薔薇の闇は深く 02

007

「……言わないのですか? アンリ殿下たちに」
 ドラクルが自室に戻ると、真っ先にアウグストが口を開いた。侍女を呼ばない代わりに、彼は小姓のように甲斐甲斐しくドラクルの世話をする。実際アウグストは今でこそ正式なカルデール公爵となったが、昔は彼の家の事情もあって王宮にドラクルの小姓として仕えていた。
 もうすぐで夜明けを迎える。吸血鬼族にとっては、朝は眠りの時間だ。上着を預かり、人間たちの言うところの夜着を、実際に着用するのは朝だが身につける。主人であるドラクルの着替えを手伝いながら、そうしてアウグストは尋ねた。
「あの方々にお伝えすれば、あるいは……」
 上着を羽織るだけ羽織って後、椅子に腰掛けたまま自らでは動く気のないドラクルの正面に跪き、その胸元のリボンを綺麗に結びながら、アウグストは控えめに声をかける。
「無理だよ」
 だがドラクルは一蹴した。
「アンリに、アンに、ヘンリーに言えと? この九年間……もうすぐで十年にもなる、その間私が父上にされてきたことを」
「ドラクル様」
 夜着を着せ掛けた際にアウグストは主人の背中を見た。染み一つない滑らかな白い肌。吸血鬼の成長は成長期の半ばを過ぎると途端に緩やかになるから、二十代である彼らも外見上はまだ十代の少年にすら見える。荒れなどあるはずもないその肌に、今は見えない無数の傷痕があった。
 吸血鬼はこの地上の生物の中で、もっとも再生能力の強い種族だ。同じ魔族であるセルヴォルファスの民でさえそれだけはローゼンティアの吸血鬼に敵わない。
 甦りの力を持ち、死と生の狭間に生きる吸血鬼たちはそれ故に、人の苦悩から遠く、人には理解しえない痛みを持つ。
 ドラクルがブラムス王に虐待を受けていることを誰かに知らせるのは難しい。それをするならば、最も確実なのは現場に踏み込むことだ。だが生半な介入では、この国の最高権力者である王にすぐさま握りつぶされてしまう。けれど、この傷一つない背を誰かに見せたところで、表面上は息子とされているドラクルを誰よりも信頼し取り立てているように見えるブラムス王がその背を鞭打つなどとは信じてもらえないだろう。
 アウグストがそれを知っているのは、それだけ彼がドラクルの側近くに仕えていたからだ。そして彼の忠誠は、ブラムス王よりもむしろドラクルに対して勝っている。
「殿下……ですがあなたは、王の慰み者などで一生を終えるべき存在ではありません」
「アウグスト」
 リボンを結ぶ手の止まった彼の頭を、ドラクルがそっと撫でる。七つ年下のアウグストは、ドラクルにとって優秀な部下であり、また、親しい弟のような存在だ。
「お前がそんな顔をするものではない」
「ですが」
「お前はよくやってくれているよ」
 自分を慕う若き公爵の、形にならない苦悩を宥めるようにドラクルは微笑みかける。髪に触れた手の心地よさに、アウグストはそっと瞳を閉じた。
 ああ、あなたは今でもこんなに綺麗に笑うのに。
 しかし瞼裏に焼きついた優しい幻影を、他でもないドラクル自身の酷薄な声音が引き裂いた。
「それに、私が父上にされたことをアンリたちに告げると言うのはね、同時に私がロゼウスにしたことも彼らに教えると言う事なんだよ?」
 白銀の髪を撫でていた手が頬へと滑った。ハッと目を見開いたアウグストと視線を合わせ、ドラクルは口元を歪める。
「この年月、私は一体どれだけのことをあの子にしたのだっけ? 玩具の人形の首を引きちぎるより、なお酷いことを。背中を血まみれになるまで鞭打ち、骨が折れるまで殴るのは当たり前。少しでも気に入った相手がいるようなら引き離したし、逆にあの子を不快にさせる相手への奉仕を命じた。夜毎呼び出してその身体を痛めつけ、引き裂いた。冬の雪の最中、裏庭の木に犬のように繋いで何時間も放置したこともあったのだっけ。あとは……ああ、いろいろありすぎて、もう思い出せないな」
 今日も、もう少し経てばドラクルの命じた通りにロゼウスはやってくるだろう、この部屋に。来ればどんな目に遇わされるか十二分に知りながら、それでも彼は来るのだろう。
「ロゼウスに手をかけたあの日から、私は被害者面をする権利などなくした」
「ドラクル様、でもそれは」
「いいんだ」
 先ほどまでとは質の違う、九年前にはアウグストが見たことのなかったような笑みで、ドラクルは言った。
「私は私に与えられたこの現実を……父上のことも、大公と母上のことも……絶対に赦しはしない。だから赦される必要もない」
 赦さないのだから赦される必要もない。自分に認めた権利を相手から奪うのは不公平だろう? けれど決して、自らが与えられた運命を当然だと諾して受けとめて泣き寝入りなどしない。そのぐらいならば。
