
 エヴェルシード側にも現在争いの火種を孕む要素が十分にあるため、向こうの王子は王子でそれまでにかの国に足を運んだことがあるドラクルとこれまで顔を合わせたことはない。
 両国はそれぞれ外患もないのに内憂だらけ。そして内憂こそが外患を呼び込む。この事態はドラクルにとっては好都合だった。
「失礼をいたしました。わたくしの名は……ローゼンティア貴族、ヴラディスラフ大公フィリップと申します」
 ここで本名を名乗るのは得策ではない。ドラクルはエヴェルシードを利用したいが、かの国の下位に立つ気はないのだ。そのため、当然のように偽名を名乗った。
 自分をこの世に送り出した実父の名を。どうせこのままいけばドラクルは廃嫡されヴラディスラフ大公爵を継がされる。
 また、吸血鬼の実年齢は人間には見分けにくく、加えてドラクルは国王であるブラムス王にそっくりであると共に、その双子の弟である大公にもそっくりだ。ドラクルの顔も大公の顔も知らないエヴェルシードの王子は、それで納得したようだった。
「そうか。こちらは名乗る必要はないだろうが……シェリダン=ヴラド=エヴェルシードだ」
 エヴェルシード王国の第一王子は名をシェリダンと言う。第一も何も、かの国に王子は彼一人しかいない。
 エヴェルシード人の特徴は蒼い髪に橙色の瞳、肌は白いがあくまでも健康的な人間の範囲である白で、ローゼンティアの吸血鬼のように紙のような白というわけではない。シェリダン王子の容姿はここから大きく逸脱するわけではないが、エヴェルシード人の中では特徴のある方だった。髪は深い夜空を切り取ったような藍色で、瞳は琥珀の中で炎が燃えているように印象的な朱金だ。その年齢の少年たちの中では、群を抜いて気迫がある方だろう。彼はロゼウスと同じく、もうすぐ十七歳だ。そして絶世の美貌と呼んで差し支えのない顔立ちをしている。
 しかしシェリダンの立場は、王太子と呼ばれるにしてはいささか複雑……そう、ドラクルほどではないとはいえ、複雑なものだった。
「では、そちらの望みは、この国を滅ぼして欲しいということか」
「ええ」
 不遇の王子はドラクルの話に、面白がるように耳を傾ける。
「何を企んでいるのやら。貴公は大公なのだろう。国を滅ぼして何の意味がある」
「恨んでいるからです、この国を。この国の王と王族を」
 その言葉は、前もって用意したわけでもないのにするりとドラクルの口から零れ出た。だからこそ本心であることを読み取ったのだろう。シェリダンの朱金の瞳が興味深そうに瞬く。
「恨み?」
「ええ」
 一音一音に本気の憎しみをこめて、ドラクルは頷いた。
「こんな国など……滅んでしまえばいいのです」
 こんな国など、王制を絶対とするのにそれに付け入られて王妃の不倫を許す国など、そのために十七年国に尽くしてきた自分を簡単に切り捨てる国など。
 滅んでしまえばいい。
 その言葉の真剣な響きにシェリダンは薄っすらと笑みを浮かべる。
「だから、我々エヴェルシードに要請するわけか。私のエヴェルシード王への即位を見返りに」
「はい。我々ローゼンティアの方では、殿下にエヴェルシード王に無事即位していただく用意ができるでしょう。その代わりに、貴殿には私たちの願いを叶えていただきたい。この国を滅ぼすと言う、願いを」
 信憑性を高めるために、ドラクルはその王子の耳元に彼の即位を助ける方法を囁いた。偽の王太子とはいえ伊達に二十年以上、ローゼンティアきっての天才と呼ばれてはいない。そのぐらいすぐに考え付く。こちらにとっても彼の父が玉座に座っているより、シェリダン自身が王位についている方が都合が良い。
「……約束できるのだろうな」
「はい、殿下。必ずや」
 エヴェルシード王子シェリダン。彼の顔立ちはまさに絶世の美貌だが、彼がその美貌を持って生まれたことには、はっきりとした理由がある。
