006
エヴェルシードとの話し合いは終了した。密約を交わして、後は人目に触れないルートで書のやりとりを約束する。
「お見事な手腕でした。殿下」
「そうかい? そうでもないだろ。あの王子、やはり複雑な立場にいるだけあって曲者だったな」
アウグストを連れ、ドラクルは王城へと戻って来た。後はエヴェルシードの使節が滞在する間、彼らと顔を合わせなければいいだけだ。そしてそれは容易いだろう。来年十七歳になるロゼウスをそろそろ玉座につけることをブラムス王は考えているだろうから、もうドラクルを表立った行事に参加させる事はないに違いない。あらかじめ予測していたにもかかわらず、いざこの事態と向き合ってそう思うと言葉にしがたい、何とも言いがたい苦い気持ちが沸き起こる。
……無駄な感傷だ。自らでこの国を傷つけても玉座をこの手で奪うと決めたくせに。ドラクルはそう思い直した。
どうせどんな道を選んだところで、満足などもう得られるはずはない。心のどこかは必ず埋まらず、空ろな孔を広げている。願うことなど止めてしまえと、己で己に言い聞かせる。
「あ、ドラクル! カルデール公爵も、どうじゃ、一緒に休んでいかぬか?」
気分転換にと中庭へ向かうと、特徴のある口調に呼び止められた。声ではなく、特徴的なのはその口調である。第一王女のアンが、庭の四阿で手を振っているのが見える。
「兄上」
アンだけではなく、そこには第二王子のアンリと第三王子のヘンリーもいた。三人して四阿で休息中なのか、テーブルの上には色とりどりの見事な菓子が並べられている。きっと、アンの手作りなのだろう。
中庭に設置された四阿は、大理石でできている。淡い桜色をした大理石の柱と屋根、そして椅子とテーブル。薔薇の国と呼ばれるローゼンティアの王城の中庭は薔薇園とほぼ同義語で、一年中枯れることのない薔薇の甘い香りが漂ってくる。
「兄上もアウグストも、一体どこに行っていたんですか? 部屋を訪ねても姿が見えないものですから、てっきり仕事中かと」
「ああ、今日はちょっとね……それよりこれ、もらっていいかい?」
「好きなだけ食すがよいよい。まだたくさんあるぞ」
「……何故だい? またミザリーとロザリーが失敗でもしたの?」
「それはまた懐かしい話を……そうではない。今日は作ったのはわらわ一人だけじゃ。その……最近、時間が余ってな」
「要約すると、最近ドラクルが構ってくれなくて寂しいからついつい菓子作りに逃避しちゃったんだってさ」
「アンリ!」
「ついでに、だから構ってください、だって」
「ヘンリー! おぬしらなぁあああ」
「まあまあ」
「これおいしいですよ、姉上」
「もう知らん! 好きにせい!」
ドラクルを見るなり頬を染めたアンの様子を、そんな彼女の態度には慣れている二人の王子がさらりとからかった。兄王子に仄かな憧れを抱くアンは頬を膨らませると、王女とも思えぬ乱暴な仕草で席に着きなおす。アンリとヘンリーの二人は気にする様子もなく焼き菓子を口に運んでいた。
「座ろうか、アウグスト」
「それでは失礼いたします」
「そんな堅苦しくなくていいよ、カルデール公爵」
「ですがアンリ王子殿下、私は」
「もう身内みたいなもんじゃん? ここにはちょうど、見咎めるひともいないし」
ドラクルのすぐ下の弟でアウグストより六つ年上、今年二十五歳にもなる王子は、まるでいたずらっ子のように茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「では、お言葉に甘えまして」
「だからそのようないちいちの断りが堅苦しいというに」
なんやかやと言われながらも、二人は四阿の席についた。甘い香りの焼き菓子を目の前に、第一王女が手ずから淹れた紅茶を口に運ぶ。
ローゼンティアの夜は穏やかだ。暗い空の下、夜陰に薔薇の香る中庭でお茶会を。世界はもしかしたら今この瞬間にも悲劇に包まれているのかもしれないが、少なくともこの国の中、この城の中、この四阿は幸福に包まれている。それが果たして良いことなのかどうか、ドラクルたちにはわからないけれど。
「そういえばドラクル兄上、先日の法律案のことなのですが」
「ああ、あれ?」
「はい。あの正当防衛の項です。あれは人情としては理解されても、実際に国の法に持ちこむとなると新しい概念ですよね」