「私は私の憎しみでエヴェルシードを利用し、ローゼンティアを滅ぼすんだ。父上には私に殺されるだけの理由があるけれど、選ぶのは私だ。それを当然のことだとは言わない。そこまで自分を甘やかしはしない。けれど、その代わりに私は憎む。憎み続ける」
「殿下」
 壮絶な決意を、アウグストは聞く。主君の紅い瞳の奥に、大きく口をあけた傷を見る。
 エヴェルシードの民の瞳は炎のような橙色で、あのシェリダン王はまさしく炎のような朱金の瞳をしていた。けれど彼らと似たように紅い瞳をしているローゼンティアのそれは、血のようだと言われる。今にも傷口から溢れて零れてきそうな、生々しい血の色だと。
「さっきまでのやりとり……お前は滑稽に感じなかったかい? エヴェルシードと通じて自国を滅ぼそうという大逆人が、どの面さげてこの国のための法など……最低の裏切り者のくせに、まるで本当に国を案じているような振りをして」
 このひとはその心の内側に深い傷を持っているからこそ、こんなにも血のように深い色の瞳をしているのだろうか。
「嘘なんだよ、アウグスト。私の素性の何もかも。王子なんて、第一王位継承者なんて、次代の国王なんて、父上の……息子なんて」
 何もかもが嘘偽りで作られているのだと。これまで称賛され愛されるべきだった王子など、本当はどこにもいなかった。アンたちの穏やかなお茶会も、内情を知る者からしてみればひたすら滑稽なものでしかない。
 ドラクルは、そう自嘲する。
「仮に全てを明るみに出したとしよう。だがしかし、そうしたところでどうなると思う? この血統重視のローゼンティアで、たかだか大公の子である私と、国王である父上。王に他に子がいないのであればまだしも、正当な後継者はすでにいる……ロゼウスがな。知られれば存在を闇に葬られるのは私の方だ。知られてはならない。私より父上を選ぶという者たちには、決して知られてはならないんだ。そうでなければ私は殺されるよ。私だけではない。下手をすれば、アンリも、ヘンリーも。アンのように確実に王の子であるならともかく、父上の子どもではない王子王女たちはみんな、私と同じ運命を辿る」
 声は悲壮を超えて、いっそ淡々としていた。しかしそれは彼の感情が落ち着いているためではない。赤い炎より、青い炎の方が熱いという、それと似ている。
 一度力の抜けた指先に、アウグストは少しだけ気を入れてリボンを結んだ。そうしてしゃがみこみ、ドラクルから僅かに距離をとる。
 ローゼンティア王城は黒い。壁は黒曜石のように光沢を持つ黒い石でできていて、その床は冬場は酷く冷え込む。寒さを防ぐために敷かれた毛足の長い紅い絨毯の上に、アウグストは跪いた。
寝台脇の椅子に腰掛け、何も履いていないドラクルの足をそっと、神聖なものでも取り扱うかのように両手で捧げもつ。甲のあたりにそっと唇を落とした。
 ローゼンティアでは靴を履いた足に口づけるのは服従、素足に口づけるのは信頼と恭順を示す。真の忠誠は、服従などよりよほど過激だ。
「アウグスト……?」
「私がいます。私は、あなたの部下です。私の命は、あなたに捧げています。ドラクル様。あなたが例え何者であっても、私のあなたへの忠誠は変わりません。どうぞ、このアウグスト=カルデールをお使いください。捨て駒で構わない。それであなたのお心が晴れるのであれば」
「お前」
「私の主は、あなただけです。ブラムス王でも、ロゼウス王子でもない。あなたが真の王子でなくとも構いません。ドラクルという一人の存在に私は仕えるのです」
 真摯な声音がドラクルの耳朶を打つ。それはあの日の雷雨とは全く違う、春の雨音のような優しさを含んでいる。
 けれどそこに示されたのは、救済の光ではなかった。アウグストがドラクルに示したのは、どこまでも共に堕ちていくという誓い。
「……私、は、悪魔だ」
 ドラクルと言う名前は、果たして誰がつけたのだろう? 
 当時は何も知らなかったブラムス王か。それとも全てを企んでいた王妃かヴラディスラフ大公が送るという形をとったのか。「ドラクル」という名前は「竜」を示す。それと同時に、「悪魔」を示す名でもあった。強さと神秘性を兼ね備え、しかし裏を返せばべったりと闇が張り付いている。アンリとヘンリーが本をただせば同じ名前であるようにいささか適当な感のあるローゼンティア王族の名づけ方だが、それでもドラクルの名には他の兄弟姉妹よりもずっと、後ろ暗い意味が込められていた。
 犀はすでに振られた。運命など彼の生まれたその瞬間から始まり、歯車はあの雷雨の夜に動き出している。
 戻れない、もう、絶対に。
「……エヴェルシードとの同盟は組まれたんだ、アウグスト」
「はい」
「私を支持してくれる地下組織の連中に指示を。これから少しずつ、この国を覆す準備を始めよう」
「はい」
「私は必ず、この国を手に入れる」
「はい」
 跪いた姿勢のまま、胸に手を当てたアウグストは絶対の恭順をその身で示す。
「お心のままに」
 戻れない、そして。

 戻るつもりなどない。