 彼の母親はエヴェルシード国内で、誰よりも美しかった。シェリダンの容姿はその母に生き写しだ。しかし、その母はもともと、庶民の出である。
 いまだ男尊女卑思想の根強い軍事国家エヴェルシードの王位継承に関して第一の決まりごとは、男児の継承権が優先されるということである。これは、王族の血統を何よりも重要視し、妃の実家の家柄は良ければ良いほどいいというローゼンティアでは考えられない決まりだ。何しろエヴェルシードの徹底した男児優遇の規則によれば、それが王の愛人の娼婦の子だろうがどんな名家の正妃の生んだ女児より男児は継承権が上位となるのだから。
 今現在のエヴェルシードは、まさにそのような状態にある。第一王子シェリダンの母親は庶民出で、しかも国王が無理矢理見初めて親元から攫ってきた女性。シェリダンは男子であるが母方の家柄に関しては話にならない。
 そしてエヴェルシードには王子は彼一人だが、王女がいる。シェリダンのすぐ下の異母妹はちゃんとした貴族の母を持つ姫君で、彼女が王位を継げない理由はシェリダンが男だったから、ただそれだけだ。
 何より強さを重視する軍事国家で男子継承が当然のエヴェルシードだが、流石に現在はその二人の間で揺れている。平民であるシェリダンの母親の身分は低すぎるが、彼は男、一方どんなに家柄が良くても正妃の子は女。さすがに庶出の女の子どもを次代の王にするのはどうだろうか、という議論が絶えずなされていて、エヴェルシードの正当な規則に則って定められたにも関わらず、王太子シェリダンの立場は危うい。彼の妹は彼を暗殺してでも王位を狙っているのだと言う。
 何とか自身の立場を確立したいシェリダンにとって、ドラクルの囁きは魅力的だった。それに、上手くすればローゼンティアを滅ぼしてその利益も一手に握ることができる。いくら長きに渡る友好関係を築いているとはいえ、エヴェルシードは軍事国家。戦争をして相手国から略奪を行う魅力には抗えない。
 ドラクルはその弱味につけこむ。これまで国のために尽くしてきた彼には考えられないことだが、もはやドラクルにとってローゼンティアの全てがどうでもよかった。こんな国。
 滅んでしまえばいい、と。
 悪魔は常に耳元で囁いている。
 滅ぼしてしまえばいい。
「この国に、どうか滅びを」
 ダメ押しのように囁いたドラクルを、隣国の王子はひたと見据えた。これまでの話とは、一見関係ないことを口にする。
「……あなたはどうやら、自分のことがお好きではないようだ」
「何故そう思うのです?」
「目を見ればわかる」
 ドラクルより十も年下の少年は、何かを悟ったように断言する。
「自己嫌悪の極まった者のとる道は二つ。己を破壊するか、己をそんな風にした世界を破壊するか。あなたはどちらなのだろうな」
 朱金の瞳が興味深そうに瞬いてドラクルを見つめる。その視線に、ドラクルは同族の匂いを嗅ぎ取った。
「それはご自身の経験からですかな? シェリダン王子」
 シェリダンの母親は、美貌を見初められて無理矢理攫われてきた庶民の娘。彼女が次代の王位継承者であるシェリダンを生んだことは、彼女にとって幸福なことではなかった。シェリダンに関する曰くの一つがそれだ。生まれてくることで母親を不幸にした、母親の愛情を知らない王子。彼は自分自身を愛せるのだろうか。
 ドラクルの揺さぶりにも、シェリダンは動揺しない。ただ、薄っすらと酷薄な笑みを浮かべている。
「これは例えばの話なのですが、例えばあなたが自らを嫌う者だったとして、では先程のどちらの道を選びますか?」
 ドラクルの問に、彼はますますその笑みを深くした。
「後者に決まっている。世界で私だけが不幸だなんて我慢できない。私を不幸にする世界なんて、滅ぼしてしまえばいい」
 そして世界中全ての者が、自分と同じ絶望を味わえばいい。それが彼の本心であるかはともかく、シェリダンの答は酷く正直だった。
「ええ、そうですね」
 ドラクルは目を閉じる。
「私も、そう思いますよ」