ローゼンティア王国において、ドラクルの仕事は多岐にわたる。本来なら宰相の名を頂戴してもかまわないくらいの貢献ぶりだが、実際のドラクルの役職はそれよりも下だ。
無能な王であれば摂政を置いて政治を任せるところ、ブラムス王はそれほど愚王でもない。だからこそ国政は自らの手で動かし、周囲に置く者はそれを補佐する立場であることが多いのだが、その筆頭は息子であるとされるドラクルだ。
ドラクルとブラムス王の関係は複雑だ。だが、それを知っているのは一握りの者だけである。父王には恨みを持つドラクルだが、自らの仕事に関しては誠実であろうと心がけている。
「正当防衛。情状酌量。えーと、あとなんだったっけ? 要するに、罪を犯した相手をただ断罪するのではなく、相手の言い分もちゃんと聞け、っていうことだろ。まあ、確かにそうだよな。いくら人殺しや悲惨な犯罪の現場を生み出した者でも、それにはそれなりの理由がある」
アンリが先だってのドラクルが提出した法律案の内容について、身も蓋もないほどわかりやすく噛み砕く。
「実際、例えば貧困から盗みに走る者がいたのならば、あるいは私たち王族が民の暮らしを守れていないということにもなりますからね」
「ま、遊びに使い果たして借金で首が回らなくなって手っ取り早く犯罪を犯す奴もいるから一概にそうだとは言えないけどな」
「だからこそ、理由が大切なのだろう、アンリ」
「そうだよな。自分が殺されそうになった時に、相手を殺さないように気をつけて自分が殺されちゃったら仕方ない。自分を守るためには、罪を犯してもしかたない、と言わざるを得ないってわけかな……」
アンリが神妙な顔で頷くのを聞いて、ドラクルの口から言葉が零れた。
「――ひとに殺されるような者は、殺されるだけのことをした者だよ」
「ドラクル?」
「兄上」
「なん……珍しいこともあるものじゃ。ドラクルがそんな風に言うなど」
常の彼らしくない様子に、アンリ、ヘンリー、アンがそれぞれに驚く。
「……あの法律、そういう意味だったんですか? 兄上のことだから、内情を一切考慮しないで結果だけを突きつけられ不当に投獄される人々を救済するためのものだと思っていました」
「勿論それが嘘だとは言っていない」
だけれど。
「……憎しみや恨みは、認めてやるべきものなのではないかな。酷いことをされて、それに怒るな、と言う方が無理だろう。そして人は理由も何もなく罪を犯したりはしない。言い訳は見苦しいというけれど、では言い訳をしないでも当然のように生きられるくらい、ひとはひとのことを自分から考えている生き物かな?」
「ドラクル」
「他者に殺される者は、殺されるだけのことをした者だ」
ドラクルの言葉に、一瞬場が重くなる。
「あ、の……なぁ、ところで、この前のミザリーの婚約話のことなんじゃが!」
「あ、ああ! そうそうあれな! 確か男の方が求婚の言葉を全て言い終わる前にミザリーが相手を殴り飛ばして問題になって――」
アンとアンリの二人は、そのまま話題を変えることを選んだ。もともと法の話は自分から口に出した話題でもない、とドラクルも特に食い下がりはせず、優雅な仕草でこれまで忘れ去られていたティーカップを口に運ぶ。
風が強く吹いた。四阿を取り囲む薔薇の香りがふわりと沸き立つ。
「兄上」
アンリたちほどはっきりと先ほどの話から離れられないのか、ヘンリーが眉を下げて、ドラクルを見た。
「……何か、お辛いことでもあるのですか? もしもそうなら、私たちだって力に」
「違うよ、ヘンリー。なんでもないよ。さっきのはいろいろな事例を見ながら考えたことであって、私自身がどうというわけではないよ。当たり前だろう? 私は王族であって、それを基準に国民の暮らしを考えるなんてしない」
私は幸せだよ、ドラクルはそう嘯いた。おどけた様子に、ヘンリーが眉をしかめる。
「ヘンリー。ドラクル様のことなら、私ができる限りお助けするから」
「でも、アウグスト」
「君は君の仕事をしなよ」
同席はしながらも高貴な王族たちの会話にこれまで口を挟むのを差し控えていたアウグストが、同い年の友人であるヘンリーに対してだけは気安く話しかける。
「なぁ、ドラクル、そなたはこれに関してどう思う? どちらが正しいと思う?」
「え? なんだい? アン」
「もう、聞いておらんだな。じゃから……」
薔薇の香りに包まれた茶会は、もうしばしの間続く。